言葉にならない。 断章之参



 壊れた時計。

 たとえばそれは、あなたが人を殺すようなもので、私にとってはそれが、生きるために必要なことだっただけですよ。

 なにが必要なことだろうか、と少しだけ考える。
 少しだけ考えて、やめた。意味はないし、実りもない。必要なものなんてない、とわかったところで、それじゃあやっぱり意味がないだろう。
 それでも生きていける。それが人生の不思議というやつに違いない。
「琥珀さん、あなたは俺を利用した。そうだろう?」
 志貴さんが、沈痛と言えそうな表情で立ち尽くしている。こういうときはどうすればいいだっけ。笑えばいいのかな?
「ええ、そうですね。私はあなたを利用しました。……だって、邪魔だったんですもの」
 志貴さんが、という意味ではない。それほど大きく違うわけでもないけど。
 みんな、生きるのが下手すぎる。たかが生きることになにをそんなに必死になっているのか。
 どうしてそんなに必死になって他人を生かそうとするのか。そんなことのために虐げられた身としてはたまったもんじゃない。
 自分ひとりのために生き汚く生きていれば、他人に迷惑をかけても生き延びようなんて思わなかっただろうに。大切な誰かのために、それ以外の誰かを犠牲にするなんてバカげている。
 まあ、私に言えた義理じゃないのかな、とも思うけど。
「みんながみんな、誰かを利用することしか考えてなくて。だからちょっと、壊したんです。そんなことされたら、私が生きていられないから」
 だから、殺すしかないじゃないか。みんながみんな、誰かのために自分を殺させようとする中で、私だけがただ一人、自分のために誰かを殺したとしても、別におかしいことなんてない。
 誰もが正しく間違っていた中で、私だけが正しく間違っていなかっただけなのに、どうして私だけが間違っているように見えたのか。それだけが不思議だ。
 相対化? 環境作用? そんなものは言葉遊びだ。母集団の最大多数こそが正常なのだとしても、母集団を構成する個としての正常性まで失われるわけじゃない。
 数の論理は、集団における安定と幸福の指標だ。そんなものは誰も救わない。
 誰かのために誰かを殺す論理なんて。
「私が生きるためには、そうするしかなかったんです。それだけのことですよ?」
 それにはやはり、意味なんてない。生存本能に意味を求めたってしょうがない。そういう風に出来ているから、としか言えないんだから。
 『イチタスイチハニ』になるように、そうなるものだという前提で数学が成り立っているように、生物とはそういう風に出来ている。
 私はそれを忠実に実行した。誰に責められるいわれもない、もっとも根源的な権利を行使した。それだけのことだ。
 だから、同情するのだって間違いだ。それは誰もが自分でやらなければならないことだから。
 生きていて、生き続けようとする限り、それは絶対だ。
「私にそれを強いたのは槙久様ですし、そもそも私を買い上げたのも槙久様なんですから、志貴さんはなにも悪くないし……むしろ、志貴さんを利用した私を恨んでいるんでしょう?」
 そうでなければ、こんなところに呼び出されるはずがない。
 すでに使う者もない、離れの一室。ここなら誰に見つかる心配もない。
 秋葉様にだって。
「恨む? なんで?」
 あまりにもピントのずれたことを言ってしまったようで、志貴さんはきょとんとしながら裏返りかけた声を上げた。なにか変なことを言っただろうか。
「琥珀さんは被害者じゃないか。なんで恨む必要が?」
「私が被害者? ……そうですね。そうかもしれません。でも、本当にそう思ってるんですか?」
 きっと、そうだったなら、ああ、本当にそうだったなら、私の心はこんなにも痛まなかっただろうに。
 世界はそんなに優しくはなかった。志貴さんが考えるほどには。
 追い詰められれば鼠だって猫に噛み付く。追い詰められた被害者だって、たやすく加害者へとその身を転じる。
 だからこそ、一方的な加害関係は存在しない。加害者は常に被害者となることに怯えている。怯えているからこそ加害者になる。
 被害者が生きていれば、いつか必ず加害者になる。だからこそ殺すんだろうし、そうして殺人事件は起こるんじゃないだろうか。
 私が槙久様を殺したように。
「生き延びるためならなんだってやりました。槙久様を牽制するために四季様を利用したり、四季様を牽制するために秋葉様を利用したり、槙久様を殺すために志貴さんを利用したり。私は助けを待つだけなんて出来なかったから、利用できるものは利用したし、自分の手を汚すことだってしました。……四季様に餌を与えていたのは私なんですよ?」
 志貴さんの表情がこわばる。それはそうだろう。吸血鬼になった四季様の餌といえば、生身かどうかはともかくとして、人間の血液に決まっているんだから。
 十年間、四季様を生かしてきた。槙久様の命令で、というのもある。餌の調達の方法は槙久様が用意していたけれど、実際に調達して与え続けたのは私だ。
 そうすれば死ぬことがわかっていながら、何人もの人間を生きたまま地下牢に送り込んだ。私は私を生かすために、他人を見捨てた。
 同情の余地なんてどこにもない。映画の中では、そういう卑怯な人間は真っ先に殺されている。
 それでも私はまだ生きている。それが私の勝利でなくてなんだというんだろう。
 結局は、生きているものが偉い。死んでしまえば、強いも弱いも関係ない。ただ生きているものだけがすべてなんだから。
 私は私の生存によって私の正しさを証明している。そのための方法論など、論じる前に叩き捨てた。
 なにをしてでも生き延びる。その決断があんなにも重いものだとは思わなかったけど。
「ほんの少し、方向を変えただけで、みんな思い通りに動いてくれました。私は誰かになにかを強制するようなことはしていません……誰かになにかを強制するような能力はありませんから。ただ、願いをほんのちょっとずらしただけです。四季様が志貴さんと戦うように、秋葉様が志貴さんと戦うように、槙久様が、あなたの目の前に姿を現すように」
 そして、志貴さんが槙久様を殺すように。
 槙久様が殺されたあの日、私の命を乗っ取ったあの日、私の魂が陵辱されたあの日、私は槙久様を殺すと決めた。
 いや、それ以前に、やはり殺そうとは思っていたけれど。あんな形で混ざってしまうとは思わなかったから、正直、慌てたのだ。
 感応者と呼ばれる能力者に出来ることは、ただ一つ。能力の増幅。それがあんな形で結実することになるとは思わなかった。
 槙久様の能力を甘く見ていた、ということかもしれないけれど。
 唯一の利点は、自分の存在を隠蔽するために私の意志を殺さずにいた事だけ。
「私は、何一つ強制しなかった……それでも、望んだ結果を得られました。だから本当に……悔いもないんです。いまここで志貴さんに殺されたとしても」
 私の何気ない言葉に、志貴さんは心底傷ついた顔を見せた。
 そのために来たんだと、そのために来てくれたんだと思っていたのに。
 私はもう、志貴さんに殺される価値すらなくなってしまったんだろうか。
「俺は……俺はただ、知りたかっただけだよ。琥珀さんをどうこうだなんて……」
 知りたかったということは、目的があったはずだ。知った上でなにかをするために知ろうとするんだから。
 それならなんのためにこんなシチュエーションを選んだのか。私がそれをしたことを確認するだけなら、こんな仰々しいシチュエーションは必要ない。
 私を始末する覚悟があったはずだ。それは間違いない。ただ、そう、たぶんきっと……
 私が秋葉様に害意を持っていないと、そう判断されたということだろう。志貴さんは、どこまでいっても秋葉様以外のことには興味なんてないはずだから。
 それは面白くないと思うのは、姉としての感情だろうけど。
 それが憎いのか、はたまた羨ましいのか、という話でもある。
「ようやく……よくやくわかったんだ。秋葉がなんで、琥珀さんを庇うのか」
 秋葉様が……私を庇う?
