言葉にならない。 終章 下編



 『兄さんは死んじゃいけないだからっ!』

 どうすればいいのか、と、いまさら躊躇する。
 ロアを殺す。それはいい。簡単なことだ。
 死の線を切り裂き、死の点を貫く。もしかしたらそれでも殺しきれないような化物なのかもしれないが、その時はその時だ。とりあえず、いま一度殺せればそれで問題ない。
 終わりを告げる警笛を鳴らす事は出来ても、始まりの祝福の鐘は鳴らすことができない。それなのになぜ戦うのか、だが。
 決めたはずなのに、迷う。これが俺の弱さか。
 秋葉がいなければなにも決められない。これが俺の選んだ強さか。
 なにもかもどうでもいいのなら、とりあえずやってしまえばいい。それしかない。
 屋敷の正門の前に立つ。本来なら扉の空いていない時間だが、乗り越えたところでどうということはない。防犯装置は一部だけだが解除しておいてもらってある。
 柵に手をかけ、跳躍の勢いを利用して体を引き上げる。
 軽く着地して、顔を上げた。
 玄関の灯の下に、黒いローブの男がいた。
「もう帰ってきてしまったんですか」
 本来なら、大声を張り上げなければ声も届かない距離だが、その声は静かに響いてきた。
「生憎と、アルクェイドが物分りのいい奴でね」
 ナイフを取り出して、構える。
 間合いにはまだ遠い。それはわかっている。
 それでも、これほどの距離があっても警戒させるだけのものを、ロアは持っている。そう直感した。
 八百年生きているというのも、どうやら伊達ではないらしい。
「真祖の姫君は、純真ですからね。それに、世界そのものから情報を引き出せるのですから、騙し討ちにはそれはそれは気を使うんですよ」
「なるほどな。そうやって自分の血を吸わせたわけだ?」
 ロアの声が響いてくるのと同様に、俺も特別声を荒げはしない。そんなことをしなくとも、向こうで勝手に聞き取るだろうと思ったし、事実ロアはそうしていた。
 距離は二十メートルといったところか。正門から玄関までこれだけの距離があるんだからバカバカしいが、向こうは玄関の灯を背負い、こちらは正門の支柱の灯を左右から浴びている。
 暗闇の中、二人だけが浮き彫りになっているだろう。おあつらえ向きの舞台だ。
「大体のところは聞いているようですね。真祖の姫君も困ったものだ。いつからそんなにお喋りになったのやら」
「お前ほどじゃないさ。なあシキ?」
 問いかけに、ロア……シキは沈黙した。
 ビンゴ、か。当たっても嬉しくもなんともないが。
「いつから気づいてたんだ?」
 口調どころか、声音までがらりと変わった。
 子供の頃とはまったく違う、だがシキが成長したならきっとこうなっていたに違いないと思わせる声だった。
「ネロが出てきたあたり、かな。アルクェイドの牽制に俺を追い出したんならまだしも、その牽制役にネロみたいなのが出てきたんじゃ辻褄が合わなくなる。それにそもそも、お前が本当にロアだったなら、秋葉の血を吸うだけで十分だ……なにもこの屋敷に来て、俺に挨拶する必要なんてない。後はまあ、勘だよ」
 あまりにも丁寧すぎる猿芝居が鼻についた、というのもあるが、それこそ勘だ。
 ロアを知らない俺がロアらしくないと感じたから、では理由になりようがない。
 最大の根拠は、ロアには秋葉に執着する理由はない。秋葉に執着する理由があるとすれば、それはシキだけだ。
「お前はいつだって自分の大切なものを守りながら壊そうとする……守ることと壊すことをいっしょくたにしようとしている。いずれ壊れるものだから、なのかどうかは知らないけど……秋葉を壊したのはやりすぎだよ、シキ」
 あの時も、そして今回も、シキは秋葉を壊すだけの存在だ。
 誰一人生かすことができないお前の業を悲しいものだと思う。
 親父を殺し、秋葉を殺し、そしていま一度、俺を殺そうとしているお前を悲しく思う。
 戦わなければならないというのなら戦おう。お前が俺を殺すというのなら戦おう。
 誰もそんなことは望んじゃいない。俺たちが戦うことに意味はない。
「クククク……まあ、なあ。お前の言う通りなんだろうさ。俺がロアとやらの魂を食らって生き延びることができたのも、結局はそれのお陰だ……奴はただ、真祖の姫君とやらに執着しているだけだった。もっとも、あの妄念は大したもんだったけどな。そんなもんじゃあ、俺を喰らえるわけがない。奴は好んで化物の血を引く家系を選んだようだがね……化物の血が持つモノを甘く見てたってわけだ」
 そしてシキは、それを制御している。化物の血が持つ力を、自らの意志の元に従えている。
 だからこそ狂った。……そうだ、そういうことだ。
 化物の血がもたらす破壊の力を制御するために、シキは化物になった。力を制御するためにその本質を知り、その本質故に力に取り込まれた。
 シキなのか化物なのか、その区別はもはや意味をなさない。
 目の前にいるのは、シキであり、化物だ。
「お前に殺されてからいままで……長かったぜ? 死ぬってのはこういうもんかと思ったことを覚えているよ……もっとも、それ以外はなにも覚えちゃいないが。お前も昔、あそこに行ってきたんだろうなあ。暗くて冷たい、なんてよく言われるがね……暗いとか冷たいとか、そういう感覚すら存在しない黄泉の世界で、俺は力を手に入れた。今度こそ秋葉を殺せる力をな」
 死はお前を何に変えてしまったんだろう。
 それとも、死をもってすらお前を変えることはできなかったんだろうか。
 何かが悲しい。おそらく、シキがシキであることが、悲しい。
 結局お前は、何にもなれずに、化物のままだ。
 お前が俺に哀れまれるだなんて、本末転倒だろうに。
「いや……違うな。俺はお前を殺したかったんだ。秋葉に好かれていたお前を殺したくてたまらなかったんだ。親父に力を認められ、秋葉の抑制者に選ばれたお前が。俺が手に入れるはずのものをすべて奪ったお前と秋葉を殺したかったんだ」
