言葉にならない。 本章



 君は死んでしまった。

 葬式と呼ばれるようなものはしなかった。
 少なくとも、俺自身は一切それに関わらなかった。だからしたのかどうかも知らないし、興味もない。
 あいつが死んでしまった後に、その死を悼む必要などどこにあるだろう。葬式などして誰が救われると言うのだろう。あいつが生き返ることがないのであれば、救いなどどこにもない。
 形骸に用はなかった。
 ただ、秋葉が死んだその時、来訪者があった。
 来訪者は、教会なる組織の存在を語り、吸血鬼なる不浄の存在を語った。
 バカバカしいとは思わなかった。そんな空想の存在が存在していると大真面目に語る来訪者をおかしいとも思わなかった。
 ああそうだったのか、と酷く納得した。そうだったなら、そいつを殺せる、と思った。
 復讐がしたかったのだ。復讐ができればよかったのだ。あいつの死に関わる何者かを殺せれば、それでよかったのだ。
 殺すことこそが俺の存在意義なのだから、殺せるのであればそれでいい。あいつに不幸を与えた存在を殺してしまえばいい。
 前だって殺した。今度だって殺す。
 だが、今度は、先がない。あいつは、秋葉はもう、死んでしまった。喪われてしまった。あいつはもう、これ以上不幸にはなりようがない。
 安らかに眠って欲しいと思う。俺は無力だったけれど、お前を不幸なままに死なせてしまったけれど、死んでまで不幸であらねばならぬことはないはずだから。
 遺された俺は、お前の復讐を果たした後、さてどうすればいいのだろうか。

 月夜の夜道を歩く。月はまだ半月としか呼べないもので、それの灯す明りは弱弱しかったが、中途半端な間隔で配置されている街灯があるおかげで、歩くのに困りはしない。
 夜の散策などと呼べるほど優雅なものではない。獲物を求める徘徊だ。吸血鬼などという人ならぬものを求めて、あてどなくさ迷う。
 見ればわかるという確信だけがあった。自分にそれがわからないはずがないという確信だった。
 自分の中の凶暴な血が騒いでいる。殺してしまえと騒いでいる。人間だろうが、人間でなかろうが、関係ない。殺せるものは殺してしまえと、この眼が騒いでいる。
 力とはそれ自体が意志であると学んだ。なにもかも殺してしまうこの眼の力も、自分とは無関係な意志を有しているということだろう。誰からいつ学んだのかも覚えていないが、物の死を視ることのできるこの眼の意志は、時たま衝動という形で現れる。
 秋葉を縊り殺した夢を見たときもその衝動を感じた。そして秋葉が死んだ時にも、それと同じ衝動を感じた。
 では、殺人鬼なのは自分ではなくこの眼なのだろうかと考える。この眼がなければ自分は殺人鬼などではなく、ただの人間だったのだろうかと考える。
 もしそうだったなら、自分は秋葉を救えなかっただろう。それはそれで、困る。
 だが、自分が殺人鬼であることを、秋葉は喜びもしなければ、望みもしなかった。いつもただ、諦めて微笑むだけ。
 俺が殺人鬼だったのは秋葉のためだった。俺が殺人鬼にならずにいたのは秋葉のお陰だった。
 結局俺には、自分などというものがない。俺は人を殺すための能力を持っていても、俺自身はそれを振るう動機を持たない。
 だから殺さずにいられた。秋葉という枷によって、俺の人間は守られていた。
 自由という名の首輪は、酷く居心地が悪かった。殺してしまえとこの眼は囁くが、殺すために必要なものをこの眼は持たない。俺だって持ってはいない。
 不能な殺人鬼だ。秋葉がいれば殺人鬼にはなれず、秋葉がいなければ殺人鬼にはなれない。
 であれば、俺が人間だったのは、人間でいられたのは、真実秋葉のお陰なのだ。
 衝動のままに殺すこともできない殺人鬼に価値などあるのだろうか。
 いや、いまは殺せる。秋葉が死んでしまったいまだからこそ殺せる。相手が人間でなければ、いくらだって殺せるのだ。それが化物であればあるほどいい。
 人を殺せない殺人鬼が殺すのは、化物がいい。人を殺してはいけない殺人鬼が殺すなら、化物でなければならない。
 殺し尽くしてみせようじゃないか。君の死が紛れてしまうほどに。
 夢現に死を幻視しながら、ようやくそいつを見つけた。

 追いついた。
 後ろから肩に手を掛け、振り向かせる。
 振り向きざまに切りつけた。おもちゃのように、首が落ちる。
 そのまま、分解を始める。
 腕を切り落とし二の腕を裁断し念入りに指を切り離し胴を刻んで腸をぶちまけ臓物の区別がつかなくなるほど微塵に刻み膝を断ち足首を断ち踵も爪先もわからなくなるほどに骨すら断ち切る。
 むせ返るような血の匂い。
 これでいい。これがいい。
 俺はただただ殺す存在であればいい。殺せればそれでいいじゃないか。

 否否否。断じて否。
 彼女はそんなものは望まなかった。
(だが彼女とて死んだ。誰もが死ぬ)
 俺は殺してはいけないのだ。俺だけは殺してはいけないのだ。
 俺は生粋の殺人鬼だからこそ、人を殺してはいけないのだ。
(それは矛盾ではないか。人を殺すからこそ殺人鬼だろう)
 彼女は化物を殺せない鬼だった。彼女は化物を殺さなければならなかった。
(それも矛盾だ。彼女とて矛盾していただけだ)
 俺達は矛盾していた。
 俺は人を殺せない殺人鬼。だが化物なら殺せる。
 彼女は化物を殺せない鬼。だが人なら殺せる。
 俺と彼女は、お互いが殺すべきものを取り替えることで生きることができた。そうして絆をより深めていった。
(お互い以外に逃げ道がなかっただけだろう。お前たちは逃げることからも逃げだしただけじゃないか)
 幸い、人を殺す必要はなかった。俺には、人を殺さなければならない義務はなかった。
 だが、彼女には化物を殺す義務があった。遠野家の当主として、人に害を為す化物を……反転したもの、と一族は呼んでいたか……始末しなければならなかった。
 彼女は化物を殺せるほどには強くなかった。
(人を殺せるというのに?)