 なぜ? どうして? なにを?
 あの人は、どこまで……私を惨めにすれば、気が済むのか。
 私が一番殺したかったのは、やはり秋葉様だったらしい。
「四季が言ってた。秋葉に頼まれたから琥珀さんを殺さないでいたって。秋葉がなんで琥珀さんにこだわるのか、俺はよくわかってなかったし……だから本当は、今日だって一緒に来ないかって言ってたんだ。だけどあいつ、合わせる顔がないからって、結局こなかった。なんで秋葉がそんなことするのか、俺には全然わからなかったけど……ようやく、わかったんだ」
「どういうこと、なんですか?」
「秋葉は……親父が琥珀さんを苦しめているのに、ずっと気づかなかった。気づいてあげられなかったって言ってた。だから秋葉は、自分を責めてる……琥珀さんのことを、助けられなかったから」
 そんな……そんなこと。
 そんなものがいまさらなんの意味を持つというのか。いや、違う、意味はない。意味がないからこそ、秋葉様はここには来なかった。
 合わせる顔がない。それはそうだろう。
 どの面下げて、私のことを助けたかったと言えるのか。私のことなんて、たかが使用人としか思ってなかったくせに……志貴さんと天秤にかけた時、あっさりと志貴さんを選んだくせに。
 私は知っている。槙久様の能力を増強していたのが私だからこそ、私は知っている。
 私は槙久様が知りえたすべてを知っている。だから私が知らないことなんてない。
 それなのに、その話は初めて知ったことで……それで私は、自分が動揺していることにも気づかなかった。

 ベッドに横たわる秋葉を見下ろす。
 その首に手をかければ、俺でも殺せそうだ。そう思いながらも、それを実行した場合、殺されるのは自分だろうとわかっていた。
 俺がその首に手をかけた瞬間、秋葉は俺を燃やし尽くすだろう。すでに秋葉はそういう存在になってしまっている……吸血鬼に血を吸われたというのに、穢れた吸血鬼の血をすべて焼き尽くしてしまえる奴に、なにをしても無駄だろう。
 こんな化け物を相手になにを競おうとしていたのかと、いまなら思う。思うが……だからこそ殺してしまいたかった。
「いつまで狸寝入りしてんだよ」
 優しく、声をかける。自分にもまだこんな声が出せるのかと、自分で驚くほど優しい声だった。
「……あなたが出て行くまでのつもりでしたが」
 すっと目を開け、静かに身体を起こす。窓から差し込む月光だけがその身を照らしていた。
 吸血鬼よりも月の光が似合う女だ。なるほど、だからこそ志貴とはお似合いか。
「なんのつもりですか?」
「なんの話だ?」
「なぜ、わざわざ? 私に殺されるとは考えなかったんですか?」
 考えなかったかといわれれば、当然考えてはいたが。あまり気にしていなかった。
 秋葉はいま、俺なんかのことにかかずらっていられる状況じゃない。こんなことを言いながらも、本当は俺のことなんてどうでもいいはずだ。でなければ、寝たふりをして見逃そうとしたはずがない。
 殺す気になればいつでも殺せた。能力からすれば、それで当然だ。
 吸血鬼の力を得た、だからなんだ。化け物の血に目覚めた秋葉には、そんなものはなんの意味も持たない。
「最後ぐらいは、兄妹として話がしてみたかった、てんじゃダメか?」
 それは、必ずしも本心だったわけではないが、言ってみると、案外そんなつもりだったのかもしれないと思わせるものがあった。
 なるほど、俺という存在は、どうしてもそこに縛られるらしい。
 家族、血の繋がりか。それがどれほどの意味を持つのかは知らないが。
「なるほど。確かに、そういうものかもしれませんね」
 否定もせず、かといって認めているにはほど遠い冷たさで微笑む。
 お互い、そんなものには欠片も期待していない。それでいて、それだけが自分たちを救うものなのではないかと、漠然と期待していた。
 期待していると錯覚することができるのが、血の為せる業なのかもしれない。誰でも、誰もが持てる幻想としてのみ、それは意味を持つんだろう。
「四季、あなたはどこまで気づいているんですか?」
「なんにだ?」
「お父様のことです」
「ああ、あいつか。まあ、俺にわからんはずもなかろう? 俺を生かしていたのはあいつだし、あいつぐらいしか俺を生かすメリットはないんだからな」
 分家の連中にも動機ぐらいはあっただろうが、役立たずの俺を隠匿するような手間をかけるぐらいなら、現当主である秋葉の前に突き出して恩を売ったほうが得策だと考えるだろう。俺を復権させたところで、傀儡にできるかも危ういんだから。
 狂った人間に望みを賭けるぐらいなら、狂った人間を踏み台にして自分がのし上がるほうがよっぽど楽だし、確実だ。分家の連中なら、その点を見誤ることはしないだろう。
「やはり……では、毎年の使途不明金の大半は、あの人が……」
「だろうな。どこでどう小細工してるんだかは知らんが、まあ、そういうことに関してはあいつの独壇場だろうさ」
 元から小細工で遠野本家の当主に成り上がった男だ。それぐらいのことは造作もないだろう。
 琥珀を利用してなにを企んでいるのかは知らないが、そこまでいくと生き汚さも芸に思えてくる。
 血を分けた息子に殺され、血を分けた娘にすら自らの存在自体を隠し、そしてなにをしようというのか。まさか、いまさら遠野家の繁栄などと謳いはしないだろう……それなら、秋葉が十二分にその役を果たしている。
 いまさら不要なのだ。あの男は。
「分家の連中が手を貸してるのかもしれんが……まあ、それはないだろうな。いまさらあいつに復権の望みを賭けるようなやつもいないだろう」
「ええ。そんなことはできないようにしてしまいましたから。それに、分家の動きは確認済みです。適当な餌を与えておけばそれで満足するような人達ですから」
 だからこそ、それをカムフラージュに使っている、という可能性は拭い去れないが、そこまでされては、手の打ちようがない。
 しかし、それだけの手間に見合うだけのメリットはなにかと考えると、それがわからない。生き返ることができなければ、どんな策を弄したところで、あの男の手に入るものなどなにもないのだ。
 で、あれば。
「気をつけろよ、って言わなくても、お前ならわかってんだろうけどな」
「あの人の目的が、私の身体を乗っ取ることだから、ですか? そうですね。わかっている、というよりは……それ以外はない、というだけですが」
 そうまでしてなにを望むのだろう。そうまでして、なにが得られるというのだろう。
 母との約束も忘れ、自らの子を利用してまで生き延びようとしているあの男に、一体なにが得られるというのか。
 少しだけ、興味があった。俺がそれを見定めることはないだろうけど。
「まあ……お前ならうまくやるだろうさ」
「ええ。あなたの妹ですから」
 そこにあったのは、奇妙な空気だった。
 お互い、これが茶番だと知っているし、わかっている。そんなことは了解済みで、このシチュエーションを楽しんでいる。
 そう、楽しんでいるのだ。俺も、秋葉も、こんなどうでもいいことを。
 どうでもいいとわかっているからこそ楽しいのかもしれない。真に迫っているようで当り障りのない会話をしていた。
 きっと、自分たちにはこの程度がちょうどよかったんだろう。兄と妹というよりは、ただの異性の友人のような関係であれば、なにかが破綻するようなこともなかったに違いない。
 その想いもまた、夢のようなものだろうが。それを信じることさえできれば、どんな夢幻も真実を超える。
 幻想が価値を持つ瞬間がある。きっと、そういうものがあるから生きていける。
「じゃあな」
 軽く手を上げて挨拶し、背を向ける。もう話すことなどなにもない。
 この会話は存在しなかった。俺達は会話をしなかった。
 そういうことだ。それでいい。
「琥珀を」
 引き止めるような秋葉の声。いまさらなにを言わねばならないのか。
「……殺さないで」
 それはあの男の助命の嘆願か、と考え、そんなことはありえない、と即座に気づく。秋葉もあの男のことなど歯牙にもかけていない。取るに足らない存在としてしか認識していない。
 では、単純に琥珀の助命を願っているというのか。なんのために? なぜ?