 憎しみの篭もった声音で、親しみの宿った眼差しを裏切っている。
 シキはなにがしたいのか、なんて問いには意味がない。そんなことは、シキにだってわかっちゃいない。
 理由なんてどうでもいい。動機なんて関係ない。
 ただ、目の前に殺したくなる相手がいる。それだけが大事なことだ。
「だから秋葉を殺したのか」
 乾いて硬くなった声で問い質す。理由はどうでもいい。それはこっちも同じ事だ。
 その結果、なにをしたのかだけが重要だ。
「あいつはな、完璧だよ。完璧すぎる。遠野家ってのは代々、長子相続を続けてきた。血統崇拝なんてバカらしいもんじゃないぞ? なにしろ、化物の血があったんだからな。それを持ってなけりゃ、当主になって分家連中を抑えることもできない。
 だが、あえて長子だったのには、それだけの力を持つ化物を序列づける方法が他になかったからだ。物理的な破壊力を比較したって意味はない。頭ん中をいじくり回せるようなやつが必ずしも強いとは限らない。発現する能力がわりとバリエーションに富んでいたせいで、遠野家の始祖も困ったんだろうさ。その結果、長子存続の制度ができた。
 廃嫡されたのは俺が初めてさ。それだけ秋葉の能力はずば抜けて強かった。俺としては、納得いかない部分もあるがね……逆らったところで殺されるのは目に見えてた。それぐらい、あいつの力は圧倒的だった。いつもは何かとうるさい分家連中ですら、満場一致で俺の廃嫡と秋葉の後継を認めやがったぐらいだからな」
 鬱屈したものがあったんだろう。家だのなんだの、そんなものには興味もなかっただろうが、自分が否定されることに耐えられる者はそう多くない。
 遠野家において、秋葉が認められるということはシキが否定されるということだった。そうした土壌の上で、シキは父親を殺し、存在自体を抹消された。
 呪われし忌み子。ただ疎まれるだけの存在。
 それがシキ。
「それなのに、お前のせいで腑抜けになっちまった」
 その瞬間、眼差しにも声音にも掛け値なしの憎悪が宿った。
「詳しいことは俺も知らされなかったけどな。お前、遠野家に引き取られてすぐ、秋葉に殺されかけただろう? それ以来、秋葉はなにも殺せなくなっちまった。たかが使用人の一人や二人……殺しちまって殺せなくなるってんならまだしも、だ。殺し切れなかったってのに、なんでそんなことになるんだ? わけがわからん。
 それでいて、能力の制御力は増したらしいしな。親父をして、秋葉のアレは制御ではなく支配だと言わしめるほどに。……なあ、志貴よ。実際のところ、なにがあったんだ?」
「それは……」
 シキが言った以上のことはなにもない。俺は秋葉に殺されかけて、秋葉はなにも殺せなくなった。
 力が制御できずに俺を殺しかけたから、秋葉は力を制御することに注力した。
 殺さないために力を制御するようになったんだから、殺せなくなって当たり前だ。
 そう考えれば、あれこそが俺と秋葉の始まりだったんだろう。殺すだの殺されるだの、そんな血生臭いものがなければ始まりもしないんだから、俺の人生というものはそういう風にできているらしい。
「まあ、言いたくないならそれでいいが。俺にしても、それにこだわりがあるわけでもない。いまさら全部、昔の話だ。俺はお前に殺されたことを恨んでなければ、秋葉が家督を継いだこともなんとも思っちゃいない」
 そんなバカな、と俺が否定しようとして、その本末転倒に気づいて沈黙を選ぶ。
 シキがなんとも思っていないというなら、そうなんだろうと思うしかない。
 それにそれは、俺に否定できた義理もない。秋葉に殺されかけておきながら、秋葉以外に大切なものを持っていない俺には。
「それにしても志貴、お前、なにしに戻ってきたんだ? 秋葉は死んだんだし……ああそうか、俺を殺しに来たのか」
 すっとぼけてるのか、それとも本気で言ってるのか。シキという男は、冗談を言っても冗談に聞こえないところがある。
「お前を、というよりは、ロアを、だったんだけどな。まあ、いいさ。お前がロアを食っちまったってんなら、お前を殺すことにするよ」
「なんだそりゃあ? お前、いつから殺人鬼に宗旨変えしたんだ? 普通なら、そうだな、親友同士の感動の再会とか、そういうシーンだろ?」
「握手ついでに殺されたんじゃたまらないな」
「そりゃお前のことじゃないか」
 違いない。いまだに臨戦態勢のままなんだから。
 それに俺は、正確にはロアを殺すために戻ってきたわけじゃない。秋葉を殺した奴を殺すために戻ってきたんだ。
 だから、シキを殺したって間違いじゃない。秋葉を殺した吸血鬼を殺すだけだから。
「まあ、いいけどな。どうせ俺も、お前を殺そうと思ってたんだし」
 間合いはそのままに、シキも構えに入った。
 とはいえ、両手の爪をいびつに伸ばし、鉤爪と呼べるほどに硬質化させただけだ。いまのシキは、ロアの吸血鬼としての能力に加えて、シキが本来持ってた能力も使える。もっとも、シキの能力がなんなのか、実はよく知らないが。
 対等な条件で戦うのは、実は初めてかもしれない。俺が殺された時は不意打ちだったし、俺が殺した時は、化物の力を封じるあの地下牢だった。
「存在の死を視る能力、か。そいや、こうやって普通に戦うのは初めてだったな」
 心なしか、期待に湧いた声。こんな殺し合いに喜びを見出してしまうんだから、シキの業はかなり深い。
 もっとも、それは俺も同じことだが。
「対戦成績は、一対一。次で決勝点だ」
「珍しく殺る気満々だな。そうそう、それぐらいじゃなきゃあ、殺し甲斐がないと思ってたところだ……せいぜい、楽しませてくれよ?」
 そう言ってシキは跳躍した。
