いもうとのきもち



 あの日、あの時、私は死んだ。
 殺されたのは、私ではないけれど。でも、あの人が死んでしまった時、私も死んだのだ。
 いや、死んでもいいと思った。私を助けてくれたあの人が殺されてしまった時、いっそ、私も死んでしまいたいとすら思った。
 だから、助けられたのかもしれない。私の命をあの人に分けて。
 本当は、私が死んでも、あの人が生きていてくれればそれでよかったんだけれど。でもきっと、あの人はそんなことは許してくれそうにもなくて。
 そんなことのために助けたんじゃないと、怒られてしまいそうで。
 だから私も、生きていたんだと思う。私の命を、半分だけあの人に分けて。
 それを、どう表現すればいいのか、私にはわからない。
 私の命が、私を離れて息づいている感覚。
 あの人の中で、大切にされながら息づいている感覚。
 どんな辛いことだって、それがあったから乗り越えられたと思うほど、甘美な感覚。
 どんなに離れていたって、こんなにも確かな感触がある。どれほど近くにいたって、これほどの一体感を得ることは、他の誰にもできるはずがない。
 私とあの人は一つなんだと、いつでも確認することができる、確かな絆。

 だから私は、油断していたのかもしれないし、自惚れていたのかもしれない。たぶんきっと、その両方なのだろうけど。
 あの人が、まるで他人のように私を見た時。私は、裏切りを感じた。

「それで、兄さんはどうしているの?」
「おやすみになられました」
 そう、とだけ返事して、翡翠を下がらせる。
 否、下がらせようとした。だが翡翠は、一礼こそしたものの、そこ(私の部屋の入り口)から移動する気はないようだ。
「まだ、なにかあるのかしら?」
 問うたというのに、逡巡を見せる。問われたくてそんなことをしているはずなのに。
「その……志貴様は、秋葉様が成長なされていたから、驚いていただけだと……」
 ……この子は、そんなことを言うために残ったのか。
 自分の機嫌が良くないことは自覚していた。自覚していれば、それでもなんとか自制はできるものだが、その言葉には、そんな心積もりを打ち破る響きがあった。
「あら、そう。翡翠……あなたは、私よりも兄さんのことに詳しいのね?」
 きつい言い方になった。あえてそうしたのが半分、どうしようもなくそうなってしまったのが半分、そんなことを頭の冷静な部分でははっきりと把握していたが、だからといってどうなるものでもない。
 翡翠は身をすくめて、顔を伏せ、押し黙った。
「兄さんのことなら、あなたに言われなくたってわかっています。……下がりなさい」
 翡翠は再び一礼して、今度は素直に出て行った。出て行かなければなにをしていたかわからないぐらい苛立っている自分を自覚して、少し、気持ちが落ち込む。
 あまりにも期待しすぎていたからだ、ということを、自分に言い聞かせる。自分にとっては、それぐらい大事なことで、重要なことで、そのために無理を押してまでこの屋敷に戻ってきたぐらい、必要なことだったのだけれど。
 だけど、兄さんにしてみれば、ここは過去に追い出された場所で、よくも悪くも、過去の残骸でしかなくなっていた。
 いままで私に会いに来なかったのは、お父様に止められていたからだという事情も理解している……自分のためにではなく、私のために会いに来なかったのだというその心遣いも、理解はしているつもりだ。
 それでも、理解と……理性と感情は、別のものだ。
 なによりもまず、兄さんは戻って……いや、帰って来たくはなかったのだという思いが先に立つ。こんな、古臭い、因習に縛られた家(それは必ずしもこの屋敷だけを意味するものではない)なんて、兄さんにとっては、牢獄に等しいのだろう。
 お父様は亡くなって。私だけが待つこの家に、それでも兄さんは、帰って来たくはなかったのだろう。
 憎い、というよりは、やはり、裏切りだ。私はずっと、待っていたのに。
 そんな、気持ちを一方的に押し付けようとしている自分が、嫌になる。そんな自分を自覚すればするほど、苛立ちも増す。
 ……どれ程、この日を待ち望んでいただろう。一日千秋の想いで、ずっとずっと、待ち続けていた。思わず死にたくなるような発作にも耐えて、生きてきた。
 歯を食いしばって、夢見てきた。
 この気持ちを、万分の一でも兄さんに伝えられたなら。私はたぶん、それだけで満足だ。兄さんに、同じことを思ってもらいたいとは、思っていない。……カケラも思っていないわけでも、ないけれど。いくら私でも、そこまで我儘にはなれない。
 それに、いままでだって耐えてきたのだ。これからだって、まだ、耐えていけるだろう。少なくとも私は、まだ限界ではない。私の命は、まだ、限界ではない。
 この命の果てを、兄さんと共有している限り。私は、限界なんて、認めない。
 私がどうなってしまったとしても。例え、私が人ではなくなってしまったとしても。なによりも大事なものを守るためなら、私は戦える。
 あの日の命を返すことができる、その時まで。

 なにもかもが勘違いだったというのなら……それはそれで、恥ずかしくはあるが、困るようなことではなかった。
 兄さんが、私のことをなんとも思っていなかったとか。それが私の勘違いなら、むしろ望むべき結論である。期待しすぎた反動のように、今度は希望を捨てていたのかもしれない。その可能性は、わりと高いと思う。
