言葉にならない。 完章



 私はずっと一人でいました。
 私はずっと孤独でした。
 私には名前がありませんでした。
 私は一人きりの存在でした。
 何者とも関わらず、何者も関わりを持とうとしない、そういう存在でした。
 私はただ一人で生きて一人で朽ちて行くのだろうと考えていました。
 私は独り以上にはなれないのだろうと考えていました。
 私のすべてが異端だったからです。
 私の存在自体が異端に端を発し、その異端の中ですら異端であった私には、迎合すべき母集団がありませんでした。
 私は出来損ないでした。
 それは私に諦めさせるのに十分なものでした。
 私は何にもなれずに死んで行くのだろうと思っていました。
 そんな私を、許し、認めてくれた人がいました。
 その人のためなら、私はなんにだってなれたのです。
 化物である私が、人間のようにだってなれたのです。
 だからああ、あなたはあなたのままでいてください。
 私を私のままでいさせてください。
 あなたの真実が何者であったとしても。
 私にあなたを信じさせてください。
 私はただただ、あなたに依存していました。
 あなたに依存したいと思っていました。
 あなたを愛したいと思っていました。
 あなたに依存することが愛するということだと思っていました。
 でも、それは違ったのです。決定的なまでに、致命的な程に間違っていたのです。
 私はその最初の一歩を間違ってしまったから、そこからもう一歩も進めなくなってしまいました。
 私はあなたを愛することすらできなくなってしまいました。
 私はそれでも、いや、だからこそきっと、あなたを愛していたのです。
 私が過ちを犯していても、過ちごと受け入れてくれたあなたを愛していたのです。
 愛とはなんなのかと小難しく愚かな考えに囚われていた私だけがそれに気付いていませんでした。
 一度死んで、ようやく……ようやく、悟ったのです。
 私が自ら檻に囚われていたということに。檻の中という安住の地で暮らすことを選んでいたことに。
 誰よりも弱く臆病だったのは私なのです。私がすべての元凶なのです。
 いまさらどうしてあなたに顔向けできると言うのでしょうか。
 あなたを愛しているからこそ、あなたには許してもらえるはずがないと、そう思っていました。
 それもまた、間違いだったのです。
 あなたは私なんてどうでもよかった。最初から、私など問題にはしていなかった。
 だから優しかったのですね? 私はそれを好意の表れだと理解していましたが、あなたは私がなにをしても、興味などなかったのですね?
 ただただ、私が獲物として、立派な化物として成長するのを待っていただけだったのですね?
 あなたはずっと、本当にもうずっと、私を殺すことだけを考えていたんですね……?
 私に他になにができたでしょう。あなたには言葉は届かない。あなたは言葉を理解しない。
 私は自分が化物だったからこそ、あなたが本物の化物だなんて思いもしなかった。
 四季があなたを殺せばいいとすら思いました。
 そうすれば私は、四季を殺せばそれで終わりにできたのです。四季を殺して私も死ねば、あなたと共に死ぬことができると、そう思っていたのです。
 あなたを殺すこともできない。そんな私には、あなたを愛する資格すらないのでしょうか。
 それでも、私は。
 あなたを。
 ……ああ、どうしてこの気持ちは、言葉にならないのか……
 愛してなんかいない。これは愛なんて簡単なものじゃない。
 愛ではなく、愛を超えた、でも愛としか呼べないような……
 言葉にならないものだけが私を支えているのです。

 ゆっくりと、間合いを詰める。
 元より、部屋の中だ。それ程広くはない。
 秋葉は窓を背負い、それ以上逃げることはできない。
 俺は逆手にナイフを構え、秋葉の死の線を見出す。
 少し、驚いた。死の線が見えない。
 これが本来の秋葉か、と思う。それほど驚かなかったのは、予想された事態だからだ。秋葉が予感通りの化物であるなら、死の線などそうそう見えはしない。
 だからこそ殺す意味がある。価値がある。
 俺は殺すことによって生を繋ぐ存在だからこそ、秋葉のような化物が必要だ。
「やめて……やめてください、兄さん……」
 懇願も聞こえない。むしろそれは、嗜虐を誘う。
「お前を殺す理由はない。……ないんだから、やめられないさ」
 コロしたいのかオカしたいのかすらわからない。
 それに違いなどない。意味も理由もすべてが別世界の論理だ。
 俺はただ殺せばいい。