 距離は二十メートルもある。一度の跳躍でこちらに届くものではない。
 それが常識的な判断というものだ。少なくとも一度か二度は地面に降りて、跳躍を繰り返さなければならないと考える。
 だが俺は、迷わず横っ飛びに避けた。
 案の定、シキは地面と水平に飛んで、俺が元いた場所を切り払い、正門の鉄柱を輪切りにした。
 吸血鬼だから、というわけでもないが、空を飛べる化物はそれほど少なくはない。シキの場合は、飛ぶというよりは落ちないというだけのようだが、最初の跳躍で得た推力をそのままにここまで到達したのだから、地味に見えてなかなか厄介な能力といえる。
「うまく避けたな。まあそれぐらいじゃないと面白くないが」
 言いながらシキが振り返るのが早いか、間合いを詰めた俺の繰り出したナイフが早いか。
 シキはその鉤爪でナイフを受けようとしたようだが、俺は爪ごとシキの右腕を切り飛ばした。
 本当は、首を狙っていたのに、寸前でかわされた。そう簡単に勝たせてもらえるとは思っていないが、このタイミングでかわされるとなると、厄介だ。
「そうか、そうだったな。お前の攻撃は受けちゃいけないんだった。相手の防御ごとぶった切るってんだから、便利な能力だよなあ」
 宙に飛んだ右腕を素早く左手で掴み、シキは追撃を避けるために後ろに跳躍した。
 追える、と思って跳躍しようとしたその前に、シキが右腕を振るうのが見えた。
 前ではなく、横に跳躍したのは本能の為せる技だった。
 シキが振るった右腕から飛んだ血液が、弾丸のように地面を抉った。
「これも避けちまうか。参ったなあ。なんだその出鱈目な体術は。俺も自分を化物だと思ってるがな、お前のほうがよっぽど化物じみてるじゃないか」
 言いながら、シキは右腕を切断面に押し付ける。たったそれだけで何事もなかったかのように接合してしまった。
「そんな出鱈目な体しといてよく言うよ。少しは人間らしく、切られた腕は切られたまんまにできないのか?」
 軽口を叩きながら、姿勢を整える。先ほどと立ち位置はほぼ入れ替わっている。いまは俺が屋敷を背にし、シキは玄関を背にしている。
 常識外れの跳躍力を別とすれば、シキの能力は血液の硬度を操るようだ。いまのように飛び道具として使うこともできれば、おそらく皮下で硬質化させて盾のように使うこともできるだろう。その間は血流も阻害されるだろうが、それが身体能力に影響を与えるとも思えない。
 それでは俺の攻撃は防げないが、それはシキも承知の上だろう。というよりは、承知させてしまった、が近いのかもしれないが。
 そうなると、厄介だ。俺にはこのモノの死を視る能力と、鍛錬によって得た体術しかない。体術がどれほど化物じみていたところで、まずはシキに手が届かなければならないし、さらにはそれをシキの体に浮かんで見える死の線に沿わせなければならない。
 ただ切りつけるだけなら簡単だし、実際、右腕を切り飛ばすことすらしたが、それではなんの効果も発揮しないこともはっきりした。
 さて、どうしたものか。
「すごいな。これでも、ロアを食って強くなってるはずなんだが。これでようやく対等なんてな……秋葉も恐ろしいが、お前のほうがよっぽどだ。さすがは秋葉を殺すために生かされた退魔の一族の生き残り。抑制者として機能するには十分だな」
「俺は……俺はやはり、そのために生かされていたのか」
「ん? 知らなかったのか? ……ああ、そうか、なるほどな。親父のことだから、秋葉を守るために、とか言ってたのか? まあ、それも嘘じゃあないんだろうが。お前の本当の役割はな、志貴。秋葉が暴走した時、これを止める……殺すことも含めてな……そのための抑制者なんだよ」
 ずっと、そうなんじゃないか、と思っていた。
 秋葉を守るためだけなら、シキがいた。あえて敵方である俺を引き取ってまで訓練し、育てなければならない理由はない。
 当然、それ以外に目的があるんだろうと思っていた。でもまさか、そんなことのために。
 信じたくなかったというのが本音だ。つまり、俺はそれを、その可能性のことを知っていた。
「俺達同族じゃあ、秋葉は止められない。対立ぐらいは出来るかもしれないが、対抗する事が出来ない。日常的に秋葉に対して牽制を加えるために、お前は生かされたのさ。いや、もしかしたら、秋葉が生まれた時から、そうすることを決めていたのかもしれないな。秋葉を自分に忠実な手駒として育てながら、きっちりそれを無力化する方法も探していただろうし」
「毒と薬を手に入れて、遠野本家を維持する気だったんだな?」
「そんなところだろうなあ。もっとも、あの親父殿のことだ。いつからそんなことを考えてたかなんて知れたもんじゃないし……詰めが甘かったから俺に殺されちまったけどな」
 最初は、そんなつもりはなかったのかもしれない。
 しかし、俺が直死の魔眼の能力に目覚めて、欲が出た。
 いま思えば、俺が訓練を施されるようになったのは、この能力に目覚めてからのことだ。それまではごく普通の子供として育てられていた。
 秋葉の能力が目覚めたのも、俺を殺しかけた時、つまりは俺が魔眼の能力に目覚めた時だ。あの瞬間、遠野槙久は究極の武器を二つも手に入れた。
 俺がシキの廃嫡を知っているということは、それは俺が遠野家に来てから起こった出来事だからだろう。そう考えると、いろいろと辻褄は合う。
「だからこそ俺はお前を殺さないといけない。秋葉をいぢめていいのは俺だけだ」
「俺は秋葉を殺さない」
「そうだろうなあ。そうだろうとも。ところで志貴よ。不思議に思ったことはないか?」
「なにをだ?」
「お前、なんで秋葉に惚れてるんだ?」
「……は?」
「いま俺が言っただろう? お前は、秋葉の抑制者だってな。本来は、秋葉を殺すための存在であるお前が、なんで秋葉に惚れてるんだ?」
 俺が、秋葉を好きな理由?
