言葉にならない。 間章



 記憶の中の死は現実であると言えるんだろうか。

 牢獄が目の前にそびえ立つ。
 鉄格子が行く手を阻む。
 邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ邪魔だ邪魔だ。
「諦めろよ、志貴。お前にゃ俺は殺せねぇって。俺にもお前は殺せなかったけどな」
 監獄の主の如く、少年が囁く。
 傷が痛む。胸の傷が、ずきずきと音を立てて血を流す。
「でもまあ、いいじゃねえか。俺は満足だぜ? 邪魔な親父はぶっ殺したし、これでもう秋葉をいぢめるやつはいなくなる」
 満ち足りている少年を前に、憎悪が膨らむ。
 お前が、お前が、お前が、どの面下げてそんなことを言うのか。
「納得できねぇのか? バカだなぁ志貴は。秋葉はお前の妹じゃないんだぜ? 俺の妹だ。いまとなっちゃあ、俺だけが唯一、あいつの身内だ。あいつを守るのは、俺の役割であって、お前のじゃないんだよ。……なあ、志貴?」
 だからなんだ。それがどうした。
 お前は親父を殺した。それはいい。そこまではいい。秋葉を閉じ込めていた親父が死んだって、そんなことは別に構わない。
 だが、お前は、お前は、お前は。
 鉄格子を揺さぶる。がしゃん、がしゃん、がしゃん。
「なんだ、そんなに気に入らなかったのか? お前も秋葉に惚れてたしなあ。気持ちはわからないでもないけどな」
 だがダメだ、と少年は笑う。くすくすと、いやらしく、癇に障る声で、決して手の届かない牢獄の奥から、目だけを輝かせて笑う。
「秋葉は俺のものだ。いくら志貴、お前でも譲れない。あれは俺の女だ。俺だけの女だ。だから俺は……した。それだけだ」
 声が聞こえない。ノイズが混じって聞こえない。
「秋葉は可愛かったぜぇ。俺が……するたびに……して、強引に……したら泣いちまったけどな。構うもんか。最初は誰だって痛いんだから」
 鉄格子に血が滴る。黙れ、黙れ、黙れ、黙れ。
 お前のことなどなに一つ覚えていないが、お前を殺すべきことは知っている。そしてお前を殺したことも知っている。
 なのに殺せない。いまはまだ殺せない。鉄格子が、牢屋が、俺を阻む。
「殺せると思ったんだけどなあ……親父に邪魔されるわ、お前に邪魔されるわ……まあ、親父は殺してやったからどうでもいいけどな。なあ志貴よ。なんで俺の邪魔をしたんだ?」
 そんなこともわからないのか。お前はいつからそんなに狂っていたんだ。
 どうしてお前は、そんなに狂っているのに、そんなに悲しそうなんだ。
「こんな腐った世界に生きてどうする? 誰も彼もが敵だ。俺たち以外のすべてが秋葉の敵だ。親父でさえ敵だった。なのにどうして、お前は生きる? 秋葉を生かそうとする?」
 それは禁忌だ。死の論理だ。
「いいじゃないか。遅かれ早かれ、みんな死ぬんだ。いずれはみんな死んで、なかったことになる。俺だって、お前だって、秋葉だって。生きることは苦しいだろう? なのになぜ生きるんだ?」
 その声の、ただ真剣な響きに圧倒される。子供らしい純粋さに目がくらむ。
 なにがお前にそこまで死を望ませているのか。お前はどうしてそんなにも死を望むのか。
「お前も殺してやろうと思ったのに。……なんで生きてるんだ?」
 少年に貫かれた胸が痛む。血が止まらない。血を流せば流すほど手足は冷え、思考は鈍り、体は重くなる。戦うのなら、戦うことを意識するなら、それは必ず避けなければならない。
 わかっている。そんな理屈はわかりきっている。
 いまの俺は、そんな当たり前のこととは裏腹に、血を流せば流すほど意識が明瞭になっていく。血を流すことによって毒血を抜くように。
「そうか、なるほどな。致命傷過ぎたってわけだ。毒の回りが遅いと思ったら、なんだ志貴、お前もうガラクタじゃないか」
 自分でも、なぜ自分が生きているのか不思議だった。この胸は確かに貫かれ、心臓は修復不可能なほどに損傷し、その瞬間に絶息していたはずなのに、なぜかいまも生きている。
「お前、自分の胸に手を当ててみろよ? きっと動いてないぜ?」
 言われずともわかっている。俺はとっくのとうに死んでいる。
 俺がいま動いているのは、俺の力じゃない。俺をいま動かしているのは、俺の意志じゃない。
「操り人形になってまで秋葉に忠義を尽くすのか。ハチ公じゃあるまいし、いや、ハチ公よりも始末に終えないか。あの犬は一応は死んだからな」
 せっかく殺してやったのに、と残念そうに呟いて、少年は闇から一歩、踏み出した。
「秋葉はそんなに怒ってるのか。お前を操り人形にしてまで、俺を殺したいのか。……志貴、お前は確かに退魔の一族の人間だが、それじゃあ俺は殺せない。いまのお前じゃ、俺を殺せやしない」
 お前になら殺されてやってもいいのに、と少年は残念そうに言った。
 滲み出すように闇から抜け出した少年は、全身に包帯を巻きつけている。しかし、顔がない。顔があるはずのところだけが、空白に塗り潰されている。
 これじゃあ、出来そこないののっぺらぼうだ。
「俺を殺したいなら、志貴、……だ。……を殺せ。その命を奪え。……を殺せば、お前は生き返ることができる。あいつらはそのために飼われているんだからな」
 顔が、顔がない。ここまで思い出していながら、どうして、どうして顔がないんだ。
 俺はまだ、すべてを取り戻していないのか。これ以上なにが欠けているというんだ。
「人殺しになっちまえ。俺を殺すにはそれしかない」
 言われなくとも、そうしてやる。お前を殺すためなら、俺は人殺しにだってなってみせる。

 一人の少女と遊んでいる。
 花畑に座り込んで、冠を作っている。