 琥珀はただの使用人じゃないか。そんなものの命を気にする秋葉ではないはずだが。
「わかった」
 理由に興味はなかった。秋葉がそこまで……必死な思いを搾り出すほどに願うのなら、叶えてやったっていいだろう。
 もちろん、殺さなければならない理由が出来ればその限りではないが。
 秋葉と琥珀の関係に興味はないが……意外と気の多いやつだな、とは思った。

「秋葉がどうしてそこまで思いつめたのか、思いつめているのか、それは俺にはわからない。わからないけど……秋葉の気持ちには、嘘はなかったと思う」
「そうでしょうね。志貴さんにしてみれば、私はともかく、秋葉様を疑う理由はないでしょうから」
 そういうことじゃない、と言いながらも、それ以上は何も言わずに口を閉ざす。
 私にしてみれば、秋葉様の言うことを信じなければならない理由もない。ないが……ないけれど、ないのに、信じてしまっている自分がいた。
 それが信頼の証明だというのなら、なんともバカバカしい証明もあったものだ。
 なぜ自分が信頼しているのかわからないのに、信頼されていることが信じられるから信頼している、だなんて。
「だけど志貴さん。そんなものは私を救わなかった。救わなかったんですよ」
 傷ついた顔をして、志貴さんが俯く。
 そう。そうだとも。秋葉様が私のことをどう思っていようと、そんなものは関係ない。そんなものは私になにもしてくれなかった。
 私は私を救わないものの価値なんて認めない。だからそれは……余分な感傷にすぎない。
「秋葉様は私を救えなかった。それなのに、いまさら救いたかっただなんて、そんな言葉に、そんな想いに、なんの意味が?」
「意味はないのかもしれない……なかったのかもしれない。でも、これから意味を持つことだってできるはずだ。これから、そうなることはできるはずだ。それじゃダメなのかな?」
 いいのか悪いのかと聞かれたら、悪いと言えるはずがない。私がそれを望んでいるからこそ、信頼なんて言葉が出てくるんだろうから。
 でも、秋葉様は公私混同はしない。雇い主と使用人の関係を超えた感情を持つことは、ありえない。
 ありえない、はずなのに。どうして、そんな。
 あの人はどこまで私を苦しめるのか。
「志貴さん」
 一拍の間。
「私はずっと、秋葉様を恨んでいたんですよ」
 私が生きること。それが目的だった。
 その目的を支えたものが、それだった。
 私は、秋葉様を逆恨みすることで生きることに理由を作れた。
 復讐がしたかったわけじゃない。それでも恨まずにはいられなかった。恨んで恨んで恨んで、自分の置かれている状況を忘れてしまいたかった。
 その時の自分を忘れることが出来たから生きている。自分を忘れることができるほどに恨んでいたのだから、それは勝手に風化したりするようなものではなくなっていた。
 私は私であることよりも、秋葉様を恨むことを選んだ。だからそれはきっと、いまさらどうしようもない感情だ。
「そうしなければ耐えられませんでしたから。私は、私が生きるために秋葉様を恨むことにしたんです。だから、いまさら秋葉様の気持ちなんてどうでもいいんですよ」
 そして、自分の気持ちもどうでもいい。そんなものに意味はない。
 私の心には、ぽっかりと穴が空いている。そこを占めていたものを追い出すことで取り戻せるはずだったそれは、ただの穴となって残ってしまった。
 空虚が心に残って、私は価値を見出せなくなった。
「私は、許せなかった。槙久様は、本当に秋葉様のことを愛していたから」
 槙久様に愛されていた秋葉様が憎かったのか、そこまでして……私の体を好き勝手扱ってまで秋葉様を守ろうとしていた槙久様が憎かったのか、いまでもわからない。
 わからないということは、すでに区別はなく、区別する必要もないということだ。
 だからこれは、当然の権利なのだと私は主張する。
「……親父が? まさか」
「私の言うことを、あなたが否定するんですか? 私に取り憑いていたあの人のことを、志貴さんが?」
 私以外の誰がわかるというのか。心を、感情を、無理にとはいえ重ね合わされた私以外の、誰に。
 人間は、理解し合えないから幸せになれるんだと、あの時思った。知れば迷い、知らねば迷う、悟りのようなそれに振り回されてしまうから。
 あの槙久様でさえ、子を想うただの親だったのだと、そんなことがわかって、なんの意味が。
 私が意味を捨てたのはあの時からだ。
「滑稽じゃないですか。あの人はずっと、秋葉様が化け物になりきってしまうことを望んでいたんですから……秋葉様がそれを望んでいないことを知っていたのに」

 病室のような寝室だった。
 壁も白、家具の基調も白、カーテンは淡い桃色、窓は曇硝子で、白いはずの部屋を薄暗く見せる。
 ベッドに横たわる妻と、傍らに佇む私。そこだけ切り取られたかのような世界の、それがすべてだった。
 私は最初に、諦めよう、と言った。
「無理だ。無理というより無茶だ。出来るはずがない。それがなんだかわかってるだろう? 先祖帰りだ。化け物の血の先祖帰りだ。……無理だ。無茶だ。できっこない」
 私は愚かしくも否定することしかできない。その事実を前にして、何人がそれ以外の行動を選択できるというのか。
 人間から化け物が生まれるというこの現実を、否定する以外にどうすればいいのか。
「だがどうすればいい? いまさら殺すこともできない。例えいまお前を殺したところで、そいつは生まれるだろう。化け物とはそういうものだ……人為を介して生まれるものが、人為を無視して生まれてくるなど、ありえない、あってはならない……だが化け物として結実したそれは、その瞬間、すでに化け物となってしまった。化け物の血を引くのではなく、正真正銘の化け物に」
 私はそれを理解していなかった。この世界にすでに真正の化け物など存在せず、いるのは私のような化け物のなり損ないばかりで、それがどういうものなのか、理解することができなかった。
 化け物とはなんなのかと、もっとも身近にあったはずのその存在に気づかなかったのだ。それが私の無能でなくてなんだというのか。
 ああ、だから私は悔いているのだ。己の無能が妻を死なせようとしているのだから。
 ただ子供が欲しかった。それだけの当たり前の願いが、私を苦しめることになるなんて。