 兄さんは、兄さんなりに、兄さんの記憶の中の私とは違う私を受け入れようとしてくれていて、それが結果、戸惑いという形になり、私はそれを、裏切りとして受け取っただけなら。兄さんを信じきれなかった、私が悪いだけで済む。
 昔から、そうだ。兄さんは、いつだって真摯で、真面目で。どんな問題にも、正面からぶつからなければ、答えを探すことすらできない人だったけど。自分が正しいと決めたことは、誰がなんと言おうと正しいと言い切れる、そんな人だった。
 そう、そうだ。昔から、頑固だったじゃないか。いまさら私がなにを言ってもどうしようもないぐらいに、頑固だったじゃないか。
 それは少し、寂しいことのようにも思うけど。でもきっと、それが兄さんだし。だからきっと、私は兄さんが好きなんだ。
 私の心配が、私が望むほどは兄さんには届いてくれなくて。兄さんが強い人なのは、知っているけれど、それでも兄さんは、傷つきやすい人だから。
 あなたが、私を守りたいと思ってくれているように。
 私も、あなたを守りたいだけなのに。
 あなたは、私に守らせてはくれない。
 妹として扱われることに、不満があるわけではない。私達を繋ぐ絆は、たしかにそれが大きな部分を占めているんだから。
 でも私は、もう、それだけじゃ我慢できなくなっている。

 ワタシハ、アナタヲ、リャクダツシタイ。

 兄さんが深夜になると屋敷を抜け出していることぐらい、お見通しだった。翡翠や琥珀は隠そうとしているようだが、そのぐらいのことはきちんと把握している。でなければなんのための当主か……あるいは、なんのための人外の血か。
 もっとも、わかったのは、そんな直接的な理由によるものではないけれど。兄さんが来てから変わった屋敷の雰囲気が、さらに変わった……さらに言えば、翡翠が変わった。だから、兄さんがなにかしたんだろうと思い、案の定、確認してみたら、いなかった。
 そんな気はしていたからということもある。まあ、それだけの話ではあるけれど。
 騙されてあげるという選択肢を、とりあえず選んでいる。あれだけ口を酸っぱくして忠告しても、兄さんを止めることはできなかった……これ以上の注意は、その範囲を越えて警告となってしまうし、それをさらに越えられた場合、なんらかの罰を用意しなければならなくなる。
 ……それもちょっと、楽しいかもしれない。兄さんは、それを受け入れるだろう。あくまでも、屋敷を抜け出した後で。
 ……それは、かなり、つまらない。罰がただの罰であるのなら、それは行為の是認にすぎないのだから。
 行動の抑止ができないというのなら。考えなければならないのは罰ではない。
「それが兄さんにとって一番危険なことだというのは、あなただってわかっているでしょう?」
 翡翠を呼びつけ、その思うところは語らせず(とはいえ、普通の問い詰め方ではどちらにせよ語らないだろうが)、一方的に詰問する。詰問程度で済んでいるのは、温情からでしかない。本心は、強制してでも兄さんを止めさせたいところだが。
「わかっております。ですが、志貴様は、私などの……使用人などの言うことは聞き入れてくださりません」
 それは皮肉だろうか? と思い、片眉が上がる。そうだとしたなら、良いことなのではないのかとすら思う。翡翠が感情を出すということは、それが良きにつけ、悪しきにつけ、よくあることではないのだから。
「言うことを聞こうが聞くまいが、関係ありません。あなたは、私の言うことを兄さんに聞かせるのが仕事です……事の、是非も次第もなく、ね」
 もっともそんなことは翡翠とて理解しているだろう……翡翠の運んできた紅茶のカップをいじりながら、そんなことを思う。それでも言うことを聞かない兄さんだということも知っている。であれば、兄さんに直接釘を差すよりは、翡翠を間接的に制約したほうが、兄さんに対しては効果的だろう。
 兄さんの行動の結果、罰を受けるのが翡翠であれば。兄さんは、躊躇うに違いない。
 もっとも……それでも、規則を破られてしまったなら、自分が直接、出向くしかないのだろうけれど。
 それを期待しているのかもしれないと思いつつ。
「今までのことには目をつぶります。これからは、気をつけるように」
「承知いたしました」
 それでも、兄さん寄りである翡翠は、言うことなど聞くはずはあるまい。黙らないでいてくれれば、それでいいのだが。段階を踏まないと動き出すこともできない自分の慎重さ(おそらくそれは、ただの臆病だが)を嫌になりながら、翡翠を下がらせる。
「だいぶ、おかんむりのようですね?」
 翡翠と入れ違いに皮肉を投げかけてきたのは、当然、もう一人の使用人である琥珀である。他に使用人はいない。兄さんが帰ってくる前日に、居候状態だった親戚ごと追い出した。多少の文句など、問題にはならない……自分はすでに、遠野家の当主なのだから。
「あなたなら落ち着いていられるとでも?」
「あはは、まあ、そうですよね。わたしでもきっと、無理な相談です、はい」
 あっさりと、首肯する。翡翠のような反発はしない。琥珀は自分付きの使用人で、翡翠は兄さん付きの使用人だ。それが当然である。
 だからといって、この肯定は油断がならない。そんなものを素直に信じられるほど、自分は単純には生きてこなかった。
「それで? あなたは何の用?」
 呼ばれないで琥珀が来ることなど、あまりない。それが当然だ。使用人なのだから。