 そんなものは決まってる。俺は秋葉を……だが秋葉は、俺を……
 俺と秋葉の始まりは殺し合い。憎み合う理由にはなっても、愛し合う理由にはならない。そして、俺と秋葉の関係は、まさしくその瞬間に決定付けられている。
 そう記憶している。
「お前は、秋葉に惚れてるくせに、なんで惚れてるかわからないだろう? 簡単なことだよ、志貴。親父がお前の頭ん中をいじくったのさ。お前が秋葉に惚れるように記憶を造り変えて、体のいい番犬にしたんだよ。お前は秋葉のためにと体を鍛え、その実秋葉を殺すために体を鍛えていたわけだ。あの悪趣味な親父のやりそうなことじゃないか」
 だが、しかし、俺は、それは。
 それを疑ってはいけない。
 俺はそれを疑うことをしてはいけない。
 俺は俺を否定するそれを肯定してはいけない。
 俺を殺人鬼たらしめているものを否定してはいけない。
 それは死と同意だ。
 俺はまだ死にたくない。
「お前はずっと、秋葉を殺したかったんだろう?」
 どくん、と心臓が跳ねる。
 秋葉との思い出のすべてが錯綜する。
 秋葉の首に手をかけた白昼夢を想起する。
 秋葉の断末魔を妄想する。
 ああ、そうだ。どうして俺は、そんな簡単なことを忘れていたんだろう。
 俺はずっと、秋葉を殺したいと思っていたじゃないか。
「お前は、秋葉を殺した俺が憎かったんじゃない。羨ましかったんだ。そうだろう?」
 否定できない。否定できない。
 俺が真実秋葉を殺したいと願っていたなら、その通りなのだ。
「秋葉のためじゃなく、自分のために俺を殺したいだけだ。獲物を横からかっさらわれて気に入らないだけだ。クク……クククク……カカカカカカカ!」
 哄笑が響き渡る。
「不様だなあ志貴よ! 直死の魔眼を持つ殺人鬼の癖に、本当に殺したい奴を殺せなかっただなんてなあ!」
 それは、事実上の勝利宣言だった。
 秋葉を殺した者こそが勝者になる、これはそういう勝負だった。
 俺とシキはずっと、それを競い合っていたのだ。
「俺の勝ちだ! ようやく! ようやくだ! 俺はお前に勝ったぞ!」
 異常なほどの興奮だった。
 秋葉を殺せたことがそんなに嬉しいのか。
 俺に勝ったことがそんなに嬉しいのか。
「俺は……俺はずっとこれだけを願っていたんだ……! 志貴、お前に勝つことだけをな……っ!」
 なぜ?
 なぜ、シキが?