「なぜだ。なぜなんだ? 私はただ、お前と一緒に暮らしたかっただけだ。お前のことが好きで、愛していて、お前との間に立ち塞がるものすべてを排除して、ようやくこの幸せを手に入れたというのに、すべてがこの手から零れ落ちていく。私とお前と子供たちで共に暮らす……ただそれだけの夢が、どうして叶わない?」
 私と妻は幼い頃から愛し合っていた。妻は遠野本家の人間であり、私は分家の傍流の一人に過ぎなかった。
 ただの一度。妻の誕生祝賀の宴に招かれた。どちらが見初めたのかはわからない。ただ私たちは、一目見た瞬間、お互いが生涯の伴侶になるだろうことを理解した。
 その時点で、すでに化け物からの意識干渉があったのかもしれないが。生まれる前から世界に対して干渉するなど、到底信じられた話ではないにしろ、私と妻が出会い、結ばれるまでに至る可能性を考えると、妄想だと切り捨てることもできなかった。
 絶望の海を泳いで生きてきた。絶望の果てに得た希望は、さらなる絶望をもたらすものだった。
 そんなものをどう受け入れろというのか。
「ただ手に手を取り合って生きていきたかっただけなのに」
 ただそれだけの願いも叶わないことが、化け物の血を引き、人にあらざる力を得た代償なのか。
 そんなものを望んだことは一度たりとてなかったというのに。
 握り締めた拳に、ベッドに横たわる妻の手が触れる。椅子に腰掛け俯いていた私は顔を上げた。
「私もよ」
 妻の静かな微笑みに射すくめられる。
 そして、自らの言葉の卑劣さに、その無責任さに、その悪罵に、自らを罵りながら妻を呪う自分に気づいた。
 私はなにを否定しているのか。私が望んだものが私を苦しめるからそれを切り捨てようというのか。
 なんのために願ったのかと、それすらも忘れ。私は、私は、私は……
「すまない……言葉が過ぎた」
 妻は答えず、頷くだけ。
 私は己の弱さを恥じた。自分の子供が化け物であると知って取り乱してしまった。
 それを産もうとしているのは妻であり、それを産んで死ぬのも妻なのに。
 事ここに至ってしまっては、自分はただの傍観者だ。そして妻もまた、傍観者に過ぎない。
 未来予知。妻にはそう呼ばれる能力がある。
「どうにかならないのか?」
 希望に縋っている。未来を知ることが出来たなら、どうにかしてそれを避けるぐらいのことはできるんじゃないかと。
 妻は静かに首を横に振った。
 その瞬間、未来が確定してしまう。生まれる子供は化け物であり、妻が死ぬ未来が。
 なぜ。なぜ。なぜ。
 未来を知ることが出来るのに、ただそれの実現を待つしかないのか。
 なんのための能力だ。なんのための……未来だ。
「私は、この子を産んで死にます。いまさらそれは変えられません」
 微笑を浮かべ、清々しくさえ感じる笑顔で、決定的な結末を告げる。
「だけどこの子は、私を殺すよりも辛い道を歩むことになります。人として生まれるからこそ……そして、四季がいるからこそ」
「人として……? いや、四季が……あの子が、なんだって?」
「四季は……うまく説明できませんが……四季は、この子を殺します。だけど、それは四季の意志ではなく……それでもすべてが四季の責任でないわけでもなく。そしてようやく、この子は遠野家始祖と同じ存在になるのです」
 何のことだ。何の話だ。
 四季は、普通に生まれた。人外の血が混じり、異能を有していたとしても、それだけだ。私と妻とそう変わらない、ただの異能者として生まれた。
 この子とは違う。だから私は、そんなことになるなんて想像もつかなかった。
「遠野家は、この子を残して死に絶えます」
 それは、私も含んでいるのだろう。妻の瞳に宿る憐憫がそれを示していた。
 遠野家の人の血は絶え、始祖の血が蘇る。三流ホラーじゃあるまいし、そんなことが起こるなんて、到底信じられはしなかったが。
 それでもそれが起こるのだと断言されては、信じないわけにもいかない。妻の言葉を疑うぐらいなら、首を括ったほうがマシだ。
 だからそれは、その事実は、なにがどうあろうとも私を殺すに違いない。
 どう死ぬかぐらいは選べる、ということかもしれないが。そうも思えなかった。
 こんな状況でも、私が唯々諾々と死を選ぶはずがないと、そこまで見透かされている気がした。
 だからきっと、私は絶望などしていないし、絶望する気などないのだ。
「では、私がその幕を引こう。この子が我々を滅ぼすのだとしても、それでも」
 この子もまた、我が子には違いないのだから。
 歪んでいる。狂っている。端からおかしい。
 だからなんだ。自分がおかしいのなんて百も承知だ。
 おかしかろうが間違っていようが、そうしなければ自らが生きた証すら残せないのであれば……やはり、選択の余地はない。
 己が消え去るだけであれば、まだいい。だが、妻の血脈を途絶えさせることは出来そうになかった。
 それは、遺伝子を残せという本能の呼び声なのかもしれない。そうであるにしろ、そうでないにしろ、私はそうしなければならないと感じるのだから、それに大層な理由などいらないし、理由があるのだとしても、後付けの意味付けでかまわない。
 私と私が愛した妻の姿見が残せるのなら、それ以上は望むべくもない。
「そのためなら鬼にだってなってみせる。だから……だから……」
 安心して死んでくれ、なんてとても言えずに、言葉を詰まらせる。
 妻は何も言わずに微笑んだ。
「たとえ死んでも、愛している」
 いまさらプロポーズをするかのように。
「私もです」
 いつかのあの日と変わらずに、妻は頷いた。
 そして私は、我が子を化け物とする覚悟を決めた。

「槙久様は、それでも一つ、誤解していました」
「誤解?」
「そうです。遠野家の始祖となった化け物……人外の者は、人の心を持っていたということです。……当たり前ですよね。そうでなければ、なぜ人と交わったのか」
 人と交わり、子を為したのだから、それはそういう存在でなければならなかったはずなのである。そうでなければ、この世には化け物の血を引く異能者だらけになっていただろう。
 そうはならなかったということは、人の心を持たない人外の者は、例外なく人と交わることはなく、交わったとしても生かしておくことはなかったんだろう。