「そろそろ、薬が必要になるかと思いまして。予備をお持ちしました」
 琥珀には隠せないのか、自分が隠そうとしていないのか。よくは、わからない。だが、ここのところ、薬の消費量が増えていたのは事実だ。それは単純に、兄さんが心労を増やしてくれているせいかもしれないし、それ以外のなにか(まだ、予感とか予兆としか呼べないなにか)のせいなのかもしれない。
 何かが起ころうとしている。それも、兄さんを軸にして。自分はまだ、それの正体を見極められてはいない……
 だが、何かが起こるだろう。胸の奥で、なにかがそう囁きながら疼いている。
「まだ、薬で大丈夫なんですか?」
 お盆に載せられた、不溶紙に一服分だけ包まれた薬と共に、一杯のお茶(日本茶)を受け取る。まあ、紅茶でも日本茶でも、大した違いはない……お茶を飲むという行為を必要としているだけで、その中身は作用に影響しない。
「ええ、まだ、ね。大丈夫よ。なんとかなるわ」
 なんとかなってもらわなければ困る。それが、自分を人間に繋ぐただ一つの基準なのだから。それを失ってしまったら……
 まだ、そうなるわけにはいかない。
「あまり、無理はしないでくださいね?」
 心配そうに、なんて顔はしない。琥珀の表情は、いつだって微笑みだし、それ以上でも、それ以下でもない。
 別にそれがなんだということでもない。油断さえしなければ問題はないし……琥珀を相手に、油断しないでいられるはずがないのだから。
 だから、琥珀がなにかをしようとしたなら、自分はそれに抵抗することすらできない。いや、それ以前に……抵抗する気も、ないのかもしれないが。
「ええ、わかっているわ。……一人にしてくれる? ちょっと、考え事がしたいの」
「はい、わかりました。失礼します」
 用事だけを済ませて、さっさと退出する。
 だがそんな琥珀には構わずに、お茶をすすりながら、再び思考の混沌に沈んだ。

 私の欲求は、日に日に強くなる。
 今日はここまで。明日はここまで。明後日はここまで。明々後日は……
 人の欲にキリがないのか、単純に私の欲に、キリがないのか。どちらでもいいけれど、私が欲深く、きっと、……淫乱なのだ。
 より多くのものが得たくて。より多くのものを得るために。
 それなのに私は、本心を覆い隠して。あの人は、その欲するところを率直に告げてくれているのに、私は、家訓だとか体面だとか、そんなものにかこつけて、私自身の欲するところを口に出そうとはしていない。
 だから、あの人が私の言うことを聞いてくれないのだって、当然だと思う。他人を動かすことができるのは、(それが利害を介さない時)いつだって本心からの言葉でしかないんだから。
 あの人が、私のことを妹として見ている限り。私の当主としての言葉は、あの人には届かない。
 私は、嘘つきで。私は、卑怯者だ。
 それが、遠野家の当主として培ってきた処世術だと言い訳することもできる。
 だがそれは、少なくともあの人に対して発揮されるべきものではなくて、そのために学んできたものでもない。その程度の切り替えもできない自分は、きっと不器用だ……あの人と同じぐらいに。
 でも、不器用だから、なんて言い訳は、自分に対してしか使えない。その不器用さがあの人を傷つけるというのなら、私はやはり、それを反省しなければならないし、直さなければならないのだ。
 そうして、私が自分に素直になれたなら、あの人は、私を受け入れてくれるだろうか。私の言うことを聞いてくれるだろうか。
 私の望みが、あの人をこの屋敷へと縛りつけるものだったとしても。私と一緒に、この古くて重たすぎる遠野家を采配してほしいだなんて。あの人の自由を奪うものでしかないだろうに。
 それでも私は、望んでしまうのだ。こんなものにはもう、耐え切れなくて。

 だから、それは、偶然ではなかったのである。
 そんな偶然があったなら、いっそ神でも信じていたかもしれないが。いや、信じてもらえたのかもしれないが。私は最初からそれを計画していたし……ある意味では、兄さんをすら、利用していたのである。
 杞憂で終われば良かった事態が、実現した。まあ、それだけといえば、それだけのことだ……顕在化してしまったなら、あとは対処するだけであるし、それ自体はそう、難しいことではないのだから。
 問題なのは、私に残された人間が思ったよりも消耗されているということで(それは、兄さんが力を振るった結果なのかもしれないが)、この世でなによりも忌み嫌っているものにならずに目的を完遂することができるかどうか、ということだ。
 私は私のままであの男を殺すことができるんだろうか。
「なぜだぁ、秋葉ぁぁぁっ!」
 シキ、と呼ばれるその男が、その昔、兄であり、志貴兄さんと三人で仲が良かったという事実も、いまではなんの感慨も呼び起こさない。
 その男はただ、反転してしまった者で。その男はただ、兄さんを傷つけた。血のつながりなんてものは、形而上に些細な影響も与えなかった。形而下的に行ってきたその悪行だけが、断罪に値する。
 私情は私情として、ある。だがこれは、遠野家当主としての、言わば公務だ。私情があろうとなかろうと、私はこれを実行する権利と、そして責務を持つ。
「秋葉、お前、なんでっ……!?」
 志貴兄さんが、驚いている。……なにに、驚いているのだろうか。
 私の髪が紅く染まっていること? それとも、私がここにいること?