 少女が作るように作れなくて、途方に暮れる。なにかを作ることは、本当にうまくない。壊すことばかり得意で、でも別に壊したいわけじゃなくて、どうしていいのかわからなくなる。
 少女が不意に、俺の頭に花冠を載せてくれた。
 俺が驚き、戸惑っていると、当たり前のことのように微笑んでくれる。
 微笑んでくれていた、はずだ。
 顔が見えない。
「いいの?」
 俺は自分の手元を見下ろす。形にすらならずにちらばってしまった花。
 自然と気分が落ち込む。もらうばかりで、なにもあげられない。
 壊すばかりで、あげられるものを作り出すことができない。
 生まれついての性だ、なんてのは、子供には納得できる理屈じゃない。
「いいよ。しきちゃんにあげる」
 俺よりも嬉しそうな少女につられて、俺も微笑む。
 この子は誰だろう。秋葉ではない。秋葉もこの手のことに関しては、あまり上手じゃなかった。
 それになにより、秋葉ならいくらでも顔を思い出せる。それができないということは、秋葉ではないんだろう。
 忘れていたのはシキのことだけだと思っていたのに。
「しきちゃんは、いつもあきはちゃんとあそんでるから。これからは、わたしともあそんでね?」
 だからあげる、という意味だったんだろうか。
 あの少女は純粋に、誰かと遊びたかっただけだろう。誰かと遊んでいるという行為の成果として、花冠の譲渡があった。
 あれはきっと、少女にしてみれば、儀式だったのだ。少女なりに懸命なアプローチだったんだろう、と思う。
 俺のことが好きだとか、そういう話ですらなくて。ただ、友達が欲しかった。寂しかった。そういうことなんだろうと思っていた。
「うん、わかった」
 俺は、少女のことをよく知らない。何度か遊んだ記憶もあるが、ほとんどが秋葉と一緒に遊んでいた。
 単純な俺は、やっぱり単純に、友達は多いほうがいいと思って、秋葉も一緒に遊ぶようにしていた。俺と二人きりよりは、少女もそのほうが面白いと思ってくれると思って。
 でも、秋葉がいたとき、少女はこんな風には笑っていなかった。すぐに気づくべきだったのに、俺はずっと、気づかなかった。
 断片的な記憶に吐き気を覚える。違和感だらけだ。
「しきちゃんは、いーこね」
 頭を撫でられた。初めての経験にびっくりする。
 いままでは殴られたことしかなかった。ここで、遠野家で俺に求められていたのは、人間としてではなく、番犬として、秋葉のための下僕として、化物を殺すための機械になることで、そのためだけに訓練されてきた。
 そのために生かしているんだと、遠野家に来た時から言われていた。俺が生きるためには、秋葉を守るしかなかった。
 秋葉が死んだらお前も殺す、と言われていたから。
「わたしのほうがおねーさんなんだから、こまったことがあったらなんでもそうだんしてね」
 少女が自信満々に言うものだから、俺は勢いに押されて頷いてしまう。
 ある意味、いまも困っていたが、その時はなにも言えなかった。
 人間扱いされていることが、なによりも驚きだった。
「わたしは……だから。しきちゃんが……されたら、わたしがたすけてあげる」
 なにをされたら? いや、そもそもこの少女はなんなんだ?
 俺の記憶には、秋葉との思い出しかない。シキのことだって忘れていた。この少女のこともよくわからない。
 これ以上なにが隠れているんだろう。俺はいったい、なにを忘れているんだ。
 そもそもこれは……いつだ? シキに殺される前か?
 俺はいったいいつから、物の死が視えるようになったんだ……?
「やくそくよ? わたしはしきちゃんに……をあげるから。しきちゃんはわたしよりさきに……じゃいけないの」
 小指を差し出された。約束、約束? いったい俺は、なにを約束した?
 おっかなびっくり、小指を伸ばし、少女のそれと絡め合う。
「ゆーびきりげんまん、うそついたーらはりせんぼんのーます。ゆびきった!」
 嬉しそうな少女とは裏腹に、戸惑うばかりの俺は、自分がなにかとんでもない約束をしたんじゃないかと、そればかりが気になって仕方がなかった。
 俺はいったい、なにを約束した?
「わたしはしきちゃんのために……から、しきちゃんのおよめさんになるの」
 いきなり言われて、心底驚く。
 少女はなんの気負いもなく微笑んでいる。
 ずっと前から決めていたんだと、そう呟く。
「わたしはえらぶことはできないけれど、えらばせてなんてもらえないだろうけど、でもわたしは、しきちゃんをおむこさんにするってきめてたんだ」
 いや……? と聞かれて、首を振る。いきなりすぎて戸惑いっぱなしだけど、別に嫌なわけじゃない。わけはわからないけれど、これは光栄なことなんだというのはわかった。
 俺みたいな人間でも、誰かに好きになってもらえるんだと、その単純な事実が嬉しくて、本当に嬉しくて、俺は頷いていた。
 頷くべきではなかったのに。

 夜闇が視界を漆黒に塗り込めている。
 自分の息遣いだけが聞こえる。
 殺さなければ殺されるだろうと親父は言っていた。訓練で死ぬような奴は必要ないとも言われた。
 左腕に浅い裂傷があった。敵の攻撃を避けきれなかったせいだ。
 深い森の中、大木に背を預け、呼吸を整える。
 物質の分解と再構築。それが敵の能力だった。
 条件が悪過ぎる。敵にとって、この森は武器の宝庫だ。そこらにある尖った枝を折り、投擲、分解、再構築。単調な攻撃しかしてこないものの、いきなり消え、いきなり現れる武器には対処のしようがない。
 命がけの訓練か。番犬には相応しい。
 なぜ生きているんだろう。そんなことを考える。そんなことを考えている場合ではないというのに、そんなことばかりが気にかかる。
 別に死んだっていいじゃないか。俺の一族は、滅ぼされた……滅ぼされた? 誰に?