 俺のなにがシキにそこまでさせるというのか。
「わからないか!? わからないだろうなあ! わかるはずもない! ……これは、ただの逆恨みなんだからな」
 狂的な冷静さ、とでも言えばいいのだろうか。
 不意に静けさを取り戻したシキは、いきなり攻撃を仕掛けてきた。
 先ほどよりも低く、地を這うような跳躍。
 今回は先ほどよりも距離が近い。能力を使わなくとも一度の跳躍で十分接敵可能だ。
 今度は俺も前に跳ねた。逃げていては埒があかないし、体力を消耗するだけ不利になる。この状況でシキに勝つには、積極的に仕掛けるしかない。
 シキは右手の鉤爪を突き出した。
 俺はそれを紙一重の見切りで左に避けた。
 俺が振るったナイフを、体を捩って避けた。
 行き過ぎたと思った瞬間、シキは前転して着地、急制動をかけた。
 追撃を受けると判断して、さらに一歩踏み込んで跳躍を持続させる。
 シキはそれにぴったりと追いついてきた。
「動きが鈍いぞ?」
 振るわれた鉤爪をナイフで受け、だが受けきれずに殴り飛ばされて、地面を転がる。
 シキの鉤爪は数本切り飛ばしていた。しかし受けきれなかった鉤爪は、しっかりと脇腹を抉っていた。
「チェックメイトだな、志貴」
 シキの声が玲瓏と響き渡る。
 そしてシキは、追撃と止めの刃を振り上げた。

 歌が聞こえた。
 遠く遥かな彼方から。
 その歌は、確かに聞こえた。
 それはなにかの間違いじゃないかと思った。
 しかしその歌は、確かに聞こえた、否、聞こえている、と俺は確信していた。
 歌っているのは誰だろう。俺はそれが誰なのか知っているのに、それが誰なのか思い出すことができないでいる。
 俺が殺した少女だ、と思った。
 名前を思い出すことができない。しかし琥珀さんと瓜二つの少女が歌っているのだ、と思った。
 なぜ、歌っているのか。なぜ、聞こえてくるのか。
 お前は俺が殺したじゃないか、と思った。
 亡霊だろうか。それとも、俺が死んだから、迎えにでもきたんだろうか。
 俺はもう死んでしまったんだろうか。
 いやだいやだいやだ。俺はまだ死にたくない。俺はまだ死ねない。
 俺は殺されるために生きているんじゃない。殺すために生きてるんだ。
 死ぬのはかまわないが殺されるのは我慢ならない。
 それなのに、この歌は……
 ああ、なんていい気持ちなんだ。
 このまま死ねるのならそれでいいんじゃないかと……
 そう思った。

「邪魔をするのかっ、琥珀ぅっ!」
 振り上げた鉤爪を振り下ろしもせずに、シキは屋敷に向かって吠えた。
 歌は幻聴ではなかったらしい。そして、歌を歌っているのは琥珀さんらしい。
 だが、たかが歌だ。シキはなぜその手を止めたのか。後一歩踏み込んで、軽く鉤爪を振るうだけで俺の首は刎ねられていただろうに。
 これはチャンスだ。
「貴様はいつもいつもいつもいつも! 姉妹揃って俺の邪魔ばかりしやがる! あの時だってそうだ! せっかく志貴を殺したってのにわざわざ生き返らせやがって! 貴様、そんなに志貴を苦しめたいのか……っ!?」
 その言葉には、憎悪があった。
 俺と対峙した時とは異質な憎悪があった。
 表現するには適切な言葉が見当たらないが、あえて言葉にするなら、憎しみだけの憎悪だった。その裏側に本来あるはずの別の感情がまるで存在しない、ただの憎悪だった。
 それに……俺を殺そうとしているのはシキなのに。
 歌は止まない。
「クソッタレがっ! 志貴の次は貴様を殺してやる! 秋葉に頼まれて貴様だけは生かしておいてやるつもりだったが、やめだ! 俺の邪魔をするなら例外なく殺してやるっ!」
 シキの憎悪が物理的に作用しているかのように、風が鳴った。
 俺はナイフを構えて、一息に突き出した。
「お前は黙って死んでいろ!」
 振り向き様、シキに薙ぎ払われ、弾き飛ばされる。
 油断をしている、とは思わなかったが、即応されるとまでは思っていなかった。わずかなりとも屋敷に意識を向けているのなら、必ず隙が生まれると思ったが、甘かったらしい。
「……ほう。もう血を止めたか。まったくもって化物だな、志貴よ。任意に出血を止めるなんて、手品みたいじゃないか」
「このぐらいは、化物と戦うには必要だからな」
 シキの言うことは、正しい。
 化物と対峙するためには、どうしたって化物のような力を持たなければならない。
 そうして化物じみた力を持ってしまえば、それはもう化物と区別することはできない。
 化物を殺す化物だったとしても、それは化物でしかない。
 退魔の一族は、故に人里離れた山奥に住んでいたという。
 迫害といえば迫害だが、本当にそうだろうかという疑念もある。
 好んで化物を退治する連中がいたのか、化物を殺す以外能のない連中がいたのか、どちらが起源だったのかはわからないが、どちらだったとしても大差はない。人間としては十二分に失格だろう。
 であれば……遠ざけられるのもまた、必然だ。
 もちろん、たまたま化物を殺すこともできる連中がいただけかもしれない。人の世に紛れ住む化物など、ただの化物より始末に負えない。
「なんだかなあ……急に弱くなっちまったな、志貴。秋葉を殺せなかっただけだろ? そんなに殺したかったなら殺しゃあよかったのに。お前にはそれができたんじゃないのか?」
 それは、そうだ。俺はこの世でもっとも秋葉を殺せる場所にいた。秋葉を殺すためにそこにいた。
 それなのに殺されてしまった。目的を奪われてしまった。
 それはもう取り返せない。それはわかっている。わかっているからこそ、虚脱感は拭い難い。