 だから、秋葉様が私のことを心配するのだって、おかしなことでも珍しいことでもない。ない、はずだ。
 それでも高みから見下ろす者の言葉には違いないが。
「それに……志貴さんは誤解しているかもしれませんが、私と槙久様はなにもありませんでしたよ」
「え?」
「やっぱり。槙久様が私を無理矢理犯して、感応者として契約したと思っていたのでしょう? 実際には、指先をちょっとだけ切って、槙久様の血を飲まされ、私の血を槙久様が飲んで、それで契約完了。それから私は槙久様の魂の一部を移植されました」
 どうやら、そのあたりの力こそが槙久様の本来の能力だったらしい。精神操作、記憶操作はその派生で、感応者の増強があって初めて使用可能になったものらしい。
 魂を操る能力。ロアとかいう吸血鬼が悲願とした魔術ではなく、ただの異能。
「なんで……そんな」
 なにが、そんな、なんだろう。少し考えたけど、よくわからなかった。
 わからなかったので、なぜそんなことを受け入れたのかという意味だと勝手に解釈することにした。
 たぶん、志貴さんが言いたかったことは、なにもないんだろうけど。
「私は買われたんですよ。両親を殺されて、行く宛もなかった私達を、槙久様が使用人として引き取りました。両親を殺したのは……槙久様なのに」
 当時、遠野家で隆盛を誇っていたのが、巫浄家の分家頭だった。
 秋葉様のために、遠野本家に主導権を取り戻したいと考えていた槙久様は、志貴さんの一族(七夜と言ったか)を利用して、巫浄家の当主と側近を抹殺させた。
 当主の感応者として使われていた両親は、その時、諸共に殺された。
 それからすぐに、遠野家に引き取られてきた。
「私は、選択させられました。翡翠ちゃんにそれをさせるか、私がそれをするかと。そしたらもう……答えなんて、決まってるようなもんじゃないですか」
 私だってそんなことはしたくなかったけど、私がしたくないからって、私がしたくないことを翡翠ちゃんに押し付けるだなんて、そんなことできるはずがない。
 その時はもう、私たちは二人ぼっちだという認識が出来上がっていたからこそ。生き延びるということは、自分一人の問題ではなくなっていた。
 ……ああ、やっぱり。私もきっと、自分自身のためだけではなく、誰かのために……翡翠ちゃんのために生き延びようと、もがいていたのだ。
 だから生き延びることができた。生きるのに必要なものは……きっと、これだ。
 結局、それだ。そういうものがないと生きられないのなら……やはり、誰もが正しく間違った結果としてのいまがあるんだろう。
 そんなものはクソ食らえ、だ。
「だから私は、槙久様を恨んでいるんです。槙久様にそんなことをさせた秋葉様も恨んでいるんです。あの人たちがいなければ、私はこんな目に合わずに済んだし……この手を汚す必要もなかったんですから」
 それは嘘だ。恨んでいるのは本当だけど、私がこの手を汚す必要なんてどこにもなかった。
 槙久様だって、秋葉様に殺されるためにあんなことをして、自分が最終的には死ぬことすら受け入れていたんだから、私が手を加える必要なんて本当はどこにもなかった。
 でも、それじゃああんまりじゃないか。
「それじゃあ、私はなんなんでしょう?」
 私はなんのために虐げられたのか。この結末の、完全とも言える予定調和の結果のための、いくつもの歯車の一つだったというのか。
 そんなもののために生きて、生かされてきたというのか。
 認めろと言うほうがどうかしている。だから私はそれを否定する。
 意味なんてなくていい。そんなことに意味があるのなら、意味があってそんなことが起こるなら、意味なんてないほうがいい。
 私はただ一方的に傷つけられただけなのに、傷つけた人を一方的に恨むことができないなんて、そんなものはいらない、認めない、認められない。
 だから私は、恨むために意味を捨てなければならなかった。逆恨みをするため、ただそれだけのために。
 恨んでどうなるものでもないとわかっていても。
「だから私は、私のこの手で、あの人を殺そうと思ったんです……秋葉様に私ごと殺されようとしていた槙久様を、あの人一人で逝ってしまうようにしたんです」
 それが、動機だ。

 翡翠ちゃんがベッドで眠っている。
 寝顔を見つめながら、ぼうっとする。
 すべてが終わって、翡翠ちゃんも命を取り戻して、後はもう、健康に慣れるためのリハビリという、よくわからないものを一週間もこなせば退院できるらしい。
 別に、寝たきりだった、というわけでもないけれど、それでもリハビリが必要な程度には、やはり衰弱していたんだろう。
 翡翠ちゃんの場合は、自分の意志のままに、自分の望む人に力を与えることができた。私たちに選択肢なんてなかったはずだけど……結果的には、そうなった。
 羨ましいと言えば、羨ましい。それでも本当は、私たちみたいな能力者は、能力を使わないことこそが幸せに違いない。
 誰かになにかを捧げる能力なんて、馬鹿げてる。それでなにが与えられるのか、得られるのか。
 気が付けば、翡翠ちゃんの白い喉に手を置いていた。柔らかい肌に指先が食い込む。このまま力を込めれば、翡翠ちゃんは……
 時が止まった。ちくちくと時計の音ばかりが耳に響く。世界はありとあらゆる動きを止めて、私たち二人の周りで閉じていた。
 弾かれるように手を引き、離れる。私は、私は一体なにを。
 私は翡翠ちゃんのために、翡翠ちゃんと生きるためにあんなことまでしてきたのに、なんで、なんで翡翠ちゃんを。
 もしかしてそれこそが私の望みだったとでも。
 やだ、やだ、やめて、そんな、私は、どうして、だって。
 私は自分すら失ったのに、翡翠ちゃんは何一つ失っていない。それが……それがあまりにも、憎くて。
 私たちは双子なのに……私たちは同じなのに、どうしてこんなにも違うのか。
 違うのは間違っている。間違っているなら正さなきゃいけない。
 私はそんな間違いは認められない。
 翡翠ちゃんは無防備に眠っている。私は私の浅ましさから逃げたくなる。
 翡翠ちゃんはなにも悪くない。悪くない。
 悪く、ない。
 ……そんなのは欺瞞だ。本当にそう思っていたなら、私はここにはいないし、こんなことはしなかっただろう。
 それじゃあ私は、これじゃあ私は、一体なにを恨んでいたんだろう?