 彼女もまた化物だった。同類を殺すことを躊躇うのは、なにも人だけの特権ではあるまい。
 俺が人を殺せないのも、同じようなことだ。
 それに、彼女達化物は迫害され続けてきた。ただ人を殺すからという理由で追い立てられ続けてきた。俺はそれにこそ同情する。
(お前は殺人を許された家系だからな)
 昔の話だ。名すらも忘れる古の話だ。
(だが血脈は能力を伝えた)
 化物をも殺せる能力は、確かにある。だがその能力こそが、血脈に狂気を招いた。
 力とは狂気なのだと、常々教えられてきた。
 それを抑制し、制御するためには、まず己を殺さなければならないと教えられてきた。
(そうして殺した。殺しちまいやがったんだ)
 だが、それがあったからこそ生きている。俺の一族(俺が幼い頃に滅ぼされたと聞いている)は、そうやって自らが標的となることを回避した。
 ただの殺人狂の一族を、優秀な狩人にすることによって生き長らえさせた。
 それの善し悪しを問う気はない。行為自体にそれほど変化があったわけでもない。無闇に人を殺さずに、擁護者(大概が時の権力者)の求めに応じて暗殺を生業とするようになっただけだ。
 結果として自分が存在しているというのが現実だ。
(自分を殺した癖に。それはただ存在しているだけじゃないか)
 そうさ。そうだった。俺はただ生きていただけで、自分なんてものがなかった。存在していただけで、生きていなかった。
 俺を生かしてくれたのは彼女だ。彼女だけが俺を生かしてくれた。
(彼女は死んだ。殺された。それは、お前が殺されたのと同義だ)
 だが、だが、だからといって、俺はまだ生きている。生きることを望まれてしまった。俺が死ぬことを彼女は許してくれなかった。
 では、だが、だとしたら。
 俺はどうやって生きればいいんだ。
(生きることすら満足に出来ない不具が。さっさと俺に……)

 首がない、と気づく。

「人を付け回してるんだから、それなりに用事があるんだよね?」
 街灯の下、その女はこちらを向いていた。
 問われて気づく。俺はこの女を殺したんじゃなかったんだろうか。
 あれはただの幻覚だったというのか……
 口元を押さえる。口中に酸っぱいものが広がる。そのまま耐え切れずに跪き、吐いた。
 俺は殺人衝動など持たない。持たないはずだ。
 だが、夢の中の俺は笑んでいた。殺すことを楽しんでいた。
 そんな自分に吐き気がする。幻覚の中とはいえ、力に振り回されるだなんて。
「もう、なんなの君? 殺気満々なのに、殺し合いなんてできそうもないじゃない」
 そう言いながらも近づいてこようとはしない。警戒しているのだ。俺がどういう行動を取るのか読みきれないからこそ、慎重になっている。
 振り向かれてわかった。この女は、不意打ちで殺してしまうべきだった。そうでなければ絶対に殺せない。まともに戦ったのでは、天と地がひっくり返っても殺しようがない。
 こんな化物は初めて見た。どうすれば殺せるのか、見当もつかない。
「ふうん……やる気なんだ?」
 ぞくりとするような甘い声が聞こえた。値踏みされている。殺せるかどうかを、ではない。楽しみながら殺せるかどうかを。
 殺人鬼だからこそ感得しえたが、それでは状況は変わらない……いや、より絶望的になったと言えるだろう。この女はもう……俺を殺すと決めたのだから。
 顔を上げる。立ち上がるほどの余裕はない。
 柔らかそうな金の髪。作り物のような整った顔。血のように、赤い瞳。
 完璧な個体だった。完璧すぎる個体だった。これでは、俺じゃなくてもわかるだろう。この女が人間ではないことに。
 吸血鬼、かどうかは、判断しようがない。残念ながら、吸血鬼の相手はしたことがない。それでもそいつは、吸血鬼だというには、あまりにも血の匂いが薄いようだが。
「君じゃあ私を殺せない。でも君は……どうなってるの? 人殺しの癖に、血の匂いがしないだなんて」
 それはこっちのセリフだ。まさしくいまそう思っていたというのに、それを丸ごと、相手に言われてしまった。
 俺から血の匂いがしないのは当然だ。俺は人を殺したことなんかない。
「あんたからも、血の匂いはしないけどな」
 毒づくように吐き捨てて、片膝を立てる。女がわずかに右手を引いた。それだけでもう動けなくなってしまう。向こうはこちらがやる気だと見切っているのだから、こちらが行動しようとすれば、警戒などかなぐり捨てて襲い掛かってくるだろう。
 困った。本当に困った。ここまで殺せないとは思わなかった。
 これほど殺せない化物がいるとは思わなかった。
「まあ、ねー。私は血なんて嫌いだしー」
 微妙な躊躇。本音を語っているが、真実を語っていない。
 この女は、血を吸ったことがある……だが、血を吸いたいとは思っていない。俺を殺したいと思っているが、人を殺したいとは思っていない。
 そんなバカな。なんだそれは。そんなわけのわからないことがあってたまるものか。
 化物なら化物らしくしてくれないと、困る。
「あんたは、吸血鬼か?」
 とりあえず、立ち上がった。危険は承知の上だったが、女は特になにもしてこなかった。
 運がよかった、と考えるべきか。問いを発した瞬間、女の意識は俺から逸れた。
「そう……だね。吸血鬼って呼ばれてるかな」
 女は悲しそうに微笑んだ。なにが悲しいというのが。なぜ微笑むというのか。
 化物の癖に。化物じゃないのか。
「私はそう……吸血鬼だけど。じゃあ君は? 殺人鬼なんでしょ?」
 断定か。嘘ではないが、なにから見抜かれたのだろうか。
 ……殺気か。なるほど、確かに俺の体は、俺の意志とは関係なく臨戦態勢に入っている。あの女を殺せと騒いでいる。
 俺はあの女を殺したいと思っている。珍しい。珍しい感情であり、衝動だ。
 いままでに殺したいと感じたのは、秋葉ぐらいだ。
「俺は、化物専門の殺し屋さ」
 完全だからこその殺意だろうか、と考える。化物として完璧だからこそ、殺したいと感じているのだろうか。
 殺せないとわかっているからこそ。だとしたら、これもまた矛盾だろうか?