 決まってる。遠野家にだ。退魔の一族として抜きん出た力を持っていたからこそ、滅ぼすべき化物に滅ぼされてしまった。
 過剰な免疫機構だった、ということだ。人類という種族に入り込んだ人外の異物を排除するために機能していたまではよかったが、それが人類それ自体に害を為すようになってしまった。
 だが、そこまでなってしまったものを、人類は滅ぼす術を持たない。だから、元来は異物であった化物がその機能を果たした。
 どうでもよく、どうしようもない。一族が滅ぼされなければならなかったとも思わないが、滅んだ以上は、そうなることを求められていたんだろう。
 人間のために戦っていたのに、結局は人間に滅ぼされた。滑稽といえば滑稽だ。
 免疫機構を滅ぼした人類もまた、時を置かず滅びることになるだろう。
 大局的な趨勢に興味はない。ともかく、そのせいで自分はこんなところでくだらない理由で生死を賭けて戦わされている。
 状況を認識できるだけの知識は親父に授けられた。親切心からではなく、単純に諦めさせるためだろう。逃げ場所がないとなれば、言いなりになるしかない。
 反発を感じないでもなかったが、かといって逆らってまでしたいことがあるわけでもない。自分の一族は負けたのだ。
 自分が生きる理由はなんだろう、と考える。ピンとこなかった。
 殺気を感じて、反射的に地面に伏せた。直前まで頭のあったところに、矢と呼ぶのもおこがましい生木の枝が突き立っている。
 厄介なのは、単純な目くらまし効果ではない。分解し、再構築することにより、ただの枝を鋼鉄の武器と等しくしてしまうことだ。
 振り返って自分の得物は、片刃の折り畳みナイフのみ。いかにも心許ない風情だが、武器の性能とは間合いや切れ味のみで決まるわけではない。
 腕立て伏せの要領で体を起こし、クラウチングスタートで駆け出す。踏み込みをあえて深くすることによって、初速度は遅くなるが、その後の爆発的な推進力で目標との距離を詰める。
 再び敵からの攻撃。この闇の中では、化物でも視界がきかないのか、照準が甘い。
 気配だけで目標の位置も読めないような化物なんて俺の敵じゃない。
 軽く首をひねってかわす。これ以上、好き勝手させる暇は与えない。
 一際強く地面を踏みしめ、跳躍。目標までの距離は、きっかり三メートル。十分だ。
 自由落下の勢いに乗せて、ナイフを振るう。目標の体に見えた、線に沿わせて。
 いつからだろう。その線が見えるようになったのは。遠野家に連れてこられて、何度か死にかけたときに見えた気がするが、普段はまるで見えない。ただ、その線をなぞれば、簡単に壊せるということだけはわかっていた。
 手応えは、ほとんどない。それほどあっさりと、目標の体を五つの塊に分解した。
 ナイフを片手に、深呼吸する。人間離れした速度を生み出す走行法は、当然ながらそれに見合った疲労をもたらす。鍛えもせずにやろうものなら、筋肉が破裂しかねない。
 がくがくと震える足では体重を支えきれず、腰が抜けたように地面に座り込んだ。
 ありとあらゆる気配が途絶えた。世界が死に包まれた錯覚。
 なぜだか酷く心地良い。生きてもいいと言われているような気がした。死んでもいいと言われてる気がした。誰もそれを阻みはしないということだけがわかった。
 恨みすらない相手を殺す。そうまでして生き延びたいのだろうか。
 アレは狂った化物だ。罪の意識を感じる必要はない。殺さなければ殺されていた。
 だが、そう仕向けたのは親父だ。あいつは別に、俺を狙ったわけではない。目の前に餌を放り出されたから食らおうとしたに過ぎない。
 俺はただの餌か。化物の餌になる程度の価値しかなく、それを否定することによってしか生きることができないというのか。
 報われない。救われない。そんな俺に殺されたんじゃ、あの化物だって、意味がない。
 なんのために生きるんだ。なんのために殺すんだ。誰もなにも得られないというのなら、どうして殺し合わなきゃいけないんだ。
 俺はどうして生きていたいんだ。
 涙が溢れる。悲しい、辛い、虚しい。
 殺してまで生き延びようとする浅ましい自分が、まったく生きる目的を持っていないことが死ぬほど悔しい。
 そうしてようやく、気づく。自分が殺しなんてしたくないことに。
 死ぬのが怖い。死ぬのが怖い。死ぬのが怖い。
 殺すのだって、怖い。死にたくないから殺すという矛盾に吐き気がする。なんの目的も持たない俺ですら死にたくないんだから、俺に殺される化物だって死にたくないに決まっている。
 考えるな、考えるな、考えるな。殺人鬼はそんなことを考える必要はない。生きるだの死ぬだの騒ぐ前に、まず殺す。それが殺人鬼だ。そこに理屈はいらない。
 生死など、一つのスイッチでしかない。スイッチがオンになっていれば生きている。オフになれば死んでいる。スイッチのオンオフは自分にだってできるし、他人にだってできる。
 ただ、一度オフにしてしまえば二度とオンにはできないだけだ。
 大したことじゃない。命なんて、使い捨ての道具だ。それが自分のものだと思うからおかしなことになる。命のオンオフを操作することができるのは、きっと神様だけだ。
 だとしたら、神とはなんと残酷なのだろうか。俺のような臆病ものにその選択権の一端を授けるなんて、正気の沙汰とは思えない。あの線は、生き物の死にやすい線は、いったいなんのためにあるというのか。
 神様は生き物なんて嫌いなんだ。全部死んでしまえばいいと思ってるんだ。そうでなきゃ、こんなに脆い世界を作り出すはずがない。