 俺はただ……殺せればいい。
「兄さんは……兄さんは、そんな人じゃないっ……!」
「そうかな? ……そうかもしれないな。で、それが?」
 以前どうだったとか、こうに違いないとか、そんなものになんの意味があるというのか。
 俺はいまここに存在している俺でしかない以上、過去の俺がどうであれ、これもまた俺なのだ。そして、それ以上の説明はつけようがない。
 で、あれば、だ。
「……ここで決着、というのは味気ないな。だからこそ相応しいのかもしれないが、ここじゃあもったいない。そうは思わないか?」
 秋葉は答えない。
「外にしよう。うん、外がいい。ここじゃああまりにも……つまらない」
 勝手にナイフをしまい、秋葉に背を向けて歩き出す。秋葉は攻撃してこないし、ついてくるしかない。
 端から先の見えた戦いだ。俺が勝つ。
 だが、俺が勝ったとしても、俺が生き残れるとは限らない。そういう、ぎりぎりの戦いになる。
 それがいい。生と死の狭間をどっちつかずにさ迷うのがいい。
 どこにも行けないのならどこにも行かないのもいい。
 そしてここにはなにもない。なくてもいい。あらねばならぬ理由もない。
「兄さんは……どうしても私を殺すんですか?」
 無言で追従してくるのかと思ったら、恐る恐るそんなことを聞かれた。
「そうだな。……なんだ、死にたくないのか?」
 振り返らずに歩き続ける。
「いいえ。殺したくないだけです」
 俺のことなど歯牙にもかけずに、冷徹に答える。本当に殺したくないのかと突っ込みたくなるほどの冷たさだ。
「なるほどな。まあ、そんなに気にする必要もないさ。四季だって死んだんだ。俺達だけが死なないなんてこともないだろう?」
「そういう問題ではありませんっ」
「……怒るなよ。なに興奮してるんだ?」
「興奮なんてっ!」
 足を止めて振り返る。いきなりのことに驚いたのか、秋葉も足を止める。
「お前は俺に懸想しているだけだろう? 感情は真実と相性が悪い。あまり頭に血を昇らせてると、見えているものも見えなくなるぞ?」
「忠告ですか? 敵の分際で」
「……そうだな。敵だったな」
 敵なんだろう。きっと。
 首を傾げながら、移動を再開する。どうにも、らしくない。
 俺の中にもう一人俺がいるような違和感。それが秋葉の言う「本来の俺」という奴なのかもしれない。
 俺はいつから「俺」なのか。「違和感」なんてものを感じる「俺」はいつから存在しているのか。
 すべてがちぐはぐだ。俺はいつから「殺人鬼」に戻ったんだ?
「敵だが……お前を殺すのは惜しいらしい。いい女だからな」
「なっ」
 また、罵倒されるかとも思ったが、秋葉は特に反発もしなかった。この程度の誉め言葉に喜ぶ柄とも思えないが。
 沈黙。階段を降りる。
 歩きながら、セピア色の夢を見る。
 小さな子供が、俺を突き抜けて階段を駆け下りていった。
「秋葉……」
「え?」
 あれは、俺と秋葉だ。四季はいない。
 そして、もう一人、少女がいた。
「子供の頃の事を覚えているか?」
「は? ……ええ、まあ」
「この屋敷にいた子供は、俺とお前と四季だけじゃないのか?」
「……なんの話ですか?」
 怪訝な声。俺はなにか的外れなことを言っているらしい。
「俺は頭がおかしいらしい。子供の頃の記憶がないんだ」
 断片的にはある。秋葉と四季にまつわる部分は覚えている。
 否、それですら「思い出した」ものだ。それは、真実「忘れていた」過去であるのか、「捏造された」過去であるのか、区別がつかない。
 俺は、自分が何を「覚えて」いて、何を「忘れて」しまったのかがわからない。
 そんなもので俺の存在が覆るわけでも、ましてや揺らぐわけでもないが、「違和感」はちくちくと頭を苛む。
「四季に殺された影響かな」
 ぽつりと、呟く。
 いや、違う。親父にいじられたからだと四季は言っていた。
 だが、それにもまた違和感がある。親父がそんなことをしてなんのメリットがある? 記憶の「改変」であればまだわかる。しかし完全に隠蔽してしまっては、偽の記憶が偽物としてすら機能しない。
「四季に殺され……? 何を言って……」
「俺は四季に殺されただろう? それで……なんだかよくわからないが生き返った。そうじゃないのか?」
 階段の途中で足を止め、秋葉を見上げる。
 秋葉も足を止めて、理解できないという顔をしていた。
「四季に一度殺されたのは私です」
「……は?」
「遠野家の血に狂って反転した四季に殺されたのは私です。兄さんは四季に殺されていません」
 殺されて……いない?