 不毛の上に不毛を塗り重ね、矛盾の上に矛盾を塗り込め、永遠に到達しない目的地を目指す。
 ああそうだ。自分には目的地なんてものがないのだから、それで正解だ。
 秋葉を生き返らせることができない以上、なにをしたところで意味なんてない。
 例え復讐を遂げたとしても。心は晴れない。
 わかっていて、わかっているのに、そうせずにはいられないのか。
 なんと愚かな。俺ほど生きるのに値しない人間もいないだろう。
 自嘲の笑みを零しながら、ナイフを構えた。
 もう、こいつが何者であってもかまいはしない。殺せようが殺せまいが関係ない。
 自分はただ、殺し合いがしたいだけだと気づいた。
「殺人鬼の癖に死にたがり? どうしようもないわね」
 そんなことは言われるまでもない。秋葉はいつもそれを悲しんでいた。
「でもまあ、いいわ。……殺してあげる」
 女が構えた。……ようには見えなかった。
 ただ一瞬、その瞳が金に光った。
 女の姿が掻き消えた。
「……っ! 嘘だろっ!?」
 慌てて前方に身を投げ出す。
 間一髪、直前まで自分が立っていた所を颶風が貫いた。
 振り返る余裕もない。だが、なにが起こったかだけは知覚していた。
 あの女は消えたのだ。自分を一度分解して、任意の場所……この場合、俺の背後……に具現化してみせたのだ。
 物質の分解と再構築自体は、それほど珍しい能力ではない。そういう能力を持った手合いと戦ったこともある。
 だが、自分自身を分解して再構築するなど、ありえない。よしんば分解まではできたとしても、どうすれば再構築などできるというのか。
 分解された状態で、再構築されようという意志を維持しているとでも言うのか。
 化物め、と歯軋りする。あまりにも化物すぎて嫌になる。これほどの化物が存在していたなんて。
「あら、いまのをかわすんだ。君、けっこうやるわね。……面白い」
 転がりながら相手の場所を把握し、体勢を立て直す。一度大きく踏み込んで上半身を起こし
 目の前に金の瞳を見た。
「でも、ダメよ。私は殺すって決めたんだから」
 実際には、そんな言葉が聞こえたはずがない。喋る余裕もなければ、聞く余裕もなかった。
 だが女は、酷くうれしそうに笑い、その右腕を振り上げた。
 必死になって、ナイフで防ぐ。そんなものはおかまいなしに、殴り飛ばされた。
 数メートル、宙に浮いた。思考が空白になる。自分の置かれている状況が理解できない。
 頭で考えたら死ぬ……ただそれだけはわかった。
 身をひねり、なんとか体勢を立て直し、足から地面に着地する。打ち消しようもなかった慣性のせいで、そのまま地面の上を滑る。
 追い討ちを覚悟して気配を探る。しかし、女の気配は先ほどから微動だにしていなかった。
 十メートル。ただの一撃で、ここまで飛ばされるとは。
「あれを受けちゃうんだ。ふ〜ん」
 女はむしろ感心した風情で笑い、右手をぷらぷら振った。
 指が数本ない。殴られた瞬間、切り落としてやった。まさか、その上で殴り飛ばされるとは思わなかったが。
「人間にしてはやるわね、君。ちょっと見直したぞ」
 一度大きく手を振っただけで、指が生えた。そのぐらいの再生能力は、いまさら驚くに値しない。むしろなんだってありだろう。
「そりゃどうも」
 バカバカしい。やる気が失せてしまった。
 殺したいなら殺せばいいと思った。腰を降ろし、大の字になって転がる。
 なんだか酷く疲れていた。どうしてだろうか、とても、眠い。
 こんなところで寝転がっていたら、また秋葉に怒られてしまうだろうか。
『まったく兄さんは、いつもそうなんですから』
 ……なぜ。なぜ君はもういないのか。
 君のいない世界に俺は一人で生きている。
 この広すぎる世界にただ一人で。
 空気がシンとしている。夜空が落ちてきそうだ。心臓が高鳴っている。手を伸ばせば星まで掴めそうだというのに。
 君はいない。
 ああ、ああ、ああ。どうしてどうしてどうして。
 君がいない。
「……なに泣いてるの?」
 傍らまでやってきてしゃがみこみ、女は不思議そうな顔でそう聞いた。瞳の色は、赤い。先刻の殺し合いなど、まるでなかったかのようだ。
「泣いてる? ……俺が?」
 なにを思っても、なにが起こっても、君を思い出してしまう。
 君ならこうしただろう、君ならこう言っただろう、そんなことばかり考えてしまう。
 自分の中の幻想になってしまった君を思いながら、いつも微笑んでいる君を思いながら、俺の心はどうしてこんなに乾いているのか。
 泣けもしなかった。君が死んだあの時、俺は泣くことすらしなかった。
 いまさらだ。いまさらじゃないか。
 いまさら俺は、君は死んだのだと理解した。
 ああ、ああ、ああ、と言葉が零れる。壊れてしまった心がうめきを上げる。
 なんてことだろう。なんてことなんだ。
 君はもう、どこにも……いない。
「なんで笑ってるの? ……変なの」
 笑っている? 俺が?