 ……ふと、気になった。
 俺の体にも線は見えるんだろうか。
 恐る恐る、目の前に手をかざす。
 漆黒の闇夜の中、見えるはずのないその線は、確かに俺の体にも穿たれていた。
 大声を張り上げて、泣いた。

 それがいつなのかは、すんなりと思い出せた。年齢で言えば十歳になったばかりのことだ。
「志貴はまた死にかけたんですか?」
 愚劣な民衆をあざ笑う女王のように、秋葉が嘲る。
「まあ、志貴は弱いからなあ……しょうがないんじゃないか」
 女王に追従する道化師のように、シキが哀れむ。
 俺はベッドに横たわり、口も開けずに天井だけを見ている。
 訓練で大怪我をした。まあ、命があっただけマシだろう。化物を殺すことはできたが、最後の反撃で内臓を傷つけてしまった。
 使用人部屋よりは若干調度の勝っている部屋。そこが俺の部屋だった。
「こんなことでまともな殺人鬼になれるんですか?」
 秋葉は俺より年下だが、その頃すでに、遠野の屋敷の一切を采配する立場にあった。
 番犬である俺の状態を確認するのも秋葉の仕事なわけだ。
「そう言ってやるなよ。志貴は人間なんだからな」
 お前たち化物とは違う、というのが、その頃の俺の矜持だった。
 いまにして思えば、なにがどれほど違うということもない。人間でもこういう手合いはいるし、化物にだってきっと、人間らしいやつもいるんだろう。
 他人と違うことに意味なんてない。人だろうが、そうでなかろうが、そんなものは何一つ決めてくれはしない。
 俺が俺を人間と規定したところで、誰もそれを保証などしてくれない。
 殺人鬼も化物も大差ない。少なくとも俺は、自分がなんなのかもわからなかった。
「なんのために生かしていると思っているんです。化物を相手に遅れを取るようでは、用を為さないじゃないですか」
 冷たい言葉だ。しかし、これこそが本来の秋葉の姿だ。
 シキがいる以上、秋葉は冷徹な遠野家の人間として振舞う。俺は常々、それこそが秋葉の地で、二人きりの時に見せる優しさのほうが偽物なんじゃないかと思っていた。
 たかが使用人である俺に心を開いているだなんて、どうして信じられたというのか。実際には、使用人だからこそ心を開いてくれていたんだけれど。
「まあ、まあ。こいつの教育は親父の趣味だしな。なんか考えがあるんだろ」
 どうでもいいじゃないかと言わんばかりにシキが笑っている。秋葉は溜め息を一つ残して、部屋を出ていった。
「早くよくなるように」
 それが精一杯の優しさだったんだろう。シキを差し置いて次期当主と決められてから、秋葉の周囲には敵しかいなかった。
 遠野家は素封家だ。不動産を中心とした財閥を築いている。その当主ともなれば、内にも外にも敵を作らずにはいられない。
 だからこそ、俺は生かされている。そんな秋葉を守るために、遠野家という化物の一族の血に連なる連中からも、それを狙う化物連中からも守るために、学校にも行かず人殺しの技術を磨かされている。
 別にそれでよかった。秋葉のために生きることができるなら、それで。
 なんの目的も持たずに生きることも、周囲と同じ行動を取ることで正常と思われることにも興味はない。
 ただ、死んでもいいと思えるものに命を賭けたかった。何かを殺しても守りたいと思えるものが欲しかった。
 それは、秋葉でなくてもよかったということだけど。俺がそれを欲しているという事実は変わらない。
 好きだの嫌いだの語れば楽になれるのはわかっていた。秋葉のことが好きだから守りたいんだと思えば、俺は自分を殺して、秋葉の敵を殺すことができるとわかっていた。
 殺せなかったのは、結局、そうして人を辞めるのが怖かったからだ。人ではないものになって秋葉を守る、それがどうしようもない矛盾に思えて仕方がなかったからだ。
 俺が生きたいと願うのは、俺が俺のままでありたいと願うからだ。そういうものを全部投げ出してまで生にしがみつきたいとは思えなかった。
「お前なら、出来たはずだろ? やられる前にやるぐらいは」
 取り残されたシキは、普通に真剣に、俺のことを心配しているようだった。
 もう顔だって思い出せる。だけどこの時の俺は、シキの顔を見ることもできなかった。
「殺しちまえよ。やっちまえばいいじゃないか。どうせ殺すしかないんだろ? だったら傷つかないほうが……」
「それでも僕は、それが正しいとは思えない」
 あの頃の俺は、まだ自分のことを僕と呼んでいた。そうだ。秋葉が俺のことを志貴と呼ぶように、あの頃はそんな些細なことですら、いまとは違った。
 まだシキにも殺されていなかった。殺人鬼にもなってなかった。
 まだ、幸せだった。そんな頃。
「正しいの正しくないのって、そんなもんになんの意味がある? お前は結局殺すんだし、殺さなきゃお前が死ぬだけだ。死にたくないんだろう? だったらそれでいいじゃないか」
 理屈じゃ人は救われない。少なくとも俺は生き延びられない。
 だからシキは殺せという。有象無象の化物の死よりも、俺の生のほうが大事だから。
 俺だって死にたくはない。生きているんだから、生きている以上、それをまっとうしたい。
 シキはいつだって優しかった。それが彼の自分勝手な優しさだったとしても。
「それに、お前が死ぬのは許さない。お前は番犬だ。遠野家のために、化物を殺す。そのために生かされている。勝手に死ぬ権利すらお前にはないんだ」
 一度か二度なら、死んだって生き返らせてやる、と言われていた。それが根拠のある話かどうかは知らない。