 そんなバカな。俺を殺した四季がそう証言したというのに、それですら嘘だと言うのか。
 秋葉の言う事を信じるか、四季の言う事を信じるか。
 決まってる。
「ふぅん」
 溜め息のように呟いて、階段を降りる。
「まあ、そういうこともあるかもな」
 どちらを信じる理由もない。
「信じないんですか?」
「信じられないのは事実だな。信じられる根拠も思いつかない。俺の記憶が誰かに操られてる……その誰かがなにを目的にしているかはわからないけどな。もしそうだとしても、それだけの話だ。俺はなにも変わらない」
「操られて……いたとしても?」
「その仮定に意味はない。もしそれが事実なら、そいつを始末する。それだけの話だ」
 だから、仮定である限りは、それを意識する必要も意味もない。
「あなたが私を殺したいと思っている事ですら、操られているからかもしれないのに?」
「そうだな。切っ掛けがそれになる、ってのは気に入らないが……まあ、いいんじゃないか? どっちにしろ、俺はお前を殺したかったんだから」
 秋葉は息を飲んで沈黙した。
 ずっと殺したかった。それは事実だ。事実だが……
 ずっとというのはいつからのことだろう。
 階段を降りて、中庭に向かう。秋葉のお気に入りの場所で秋葉を殺す。愉快な趣向だ。後は、そう……秋葉がきちんと戦う気になれるかどうかだが。
 四季を殺してからずっと思っていた。いや、殺す前から感じていた違和感が、いまだに残っている。
 気分は高揚しているのに、高揚しているはずなのに、気持ちは完全に冷めている。自分が上機嫌であればあるほど、バカバカしいと否定する気持ちが強くなる。
 違和感の根源がそれなのも理解できる。しかし、それがなんなのかが理解できず、気持ちの正体を掴むことができないでいる。
 不気味だし、気に入らない。疑問の大半は解消したはずなのに、その根幹がいまだに霧の向こう側にあるかのようだ。
 こんなちぐはぐなままで殺し合いができるのか、という疑問は湧かなかった。こと戦闘に関して、通常意識にどのような問題があろうとも身体が自動的に動作するようになっている。この程度のことで動作不良を起こすような鍛え方はしていない。
 ココロとカラダが分離している。分離している状態こそが常態のはずだ。
 それが当たり前のはずなのに、違和感を感じている。
「なぜ」
 後少しで中庭、というところで、秋葉が口を開いた。
「なぜ私が生きてるのか、と聞かないんですか?」
「聞いて欲しいなら聞くけど?」
「…………」
 過去を問題にしているわけじゃない。問題なのは今だ。
 そして今、秋葉は生きている。それ以上の事実は必要ない。
「仮定だ。もし四季に殺されたのが秋葉なら、秋葉は俺の命を奪って生き長らえた。違うか?」
「……っ! 知って……いたんですか……?」
「四季から聞いたことがある。略奪だかいう能力があるんだろう? 本来は体力だかなんだかを奪うような使い方をするらしいが、魂を奪うことだってできるんだろう? となると、発動条件も限られて来るんだろう。そんな条件をクリアすることができる相手は、俺ぐらいしかいない。後は、まあ……奪い切らなければ、俺も死なないだろう。どっちも満足に動けないだろうけどな。とりあえず死なないでいられれば、その間に生き返ればいい。どうやって生き返ったかはわからないが、いまは二人とも生きてる。それが答えだ」
 どうやって生き返ったかわからない?