 まさか、この世のすべてとでも。……それも、間違いではないんだろうけど。
 恨みではなく、恨みを支えるもののために生きていたはずなのに、私の手には、私の心には、恨み以外のものがまるで残っていない。
 私は空っぽなんだと、いまさら悟った。それはすとんと心に落ちて……二度と離れてくれそうになかった。
 私にはなにもない。世界はこんなにも救いに満ちているのに……ようやく、求めていた救いがもたらされたはずなのに。
 つぅと、涙が頬を伝う。
 意味がない。私が生きる意味がない。
 なぜ生きてるのか。なんのために生きているのか。死んでしまえばよかったじゃないか。こんな思いまでして生きるぐらいなら、いっそ槙久様を道連れにして死んでしまえばよかったのに。
 生き汚く生き残ってしまった。私が正しいと思っていたものは……結局、私を生かしはしなかった。
 なぜ生きているのか。そんなことがわからない。
 きっと私は、木偶だったのだ。生きる目的すら与えてもらわなければ生きていられない、不出来な木偶人形だったのだ。
 槙久様によって仮初の命を与えられ、人として生き……そしていま、木偶に戻ろうとしている。
 塵は塵に。灰は灰に。木偶は……木偶のまま。
 生きることに意味も理由もいらないことは知っていたのに、それがなんなのか理解していなかった。わかったつもりになって、結局……わかっていなかった。
 滑稽すぎる。自由を、解放を望んだはずなのに、手に入れてしまえば、それは瞬時に無価値に転じた。
 自由なんてそんなものだと言ってしまえばそれまでだが。私は誰かを羨んで、恨んでいないと生きていけないんだろうか。
 そんなのは、惨めだ。
 ふと、脇に目をやる。自分で持ってきた見舞いの果物と、果物ナイフが目に入る。
 ナイフに手を伸ばしながら、これがあれば楽になれるのかと考える。ナイフを手に取り、手首にあて、引ききってしまえば、思い悩むことなどなくなるんだろうか。
 心臓がどくどくと高鳴る。興奮か、不安か。解放への期待か、死への恐怖か。
 ナイフの柄に手がかかった。
「……姉さん……?」
 びくり、と驚いて、手を引き戻す。私はなにを……
 ベッドに視線を転じると、翡翠ちゃんが目を覚ましていた。
 ゆっくりと、体を起こす。そういうことは、元から不自由なくできていた。
「おはよう、翡翠ちゃん。秋葉様からの差し入れなんだけど、なにか食べる?」
 果物のバケットを示しながら、何事もなかったように微笑む。
 こんな気持ちは、翡翠ちゃんが知る必要はない。
「ん……いまは、いらない」
 寝ぼけて目を擦りながら、見るでもなく果物籠を眺める。焦点が定まっていない。ずっと寝たり起きたりしていた生活の後遺症なのか、身体的には健康になった今でも、ちょっと時間があると眠ってしまうらしい。
 長い病院生活のせいか、それとも命を分け与える行為の代償か、頬がこけている。パジャマの上からでも腕が痩せ細っているのがわかる。服を脱げばあばらが浮いて見えるに違いなかった。
 こんな痛ましい姿を見ていたくなかった。私は、あなたを解放したかった。ついさっきまで、それを信じていた。欠片も疑ってはいなかった。
 いまはもう、それも欺瞞と成り果てた。
「体は大丈夫?」
「うん」
 大丈夫だろう。大丈夫なはずだ。
 秋葉様は遠野の怪と成り果てて、志貴さんから命を奪う必要はなくなったんだから、その時点で、自動的に翡翠ちゃんが志貴さんに命を与えるなんてことはなくなった。
 志貴さんが四季様を殺し、槙久様を殺せたのは、だからだとも言える。半死の制約から解き放たれたからこそ、本来の力が発揮できた。そうでなければ志貴さんは、その力を発揮することすらできなかったんだから。
 ただの人間相手ならそれでも十分だっただろうけど、相手は四季様に秋葉様に槙久様だ。退魔としての全力を発揮しなければ、対峙することすらおぼつかない。
 だから秋葉様には死んでもらった。すべて計算通りに。
 計算通りだ。
「姉さんこそ。怪我、したんでしょう?」
「私は大丈夫。大した怪我じゃなかったから」
 怪我なんて意味で言うなら、私の体には傷一つついていない。志貴さんの能力は、対象の死を認識して初めて効果を発揮する。
 それは逆に言えば、対象の死を認識しなければ、なんであれ殺すことはないということだ。
 私が死ななかったのは、そういうことだったらしい。バカバカしい。バカバカしい能力だ。
 生殺与奪を自由にできる能力なんて、ふざけてる。
 それでも、そんな能力のお陰でいま生きてるんだから、人生だって、馬鹿げてる。
「もうすぐ、帰れるんですね」
「そうだね。もうすぐ、志貴さんにも会える」
 翡翠ちゃんは、あそこを家だと認識しているのか。それは確かに、その通りではあるが……それでも私は、それには抵抗があった。
 私……私達?……から、すべてを奪った者が住むあの屋敷を帰るべき場所だと認識することは、なんだかひどく……本末転倒な気がして。
 それでも、あそこ以外には家と呼べるような場所なんてないんだけれど。
「志貴さんに……会える……」
 鸚鵡返しに呟きながら、翡翠ちゃんの表情は至福の笑みに包まれる。
 もう何年も見舞いにすら来てくれていない志貴さんを、翡翠ちゃんはどうしてここまで想うことができるのか。それじゃあ、それじゃあなんのために志貴さんを引き離してきたのかわからない。
 志貴さんはきっと、翡翠ちゃんを連れて逝ってしまう。根拠なんてない。志貴さんが翡翠ちゃんを殺すとも思ってない。
 翡翠ちゃんは志貴さんがいないと生きていけない。たぶんきっと、それだけで、志貴さんには秋葉様がいるというのに、それでも翡翠ちゃんは、そうなのだ。
 志貴さんに秋葉様がいるのは、昔からそうだった。翡翠ちゃんが志貴さんと契約を交わす前からそうだった。だからいまさらそれは、障害にはなりえない。
 どうしてそんな。どうしてそこまで。志貴さんが一体なんだと言うのか。
 私は一体……なんなのか。
「志貴さんは志貴ちゃんのままじゃないよ?」
 それは、言ってみれば意地悪でしかなくて、それでもそれは、どうしてなのかという純粋な疑問にも似ていた。
「わかっています。きっと他の誰よりも……秋葉様よりも、私こそが」
 そうだった。翡翠ちゃんと志貴さんは契約関係にあったんだ。
 だったらきっと、なんだってわかってる。私が槙久様のすべてを理解したように、翡翠ちゃんも志貴さんのすべてを理解しているだろう。
 それでもいい、というその気持ちはわからないけれど。
「志貴さん……志貴様は、私のことは覚えていないだろうけど。それでも志貴様は、私の知ってる志貴ちゃんのままだったから。だから私は、それでいい、と思います。志貴様の心には、最初から自分の居場所なんて……なかったんですから」
 なぜ? どうして? なぜそれでいいのか?