 そうだ、ロアを殺す気になれなかったのだって、結局はそういうことだ。
 奪われたものがあまりにも大きすぎて、身動きが取れなくなってしまった。
「俺は……俺は」
「愛してたんなら殺しゃあよかったんだ。そのために愛してたんだろ?」
 シキの言葉などではなく、その事実こそがもっとも心を抉った。
 俺はずっと、秋葉を殺すために愛していた。
 それが正しい。それこそが正解だ。
「そうだな……そうだ……うん、そうだ。ありがとう、シキ。ちょっと……ちょっとだけ、わかったよ」
 気分がいい、というのはこういうことを言うんだろう。
 俺はずっと、ずっとそれを認めたくないと思っていた。
 事実、認めないできた。
 しかしそれは、認めてしまえばなんということもなく、すんなりと納得できる明快さを持っていた。
 だからこそ否定してきたんだろう。それもわかる。
 俺はずっと……こんなにも秋葉を殺したかったんだな、と得心した。
 悟ってしまえば、なんということもない。なにを思い煩っていたのかとバカバカしくさえ思う。
 俺は所詮殺人鬼。誰よりもわかっているつもりで、誰よりも認めたくなかったのは俺だ。
「お礼に殺してやるよ。いや、殺させてくれ。俺にはそれぐらいしかできそうにない」
「殺させてくれ、か。……いいぜ、やろうじゃないか。殺し合いをしよう。命を賭けた意味のない殺し合いを。殺すために殺す殺し合いこそが俺達にはお似合いだ」
 にやりと笑ったシキは、本当に嬉しそうに笑っていた。
 そしてきっと、俺も笑っている。心の底からの笑みを浮かべている。
 意味のない命のやりとり。狩るか狩られるか。化物からの一方的な搾取を拒否するために生み出された対抗装置として、化物と戦う。
 俺が戦う理由はそれこそが相応しい。
 ああ、本当に……気分が、いい。
 いまなら神様も殺せそうだ。
「次で、最後だ。……そうだろ?」
 次の斬り合いで、決着だ。それは予感ではなく確信だった。
 シキはまだなにか隠し玉を持っているかもしれない。あってもなくても、次で決着するだろう。
 これほど気分が高揚していることは滅多にない。俺は死ぬかもしれないが、シキは殺すだろう。シキを本当になかったものにしてしまうだろう。
 シキに殺されても、俺はそうはならない。ゆっくりと朽ち果てるように、人々の記憶から消えていくだけだ。
 ああ、なんて綺麗なんだ。
 そのために俺は生きているんだ。
 なにもかもなかったことにするために、俺自身はそうはならずに。
 そういう傲慢な生き様こそが俺にはお似合いだ。
 動いたのは、果たしてどちらが先だったか。
 シキは、バカの一つ覚えのように鉤爪を繰り出してきた。
 俺はそれを受けずに叩き切り、その勢いのまま切り上げて、二の腕までを切り裂いた。
 シキは委細構わず、無事な腕で反撃を加えてくる。
 身を捩ってかわし、そのまま回転して切り裂いた腕とは逆の胴を狙う。
 これは鉤爪で受け止められた。シキは器用にも、鉤爪で刃を挟み込んだのだ。これでは切りようがない。
 シキはそのまま蹴り上げて来た。俺はその足に乗るように跳躍し、ナイフを軸に前転してシキの背後に回った。
 ナイフはシキに絡め取られたままで使えない。他に武器はない。
 俺はあっさりとナイフを手放し、地面に落ちているシキの鉤爪を拾い上げた。
 シキは振り返りながら、切り裂かれた腕を振るった。血が襲い掛かってくる。
 身を低くしてこれを避け、伸び上がる勢いを利用してシキの脇腹を切り上げた。
 届いた。
 そのまま、反対の肩口まで切り上げる。
 凄絶に血が吹き上げた。
 シキは二つになって地面に転がった。
「やっぱりなあ……俺の負けだな、志貴」
 下半身どころか、上半身すら半分失いながらも、シキは明瞭に言葉を紡いだ。
 否、実際には喋れてはいないのかもしれない。しかし俺には、シキがなにを喋っているのか、喋ろうとしているのかがわかった。
「俺が負けるのは知っていた。俺が勝てないのは知っていた。それでも……それでも一度は勝ってみたかった。お前を負かしてみたかった。……それだけなんだ。本当に」
 そう語るシキは、親父を殺す前のシキだった。
 秋葉と三人で仲良く遊んでいた頃のシキだった。
「俺はずっと、憧れていた。化物のような力を持ちながら化物にならなかったお前に。俺は化物になっちまったが……これでも悪あがきぐらいはしたんだけどな……お前は力に目覚めてもそのままだったし、だからこそ秋葉にも気に入られたんだろうな」
 シキの下半分が持っているナイフを拾い上げる。
 肩で息をしながら、痛む脇腹を押さえる。
「俺の中でロアが目覚めたのは、そう、お前を殺した時だ」
 シキは唐突に、緩々と語り始めた。

 最初はただの違和感だったという。
 なにかをしようと考えている時、破壊的な考えに遷移し、その様を想像して喜んでいる自分。
 秋葉を見かける度に、殺し方を考える自分。
 秋葉に関わるものすべてを殺したいと考える自分。
 本来のシキはそこまで破壊的でも殺戮的でもなかった。遠野家の力(遠野寄りの力、あるいは遠野寄りの血と呼ばれているものだ)に引きずられて、人より多少はそういう傾向はあったかもしれないが、秋葉を殺したいと思ったことはなかったという。
 段々と壊れていく自分。
 なにもかもが恐ろしかったという。理由もなく湧く殺意を必死になって抑えていたという。事が事だけに、誰にも相談出来なかった……狂人扱いされたが最後、抹殺されることは目に見えていたから。