 いや、俺はそれを知っている。俺は秋葉に命を奪われて、そしてあの子を殺して、その命を奪った。辻褄と勘定は合っている。
「何も変わらないさ。それぐらいじゃなにも変わらない。どちらにしろ、どっちも一度死んでいる。俺とお前の命は、もう解きようもない程に結びついている……だから、お前が死んだなら、俺も死ぬ」
「……私を殺す癖に」
 いじけたような声。別に、それを厭うているわけではない。
「ああ。もしお前が俺を殺せなくても、お前が死んだら死んでやるよ。俺は、お前以上に殺したい奴なんていない」
 それは事実だが、嘘だ。
「私が兄さんを殺して終わるかもしれませんよ?」
「それはないな。……そうだろ?」
 秋葉の軽口に素っ気無く答えて、中庭に通じる扉に手をかける。
 開け放たれたそこに広がるのは、ガーデンテーブルとガーデンチェアが置かれたテラスだ。
「お前が一方的に俺を殺して終わるだなんてことは、ないさ。俺を殺したら、お前も死ぬ。生きていたってしょうがないもんなあ?」
 心境としては、四季のそれに近い。自分が死ぬのを承知の上で、自分の大事なものを殺してやるという傲慢さにとてもよく似ている。
 自分が死ぬから相手を殺すのも、相手を殺したから自分が死ぬのも、そんなに大きな違いなんてない。ただ死ぬだけだ。
「だからこれは殺し合いなんだよ。殺して、殺される。復讐なんて薄汚いものじゃない。俺たちの間にそんなものは必要ない。ただ殺し合うこと……それが俺の証明だ」
「誰に……証明するんですか?」
「俺自身に。俺のこの魂に」
 俺が俺であることを、俺に証明する。
 それができれば、死んでもいい。そう思う。
「あなたは……兄さんはそんなに死にたいんですか」
 ガーデンチェアを超え、芝生に降りる。風が出てきていた。
「お前が死んだと思った時、心底死にたいと思ったよ。俺はなぜ生きてるのかと思ったよ。……そして記憶を取り戻した時、お前はもう、俺の命を奪うことすらしてくれないんだと。そう思ったよ」
「……っ!! だって、それはっ……!」
「悲しかった。辛かった。お前のいない世界で一人生きていることがこの上なく苦しかった。俺は俺一人で生きていてもなんの意味もないと思い知った。俺がいないとお前はお前じゃいられないと四季は言っていた……けどそれは、俺も同じ事だ。俺は……俺たちは、一人じゃ満足に生きることもできない。二人で生き続ける……それもいい。本当にいい。理想的な理想だ。他の何よりも素晴らしい生き方だ。俺が何者だろうと、お前が何者だろうと関係ない。愛し愛され、完結した世界で夢を見るように生きていく。そういう生き方もいいと思う。でも、もうダメだ……ダメなんだ」
「なぜ……なぜですか」
「俺はもう、お前のいない世界を知ってしまった。その絶望を知ってしまった。……ダメだ。だから、ダメなんだ」
 壊れた世界を知らなければ希望も持てた。絶望することを知らなければ希望も輝いていた。
 それを知ってしまった時、なにもかもが色褪せてしまった。
 なにも望めない。望むことができない。
 なにもかもが虚しい。この高揚感と、裏腹な倦怠感の正体は、それだ。
 だから、秋葉を殺したい。秋葉を殺せば、なにもかもが終わる。
 すべてが完璧に終わる。
 そうしてなにもなくなってしまえばいい。そんな綺麗な世界で死んでいきたい。
「……お前が俺を殺してくれるならそれでもいいんだ」
 でも、秋葉にはそれができない。だからそうするしかない。
「俺は、お前を殺したいのかどうかわからない。本当は殺したくないのかもしれない。だから、とりあえず殺すことにしたんだ」
 秋葉を殺せば死ぬしかなくなる。そうしたら俺は……
「……なぜかな。言葉にすればするほど、すべてがうそ臭く聞こえる。俺の望みはもっと別のところにあるような気がしてくる。いまここでお前を殺すことを望まない自分を自覚できるのに、それでもお前を殺したいと思う自分もいる。そんなことはどうでもいいと考える俺がいる。まるで……俺自身が分裂してるみたいだ」
 幾人もの自分。すべてが自分でありながら、すべてが自分ではないような。不思議というよりは不気味な感覚に、眩暈すら覚える。
 秋葉が俺を殺さない理由もそこにあるんだろう。今のままの俺では、秋葉を殺すことができない。殺気も抱けない。