 笑っているのはあんたじゃないか。俺の不様がそんなにおかしいのか。
 そうだろう。滑稽だろうとも。
 俺はいまのいままで、人が死ぬということがどういうことだか理解していなかったんだから。
「ちくしょう……なんだってんだ……」
 なんで君は死んだんだ。なんで俺は生きているんだ。
 君がいない。君がいない。君がいない。
 世界はなにも変わらない。二人で見上げ、指差した星を見るのも、いまでは俺一人だけ。君と一緒に歩いたこの道を歩くのも、俺一人だけ。
 寂しい。寂しい。寂しい。寂しくて死んでしまいそうだ。
 君がいなければ、世界があろうがなかろうが関係ない。世界がどれほど綺麗だったとしても関係ない。美しさを称える言葉も、儚さを愛でる言葉も、醜さを詰る言葉も、君がいたからこそ意味があったのに。
 君はもういない。目の前にはなにをやっても死にそうにない化物もいるのに、君だけが、もういない。
 ただそれだけのことに気づくのに、こんなに時間がかかってしまった。
 君は死んでしまった。
 涙だけが真実に思えた。

 裏庭に置かれたガーデンテーブルとチェアのセットが君のお気に入りだった。
「いい天気ですね」
 琥珀さんが淹れてくれた紅茶を片手に、君が微笑む。
「ああ、そうだな」
 君が羽織るカーディガンが風に揺れるのを眺めている。
「どこを見ているんですか?」
 なにを想像しているのか、少し赤くなりながら君が怒る。
「可愛いもの、かな」
 君が照れるのをわかっていて、意地悪なことを言う。
「なんのことですか、もう」
 カップを置いて、長い髪をかきあげる。
「……当主の仕事、大変じゃないのか?」
 君は大変だなんて言わないだろうけど、その重責をいつも心配している。
「楽ではありませんけど、仕事みたいなものですから」
 なにも君がその重責を負う必要なんてなかったのに。
 かといって、俺がそれを担うこともできないけれど。
 俺は遠野家の人間じゃない。義父が死んだからと言って、その遺産を継ぐ権利はない。
「秋葉は……強いな」
 眩しいものを見るように眼を細める。君の強さが君を美しくしているんだろうか。
「私がですか? ……そうかもしれませんね」
 どちらかといえば苦笑を零しながら、紅茶に口付ける。
 たかがティーカップに嫉妬心を覚える。柔らかそうな唇に視線が釘付けになる。
「でも、私だって女の子なんですからね」
「なんだよそれ」
「笑うところじゃありませんっ」
 顔を赤くし、髪の毛を逆立てながら、慌てたように大声で否定する。
 君のすべてがいとおしい。怒る様も、照れる様も、喜ぶ様も、なにもかも。
 君の微笑みのためなら神だって殺してみせる。
「兄さんは、デリカシーが足りません」
 そっぽを向いて、小さく頬を膨らませる。普段は遠野家の当主として凛とした姿しか見せないが、二人きりの時だけ、君は普通の女の子になる。
 そんなことはわかっていた。君にとって俺だけが、唯一心を許せる相手なんだから。
「デリカシーねえ……」
 小声で呟きながら、ティーカップに口付ける。君の視線を感じながら。
 君が遠い。こんなに近くにいるのに、そんなことを考える。
「そうです。兄さんはもうちょっと、女の子の扱いを学ぶべきです」
「へえ……他の子で勉強してもいいんだ?」
 意地悪な笑みを浮かべながら、風に舞う君の長い髪を見つめる。
 手を伸ばして、指に巻きつけたい。君を抱きしめて、その匂いを嗅ぎたい。
 君を俺だけのものにしてしまいたい。そんなことを考える。
「それはっ……ダメに決まってますっ!」
 これ以上はないだろうくらいに顔を真っ赤にして、両手をテーブルに叩きつけ、勢いよく立ち上がる。あせっている君の姿に微笑を浮かべながら、ただ君にだけ独占されたならと考える。
「冗談だよ、冗談。そんなことするわけないだろう?」
 あ、とか、え、とか、う、とか言いながら、それ以上はなにも言えなくなって、君は言葉に詰まり、大きな溜め息を吐きながら椅子に座りなおした。
「……私をからかって楽しいんですか?」
「楽しいよ。とても」
「……もうっ」
 君は怒って見せてから、堪えきれないように笑う。俺もつられて笑う。
 穏やかな日々。永遠があるというのなら、これこそがそれであればいいのに。
「兄さんは、本当に……しょうがないんですから」
「それじゃあ俺が子供みたいじゃないか」
「ええそうです。兄さんは子供です」
 楽しそうに、君が笑う。
 なにもかもが許されている気がして、俺も笑う。
「兄さん。一つだけ、約束してくれませんか?」
「一つと言わず、いくらでも」
「それじゃあありがたみがないじゃないですか。一つでいいんです」
 やっぱりわかっていないんだから、と君は呆れる。
「そういうものかな? まあいいけど。なに?」
「約束の前に、一つ約束してください」
「おいおい、なんだよそれ?」
「いいから。約束してください」