 ただ、命というのは、簡単な算数のように、足したり引いたりできるものなのか、と思ったことをよく覚えている。そんなことはありえないということを、俺は知っていた。
「僕は秋葉のために死ぬって決めたんだ。だから……お前のためには死んでやれないよ、シキ」
 どれほどシキが望んだとしても(決してそんなことは望まないだろうし、望んでいると言うわけもないけれど)、俺はそうすると決めていた。
 だからそれはもう絶対で、変わりようがない。
 でも、なぜ俺はそうすると決めたんだろう。
 シキはなぜか嬉しそうに微笑んだ。その笑みが歪み、引きつっていることなど、その時の俺には理解できていなかった。
「それでもいいさ。お前が生きてくれるなら、それで」
 死ぬ時のことを話しているのに、生きるもなにもあったもんじゃない。
 だけどシキは、本当にそれを望んでいるようだった。秋葉よりも接点が少ないはずの俺を、どうしてシキが心配するというのか。
 まだなにかあるのか。俺はまだなにか忘れているのか。
 もううんざりだ。これ以上の過去なんて思い出したくもない。
 言うべきことは言ったということなのか、シキは踵を返し、部屋を出ていこうとした。扉をくぐる前に一度だけ振り返り、こんな言葉を投げかけて、返事も聞かずに出ていった。
「いろいろ言ったけどな。俺にお前が殺せるとは思わないでくれよ?」
 俺を殺したのはお前じゃないか。
 記憶が混乱を始めた。

 秋葉が泣いている。
 真夜中の自分の部屋。ベッドで寝ていたら、音も立てずに扉が開いた。
 何事かと思ったら、兎の人形の長い耳を掴んで引きずりながら、秋葉が侵入してきた。
「どうしたの?」
 泣いているのはわかったが、どうして泣いているのかがわからない。ここのところ、俺は怪我なんかしてないし、秋葉にもなにかあった記憶はない。
 あるとすれば、戸籍上の親父に関係することだろう。シキを廃嫡して秋葉を後継者に据えてから、親父は明らかにおかしくなっていた。
 秋葉はなにも言わずにベッドに飛び乗ってきた。俺はとりあえず困って、頭を掻いてから秋葉の頭を撫でてやる。
「怖い夢でも見た?」
 首を振る。ただそれだけ。
 なにも答えてくれないんじゃ、慰めようもない。
 途方に暮れた。こんなところを親父に見つかったら、折檻じゃ済まない気がした。
「志貴が……兄さんが、死んじゃうって……シキが……」
 秋葉は兎を放り出して、抱きついてきた。必死に歯を食いしばり、嗚咽を噛み殺し、未来を否定している。
 シキめ。秋葉をいじめてどうする気だ。お前の能力は、こんなことのためにあるのか。
「大丈夫。俺は死なないから」
 当然俺は、そう答えるしかない。他になんと言えばいいのか。
 だからって、そんな言葉で納得できるわけがない。秋葉は泣きじゃくり、その泣き声に胸を締め付けられる。
 いまは二人きりなんだから、声を上げて泣いたっていい。もしそのせいで誰かに咎められたとしても、構うもんか。秋葉を泣かす奴は許さない。それだけが俺の誓いだから。
 例えそれがシキだろうとも。
「でも兄さんは、いつも怪我をしてっ……私のせいで……私のせいなのにっ……」
 二人きりの時は、兄さん。名前を呼び捨てにされるのと、なにがどれほど違うわけでもない。戸籍上の関係でしかない以上、兄さんと呼ばれるほうがくすぐったい気もする。
 秋葉の中では、その違いは大事なことらしい。
 それならそれでいい。秋葉のしたいようにすればいい。
 言葉だけじゃ泣きやみそうになかったから、頭を撫でるのをやめて、抱き寄せる。安心させるようにその背を優しく叩き、耳元で囁く。
「俺は、俺のためにやってるだけだよ。まあ、確かにしょっちゅう怪我もするけど、でも、それでもいいんだ」
「どうして……どうしてですか……?」
 秋葉まで、シキと同じことを言う。俺が怪我をするのがどれほどのことだと言うのか。
 ただの番犬じゃないか。そして本来は、秋葉とシキの敵だ。気にかけられなきゃならない理由なんてどこにもない。
 俺は今だって、秋葉を解体することができる。秋葉だけが、それを知らない。
「決まってるだろ? 秋葉が大事だからさ」
 それが俺の決り文句。いつからかも覚えていない。それでも俺は、いつでも秋葉を守らなければと思っていた。
 そう思うようになった、決定的な出来事もあったはずだ。しかしそれは、すでに些細なことと成り果てたのか、記憶の中にはなかった。
「いいんだよ。それは秋葉が気にすることじゃない」
 俺が秋葉を大事に思うことは、俺の勝手なんだから。
 その理屈がおかしいことはわかっている。それは、親父を殺し、俺を殺したシキの理屈と同じことだ。自分が選んだ幸せを相手に押し付けるだけ。
 タチの悪いことに、それが最善だという確信と共に。
 俺にしてみれば、それ以上の慰めの言葉を知らないだけだった。秋葉が自責の念に駆られているのに、秋葉のせいだと糾弾してもしょうがない。
 それに俺は、シキと同じで、秋葉のためなら、秋葉がどう思うかも関係なく、この命を投げ出すに決まってる。それは秋葉を悲しませるだろうけど、それでもそれ以外の選択肢なんてない。
 実際に、死んだのは俺だった。でも、あの時、秋葉は……秋葉は?
「どうして……どうして兄さんはそこまでしてくれるの……?」
 耳元で囁く君の言葉がこそばゆい。君の甘い言葉に、いますぐ絞め殺したくなる。
 どうして……どうして? それこそ、どうして君はそんなことを聞くんだろう?