 好きなら、好きなんだから、それが欲しいと、自分のものにしたいと、そう思うものなんじゃないだろうか。
 私はその気持ちを間違えたけれど。
「翡翠ちゃんは、どうして……どうして、志貴さんが好きなの?」
 それを知りたい。どうしても知りたい。知ってどうなるものでもないとわかっていても、それでも私は、それが知りたい。
 それがなにかの答えになるんじゃないかと、そう思えて。
「志貴様だけが、あの屋敷で普通だったから。あの人だけが、心惑わされることなく生きていたから。だから私は、あの人がとても綺麗で……あの人の生き方が、とても綺麗に思えて。私の命を預けるなら、こんな人がいいって。そう思ったんです」
 それは……それは。
 それは、秋葉様と同じじゃないか。秋葉様もまた、志貴さんのそんなところに憧れ、恋焦がれていた。
 私たちが持ち得なかった日常を、ただ一人示してくれた。志貴さんなら、私たちを救えるんじゃないかと、そう思わせてくれるんじゃないかと思って。
 本当に救ってくれなくたっていい。救われることができるんだと思わせてくれれば、それでいい。
 どこにでもある日常こそが、誰もが望んだものだから。私たちは本当に……心の底から切実に、それを求めていた。
 そんなものはどこにもないと知っていたからこそ。
「それでも私は、私達は、それを遠巻きに眺めていることしかできないけど」
 翡翠ちゃんだってわかってる。私たちがそれから取り残されていることは。
 それでも夢見たいから。……夢ぐらい見ないと、生きていけないから。
 その暖かい感情が私達を支えるなら、それにも意味があると信じて。
 私達は感応者。誰か一人を愛することができたとしても、誰か一人と共に生きることはできない。共に死ぬこともできない。ただ、相手を活かすのみだ。
 だったら、だ。だったら最初から、相手に愛されようと思うことを捨ててしまえばいい。愛しても愛しても、愛すれば愛するほど死に別れが辛くなるのだから、最初から愛されようと思わなければいい。
 それは、ただの理屈で。そんなものが実践できれば、苦労はないんだけれども。
 翡翠ちゃんは実践してしまうだろう。悲しいぐらい強い子だから。
 弱いのは……私だけか。
「幸せの形は、一つだけじゃないですから」
 そう言って翡翠ちゃんが浮かべた微笑みを見て、ああ、私は幸せにはなれないんだと、そう思った。

 少しだけ沈黙の時間が流れた。
「……でも、なんにもならなかった」
 槙久様を殺したところで、心が晴れたりはしなかった。それは恨みの対象をなくしてしまうだけで、恨み自体をなくすことはなかった。
 それでもう、私には救いなどないのだと思い知らされた。
 暗い情念だけが私を支えるというのなら……私はそれを受け入れる。
「それでなにも得られないというのなら……それはそれでいいんだと思います」
「いい……んですか」
「はい。いいんです。なにも得られない、なにも与えてくれないというのなら、私が見限ってしまえばいいんですから」
 なにを、と志貴さんはうろたえている。なにを言いたいのか、だろうか、なにを見限るのか、だろうか、それはわからないけれど、どちらでも大差ないということは、どちらでもあるのだろう。
 言葉はた易い。だけど……言葉で伝えられるものは、それほど多くはない。
「そうしたら、私はなにも感じなくなったんですよ」
 笑う。笑いながら両手を広げ、空っぽの手を見せる。
「何一つ、感じることなく……何一つ、望むことなく。何一つ、得られることなく。私はただ、生きるために生きることしかできなくなっていました」
 だからこそ、ここにだってきた。志貴さんに殺される覚悟を決めて。
 殺される覚悟を決める、ということは。
「だから私は、私が生きるためならなんだってできるんです」
 ゆっくりと志貴さんに近づく。志貴さんは怯えたように後ずさる。
 なぜ逃げるのか。なぜ逃げる必要があるのか。私は空の手を見せた。私はただの女だ。殺人鬼である志貴さんが逃げなければならない理由など、どこにもない。
 私は静かに、ゆっくりと間合いを詰める。志貴さんは後ろも見ずに後退し、壁にその背を阻まれて、進退窮まった。
 さすがだ、と思う。こんな状況でも、志貴さんは正常に機能している。私がこれからなにをしようとしているかはわからなくても、どうしようとしているかを察知している。
 それでもそれ以上逃げず、私を殺しもしないのは、志貴さんには理解できていないからだ。目の前にいる私という女がなんなのかすら。
「逃げちゃ、ダメですよ」
 薄く唇を曲げて笑う。密やかに手を伸ばして、志貴さんの頬を両手で捕らえる。
「大丈夫です、痛くしませんから……」
 少しだけ背伸びして、志貴さんと唇を合わせた。
 唇をこじ開けて、舌を絡ませる。
 唾液と共に流し込んだ毒を、志貴さんが飲み込んだ。

 生きることの意味を考えるぐらいなら、殺す方法を考えたほうが有意義です。

 殺される覚悟があるなら、殺すことなんて簡単だ。
「即効性の毒じゃないから、安心してください。ゆっくり話す時間はあります……それに、死んでしまうような毒でもないですから。ただ、なにもわからなくなるだけです」
 私のように、何一つ持ちえなくなるだけだ。なにも考える必要がなくなり、ただ生きるために生きるようになるだけ。
 きっとそれは、生きていても死んでいるのと変わらないだろうけど、それでもいいじゃないか。
「志貴さんがご存知かどうかはわかりませんけど、四季様は一つ、重要なことを教えてくれました」
「四季が……?」
「はい。秋葉様を殺すなら、志貴さんを殺せばいい、と」
 私がそれを知ったのは、槙久様が四季様の心と記憶を読んだ時だ。私は感応者として槙久様の能力を増強させ……そのフィードバックで、槙久様の知覚の大部分を受け取っていた。
 知覚だけではない。魂の一部と共に、記憶すら紛れ込んだ。そして、その異能ですら行使可能になった。それで秋葉様を殺しもした。
 それも結局は、槙久様が生きてる間だけの話だったけれど。いまの私にはそんなことはできない。
 そんなことができなくても、殺すことはできる。要は、手段だ。便利な能力とはいえ、それに依存さえしなければ、どうとでもなるものである。
「もっとも、四季様には秋葉様を殺す気はなかったのかもしれませんが……四季様の中で、志貴さんと秋葉様はそういう形で結びついていたみたいですね」
 それにそもそも、それには続きがある。志貴さんを殺すなら、秋葉様を殺せばいい、と。
 だから、殺せはしないのだと、四季様は知っていた。殺す気になったところで、どちらも殺せないのであれば、どちらを殺すこともできない。
 そんなことはありえない。殺すことなどいつでも出来る。ただ、四季様には殺せないだけだ。
「琥珀さんは……秋葉を殺したいのか」
 殺されかかっているというのに、悠長なことを。
 そもそも、志貴さんは一方的に殺されるような人ではない。諾々と殺されるぐらいなら、無意識のままに人を殺すだろう。そこまで自動化されているはずだ。