 強い口調、真剣な眼差しに押されて、よくわからないままに頷く。なにを約束させられるかわからなくても、頷く以外の選択肢はない。
「笑わないでくださいね?」
「……は?」
「だから。私がなにをお願いしても、笑わないでくださいね?」
 君は真剣にそんなことを気にしているようだけど、俺はそれのほうがおかしくて笑ってしまう。
「笑わないでって言ってるのに!」
 ごめんごめんと謝りながら、収まってくれそうにない笑いをなんとか静める。
 あまりにも君が可愛すぎて、本当になんでも許してしまいそうだ。
「私が死ぬ時は、兄さんが殺してください」
 君の微笑みが自然すぎて、俺はなにを言われたのかも理解できない。
 いや、理解なんてしたくなかった。そんなこと、認めたくなかった。
「何をバカな」
「いいえ。バカなことじゃありません。十分ありえる話です」
 バカな話だ。バカな話に決まってる。そんなのは、バカな話でなければならない。
 君が死ぬだなんて。想像しただけで、心臓が止まるかと思った。指先が冷たくなり、直接心臓を撫で上げられるほどの悪寒が湧きあがる。
「まるで死ぬ予定でもあるみたいじゃないか」
 精一杯の軽口をたたく。うまくいったとは思えない。
「予定は、ありませんけど。遠野家は、そういう家系ですから」
 早死にの家系だから、という意味か。しかもその大半が、狂い死にしている。
 血脈がなにを決めるというのか。君が死ぬ理由がそれに根ざすことなんて。
 ありえない、ではなく。ただ、認められない。
「私が死ぬ時は、きっと化物になってしまっているから。だからせめて、兄さんの手で殺して欲しいんです」
 その言葉の、悲しくなるほど切実な響きに項垂れる。
 君の強さに打ちのめされる。自分の弱さが憎くなる。
「じゃあ、俺が死ぬ時はお前が殺してくれるんだよな?」
「私は殺しません。殺せるわけないじゃないですか」
「なんだよそれ」
 君は人間しか殺せない化物だ。なのになぜ、俺を殺せないと言うのか。
 俺は君を殺せる。君は化物で、俺は化物しか殺せない殺人鬼だから。
「意地悪の、仕返しです」
 君は悪意の欠片もない微笑を浮かべてそんなことを言う。
 君が絶対に俺を殺してくれないだなんて。最悪だ。
 俺が君を殺さなきゃならないなんて。最悪だ。
 そんな未来は認めない。俺は、俺は、俺は。
「……そんなに、傷つかないでください、兄さん」
 君は困って、微笑みも苦笑に変わる。
「私は、人間のまま死にたいんです。……あなたと同じ、人間のままで」
 言葉に詰まる。息が止まる。
 それがどれほど切実な願いなのかと思い至り、我知らず微笑んでしまう。
 君がそれを望むなら。……なんだって叶えると決めたんだから。
 君を殺すことだってしてみせる。

「……なんで殺さないんだ?」
 どれだけそうしていたかはわからない。ただその女は、別に俺を殺すわけでもなく、ずっと見下ろしていたようだ。
「殺されたいの?」
 あっけらかんと聞いてくる。なにを愉快がってるのかは知らないが、なんだか不愉快だ。
「そんなわけないだろ」
 攻撃してくる気はなさそうなので、体を起こす。変な吸血鬼だなどと感心しながら。
「じゃあいいじゃない。人を殺したことのない殺人鬼さん」
 笑いながら手を差し出された。一瞬なんのことだかわからなかったが、その手を掴み、立ち上がる。
 ズボンについた埃を払いながら、殺意など微塵も感じさせない吸血鬼を訝る。
 なんだか調子が狂う。さっきまで自分を殺そうとしていたというのに、実際、殺す寸前までいっていたというのに、なにがどうして、こうなっているのだろうか。
「いいじゃない、殺さなくたって。私、血とか嫌いだし」
 それは、さっきも聞いた。いちいち言い直さなくても覚えている。
 ただ、その微笑みが。自分でもそれが嘘だと知っている微笑みだった。
 なんだ。やっぱり吸血鬼じゃないか。
 でも、こいつが血を吸っていないのは事実のようだ。少なくとも、最近は吸っていないだろう。血の匂いがないどころが、血の気がない。
 変な奴。とりあえず、そう思った。
「まあ、それは別にいいけど。それで? 血の嫌いな吸血鬼がこんな時間になにしてるんだ?」
 とりあえず、こいつは悪い奴ではないようだ。血を吸わない吸血鬼なら、俺が探している相手でもない。
 俺が捜し求めているのは、秋葉の血を吸った吸血鬼だ。
「散歩」
 否定も肯定もしようのない気軽さだった。半分嘘で、半分本当。その程度の割合で真実を織り交ぜて、結局は誤魔化そうとしている。
「吸血鬼が夜に散歩かよ?」
 信じろ、と言うなら信じてもいいが、額面通りには受け取りがたい。
 それに、何かを隠しているのは明白だ。問題は、それがなんなのか、だが。
「吸血鬼だから、夜に散歩するんでしょ?」
 そう言われると、そうなのかという気もする。昼間出歩けないのであれば、確かに夜しか散歩する時間はない。