 そんな中途半端な化物は殺す価値もない。
 なにもかもが矛盾している。俺はなにもできない。
「……あなたは、兄さんは、操られているんです。どうして、どうして私を殺すんですか? あなたは絶対にそんなことは望んでいないのに」
「きっとそうだ。……そうなんだよ。何かが俺の中の引き金を引いて、俺は壊れてしまったんだ。だからもう、俺は俺じゃない」
 ロアが目覚めた四季のように、どこまでが自分の意志なのかもわからない。自分が壊れていること、これから壊れ行くことだけははっきりとわかっている。
「俺はもう、お前の知ってる俺じゃない。遠野志貴は、死んだんだ……遠野秋葉が死んだあの時に」
「それじゃあ……私があなたを殺したんですね」
 きょとんとする。
 秋葉は微笑んでいる。
「わかりました。いいですよ。あなたを殺した責任……私が取ります」
「……はっ」
 笑いが零れた。
「はっはっはっ! そうだな! そうだとも! 俺を殺した責任を取ってくれ! お前が俺を殺したんだ……最後まできっちり殺してくれっ!」
 笑いながら、ナイフを構える。
 秋葉は構えることもせず、微笑みを浮かべたまま対峙する。
 これで終わりなんだと、ほっとした。

 先に仕掛けたのはどちらだったか……
 弾かれるように、俺は駆け出していた。
 これはなにかの罠だ、と本能が囁く。
 秋葉は動かない。動かないからこそ不気味だ。
 後一歩踏み込んだら殺られる……そう感じた瞬間、横に跳んだ。
 寸前まで自分がいた場所を、異様な熱波が貫く。それは物理的な熱量を持っていなかった。なにがどう変わったというわけでもないのに、それが致死的なエネルギーを持っていることを肌で感じる。
 これが秋葉の能力が。原理はわからないし、なにを媒介にしているのかすらわからないが、任意の地点に瞬間的に膨大な熱量を発生させられる、ということであれば……
 万能に近い。無敵に近い凶悪さだ。
 だが、それにも若干の集中を要するのはわかった。俺が駆け出してから、きっかり三歩。三歩分の時間で、あの攻撃が放たれた。
 課題はそれだけだ。二歩分の間合いまで近づいて攻撃することである。
 問題なのは、その距離ではなく、どこに攻撃するか、ではあるが。なにしろ秋葉には、死の線も見えない。
 どうしたら俺は勝てるだろうか、と考える。俺はまだ勝とうとしているな、と考える。
 横に跳んだ勢いを殺さずに、そのまま中庭の奥へと駆け出す。中庭部分はまだ開けているが、一歩踏み込めば鬱蒼と生い茂る樹林である。バカバカしいスケールの金持ちだからこそ(あるいは、若干以上の田舎にこの屋敷があるからだろうが)、庭に自然のままの林があった。
 障害物は、まず自分の唯一の強味である機動力を奪う。林というのは足場も悪い。歩くだけならまだしも、安定した速力を得られる環境では到底ない。
 それでもあえてそこを選んだのは、秋葉の能力が視界に依存するからだと感じたからだ。俺が攻撃を避けた後、ワンテンポ遅れて視線が追いついてきた。たったそれだけのことではあるが、それが糸口になる、と直感した。
 遮蔽物の多い環境なら、集中時間はともかく、命中精度はがた落ちになる。自分の性能以上に相手の性能を落とすことができれば、そこに勝機が生まれる。
 なによりそこは、子供の頃に訓練を受けさせられた場所だ。地の利はこちらにある。
 追撃はなかった。一定範囲までしか効果を及ぼすことができないのだろうか。だとすれば好都合だ。
 気分が高揚してくる。どう敵を倒すか考えるだけで頭が一杯になる。瑣末な悩みなどすべて消え失せて、心が鋭く研ぎ澄まされる。
 ただ一瞬のために。命のやり取りとは、自分の命を賭けた博打だ。相手を殺し、自分の命を勝ち取る、ただその一瞬のためだけに、ありとあらゆるものを犠牲にする。
 世界が本当はばらばらだとか、俺の体もとっくのとうにばらばらだとか、そんなことを忘れてしまえるその一瞬が欲しかった。
 何一つ間違わない者達が、お前は間違っているのだと告げている。お前は狂っているのだと告げている。お前は壊れているのだと告げている。
 断罪するしか能のない神様なんて知ったこっちゃない。こんな壊れた世界を作り出し、こんなに壊れた俺を創り出した神になんて、誰が祈ってやるものか。