「約束だから、だよ」
 約束したじゃないか……そう、あの時、俺たちは約束したじゃないか。
 君が俺を殺しかけた時、俺たちは約束を交したじゃないか。
 君が僕を殺すのは構わない。僕は君になら殺されてもいい。
 他愛無い約束だ。殺すべき化物に誓うには、あまりにも間抜けな約束だ。
 それでも俺は、それを誓った。俺は秋葉を殺さない。秋葉が俺を殺す、と。
 現実は逆転したけれど。君を殺したのは俺で、俺はまだ生きている。
 ……それなのに。君はどうして、俺に君を殺せと言ったのか。
「でも、だって、そんなっ……!」
 君にしてみれば、予想外の答えだったかもしれない。今だって子供だけど、もっと子供の頃の約束なんて、しかもそんな約束なんて、忘れていて当然だし、本気にしてるはずがないと思ったんだろうけど。
 俺は、約束は破らない。どんなに意に沿わない約束だったとしても、一度交した約束は絶対に守る。
 俺には他になにもないから。自分を自分として支えるものがないから。約束ぐらい、守らなければ、俺は俺を認められない。
 なにかを守るために守っているだけかもしれない。それでも秋葉を選んだのは、俺の意志だ。
「いいよ。いいんだ」
 それ以上は言わず、秋葉の頭を撫でる。
 白いうなじが見える。君が無防備にさらすその首に手をかけたくなる。
 その柔らかく滑らかな肌に爪を穿ち、歯を突き立て、恐怖と苦痛に歪んだ顔を眺めながら、食い尽くしたい。
 人も化物も大差ない。どちらでも構わないというのなら、俺が化物でもかまわないはずだ。
 俺は狂っている。自覚はある。あったからといって、どうということもない。ただ、そういうものなんだと受け入れるだけだ。
 どうせ世界なんて狂っている。いまさら俺が狂っていたってどれほどの意味があるというのか。
 何もかも狂ってしまえばいい。喜びながら君を殺せるほどに。
「イヤ……イヤ……ッ!」
 それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、何度も何度も繰り返す。
 このまま死んでしまいたいと思う。
 秋葉に思われながら死ねるのなら悪くない。ただ一瞬の快楽のために死んでみるのも悪くない。
 君の手に首を絞められながら死ぬ自分を想像する。君の手は震えながら、それでも力を緩めることなく俺の首を締め上げ、ついに俺は絶息する。
 想像の中の君は、なんだかとても、悲しげだった。
「そんなのはダメっ……ダメなんだからっ……!」
 理由のない、否定するがための否定。
 殺すために殺すのと似ている。殺すことができればそれでいい。
 鋭い鋭いナイフのように。ナイフは意志を持たない。ただ鋭いことに意味がある。
 それは自らを機能させようとはしない。鋭さは、その本来の役割を果たした時、損耗する。
 ただただ己を磨く。鋭く鋭く、何物をも切り裂くために、何物をも切り裂かずに。
 そんな刃になるのが理想だった。夢だった。
 すべてを断ち切る刃となって、なにものも傷つけない存在になりたかった。
 もう叶わない、血に塗れてしまった願いだけど。
 夢ぐらいは、抱いていたい。穢れた我が身だからこそ。
「兄さんは死んじゃいけないだからっ!」
 不意に秋葉は顔を上げ、俺が対応できずにいる間に、唇が重ねられた。
 秋葉はどうして俺のことが好きなんだろう。俺はぼんやりとそんなことを思う。
 音を立てずに、扉が開いた。
 シキがいる。

 乱暴に扉を開け放つ。
 これは俺の意志なんだろうか。秋葉の意志なんだろうか。そんなことを考えてみたりする。
 答えは出ない。あえて言うなら、俺の意志であり、秋葉の意志なんだろう。
 いま、俺たちが共有するのは殺意だけ。シキを殺してしまうために、そのために必要なものを求めている。
 俺は、命を。生き返ることを。シキに殺され、秋葉に操られ、木偶人形のようにふらふらと、死を否定するためのものを探している。
 秋葉は。……秋葉は。
 いまの俺たちにはなにもない。理性すらない。人として必要なものをすべてなくしてしまった。
 狂っている。世界ごと狂っている。これがタチの悪い冗談だったならと、泣きながら願う。
 でもこれこそが現実だ。狂っていることが正常で、狂っていないことが異常な、なにが正しいのかすらわからないこれこそが現実なのだ。
 部屋の中には少女がいる。
 殺意以外のものがわからない。それは感情などと呼べるものですらない。
 俺はいま、まったくもって人間ではなく、かといって化物などと呼べるほどまともでもなく、殺人鬼という言葉に相応しい、殺意の塊に成り果てていた。
 ただ殺すことを目的としている。殺すために殺そうとしている。
 昔からそうだった。俺にとって殺しとは、相手を死に至らしめることではなく、俺自身が生きることを意味していた。
 生きるためには殺さなければならない。生き返るためには、殺すことをしなければならない。
 理由も理屈もなく、ただ素直にそう思うことができた。
 それに、殺せば生き返ることができるということは知っていた。そうすればいいというだけであるなら、俺はそうするだろう。
 少女は眠っている。
 この少女は誰だろう、と考える。
 見覚えはない。いや、俺はこの少女を知っている。つい最近も会っている。だが、誰だかわからない。俺はこれからこの少女を殺すのに、最近会っただなんてのはあからさまに嘘臭いが、俺の記憶はそれが真実だと告げている。
 誰だろうか、とぼんやりと考える。記憶の中の俺は、俺の戸惑いとは関係なく、ゆっくり、慎重に歩を進める。
 俺が警戒するような相手じゃない。相手はただの少女だ。秋葉のように化物の血を引くわけでもない。
 慎重になっているのは、俺が怯えているからだ。殺意の裏側には、自分の心臓の音しか聞こえなくなるほどの緊張感が満ちている。人を殺すという異常な興奮が押し隠してはいるが、俺はそれの禁忌を明確に理解している。
 殺さなければならないのだから、そんな禁忌は押し隠してしまうしかない。
 邪魔なものはなくしてしまえばいい。俺が生きるために必要なもの以外はすべて否定してしまえばいい。
 そうすれば、そこにはなにも残らない。何もかもが死んでまったいらな世界が……
「……誰……?」
 少女が目をこすりながら起き上がる。眠りが浅かったのか、俺がよほど間抜けだったのか。
 返事をするほど間抜けでもなかった。ただ片手に握り締めたナイフを後ろに隠した。
「……? どうして明かりを点けないの?」
 見えないほうがいいからだ。
 俺は君の顔なんか見たくない。これから殺す相手の顔なんか見てしまったら、寝覚めが悪くなる。
 君はただ、殺されてくれればいい。それだけでいいんだ。