 ただ散歩することですら、夜に縛られる。それはそれで、不遇なのかもしれない。
「君こそ、なにやってるの? 人殺し?」
 笑いながらこういう事を言うから、ますますわけがわからなくなる。
 見かけは普通の女なのだ。そりゃあ、並ではない美人ではあるけれど、それさえ横に置いておけば、どこにでもいそうな人にしか見えない。
 まるで化物に見えない化物だ。さっきまであんなに化物だったくせに。
「そんなわけないだろ」
 人を殺したことのない殺人鬼だと自分で言っておいて、どういう冗談だ。
「そうだよね。君、人を殺すのが怖い人でしょ?」
 どくん、と心臓が鳴る。見透かされたことよりも、ただその事実に恐怖する。
 人を、殺すのが、怖い。
「じゃあ、私と一緒だ」
 にっこりと笑う。なにが楽しいのかはわからない。別に、なにが楽しいわけでもないのかもしれない。笑いたかったから笑ったというだけのことなのかもしれない。
 ただ、独りだった世界に同類を見つけた。それは仲間ではないかもしれないけれど、とりあえずその事実に安心した。そういう笑みに見えた。
「あんた……吸血鬼だろ?」
「君だって、殺人鬼でしょ?」
 む、まあ、そうだけど、と言葉に詰まってしまう。
 人を殺すのが怖い化物か。それはまるで……
 ……まるで。秋葉のような。
 秋葉が嫌悪したのは同族殺しだけど、根底は同じことだ。
 殺すことが怖い。相手の死を認識することが怖い。
 俺が化物を殺せるのは、それが死だと認識できないからでしかない。化物は殺すものではなく始末するものだ。
 そこに人格はなく、ただ生きている物体がいるだけである。家畜と同じだ。肉を食べるためには殺さなければならない。だが、生きている肉の塊に人格を与える必要はない。
 殺人というのは、つまるところそういう行為だ。人間という種族を殺すことを指すわけではない。人格という主観を殺すことこそが殺人だ。
 いままで殺してきた化物には、そんなものはなかった。元は人だったかもしれないが、狂ってしまえば、それはもう人ではない。
 人ではないものを殺すことを躊躇うことはない。
 必要さえあれば、だが。
「人間は怖いし……殺したら、なにされるかわかんないじゃない。教会の連中だって襲ってくるし、いいことなんて一つもない。私、そういう面倒なの、嫌いなの」
 わかりやすい話だ。わかりやすすぎてわざとらしさを感じてしまうほどに。
 教会という組織があることは知っている。それがどの程度の力を持っているかは知らないけれど、こいつはそんなものを気にするような奴にも思えなかった。
 対峙した時、いざとなれば単身で世界を敵に回しかねない強さに裏打ちされた、圧倒的な自信を感じた。それなのになぜ、そこまで弱気にならなければならないのか。
 さっきからそうだ。こいつは、嘘はついていないが、本心を語っているわけじゃない。婉曲な表現すらしていないが、核心を突いたことは一切言わない。
 信じてはいけない存在だと、突然理解する。いまはともかく、過去には人の血を吸ったこともある吸血鬼なのだから、まるで人間のように会話をしていること自体がおかしい。
 フェイクだ。こんなものは、ただの擬態に過ぎない。
「……やる気?」
 殺気に反応して、すっと眼を細める。ほら、やっぱり化物じゃないか。どれほど人間のように見えたとしても、本性は隠せはしない。
 これなら殺せる。
「お前は殺さなきゃいけない。吸血鬼は滅ぼさなければならない」
 言葉が勝手に口から零れる。今の今までそんなことを思ったことはなかった。俺はただの一度も、進んで化物を殺したいと思ったことはなかった。
 しかし、目の前の化物だけは殺さなければならない。こいつだけは、なんとしてでも。
「君、取り憑かれてるわよ」
 わけのわからないことを言っている。これも計略のうちだ。俺を油断させようとしているに違いない。
 俺は騙されない。なぜなら俺は
「ああ、もうっ!」
 いきなり頭を殴られた。痛い。痛いが、痛いだけだ。あまりにも害がなくて、自分がなにをされたのかもわからなかった。
 いや、どうあれ、反応すらできなかったことを考えると、この女はやはり尋常ではないのだ。害意を抱かずに相手を殴るなんて、そうそうできることではない。
 だが、それで急激に殺意が失せた。俺はなぜこいつを殺そうとしていたのか、さっぱりわからない。
 まるで、殺意だけ植え付けられたような。それが、取り憑かれた、ということなのだろうか。
「相変わらず性格悪いわねあんたっ!」
 人の頭を殴ったこともすでに忘れ去ったようで、おもむろに路上の石(握り込んだら隠れてしまう程度のものだ)を拾い上げ、全力で投擲した。
 素晴らしいというか、凄まじいというか。フォームはともかく、投擲された石は弾丸の如く夜空に吸い込まれていった。
 カン、と甲高い音がした。
 あの速度の、しかもあのサイズの飛来物を、弾くだけの力量を持つ者がいるということか。
 だが、どこに?