 くだらない話だが、壊れた世界を作った、おそらくは壊れているだろう神に反抗するために、俺は壊れようとしているのかもしれない。
 最初から破綻している。なるほど、救いなどどこにもないわけだ。
 ではここにあるのは戦いだけだ。素晴らしい。純粋で混じり気のない闘争こそが望みなのだから。
 愛も憎しみもバカバカしい。そんなのものの為に生きる事も戦う事も無意味だ。人はどうせ死ぬのだから、もっと簡単なもののために生きて死ねばいい。
 四季のように、秋葉のために生きて死んだり。ロアのように、アルクェイドのために生きて死んだり。
 秋葉のように、俺のために生きて死んだり。連鎖して繰り返される無限地獄のような世界こそが真実だ。
 大木を背に、息を整える。秋葉の気配を探りながら、作戦を考える。
 小細工は通用しない。四季もそうだったからわかるが、一定以上の力を持つもの相手に有効な小細工など限られているし、自分の能力はそういった事に向いていない。
 純粋な体術勝負。それにしたって、訓練している人間でしかない自分のほうが圧倒的に不利だという状況は変わらない。
 そんなものだと言えばその程度の事かもしれないが。体の組成からして人間ではない化物と戦い、それでも生き残ってきた自負だけが絶望を拒絶する。
 冷静に。ただひたすらに冷静に。
 意志を持たない機械のように、身に染み込ませた行動を反復させる。その上で意志を反映させる……無意識に意識を上乗せする、それは歩くことと同じぐらい当たり前の事だが、戦闘に臨んでこれを常態とするために訓練を積んだ。
 その成果が表層意識と戦闘行動の分離だ。だから俺は、俺自身がどれほど望まなかったとしても、秋葉を殺せる……と、そう思っていた。
 思っていたのに。
「殺せない殺人鬼に意味なんてない、か……」
 ぽつりと呟く。呟いてから、ほっとした。
 俺は秋葉を殺せない。そうだ。それだけは間違いない。
 秋葉を殺そうとする自分よりは、秋葉を殺したくない自分のほうが強い。
 戦うことと同じく、秋葉だけが俺から死を遠ざけてくれた。俺から死を取り上げてくれた。俺を生かしてくれた。
 秋葉の微笑みは俺にとって太陽と同じだ。それがなければ、俺はまっとうには生きていけない。
 それでも戦う。だからこそ戦う。ずっと戦ってみたかったのだ。秋葉は完璧に強いと知っていたからからこそ、俺はずっと……
 ずっと、興奮していたのだ。秋葉のその強さを想像する度に。
 思わず秋葉を襲いかねないほど、欲情していたのだ。
 太陽を失っては生きていけないことを知っているのに、その強さに立ち向かいたくなる。
 いくつもの動機がある。幾人もの自分がいる。
 すべてが真実だ。結果によって、そのどれかを選ぶだけのことだ。
 そうして現実に合った自分が本当の自分だったということになるんだろう。
 誰も本当の俺を知らない。本当の俺になんて興味がないから。
 本当の俺なんていないから。
 俺が「俺」じゃなきゃダメだと言ったのは、秋葉だけれど。「俺」がどれなのかなんて、俺にもわからない。
 空を見上げる。枝に阻まれてろくに見えもしない。
 ただ月が輝いているのだけが覗けた。
「いい月だ……」
 深呼吸を一つして、背にしていた大木に手をかける。これなら登りやすい。
 よじ登るというよりは、重力を無視したかのように駆け登る。ちょっとしたコツではあるが、それが理解できなければ魔法かなにかのように見えるだろう。
 少し登ったところで、大振りの枝があった。そこに腰を落ち着けて、しばし秋葉を待つ。
 勝算や作戦があって選んだポジションではない。攻撃というものは、上から下に対して行われるのがもっとも効率が良いというだけだ。
 それは人間の理屈であって、秋葉には通じないが。
 まあ、いい。なるようになる。
 しばし息を潜める。それほど奥に入ってきたわけじゃない。数秒のうちに秋葉も姿を現すはずだ。
 不意に、背後から声をかけられた。
「こんなところで休憩ですか?」
 振り返らずに、飛び降りた。その背後を熱波が焼殺し、乗っていた枝が瞬時に灰となった。