 遠野家という家に生まれてしまったのがシキの不幸の始まりだった。遠野家という化物の血を引く家系にさえ生まれなければ、例え狂ったとしても殺されることはない。
 もっとも、精神病院で一生を過ごすなんてのも、シキにしてみれば、死ぬのとそう変わらないだろう。
 ロアに選ばれた時点で、シキは選択肢を奪われてしまった。
 親父を殺したのも、俺を殺したのも、秋葉を殺しかけたのも、実際にはロアだった、ということらしい。その頃のシキはもう、ロアに記憶を奪われ、体の自由さえ奪われ、頭の中の牢獄に閉じ込められていた。
 そして、俺はシキ=ロアを殺した。
 シキの反撃が始まったのはそこからだ。
 一つの肉体に二つの魂。そもそもが不自然だった状態に、不均衡が生じた。
 ロアの魂は圧倒的に弱っていた。しかしシキに無条件で肉体を返すほどではなかった。八百年を生きた吸血鬼の魂は、それだけの力を持っていた。
 最終的に、シキはロアの魂を吸収して、吸血鬼となって蘇った。
 それが吸血殺人事件の始まりだった。

「吸血鬼ってのはふざけてるな……こんなになっても死ねやしない。だらだらしてりゃあいつの間にか死ねると思ったのに……そうもいかないらしい」
 これが人を殺した罰ってやつなのかな、と神妙な顔でシキは言った。
 すでに切断面からの出血は止まっている。しかし再生はしない。死の線を断ち切った影響だろうか。
「なりたくてなったわけでもなけりゃあ、殺したくて殺したわけでもないが……まあ、やっちまったもんは仕方がない。俺が生きるためには食わなきゃならなかったし、食い続けなきゃならなかった。それだけのことだしな」
 それは食事と呼ばれるべき行為で、殺人に分類されるものではない。
 牛や豚を喰らうか人間を喰らうかの違いでしかない以上、それが罪として認定されることは異常だ。
 しかし、喰われる側の対抗装置として俺が存在している以上、この結末もまた当たり前のことなんだろう。
 シキは人類の天敵となってしまった。それが答えだ。
「志貴よ」
「なんだ?」
「秋葉は生きてるぞ」
 思考が止まる。呼吸が止まり、心臓の鼓動すら止まった気がした。
「まさか……お前が殺したんだろう? 琥珀さんだって、死んだって言ってた」
「秋葉が俺なんぞに殺せるものかよ。確かに血は吸ったさ……あれも結局、俺が自由になったことに驚いてたからできただけだけどな。秋葉は化物殺しの化物だ。一種の突然変異だな。秋葉は殺人衝動を持たない……俺とは違う。あいつは純粋に、遠野寄りの血に対してのみ反応する。これは俺の予想でしかないが、あいつは吸血鬼化なんてしない」
 でも、じゃあ、これは。
「そうさ。俺とお前の闘いなんてものは、茶番劇に過ぎない。こうなることも含めて予定調和の内さ。だがな、志貴。秋葉は……秋葉は」

「狂ってしまった」

「秋葉が……狂った?」
「そうさ。いまのあいつには抑止がない。殺人衝動もないが、殺人抑制もない。あいつはいま、自分が一番恐れていた存在になっちまった。……俺がそうしたんだけどな」
 俺もほとほと、うまくない、とシキは嘆く。
「さっきのお前と同じだ。お前は自分が殺人鬼だということを再認して、本来の力を発揮した。秋葉もそうやって、本来の力を発揮することによって吸血鬼化を避けた……結果、それ以上の化物になっちまった」
 本当は、殺してやるつもりだったんだ、とシキは囁く。
「秋葉は、化物として生きるには弱すぎる。志貴、お前の傍にいて抑制されることによって、やっと自分を保っていたんだ。俺はずっと、あいつが不憫でならなかった。あいつはあのままじゃ、生きることもできなかったんだ。だったら……殺すしかないだろう?」
 自分勝手過ぎることを除けば……その理屈も、理解できないこともなかった。
 シキは本当に、秋葉のことを心配していただけなのだ。兄として、妹のことを気にかけていたのだ。
 そして、殺すことでしか救われないのなら、殺してやろうと決意した。
 シキのなにが壊れているのだろうか。
 シキが壊れているというのなら……それは、この世界そのものが壊れているだけだ。
「もっとも……そこをロアにつけこまれたんだ、大きなことは言えないが、な」
 シキがもった衝動を拡大させて、ロアはシキを乗っ取った。
 そこにあったのはなんだろうか、と考える。
 妹を想うシキを利用した、ロアという悪辣な吸血鬼だろうか。だが、ロアがいようがいまいが、シキは秋葉を殺そうとしただろう。そして、そうなれば、俺は必ずシキを殺したに違いない。
 死んでしまったシキが生き返るには、ロアを喰らわなければならない。ロアがいたからこそシキは不遇の死を超越することができたというのなら、ロアがいいだの悪いだのを論じることもバカバカしくなる。
 ロアの執念こそが、俺達三人の関係の中でいいように翻弄されている。それこそが悪辣ではないかという気すらする。
 救いなどというものはない、ということだろう。どんな目的を持ったところでちっぽけで、誰も何も思うようにはできない。
 それが茶番だというのなら、この世界そのものが茶番だ。
 喜劇で悲劇で絶望色。神様というのは、意地が悪いどころか趣味まで悪いらしい。
「志貴よ」
「なんだ?」
 俺はさっきから、これしか言ってない。間抜けな鸚鵡のようだ。
「俺を殺してくれるよな?」
「……ああ」
 間は、躊躇いではなく、回想だった。
 本当に、この兄妹はなにを考えているんだろうか。
「良かった。お前が殺してくれなきゃ、俺は救われようがない。お前が殺してくれるなら、俺もまだ救われようがある」
 きちんと止めを刺してくれ、とシキは目をつぶった。