「いきなりご挨拶ですね」
 その声は、頭上から聞こえた。それと共に、吸血鬼が飛びのく。
 悪寒が走る。いまの声はなんだ。まるで人とは思えない、生粋の化物のような冷酷さはなんだ。
 感情を根こそぎ殺し尽くした声。殺人鬼が到達しうる最高峰であり、同時に最低の殺人鬼にしか得られないそれは、一種の理想形だ。
 殺人鬼は、すべからく快楽殺人症だ。殺すことによって快楽を得るからこそ、次から次へと殺し続けられる。人を殺してもなんとも思わない奴は、人なんて殺さない。
 いまの声の主は、人を殺してもなんとも思わないだろう。それなのに殺す。同類だからこそわかる、そいつは自分よりも壊れている奴だと。
「教会の連中ってのは手癖が悪いやつばっかりね、シエル」
 吸血鬼は殺意に満ちた眼差しで、空から降ってきた女を睨む。吸血鬼が飛びのくことすら計算していたのか、落下地点は先ほど吸血鬼がいたところ(俺のすぐ隣)から数メートル離れている。
 俺の位置からは背中しか見えないが、女だろうというのは声でわかっていた。
 貫頭衣と言うのだろうか。濃紺の長袖長裾ワンピース、とでも呼ぶしかない格好のそいつは、吸血鬼と対峙している。吸血鬼の言ったことが正しいなら、シエルという名前で、教会という組織の者なんだろう。
「いきなり攻撃してくる吸血鬼に言われたくないですね、アルクェイド・ブリュンスタッド」
 そのセリフでようやく、吸血鬼の名前を知る。そうか、そういう名前なのか。
 アルクェイドとシエルは、俺のことを無視して対峙していた。俺としては別に、この二人の間に入ろうとも思わないからそれでいいが、しかしそのままにはしておけないことが一つだけあった。
「あんたが俺をそこの吸血鬼にけしかけたのか?」
 気持ちは逸ったが、無造作に近寄ることはしない。シエルの実力は、先ほど見た通りだ。全開でやったところで、勝率が高いとは言えない。
 それに、その不気味さは筆舌に尽くしがたい。簡単に始末できそうにも思えるし、なにをしても敵わないようにも思える。
 掴み所がないというのが実感だった。
 さて、俺はこいつを殺せるだろうか。
「それがなにか?」
 振り返りもしない。俺のことをまったく問題にしていない。
「殺人鬼のくせに吸血鬼も殺せないような人間に興味はありません」
 徹底した抑制と合理主義。人ではなく機械として、一人の人間ではなく一つのパーツとして動作するべく調整された殲滅兵器。
 なるほど、教会というのはそういう連中を作り出す組織なわけだ。そうでもしなければ化物になど対抗できないという理屈もわかる。
 だが、違和感と、そして気持ち悪さを覚える。いや、違和感というよりは、不自然なのだ。目的を果たすための前提を丸ごと置き去りにしているようにしか感じられなくて。
 俺は結局、その前提のせいで人を殺せない。シエルはその前提があるからこそ人を殺せる。そういう違いで、だから俺には理解ができない。
「ふざけろよ」
 逆手にナイフを構え、腰を落とし、瞬歩で間合いを詰める。一秒以内に完了。
 数メートル程度の距離なら、十分に間合いの内だ。そうでなければ、化物相手の殺人鬼などしていられない。
 さて、どう出る?
 頚動脈を狙ったナイフは、甲高い音と共に受け止められた。
 いつの間に、どこから、とは考えなかった。例え俺のナイフを受け止めたのが、刃渡り一メートルにも及ぶ黒い刀身だったとしても。
 それに、観察はしていた。驚くには値しない。シエルは、何もない空間にそれを造り出した。ただそれだけのことだ。
 やはりこいつも不条理の世界の住人か。そうでなくては、殺り甲斐がない。
 防がれると同時に、飛びのく。とりあえず、難敵だということはわかった。
「そんなに死にたいんですか? 殺しますよ?」
 それでもシエルは、振り返らない。俺に意識を振り向ければ、アルクェイドにやられるからだ。
 二人の実力は伯仲している。他でもないアルクェイドがそう認めているんだから、それは間違いない。そうでなければ、石を投げるなんていう牽制は起こり得ない。
 しかしシエルの力の根拠は、アルクェイドとはまた異質のものに見えた。
「アンタの相手は私でしょ? 人間をいぢめてる余裕なんてあげないわよ」
 言いながらアルクェイドは駆けていた。迅雷と呼ぶに相応しい速度。踏み込みと中継の一歩だけで、シエルに肉薄する。
 振りかぶった右手には、シエルの持つ剣に匹敵する長さの鉤爪があった。あれがアルクェイドの本来の武器なんだろう。俺との闘いの時は見せもしなかったが。
 シエルはその手に持つ剣で受け止める。火花を散らし、瞬間闇を照らす。
 アルクェイドはそのまま押し切ろうと、攻撃を続ける。左右の手を振り回し、闇雲に切りつける。攻撃などという繊細な動きではない。
 当然、攻撃の間に隙ができる。シエルは的確にそれを突いた。
 アルクェイドの脇腹に、深々と剣が突き刺さる。だがアルクェイドは、それを気にせずに鉤爪を振り上げ、シエルの頚動脈を捉えた。
 夜目にも鮮やかに、鮮血が吹き上がる。赤い、紅い血が辺りを濡らした。
 ……殺しやがった。あっさりと。わざと隙を作って攻撃を受け、相手の動きを止めるという吸血鬼ならではの方法で。
「いたたあ。まったくもう、厄介な概念武装持ち出して」
 さすがに痛みはあるのか、剣を引き抜き、投げ捨てる。剣は地面に落ちる前に、紙へと変化した。そしてその紙もまた、地面に落ちる前に消えうせる。
 路上には首が半分取れている死体が転がっていた。あまりにも簡単な死。
「おい、なんで殺した!?」
 殺す必要はなかったはずだ。殺さなくてもなんとかできたはずだ。
 そうは思っても、そうは言えない。アルクェイドがどう思っていたとしても、シエルに引く気がない以上、殺さなければ殺されていただろう。それぐらいはわかる。
 それでも、口をついて出てしまったんだから仕方がない。我慢が出来なかったのだ。
「殺した? 誰を?」
 手についた血を振り落とし、嫌そうな顔をしていたが、狐につままれたような顔でこちらを見る。そうしてからようやく足元を見下ろし、ああ、これか、と言った。
「コイツなら死んでないわよ」
 ……は?