 前者であるのなら、志貴兄さんは、その血の本性を忘れていないということだし、それにより強く影響を受け、または支配されているということだ。
 後者であるのなら、志貴兄さんは、兄さんのままで、私のことを心配しているだけだ。
 後者であることを祈るように、一歩を踏み出す。シキも、志貴兄さんも、動かない。
 まるで世界が私のためにあるような。そんな瞬間の錯覚。
「私は……遠野家の、当主です。反転した者を処分する責任があります。だから、兄さんは、下がっていてください」
「秋葉ぁっ! お前のっ、お前の兄はっ! この俺だっ! そいつは血も繋がらないただの他人で、この俺こそがっっっ……!!」
「だから、なんだというんですか?」
 そうだ。だから、なんだというんだ。そんなことは知っている。忘れたことなど一度もなかった。忘れられた日など、一日もなかった。
 あの日、この男が私を殺そうとし……そして、志貴兄さんを殺した日、私がこの日を、この瞬間を夢見なかったと、誰に言えるだろう?
 志貴兄さんを蘇生させたその傍らで、シキに対する憎しみを……そして、そんなものを招いた自分の中の血を呪わずにいられたなんて、誰に言えるだろう?
 誰よりも、私こそが呪っていた。誰よりも、私こそが知っていた……志貴兄さんを殺したのが、他でもない自分であることを。
 私が志貴兄さんを好きじゃなかったなら、シキが志貴兄さんを殺すことはなかったかもしれない。私がシキを選んでいたなら、シキが反転することはなかったかもしれない。
 そんなくだらない仮定は、言葉遊びでしかないけれど。
 だから、なんだ、だ。誰よりも私が私の罪を知っている。それでいい。
 そうして、それを贖罪するために。
 私がこの手で、シキを殺す。
「大人しくしていれば、苦しめずに殺してあげますよ……?」
 それが、最大限の譲歩だ。何度殺しても飽き足らない相手だが、志貴兄さんには、私のそんな姿は見せたくないから。
 それになにより……力をあまり、長くは使いたくはないから。素直に殺されてくれるとは思っていなかったが、思わず、そう、言ってしまった。
「秋葉ぁ……秋葉ぁぁっっ……!」
 だが、説得は、やはり、功を奏さなかった。シキは驚いたように一歩退き……その跳躍は、数メートルの距離を稼ぎ出した。
 遅い。
「戦いにおいて、戦い以外のことに気を取られるなんて……」
 愚の骨頂としか、言い様がない。私なんかのことに気を取られるような弱い男ではなかったはずだが……それだけの執着を持たれていたというのなら、やはり、その呪わしさは憎んで余りある。
 紅くなった髪を差し伸ばし、力を込める。私の力は、すべてこの髪を媒介とする。
 そっと、むしろ優しく。ただの一撃で致命傷を与えるには、狙いを正確にしなければならない……それ以上の力を出力してしまったなら、自分がどうなるかわからなかったから。
 シキよりも素早い動作で跳躍し、シキの想像以上のスピードで距離を詰め、対応を決めあぐねているのを尻目にその胸に髪を触れさせ、そっと、押した。いや、感覚としては、引いた、か。
 これで、すべて終わる。長かったのか、短かったのか、いざとなると、わからなくなるものであるが。
 あの日から続いた因縁が終わりを告げる、その瞬間に。
 私は、意識を失った。

 どこまでが仕組まれたことだったのだろうかと、考える。
 薬が切れたから、か、命が切れたから、か。どちらだったとしても、それを意図的に演出しえたのは、琥珀である。
 ああ、やっぱりあの子は私のことを許してはくれなかったんだな、と思った。あの人の娘である私のことなんて、許せるはずもなかったんだな、と思った。
 それは、仕方がないことというよりは、当然のことだと思う。私は、あの子を壊してしまった人の娘だし。私は、それを知りながら、なにもすることができなかったんだから。
 私の無力が私を責めるのなら。私は、それを受け入れる。他の誰でもなく、琥珀を、幼少期を共にすごした親友を(と、思っているのは自分だけかもしれないが)、私はわずかにも救うことができなかった。
 ただ、残念なことだって、当然ある。シキをこの手で殺せなかったし……兄さんに、なにも伝えられなかった。
 どうせ死ぬのなら、なんだって言えただろうに。こんなタイミングだなんて、想像もつかなかった。
 残念なことは多いけれど。不思議と、気分はそんなに、悪くはない。

 傷が痛む。だが、そんな悠長なことは言ってはいられない。
 秋葉が連れ去られてしまった。シキはすぐに出てきたが……だからといって、秋葉が無事だという保証はない。シキならば、秋葉を殺すには十分な時間があったはずだ……殺さないまでも、なにかをするには、十分だったはずだ。
 その無事を確認するまでは、安心なんて到底できない。
 離れを、目指す。古い記憶が混雑しだす。眩暈を覚える。現在が過去に侵食され、世界がセピア色に褪せながら、斜めに滑り落ちていく。
 あの日、通った道。ついこのあいだ、訪れた道。そしていま、駆けている、道。
 現在と過去が不自然なく成立している、この世界。ここには、あの時が、ある。
 その離れの構造は、思考せずとも理解していた。身についた、あるいは染み付いた感覚は、頭が忘れていても、体が覚えている。
 そして、なにかに惹かれるように。その部屋の前に、立っていた。
 襖がある。その向こうに、気配を感じる。秋葉はここにいるだろう……それは確信で、疑う余地はなかった。