 俺はナイフを構えて、振り上げた。
「四季」
 一瞬、名前を呼ばれたのかと思った。
「四つの季節で、四季。それが俺の名前だとさ。覚えててくれよな?」
 そしてシキ……四季は、苦笑じみた笑みを浮かべた。
「別に、だからどうってわけでもないんだが……」
 四季は小声で何事かを囁き、
 俺はナイフを振り下ろした。

 屋敷は静まり返っている。
 本来なら、親戚連中が居候よろしく居座っていたりもする関係で、それなりに活気があったりもするのだが、秋葉が死んだ時に、全員追い出した。
 この屋敷は、俺と秋葉のためにあればいい。他には誰も必要ない。
 琥珀さんぐらいなら、置いてやってもかまわないか。
 明かりすらついていない廊下を歩く。目をつぶってたって歩ける。
 ここが俺の家だ。ここ以外に俺の居場所はない。
 ああ、と思う。ああ、と笑う。ああ、と嘆く。
 ここはこんなにも、いつも通りだ。
 俺は変わってしまった。秋葉も変わってしまったという。
 ここだけが変わらないことになんの意味があるのだろうか。
 窓から差し込む月明かりの中、秋葉の部屋に辿り着く。
 分厚い扉が、重さ以上の圧迫感を与えてくる。
 俺は躊躇わずにドアノブに手をかけ、そっと押し開けた。
「こんな時間になんの用ですか? 兄さん」
 思わず泣きそうになった。
 そこにはいつも通りの秋葉がいた。
「それに、ノックぐらいしてください。最低限のマナーですよ?」
「ああ……そうだな……ごめん」
 たったそれだけの事を喋るのに、舌を噛みそうになる。
 君はあまりにも変わらなくて、だからこそ変わってしまったんだとわかってしまう。それはとても、悲しいことだった。
「秋葉。俺は……」
「ねえ、兄さん。いい夜だと思いませんか?」
 俺を遮って、秋葉は立ち上がり、窓辺に寄る。
 俺はその後姿を間抜けに眺めながら、戸口に立ち尽くす。
「綺麗な月。こんなにも綺麗な月夜なら、思わず死人も生き返ってしまいそうですね」
 心が痛む。軋みを上げる。
 それは四季のことか、と口にしかけ。それはロアのことか、と口にしかけ。
 それは、お前のことか、と泣きたくなる。
 あるいは、俺のことだろうか。
「兄さん」
 くるりと振り返り、秋葉は微笑む。
「あなたを愛しています」
 告白。誰のための。
「そして、あなたも私を愛しています」
 指摘。ただの事実。
「二人で生きていきましょう? この屋敷で、緩々と朽ち果てるように。もう、私たちには……それしかないでしょう?」
 秋葉はわかっている。俺もわかっている。
 これがただの茶番だとわかりながら、楽しんでいる。
「それもいいかもな」
「ええ。きっと素敵。ここならずっと、二人だけでいられるもの。二人だけでいられればそれでいい。そう思わない?」
「ああ。本当に、そうだな」
 ゆっくりと、秋葉に歩み寄る。
 秋葉は微笑みを浮かべている。
 手の届く距離まで近づいて、そっと手を差し出す。秋葉はその手を愛しそうに受け取り、自らの頬に触れさせた。
「ああ、兄さん……私はずっと、あなたとこうしたいと思っていました」
 それは、俺もだ。俺もずっとそう思っていた。
 そうしてはいけないとも思っていた。その理由は、四季との会話で理解できた。
 これは堕落なのだ。俺は秋葉に触れてはならなかったのだ。
 ただの制御機構であればよかったのだ。人でも魔でもなく、ただの生き物であるためには、そうでなければならなかったのだ。
 人間としては規格外。魔としても規格外。
 どちらつかずの半端者は、どちらにもならなかったからこそ生きることができた。
 どちらかになってしまったとしたら、ああ。
「お前を愛してるよ」
「私も……私もです。兄さん」
 壊れてしまうしかない。人として生きるにも、魔として生きるにも弱すぎるんだから。
 優しく、秋葉を抱き寄せる。それでいいのか、と問う心が聞こえる。
 なんだっていい。知ったことか。
「……ダメなんですか?」
「ああ。ダメだ。俺はずっとこうなることを望んでたのに、これだけは耐えられそうにない」
 秋葉は怯えたように身を離す。
 俺はそれを追いもせずにナイフを構える。
「どうして。……どうして? 私達、愛し合っているじゃないですか。それじゃあ……ダメなんですか?」
「それでも……いや、だからこそ、俺はお前を殺したい」
 ああ、なんだ。やっぱり俺も四季と一緒だ。
 それでも俺は、四季とは違う。四季は秋葉のために秋葉を殺そうとしたけれど、俺は俺のために秋葉を殺そうとしている。
 きっと、俺が一番異常で、秋葉と四季のほうがまともなんだ。
「あなたを愛しています」
「俺もだよ」
「あなたと二人でいたい」
「俺もだよ」
「ずっとずっと……あなたと一緒にいたいだけなのに!」
「俺も……そうだよ」
 愛している、の意味が違う。
 一緒にいたい、の意味が違う。
 この違いは感覚的なもので、言葉にはならない。
 必要なのは言葉ではなく、ただ刃を交えること。
「俺の中のなにかが囁くんだ……化物を殺せ、化物を殺せって。俺の目にはもう、お前も化物にしか見えない」
 それでも愛している? だからこそ愛している?
 わからない。そんな感情、理解できない。
 ドウでもイイから殺したイ。
「兄さんっ……!」
 秋葉が叫ぶ。別になんとも思わない。
 目の前の化物が悲しそうな顔をしていたところで、躊躇う理由はない。
 ただすごく、気分がイイ。
「四季も殺した……お前も死んでくれるよな?」
 それこそが、退魔の一族としての俺の存在理由なのだから……
 俺は秋葉を殺さなければならない。