 なるほど、俺の考えが甘かったわけだ……仮にも十年以上、共に暮らしてきた相手だ。実際に戦ったことこそないが、魂を共有していたことだってある。こっちの考えもある程度読める、ということだろう。
 落ちながら振り返る。大木の頂上で、秋葉が王族の威厳を持って下界を見下ろしていた。
 俺は重力加速度の利用を思いついて樹上を選んだが、秋葉はより単純に、高所という視界の広い環境を選んだのか。
 勝てない。勝てそうにない。秋葉の能力が視線……視界……を媒介とすることはわかった。そんなことがわかっても、それは絶望感を増すだけのことだ。
 後は、秋葉の力の影響範囲を把握することだ。視界内であれば無条件に焼殺できる、ということはありえない。どんな能力も、そこまで万能にはなれない。
 力を引き出し過ぎれば、行使者の身を損ねる。それは筋肉であれ異能であれ、同じ事だ。日常使用する以上の性能をどんな筋肉であれ持っているが、それを全開で使用すれば容易く断裂する。
 異能の場合は、脳内の回路構造に依存するらしい。それの安定処理能力を超えた性能を引き出そうとすれば、不安定になり、しまいには性能低下すら引き起こす。
 性能限界とは、とどのつまり安全弁であるに過ぎない。秋葉の制御能力とは、安定処理能力限界まで能力を酷使することができる、ということだ。
 当たり前のようにみえて、これが一番難しい。フィーリングでしか扱えないものを数値を扱うかのように厳密に運用することは、俺にもできない。普段は七割から八割程度に抑えてしまう。
 全開で戦う時は、おっかなびっくり十割を狙って出力を絞るが、それを超えてしまうこともままにある。その反動は、脳死しかねないほどの苦痛だ。
 苦痛に慣れることはできない。慣れてはいけないとも教えられた。苦痛を正しく認識できなければ、まともに戦うことも難しいと。
 ただの人間だからこそ、苦痛を把握することによって性能の低下を……即ち計算式の綻びを認知しながら戦わなければならない。誰が教えてくれたかも覚えていないが、最初期に教えられた鉄則だ。
 地面までは五メートル程しかない。着地する直前に大木の死の線を切り裂く。牽制にすらならないが、あの位置を取られているのはまずい。
 大木はゆるゆると傾ぎ始める。どちらに倒れるかはわかっていたから、それとは反対側に駆け出した。秋葉と距離を取るために、というのもあるが、ただ居ても立ってもいられなくなった、というほうが正確だ。
 こんなことで逃げられるはずがない。秋葉がどうやってあそこにいたのかを考えれば自明の理だ。
「どこに逃げるんですか? 私と戦いたいんでしょう?」
 朱に染まった声が聞こえる。血を渇望する声が聞こえる。
 死を伝染させる声が聞こえる。ふわりと、音もなく眼前に降り立った秋葉を見据えながら、これこそが俺の望んだものじゃないかと否定する。
 秋葉の髪も、瞳も、深紅に染まっていた。化物の力の象徴として顕現する、純粋にして深遠なる朱の色。どことも知れぬ世界から引き込んだ力の証。
「戦えなくても殺してあげますから、安心してくださいね」
 言いながら秋葉は、断罪の槌を振り下ろす裁判官のように右手を上げて、躊躇うことなく振り下ろした。
 放たれた純熱の刃を知覚する。そういう使い方もあるのかと愕然としながら跳躍する。
 直前まで立っていた地面が、じゅうと煙を上げながら断たれた。あれを喰らえば、人体など容易く輪切りにされてしまうだろう。
 斬撃は続いた。この方法だと消耗が少ないのか、連撃ができるらしい。そのどれもが致命的な破壊力を持っているというのに。
 秋葉はただ一度、俺に攻撃を当てれば終わり。俺は百度当てたところで勝ちはありえない。
 いまの秋葉には、完全に死の線が見えないんだから、どんな攻撃を当てたところで、四季のように無効化されてしまうのがオチだ。
 勝てない、と悟る。思わず、笑いが零れる。
 これこそが俺の望みだ。ずっとずっと、これだけが欲しかった。
 死なないモノこそが欲しかったんだと、不意に悟った。
 それが秋葉であるなら、これ以上の喜びはない。永遠に、そう永遠に殺し合える。
「……? なにが楽しいんですか? あなたは私には勝てないというのに」
「だからだよ。だから楽しいんだ。俺はお前には勝てない……それがいいんだ。最高だ」
 そう、それこそが俺の……俺の、望んだこと、か?