 だが、襖を開けることを躊躇ってしまった。自分でもよくわからない。記憶が、感覚が混乱していて、シキから取り戻した命は、自分からなにか、決定的なものを奪っていった。
 取り戻したはずなのに、失ったなにかが。少しの間、自分を縛りつけた。
「秋葉……?」
 恐る恐る、慎重に。襖を開ける。
 そこには、想像していたようなものはなかった……血に塗れた秋葉だとか、すでに人ではなくなっている秋葉だとか、そういうものは。
 布団に横たえられ、静かに眠る。黒髪に戻った、秋葉の姿があった。
 シキの、言う通りだったらしい……秋葉は、自分に命を与えていたから、反転衝動を抑えられなかった。しかしいまは、シキから取り戻した命が、自分の魂を完全なものとして、秋葉から与えられていた命は、自動的に秋葉に戻った。
 だから、秋葉の髪は黒く戻り……反転衝動は、抑えられた。
 その確率は、そう高くはなかったらしいが。賭けには、勝てたらしい。
「秋葉……」
 その傍らに、腰を下ろす……というよりは、安心しきった脱力で、座り込んでしまった。
 秋葉の静かな呼吸に、再び安堵する。
「よかった……ほんとうに……よかった」
 言葉が、出ない。なんのために命を賭けたのかといえば、このために命を賭けたのだと断言できるほど、ここには、大切なものがあった。
 自分はもうすぐ、死ぬかもしれないけれど。それでも、悔いは、ない。
 どれだけ、そうしていただろう。長いような、短いような、そんな時間の後で。
 秋葉はゆっくりと、目を開いた。
「にい……さん……?」
 焦点の定まらない眼差しで、こちらに頭を傾ける。伸ばされた手を受け取って、確りと強く、握り締めた。
「ここに、いるよ……」
「ああ……兄さん……兄さんだぁ……」
 普段とはまるで違う、幼い言葉遣い。秋葉は……あの頃のように、ひどく無邪気に微笑んで。
 それなのにいきなり、その手を払った。
「ごめんなさい、兄さん……あなたを、巻き込んでしまって」
 目を閉じて。秋葉は小さく、そう言った。
「バカだな……気にするなよ、そんなこと」
「いいえ、いいえ……本当は、私が、私が一人で、始末をつけなければならないことだったのに……」
「なに言ってるんだ。シキは、俺の命を奪ってたんだぞ? だったら、俺が取り返して当然じゃないか」
 それなのに秋葉は、首を振る。
「私が、私が、悪いんです……あの時も、今だって。私が……私が……」
 先刻の感覚を、思い出す。過去と現在の混雑。
 秋葉の中でも、それが起こっているのかもしれない。
「もしそうだったとしても、俺がお前を助けるのは、当然だろ? 俺は、お前の兄さんなんだからな」
 その一言で、秋葉は否定をやめたけれど。
 その瞳から、一雫の涙が毀れた。
「ど、どうしたんだ? どっか痛いのか?」
 布団に邪魔されて見えないが、やはりシキになにかされていたのだろうか?
「いいえ、いいえ、違うんです……でも、そう、痛いんです……」
 秋葉の涙は止まらない。
「どこが……どこが痛いんだ?」
 こんなとき、慌てることしかできない自分の歯がゆさに腹が立つ。なにが直死の魔眼だ。なにが存在の死を見ることができる能力だ。
 そんなものがなんの役に立つ? 自分はそれで、秋葉の何を救えるというんだ。
 秋葉はゆっくりと体を起こした。先ほど見たときとは、違う服装だ。まるで死に装束のような白い着物は、しかし、一点の曇りもない。
 その体には、やはり、怪我など見当たらなかった。
 ゆっくりと、こちらを向いて。ゆっくりと、目を開いた。
 それでも涙は途切れることはなく。流れる雫が、袂を濡らす。
「私は、あなたにとって、妹でしかないんですか……?」
 それ……は。それに、は。どう……答えれば、いいのだろう、か。
「私と、あなたは、血も繋がっていないというのに……それでも、私は、妹でしか、ないんですか……?」
 すがるような眼差しで。美しい涙を留めることもできず。
 これが、秋葉本来の姿だというのなら。自分はなにを、思い違っていたのだろう。
 秋葉は、自分を歓迎していないのではないか、と思っていた。それはそうだろう。自分は家を追い出された問題児で、帰ってきても秋葉の忠告も聞かずに夜の外出を続けたし、シキとの決着をつけられなかったせいで、秋葉を巻き込んでしまった。
 そしてなによりも、そんな自分の至らなさが、遠野家の当主である秋葉の更なる負担になっていると、そう思っていたのだ。だからこそ、シキとの決着は、自分一人でつけようと思っていた。
 それなのに、それなのに。
 自分の目の前にいる秋葉は、あの頃の秋葉で。親父の言うことに逆らえなかった、秋葉のままで。……自分が連れ出していた、秋葉のままだ。
 あの時も、今だって。秋葉を振り回しているのは、自分でしかない。
 俺はバカだ、と、思い知らされた。秋葉にとって、一番負担になる方法しか取っていなかった、と気づかされた。
 秋葉は、拝して遠ざけるような、そんな腫れ物を扱うように扱われることを、嫌ったのだ。あの頃、自分はそんなことはしなかった……秋葉のほうが親父にとっては大切なことは知っていたけれど、自分たちは兄妹で、友達で、仲間だったから。
 秋葉は、あの頃と、なにも変わっていないじゃないか。押し付けられるものから逃げ出したくて、それでも必死になってそれに耐えていた、あの頃から。
 なにも。