 誰がどう見たって致命傷だ。首が半分取れかけているのに、死んでないなどと言われても理解できない。
 そんなものはもう人間じゃない。……人間じゃないのかもしれないが。
「コイツはね、死んでも死なないの。何回殺しても生き返ってくるんだから」
 面白くもなさそうに、シエルを見下ろす。冷たい眼差し、というわけでもなく、同情しているようにも見えた。
「アンタもいつまでも寝っ転がってないで、さっさと起きなさいよ」
 無造作に蹴りを入れる。死人に鞭打つとはこのことだ。
 蹴られた衝撃で、というわけでもないんだろうが、シエルはいきなり目を開き、上半身を起こした。
 びっくりして腰が抜けた。なんだその唐突っぷりは。
「……また、殺されちゃいました」
 むくりと立ち上がる。服の裾をはたき、埃を落とす。
 あれほど大きくえぐられていたというのに、その傷口はすでにない。服には血がこびりついているのが、やけにシュールに見えた。
「アンタ、勝てないのわかってていっつも突っかかってくるけど、いい加減止めたら?」
 呆れた口調のアルクェイド。シエルは、頬を膨らませて、そんなことありませんと抗弁した。
「今回はダメでしたが、次は殺せるかもしれませんから」
「あ、そ。ま、いいけどね」
 実際に殺し合いをしていた連中の会話とは思えない。シエルに至っては、実際に殺されたというのに、なぜ普通にアルクェイドと会話をしているのか。
 こいつらといると、自分はまともなんじゃないかと錯覚してしまいそうだ。
「お前ら……知り合いなのか?」
「知り合いっていうか……腐れ縁?」
「ただの宿敵です」
 シエルの返事はにべもない。そうだね、などと言いつつ納得しているアルクェイドもわけがわからない。
「私が追ってる吸血鬼がいるんだけど、まあ、その辺の関係」
 どの辺の関係だかはさっぱりわからないが……アルクェイドが追っている吸血鬼? アルクェイドも吸血鬼じゃないのか?
「なんで吸血鬼なんか追ってるんだ?」
「吸血鬼の癖に、って言いたいんでしょ? 気持ちはわかるけど。説明すると長いよ?」
「じゃあいい」
 別に、説明が聞きたいわけじゃない。とりあえず、さっきはっきりしなかったことがはっきりした。アルクェイドは夜の散歩をしていたわけではなく、吸血鬼を探していたのだ。それなら、夜に出歩いていたのも納得がいく。
「その吸血鬼ってのは?」
「うーん、まあ、なんていうか……」
「あなたの家に寄生してますよ」
 あまりにもあっさりと言われたために、なんのことだかわからなかった。
 うちに寄生している?
「正確には、あなたの家、遠野家の誰かに寄生しています。私は最初、あなたかと思ってたんですけど……なにするんです、痛いじゃないですか」
「そういうことはさっさと言いなさいよねっ!」
 アルクェイドに頭を叩かれて、シエルはぶーたれている。喧嘩したいならいくらでも仲良くやってくれてかまわないが、いまはそれは後回しにしてもらいたい。
「寄生って、どういうことなんだ!?」
 シエルの腕を掴み、揺さぶるように問い詰める。
 遠野家の人間に寄生している、となれば、そしてそれが自分でない、となれば、残りは一人しかいない。
 だけどそれはおかしい。おかしいじゃないか。
「あなたは、遠野家の人間ではないでしょう?」
 シエルは至って冷静に問い返してくる。先ほどの機械のような冷たさとはまた違う、感情が鈍化しているような反応だ。俺がなぜ焦っているのか、まるで理解できていない。
「そして、遠野秋葉は死にました。吸血鬼の手にかかって。答えは一つです」
 それじゃあ計算が合わない。親父はとっくのとうに死んでいるし、秋葉には兄弟はいない。いったい誰が、吸血鬼になれるというのか。
「遠野家には、もう一人子供がいたはずなんです。蛇……ロアが転生した子供が」
 だけど、俺は知らない。そんな子供は知らない。
 知らな……い? 本当に? 本当に知らないのか?
『よろしく、シキ』
 自分とよく似た少年のことを思い出す。血は繋がっていないんだから、似ている道理はないというのに、それこそ兄弟に間違われるほど似ていた少年。
 あれは誰だ。名前、名前が出てこない……でも、そうあれは……あれも、シキ?
「誰が施したかはわかりませんが、あなたの記憶には封印された部分があるようですね」
 失われた、記憶。閉じ込めていた、過去。
 子供の頃の思い出。秋葉と二人で遊んでいたことは思い出せる。しかし、改めて思い出そうとすると、場面が酷く断続的で、繋がらない場面が次から次へと出てくる。
 不要な情報だけを徹底的に欠落させたあとの偽物じみた記憶。違和感を感じないように再構築したのは自分だろう。自分もまた、その記憶を消し去ろうとしていたに違いない。
 これほど違和感を感じるというのに、いまのいままでまったく気にしていなかった。では、こんな都合のいい消し方をしたのは誰だ?
「……あなたは、殺したんですね? その少年を」