 少女は枕元のライトスタンドに手を伸ばし、灯りを点けた。
「志貴……ちゃん……?」
 名前を呼ばれてしまった。気持ちがぐらつく。
 名前を呼ばれてしまったら、俺は俺を人間だと認識しなければならなくなる。
 少女もまた、人間なんだと思わなければならなくなる。
 それは、よくない。それは、まずい。
 俺は生き返るために少女を殺さなければならないのに、殺せなくなってしまったら死んでいることを思い出さなければならなくなる。
 いま俺を生かしているのは、シキへの殺意、それだけだ。
 そしてシキを殺すためには生き返らなければならない。他ならぬシキの言説だが、実際、いまの俺には奴を殺すだけの力がなかった。
 見えないのだ。物の死が。
 死とは生者の概念だからこそ、死人となってしまった俺にはそれが見えないのだ。
 困った。どうにも殺せる気がしなくなってきた。
「志貴ちゃんだよね? どうしたの? こんな時間に」
 時間。時間か。真夜中だろうか? 真夜中のような気がする。
 昼間に殺されたことしか覚えていない。殺されてから少しして、秋葉に蘇生させられ、シキを殺しかけて、殺しきれなかったことは覚えてる。
 心臓を経由せずに血液を循環させるなどという馬鹿げたことがこの身に起こっている。生きているのではなく、生かされている……秋葉の力で無理矢理に。
 動いているだけだ。生きてもいなければ死んでもいない。
 生きているというのは、ただ動いていればいいわけではない。目的を持ち、それを果たすために行動することに根差している。死んでいなければ生きているというものではない。
 少女を殺せなければ、俺が生きているとは言えない。
「……私を殺しに来たのね?」
 ずきりと胸の傷が悲鳴を上げる。
 俺を殺した傷が痛みを訴える。
 死んだことがあるというのに、殺せるというのか。
 あの痛みを、恐怖を、少女に与えることができるというのか。
 できない。できやしない。あんな思いはもうたくさんだ。
 俺はもう二度と死にたくない。それなのに殺すのか? 殺せるのか?
 あの痛みと恐怖を、この少女に与えることができるのか?
「いいよ。殺して、いいよ」
 息苦しさが増し、呼吸が止まる。血の巡りの悪い頭が、殺さなければと囁いている。
 いつもなら聞こえていたはずの力の囁きがない。死を渇望する声が聞こえない。
 だとしたら、いまこの少女を殺すのは俺の意志か。俺の殺意は、この少女を殺すことを是としているのか。
 たどり着く答えは一つだ。
「イヤだ」
 殺さなければならない。
「イヤだイヤだイヤだイヤだ!」
 殺せなければ俺は死んだままだ。
「イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ! なんで! どうして! 僕は殺したくなんてない! なんで僕が殺さなきゃいけないんだ!? なんで僕が君を!?」
 殺さなければ秋葉を助けられない。
「殺したくなんてない! 僕は殺したくなんてないんだ! なんで……なんでみんなして僕に殺させようとするんだよ!?」
 殺したくなんてない。
 でも、秋葉は助けなければならない。
「僕が死ねばそれで済む話じゃないか!? 僕一人が死ねば、シキだって満足する! 秋葉だって、秋葉だって……!」
 俺に、人間に固執することはなくなる。
 秋葉は人間ではないんだから、それこそが正しい姿だ。
 俺がいるから、秋葉は弱くなってしまった。化物も殺せず、人も殺せない化物になってしまった。
 なにもかも俺が原因だ。俺は遠野家にとって災いでしかない。
 だったらいっそ、殺してくれ。俺は、俺がいることが俺の大事なものを傷つけているのには耐えられそうにない。
「みんな、志貴ちゃんが好きなんだよ」
 ベッドから降り、ゆっくりと近づいてくる。
 俺は逃げるように、首を振りながらあとずさる。
「みんな、志貴ちゃんに生きてて欲しいから、みんな、志貴ちゃんが大事だから。志貴ちゃんに生きてて欲しいと思う人がいるから、だから」
 だから、なんだ。
 少女は進み、俺は後退する。
 背中が壁にあたる。すぐ隣には扉があるのに、俺にはもう逃げ場がなかった。
「残酷かもしれないけど、そうしなきゃ志貴ちゃんは生きられないでしょ?」
 少女は足を止め、ひたと俺の目を見据えた。
 諦めでも納得でもなく。あえて言葉にするなら、理解だろうか。
 少女は、自分がそうしなければならないことを知っている。それがいいとか悪いとかは考えていない。ただそうしなければならないからそうする。
 自分がそうすることが当然だと知っている。
「なんでだよ!? 僕は……僕は別に生きたいわけじゃない! 生き返ってまで生きたいなんて思ってない! 折角死んだんだ! ようやく死ねたんだ! 死んだままにしてくれればいいじゃないか……!?」
 シキの言い分も、実はよくわかる。世界は腐っているし、壊れているし、狂っている。誰も彼もが敵で、自分を守るものは便りない自分だけ。誰かを守る余裕なんてないし、ただ生きることですら苦痛に思える。
 世界から解放されるには死ぬしかない。そして俺は、死ぬことができた。これ以上ないぐらい完璧に、シキに殺された。
 なのにまだこの世に留まっている。死ねば終わるはずだったのに、なにも終わらなかった。
 そうまでして俺をこの残酷な世界に繋ぎ止めたいのか。俺は死ぬことすらも許されないのか。
 クソ食らえだ。俺の家族を殺した連中が、どうして俺をそこまでして生かすのか。どうして俺はそんな連中に飼われてまで生きて、生き延びなければならないんだ。
「私は……私は、それでも、志貴ちゃんに生きてて欲しいって思うよ? だから……だから、死にたいだなんて言わないで? 志貴ちゃんが、誰か私じゃない人を好きでもいいから。私が志貴ちゃんの一番じゃなくてもいいから。それでも私は、志貴ちゃんにこの命をあげるから。だから……死にたいなんて、言わないで……?」
 少女は泣いていた。死ぬのが怖いから? そうじゃない。そんなことじゃない。
 俺も泣いていた。殺すのが怖いから? そうじゃない。そんなことじゃない。
 俺には少女は殺せない。少女も別に、俺に殺されたいわけじゃない。
 ただ、大事な人に生きていて欲しいから。大事な人が生きるために自分にできることがあるなら、躊躇わずにそれを実行する。
 子供っぽい思い込み。そうしたらどうなるかなんて考えもせずに、そうしなければならないと思ったことをする。
 少女は前進し、俺の手を取った。
 俺の手には、剥き身のナイフがある。
 少女は微笑みながら、それを自分の喉に突き立てた。
 その微笑みで、少女が誰だったのかを思い出す。
 琥珀さん?