「私は……私は。ずっと、あなたのことだけを。想い続けて、いました。あなたが、ここに、帰ってこられるように。そのためだけに、当主にだってなりました。それなのに、あなたは……屋敷にすら、いてくれなくて。いつでも、私を……置き去りにして」
 言葉が、出ない。言葉に、ならない。
 大切だったのに。大切だったからこそ。自分は、大切なものを大切にする方法を間違えた。大切だからという理由で盲目になっていた自分は、一番大切なものを、傷つけていた。
 戻ってきた理由は、それだったはずだ。親父が死んだから、なんて理由だけなら、戻ってくる必要はなかった。いくら遠野本家の召還だったとしても、自分を捨てた本家の命令なんて、いまさら聞き入れる義理もなかったのに。
 それでも、ここに帰ってきたのは、こここそが、自分の居場所で。そこには秋葉がいるということを、理解していたはずなのに。
 なんて、愚かな、自分。
「私の体は、この命ですら、あの時から、あなたのものだったのに。私のすべては、あなたのためにあるというのに。あなたは……あなたは……」
「ごめん、すまない、……悪かった。俺が悪かったから」
 秋葉の涙に、耐え切れなくて、誤魔化すように、抱きしめる。
 どれほど強く見えたとしても、秋葉は秋葉で、普通の、女の子でしかなくて。
 震える肩の細さも、その体の柔らかさも。その温もりも、その香りも、眩暈を誘うほど、甘く、切なく、得がたく、愛おしかった。
 だけど、拒絶するように、秋葉に背中を叩かれた。それは、強くも速くもなかったけれど、抉るように、心に響いた。
 どれだけのものを、我慢させてしまったのか。どれだけのことを、殺させてしまったのか。秋葉が殺してきたその気持ちをわずかでもぶつけてくれるのなら、いくら殴られたっていい。それで秋葉の気が済むのなら、殺されたっていい。
 許してくれなくたって、いい。それだけ愛されていたことに気づかなかった罰は、どれほどのことをしたって、償いようがない。
「好きだったのに……っ! 愛していたのに……っ! あの日から、あの時から、それよりもずっと前から、私にはあなただけだったのに……っ!」
 背中を叩く手は止まり。強く強く、抱きしめられた。
 体は痛くない。体なんて、痛くない。
 痛いのは心だ。傷つけたのは心だ。
 それはきっと、塞がることもなく、血を流しつづけていただろう。
 きれいなきれいな、なみだのように。
「私のことを愛してくれなくてもいいのっ! でも、もう……私があなたを愛していることを知らないなんて言わせないっ……!!」
 身を切るような、叫び。心を震わせる、叫び。
 いっそ殺してくれと。お前の好きにしてくれと哀願したくなるほどの慟哭は、不意に、止んだ。
 きつくきつく抱き締められていた腕が緩み。
「私は、いまでも、あなたにとって、妹でしかないんですか……?」
 涙を浮かべた瞳。上目遣いの眼差し。探るように、恐れるように、だが、躊躇いはなく。
 ここまで追い詰めたのが自分だと思うと、自責の念に駆られる。
 だが、それよりもなによりも。秋葉が、綺麗すぎて。こんなにも綺麗だったのかと心奪われて。
「そんなこと、ないさ」
 そう、応えていた。
「最初はそう、そうだったかもしれない……だって、そうだろう? 俺はお前が小さかった頃しか知らないし、ここに帰ってくるまでは、お前がこんな、思ったより可愛い女の子になってるだなんて、想像もつかなくて。それでも、兄妹だし……そのほうがいいのかなって、そう思ってたんだ」
 八年だ。八年もあったのだ。自分がいままで生きてきた時間の、ほぼ半分を、離れ離れに暮らしてきたのだ。
 八年前と同じように接することなんて、できるはずもなく。さりとて、どうすればいいのかなんてわからずに。
 戸惑い続けている間に、こんなことになってしまったけれど。自分の気持ちも、秋葉の気持ちも、いま、わかった。
 ……ようやく。
「だけど、お前は、こんな、その……魅力的に、なってて。嬉しいんだか困るんだかで、もう、わけがわからなかったさ」
「いまは?」
「うん?」
「いまも、わかりませんか……?」
 胸元を、掴まれて。その拳が、小刻みに震えていて。
「いまはもう、わかっているさ」
 その手を優しく包み込むように握って。
 秋葉の、その唇に、キスをした。
「自分の素直な気持ちってやつが、ね」
 秋葉は一瞬、わけがわからないという顔になり、すぐに耳まで真っ赤になって、握り締めた拳を、力なく、叩きつけてきた。
 だが、そう……実はそろそろ、限界なのだ。
 耳まで真っ赤になっていた秋葉の顔色が、さぁっと、血の気を失っていった。
「兄さんっ!?」
 その声は、聞こえていたけれど。視界はすでに、暗闇だった。

 それは自分にとっては大きな一歩だった、といえるだろう……いや、むしろ革命規模の出来事だったと断言できる。
 今思えば、なんとも恥ずかしい限りではあるが……まあ、気の弱っている人間などそんなものだということで、単純に納得してもらいたい。
 私だって普通の人間だし、普通の女の子だということはわかってもらえたはずだから、そこら辺はいまさら、特に言う必要もないはずだ。
 なんとなくそんなことを自分に言い聞かせる。兄さんの部屋の前に来てから、すでに数分が経っていることは知っていた……が、それでもなかなか、決心がつかない。
 こういう時は深呼吸だと、一つ、大きく息を吸って。息を吐いて。