 それなのに志貴さんは、私を殺さない。やはり、この程度ではダメなのか。私にも、志貴さんは殺せないのか。
「なにもかも。私が生き続けなければならなくしたすべてを」
 秋葉様も、志貴さんも、翡翠ちゃんだって、いまとなっては邪魔なものにすぎない。私が生きるのにそれはいらないし、いらないものは消してしまうのが一番いい。
「そんなことはできない」
 やけにきっぱりと、志貴さんは断言した。
 ああ、そうか。志貴さんも知っているのか。なにもかも殺せる殺人鬼だからこそ、わかっているんだろう……なにもかも殺してしまうことなどできないことを。
 そうだろう。そうに違いない。確かに私は、志貴さんと秋葉様と翡翠ちゃん以外の人は殺せそうにない。
 殺す必要を見出すことができそうにない。
 だからきっと……殺し終わった時が、私が死ぬ時だ。
「それでもいいんです」
 殺される覚悟があるということは、そういうことだ。殺す覚悟があるということは、そういうことだ。
 実際に殺せるかどうかなど、些細な問題である。私はそれを生きる目的に定めたんだから、殺せようが殺せまいが関係ない。
 それのためなら死んだっていいんだから。それができなくたって、きっと死ねる。
 私はずっと、私の命を止めてしまいたかった。
「誰かのためにしか生きられない命に、なんの意味が? それなのに私は、私のために生きようとしても、そんなものには意味を見出せない。だからって、誰かのために生きるのなんてもううんざり。誰も私を見てくれない……誰も私を望んでくれない。だったらいいじゃないですか。壊してしまったって」
 そうすれば、まだしも気が晴れるから。壊すことに意味なんてなくても、壊す価値はある。
 どうしたいかわからないのなら、なにをしたって一緒だ。生きてたって死んだって。なにも変わらない。
 だから、志貴さんならきっと殺してくれると思っていたのに。がっかりだ。
「あなたにすら殺してもらえない私になんの価値が?」
 殺人鬼のくせに、女一人も殺せない不能者め。
 いや、きっと、私が矛盾していて、私が壊れているだけだ。槙久様と一緒に殺されるのは嫌だったのに、いまは殺されたいと願っている。殺されたほうが楽なんだと思っている。
 生きるのは辛い。死ぬのは怖い。だからって生きていたくない。それでも死ぬのは嫌。
 ぐるぐるぐるぐる同じところを回り続けていた。回り続けている間は良かったのに、ふと足を止めてしまった瞬間、もう回り続けることができなくなってしまった。
 それからの私はどこにもいけなくなった。
「殺されることに価値なんてない」
 断言と共に、志貴さんが一歩を踏み出す。
 私は微笑みながら待ち受ける。
「殺すことにだって価値なんてない。そんなものに救いはない」
 足を引きずるように、一歩を踏み出す。
「人は誰も救わない。ただ誰かの中に救いを見出すだけだ」
 志貴さんにとっての秋葉様のようにか。
「あなたが」
 指し伸ばされ手に頬を触れられる。
「あなたが望むなら、俺だって秋葉だって、救いにだってなんにだってなってみせる」
 ダメ。そんなことできない。絶対に。
 だって私は。
「たとえあなたが俺を殺そうとしたって……俺はあなたを責めない」
 あなたは殺人鬼なのに。私はただの人殺しなのに。
「志貴さん、あなたは……」
 あなたはいままさに私に殺されようとしているのに。なぜそんな。
「俺は……毒じゃ死なない」
 確かにあの毒は即効性でこそないけれど、効果が出始めてもいいだけの時間はすでに経っている。志貴さんが普通に喋れているのはおかしい。
 そうか。志貴さんに毒は効かないから、私が志貴さんに毒を飲まそうとしても、たとえ飲ませても、反応しなかったのか。
「俺は毒だって殺せるんだ。殺そうと思わなくても、体が勝手に殺してしまう。対毒訓練の成果かどうかはわからないけど……だから俺は、そんなものじゃ死なない」
 死なない。殺せない。
 それは、いい。とても、いい。殺しても殺せないなんて、最高だ。
「琥珀さん。あなたが何を望むか……それだけだよ」
 私がなにを望むか?
 そんなものは決まっている。決まっているじゃないか。
「私は……」
 私が欲しかったもの、それは。

 秋葉様がティーカップを置きながら、細く溜め息を吐いた。
「兄さんがそういう人なのは知っていましたが。……それならそれで、もうちょっとずるく立ち回ってくれてもいいんじゃないですか?」
 諦めよりは嫉妬の色のほうが濃い。志貴さんは、力なく笑いながら、ティーカップの取っ手を弄っていた。
「翡翠はそれでいいの?」
 秋葉様に問われて、翡翠ちゃんはきっぱりと微笑んだ。だけど微笑んだだけで、言葉に出してはなにも言わなかった。
 秋葉様はもう一度溜め息を吐いて、あ、そうとだけ呟いた。なんとも言えない複雑な表情を浮かべながら、ティーカップを手に取る。
「まったく、こんな朴念仁のどこがいいのかしら……」
「お前がそれを言うか」
「私だから言うんです」
 秋葉様に即座に返されて、軽口を叩いた志貴さんはぐぅの音も出ずに押し黙る。
「他の誰が言えるんですか、こんなこと」
 そのどうしようもない愚痴に、翡翠ちゃんと目を合わせてくすくす笑う。それを見て、秋葉様はさらに不機嫌になる。
「琥珀も琥珀です。兄さんなんかを信じてどうするんですか?」
「そこまで言ったら、志貴さんの立場がないじゃないですか」
 好きにしてくれと言いながら、志貴さんはティーカップに口をつけた。
 私はティーカップを両手に挟みながら、曖昧に微笑む。
「まあ、私にしても、志貴さんだけを信じて決めたわけでもないですけど」
 たとえばそれが秋葉様だけでも、翡翠ちゃんだけでも同じことだ。私の気持ちは、いまさら誰か一人にぶつけてどうなるようなものじゃなかった。
 だから。だから、だ。
「志貴さんがいて、秋葉様がいて、翡翠ちゃんがいたから。だから私は、いいかなって思って。みんながいるなら、そこには私が望むものがあるんじゃないかなって思って」
 志貴さんが許してくれて、秋葉様が許してくれるなら、翡翠ちゃんもそこにいて、そこに私を拒むものがないのなら、私はここにいてもいいんだと錯覚できるから。
 まだ、私が生きていてもいいのか実感はないけれど。とりあえず死ぬ必要も殺す必要もないのはわかった。
 今はそれでいい。先のことは、後で考えればいい。
 私は生きることを難しく考えすぎなんだと、志貴さんに言われた。きっとそうなんだろうと思う。私は……動く前に考えすぎてしまう質なのだろう。
「私は……私は、ここにいてもいいんですよね……?」
 それは、いまさらと言えばいまさらで。それでも、だからこそ私にとっては確認せずにはいられなかった。
「バカね」
 秋葉様は行儀悪く鼻を鳴らして、紅茶を口に含んだ。
「もちろん」
 志貴さんは微笑みながら頷いた。
「当然です」
 翡翠ちゃんは立ち上がり、後ろから抱きしめてくれた。
 それでようやく、私はようやく、槙久様の呪縛から解き放たれたんだと、そう思った。