「なあ、志貴」
 夕方の、屋根の上。
 危険だからと止められていたが、俺とシキは、しょっちゅうそこに登っていた。
「お前、秋葉のこと、好きなんだろ?」
 シキはこちらを見ない。ただ夕日が沈むのを眺めている。
「それはいいんだ。他の連中だったらどうかは知らないが、お前なら秋葉を任せられる。……なんか親父みたいなこと言ってるな」
 照れたように頭を掻く。
「秋葉もお前のこと、好きみたいだしな。兄貴としちゃあ寂しい気もするが……まあ、そういうもんなんだろうさ」
 本当に寂しそうなその背に、声がかけられない。
 俺はシキにとって大事なものを奪おうとしている。
「なあ、志貴」
「なんだい?」
 シキが胡座を掻いて座っているその横に、腰を降ろす。他に見るようなものもなかったので、二人で並んで、夕日を見ていた。
「お前、俺のこと……俺たちのこと、恨んでるんじゃないか?」
 捉えどころのないセリフ。感情が篭もっているわけでもない。
 それは、あえて消し去ろうとしたからそうなっただけに思えた。
「なんで?」
 俺も何気なく問い返す。とても、とても静かな気持ちだった。
「俺は、その、なんだ……お前の家族を皆殺しにした連中の仲間だろ? 仲間っつーかなんつーか……親父の息子だしな」
 めちゃくちゃなことを言っている。シキがシキの父親の息子なのは当たり前だ。
 それでも、その気持ちはわかった。
 というよりは、そう、シキは俺の気持ちを慮ってくれているんだから、わからないほうがおかしい。
「お前は、俺を恨んで当然だろう?」
 そうなんだろうな、と思う。シキの言うことは、きっと正しい。
 俺は家族を殺された被害者で、シキは殺した加害者の家族だ。
 ただそれだけだ。
「お前が殺したわけじゃないさ。僕が殺されたわけでもない」
 実行者という意味では、遠野家の者は誰一人関わっていない。襲撃を決定し、指示は出したらしいが、ただそれだけだ。
 もっともそれも聞いた話でしかない。真実は違うのかもしれない。
 違ったとして、なんだというのか。すでに起こってしまった過去のことだ。覆りようもないし、なにも変わらないのなら、どんな事実でも一緒だ。
 それでシキや秋葉を恨むには、俺は子供すぎた。覚えてもいない昔のことでは、彼らを恨む理由にはなりようがない。
 家族の記憶すら、すでにないんだから。顔も覚えていない家族なんて、家族という記号以上のものにはなりようがない。
「そりゃあまあ、そうだが」
「僕のことを恨んでるのはシキだろう?」
 一瞬硬直して、シキはようやく、こっちを向いた。
 なんだか情けない顔をしていた。
「なんでわかった?」
「秋葉が好きだから、かな。お前も好きだってぐらいは、わかるさ」
 それも、兄としてではなく、だ。
 それ自体はなんとも思わない。思いようがない。ああ好きなのか、と思うだけのことだ。
 問題なのは、俺やシキがどう思ってるかじゃない。秋葉がどう思うかだ。
「お前、普段は鈍いくせに、たまーにやけに鋭いよな」
「たまにね」
 普段からそうそう気など張っていられない。この話にしたって、秋葉が絡んでいるのでなければ、気づいたはずもない。
 疑問の余地もなく、俺には秋葉がすべてだ。
 だから、シキを傷つけることがわかっているのに、こんな話をしている。
「まあ、でも、そうだなあ。お前にならわかるんじゃないかと思ってたよ。なんとなくだけどな」
 それは嘘だ。シキはずっと前からそれに気づいていた。俺が気づいていることも知っていた。
 秋葉が泣きながら俺の部屋にやってきた時、初めて口付けを交した時、シキはそれを見ていたんだから。
 あの時、目が合った。あれからずっと、シキは俺を殺したがっていた。
 あれからだ。シキが少しずつおかしくなっていったのは。
「……なんでかなあ」
 再び夕日に向き直る。俺がいてもいなくても、きっと変わらない。
 俺は相槌も打たずに、ぼんやりと夕日を眺める。
「どうして俺は、秋葉の兄貴なのかなあ」
 答えはない。答えようがない。
「どうして、秋葉が好きな奴がお前なのかなあ」
 答えられない。答えたくない。
「どうして俺は……こんなに納得してるのに、お前に不満なんてなにもないのに、それでも許せないのかなあ……?」
 それは。……それは。
 別に、不思議なことでもなんでもない。俺がシキの立場だったなら、同じことを思っていたはずだ。
 認められるからこそ許せない。相手ならよくて、どうして自分はダメなのか。
 志貴とシキの違いはなんなのか。
 兄妹だからが理由じゃ、シキは救われようがない。それは彼が選んだことでも望んだことでもないんだから。
 それでもそれが理由なんだろう、と思う。秋葉は自分の中に流れる化物の血が嫌いで、憎んですらいるから、シキにも流れているそれが許せるはずがない。
 ああでも本当に。それにしたって、シキが悪いわけじゃないのに。
 原因は、俺にある。俺と秋葉にある。
「なあ、志貴」
「なんだい?」
 優しく尋ね返す。誰が悪いわけでもないのに、みんなが幸せになれない状況に不満をぶちまけるように。
「俺が死ぬ時は、お前が殺してくれよな?」
 記憶の中の俺は、答える言葉がなく沈黙を選んだ。
 それを眺めている俺は、どうしてこの兄妹は同じことを俺に頼むんだ、と思っていた。