 覚悟を決めた。何事も勢いが大事だ。
 ノックをしようと手を振り上げて……
「あ、秋葉様」
 振り下ろそうとしたら、翡翠が扉を開けた。
「……兄さんは、どうかしら?」
 振り上げた手の降ろしどころに困り、咳払いなんぞしながらそんなことを聞いてみる。白々しかろうがなんだろうが、この際仕方がないではないか。
「お休みになっておられます。……お見舞いでしょうか?」
 様子見、というかなんというか。まあ、気分的には敵情視察な気がしないでもないが。
 なんとも見事に、肩透かしを食わされてしまった。そうか、寝ているのか。
「ええ、そのつもりだったんだけれど。寝ているならいいわ。後にします」
 話が出来なければ意味がない、と思う一方で、兄さんの寝顔を見たいという欲求が湧き上がる。なにしろ、私の寝顔は見られたんだし。となるとやっぱり、私も兄さんの寝顔を見ておかなければ、フェアじゃない。
「……やっぱり、ちょっと、いいかしら?」
 なんとも複雑な表情になっただろう、と思う。楽しいような、困ったような、嬉しいような、焦っているような。気持ちはそれぐらい並んでて、どれが優勢ということもなく、余計、複雑な気分にしてくれた。
「……お静かにしていただけるのなら」
 一瞬、翡翠の口元が歪んだような気もするが、見えなかったことにして部屋に入る。翡翠はどうやら、監視してくれる気らしく、戸口にたたずんでいた。ちょっと邪魔だが、文句を言って追い出すわけにもいかない。
 それじゃあまるで、悪戯しますと宣言しているようなものだから。
 兄さんは、寝息すらも聞こえないほど静かに、ベッドに横たわっていた。
 なんだか死体みたいだな、と嫌な連想をする。兄さんという存在自体が、死を連想させるなにかを発している気すらしたが、小さく頭を振って、払いのけた。
 それが真実であるからこそ。
「……よかった」
 倒れてから、すでに丸一昼夜が経っている。それだけ眠りつづけているのだから、よかったもなにもあったものではないはずだが、本音として零れたのは、それだった。
 八年前、兄さんは、顔を合わせる間もなく有間に引き取られてしまった。あの時も、いまだって、怪我の程度にそう違いはない……それはつまり、現状の深刻さを物語っているはずだが……
 だけど、いま兄さんは、ここにいる。
 違うのは、たったそれだけのことだけど。なによりも大きな違いだった。
 ベッドの脇に跪き、許しを請うように手を組み合わせ、額をそれにもたれかからせて、自分でもよくわからないものに感謝を捧げた。人はそれに神と名づけるのだろうが、私はそんなものは信じていないし、必要とすら、していないから。
 だからきっと、兄さんに。この祈りも感謝も、すべてを兄さんに。
 まるで結婚の誓いのようだと思いながら、少しの間、そうしていた。
 そんな私の手を、誰かが掴んだ。
「なんだか死人になった気分だな……」
 この人は、こんな時でも減らず口を叩くんだから。そんなだから、私は、安心してしまうじゃないか。これでもう大丈夫なんだって。
「おはよう、秋葉……」
 気だるそうに、まだその目を開けることなく、静かに喋る。少し低くて、安心できるこの声を、こんなに素直に聞けたのは、いつ以来だろう。
「おはようございます、兄さん。といっても、もうお昼ですけど」
 わずかに浮かんだ嬉し涙を、しかし手を握られているから拭うこともできなくて、少しどぎまぎする。でも、こんないい気分なんだから、それぐらいのことは気にしなくてもいい気がした。
「はは、そうか……よく、寝たもんだな」
 反対側の手を支えにして起き上がろうとするのに、いつの間にそこに控えていたのか、翡翠が押し留めた。油断しすぎだぞ、自分、と、軽く戒める。いくら嬉しいからって、そこまで気を抜いて、立場を忘れてどうするのだ。
「まだ、横になられていてください。いま、姉さんを呼んできますので」
「いや、大丈夫だって。気分は悪くないんだ、身体を起こすぐらい……」
 なんだか眩しそうに目を開けて、それでも兄さんは身体を起こそうとした。
「いいえ、ダメです。……秋葉様。申し訳ありませんが、志貴様を見張っていていただけますでしょうか?」
 ベッドに押さえつけるように兄さんの肩を抑えながら、翡翠はそんなことを言ってきた。さて、翡翠は男性恐怖症だったはずだが……
 それもまた、兄さん効果だというのなら、なんだか複雑な気もするけれど。なんだかそれも、悪くない。
「ええ、わかったわ。琥珀を呼んできて、翡翠。……なるべく早く、ね」
「……承知いたしました」
 一礼を残して、翡翠は部屋を出て行った。
 私は、翡翠と入れ替わるように兄さんの肩を抑え……なんだか、強姦魔みたいだなと、変な想像をして、赤くなる。
「ちょっと……痛いんだけどな、秋葉」
 恥ずかしい想像のせいでか、知らず知らずのうちに力が入っていたようだ。兄さんはなぜか目を開けずに、顔だけしかめていた。
「ご、ごめんなさい、兄さん」
 無茶なことをしたがったとしても、怪我人は怪我人だ。しかもその傷は、私のために負ったものだ……自然、手が緩む。
 その隙を突いて(とはいえ、それほど素早く動けるわけでもないが)兄さんは身体を起こし、ベッドサイドに置かれた眼鏡を取った。
「別に、ね……立ち上がろうと思ったわけじゃないんだけど、さ」
 どうやら本当に、単純に眼鏡が取りたかっただけらしく、眼鏡をかけた兄さんは、再び倒れるように、横になった。
 ああ、そうか。兄さんの目は、すべてのモノの死を見てしまうから。
 その眼鏡なしでは、少しもいられないのか。
 なんだか不意に、悲しくなって。寸前までの自分の浅ましさが、虚しくなって。
「……秋葉は、泣き虫だなあ」
 ベッドに腰掛けながら、泣いてしまった。
 私はずっと、私だけが大変だと思ってきたけれど。兄さんだって、どれほどの苦労を過ごしてきたのだろう。世界中に死が溢れていることを知りながら、それでも生きるだなんて。どうすればそんなことができるのか。
 毎日絶望しながら生きろと言われているようなものだ。どれほど前向きになろうとも付きまとうだろう、底なしの現実は、どんな悪夢よりも酷いものだったに違いない。
 それなのにこの人は、笑っているのだ。私の手を握りながら、微笑んでいるのだ。
「まだ、どっか痛いのか?」
 兄さんは、本当に……本当なら、他人の心配なんてしていられる状態じゃないというのに。兄さんこそ、細かな傷を入れたら全身を覆い尽くすような怪我をしていたのだから、意識を取り戻してまともに喋っていることすら奇跡のようなものなのに。
 それに比べたら私の怪我なんて。怪我のうちにも入らない。
「兄さんは、少しはご自分のことを心配なさったらどうですか?」
「はは、まったくだ」
 他人事のように笑っているけれど、他人事ではなくて。
 昔から、そうだったけれど。兄さんは、いつ死んでもいいように準備しているのではないかと思う瞬間がある。自分のことを置き去りにして誰かのために(主としてそれが私のためであれば嬉しいのだけれど)なにかをする……したがるというのは、そうやって、自分のことを遺そうとしているのではないかと、そう思えて。
 私はそれが、少し、悲しい。
 握られていた手を、そっと握り返し。
「兄さん……」
「なんだい、秋葉?」
「あなたは、私が守ります」
「な、なんだよいきなり?」
 いきなり、ではない。唐突に思い立ったわけではない。
 それは、私がずっと決めていたことで。守られるしかなかった八年前のあの日、私は、それを決めたのだ。
「兄さんは強い人ですが、一人でなにもかもできる人なんて、いないでしょう? だから、私が、兄さんのお手伝いをします」
 なにもかも私には任せてくれないだろうし。私だって、兄さんになりたいわけじゃないから、そのすべてを肩代わりしたいわけじゃない。
 そうすることで、兄さんが少しでも楽になるのなら。そうすることで、いつでも兄さんの側にいられるなら。そんな、浅はかで、自分でも少女趣味だなと思ってしまうほど、他愛無い願いのために。
「そう、そうか、うん、……ありがとう」
 照れたように、困ったように頷いて。兄さんは顔を赤くして、頭を掻いた。
 私はなんだか嬉しくて、満足で、満面の笑みを浮かべ、はしたのだけれど。
「……それだけですか、兄さん?」
 ありがとうで終わられても、ちょっと困った。
「いや、それだけって言われても……俺としては、謝意以上のものはどうしようもない気がするんだけど?」
「例えば……形とかでもいいんですよ?」
 気持ちの示し方は、一つではないから。
 にじり寄るように、身動きの取れない兄さんに詰め寄る。なにが愉快かといえば、兄さんが困ったようで困ってない顔をしていることだろうか。獲物を追い詰める快楽とはこういうものかと、自分の中の人外の血を意識する。
 なんだか今日は、なにもかも受け入れられてしまう気がするほど、それも嫌じゃなかった。
「いや、形って、秋葉? 落ち着けよ、な?」
「私は落ち着いていますよ? 兄さん。でなきゃ、こんなことできないでしょ?」
「そ、そういうもんかなあ」
 慌ててはいるが、逃げる気はないようである。なんだかんだ言って、兄さんも男だということだろう。……なんだか恥ずかしくなりそうな考えばかりが浮かんでいるが、これはこれで、私にも後遺症が残っているのかもしれない。
 命が元に戻ってしまって。私と兄さんを繋ぐものは、血すらなくなってしまったから。それに代わるものを、お手軽に欲していたのかもしれない。
 でも、理由はなんだっていいのだ。私は少し、自分に対して素直になると決めたんだから。
「志貴さん、失礼しま〜す。……って、あら? 秋葉様、なにかありました?」
「い、いいえ、なんでもないわ。早かったわね、琥珀」
「ええ、翡翠ちゃんが、急いでって言っていたもので。それに、遠野家の主治医としてはやはり捨て置けない事態だなあと。……狙ったわけじゃないですよ?」
 なんとなく察したのか、困ってはいないが、複雑な笑みを浮かべながら、琥珀は救急箱を手にベッド際までやってきた。必然的に、なんとなく、ベッドから離れる。
 琥珀さえこなければ、あとちょっとで既成事実を……いや、だが、事の最中に来られた可能性を考えれば、良かったのかもしれないが。
 なんだかお預けを食らった犬のように、おもしろくなかった。
「それじゃあ兄さん、また後で来ます。……今度は逃がしませんよ?」
「え? えぇ? あ、え、う、と、う、う?」
「はいはい、志貴さんはじっとしててくださいねー」
 意味ありげな視線を投げかけてから、部屋を出た。なんだか自分らしくないことばかりしている気がするけれど、なんだかそれも自分らしくて、上機嫌で廊下を歩く。
 一つ、溝が埋まって。一つ、距離があいて。
 これでようやく、私は妹から卒業できたんですよね?
 兄さん。