 それは違うと、俺の総意が告げている。可能性としてありえなくはないが、俺はそんなものは望まないと誰もが口を揃えて言っている。
 矛盾していることはおかしくない。だが、現状は矛盾しすぎている。俺は俺の本心を把握していなさすぎる……だというのに、それに違和感すら感じていない。
 では、なにが起こっているのか。俺を操っている奴というのは、一体なにを目的としているのか。
 俺自身が矛盾していたから気付かなかったが、もしかしたら俺を操っている奴も矛盾しているんじゃないのか……
 そこまで考えて、そのことはきっぱりと忘れた。今はそれどころじゃない。
「俺の本気を見せてやるよ」
 それでも殺せなければ……まあ、そのときは死ぬだけのことだ。大した事じゃない。
 直死の魔眼の出力を上げる。じわじわと上げるような余裕はない……本来はそれこそがもっとも安全な方法だが……そして、いきなり十割以上の出力を狙う。
 出し惜しみして勝てるとも思えない。すべて出し尽くしたとしても勝てないだろう。
 では全て以上を出すしかない。反動がどうのと恐れるぐらいなら、そもそもこんな無為な対峙をする必要すらなかった。
 世界のヒビ割れが拡大する。認識領域が拡大し、不可視領域が現出する。

 死とは、そもそもなんなのか、という疑問がある。
 死を視る魔眼、と呼ばれるものは、なにを見ているのか、という疑問がある。
 形而下的な回答としては、それは寿命、ということになる。生物のみならず、無生物も持つ存在の限界、それこそが死である、と。
 生まれた時から定められている死。生まれたからこそ定められている死。ありとあらゆる存在が死へと拡散していく過程として生を経験する。
 存在している以上、死を内包する。それが大前提だ。
 存在の始まりと終わり。では、終わりとはなんなのか。なにをもってして終わりとするのか。
 最小単位から考えれば、原子となるだろう。
 最大単位から考えれば、宇宙となるだろう。
 しかし、直死の魔眼はそんなものは見ない。見えない。見せない。
 その中間の要素であるとしても、人体とて何十億もの細胞から構成されているというのに、見える死は一人に一つだけだ。
 人体を人体として区切るものはなんなのか。例えば右腕ではなく、例えば左足ではなく、例えば心臓ではなく、例えば脳ではなく、それを人の死として定義しているものはいったいなんなのか。
 直死の魔眼は、何を持ってして死を見せるというのか。
 答えはここにある。直死の魔眼が能力者の脳に依存する能力であるならば、それは能力の所有者が認識可能な死でなければならない。
 観測者が、対象の死を定義し、その死を現実のものとするために必要な破壊を見出す能力こそが直死の魔眼と呼ばれる能力なのだ……

「俺はそいつが死ぬとわかってなきゃ殺せない……そういう殺人鬼だ」
 改変すべきは己。それには膨大なエネルギーを必要とする。
 自分がいままで育ててきた価値観を打ち壊し、再構築するということ。岩を殺そうとするなら、岩は死ぬものであると認識できるようにならなければならないということ。
 現実を変容させるのと何もわからない強度で、自分を再構築する。
 魔術というよりは魔法のような。魔法というよりは手品のような。そんな出鱈目な能力を支えるのは、現実に満ち溢れる死を認識する意志。
 じわじわと、ゆるゆると、死が増していく。より強く世界に死を満たす。
 死なぬものなどないと世界を殺す。
 脳髄が灼熱する。普段使わない回路まで利用する反動で、気を抜けば瞬時に焼き切れかねない危険性を感じる。
 熱と共に悪寒を抱えながら、秋葉の死を幻視する。
 その首に死の線が見えた。
「どうやら、私にも死が見えたようですね」
「ああ。これでようやく、イーブンだ。ようやく俺は、お前を殺せるようになった。……決まるときは、一撃だ。油断するなよ」
「兄さんこそ。余裕を見せている場合ではありませんよ」
 言われて、気付く。俺が秋葉の死を現出させている間に、秋葉は……
「これでもう、あなたは動けない。……チェックメイトです」
 周辺一帯に結界を張っていたのか。
 足元からぞわりとした違和感が這い上がってくる。秋葉の言う通りだ。一歩でも動いたなら、俺は即座に焼き殺される。
 おそらくは、すべてが牽制。最初の立会いの熱波も、先ほどの熱刃も、すべてはこれに繋げる布石。
 秋葉の攻撃は銃撃のように放つものだと思わせるための攻撃だったのだ。
 ただ俺が秋葉の死を見るために足を止め、結界で囲むことができるこの瞬間を作り出すために。
「……さすがだな。確かにこれじゃあ、動けない」
 ちりちりと脳が痛む。出力はまだ臨界に達していない。まだだ。まだいける。
「兄さんの体術は厄介ですから。でも、足を止めてしまえば、ただの人間と変わらない。ようやく、あなたの望みが叶うんですよ? 少しは嬉しそうにしたらどうですか?」
 ぎしぎしと奥歯が軋みを上げる。まだだ。まだ足りない。秋葉の死を現視できたとしても、これではまだ届かない。
「あなたを殺すために、全力を出しました。……これで満足なんでしょう?」
 拗ねるように、怒るように、秋葉は言う。
 どうしても殺してやるのだと、その声が物語っている。ここまでスイッチが入ってしまえば、いまさらなかったことになどできはしない。
「ああ、そうだ。俺もお前を殺すために全力を出せた。これで満足だ」
 最後の手段は、ただ一刀の元に秋葉を沈めること。だがそれはできそうにない。
 たかが数メートルの絶望的な距離を踏破することはできない。で、あれば。
「だが俺は、まだ終わっちゃいないぞ……!」
 最小限の動作で、ナイフを地面に突き立てる。
 確かな手応え。足元から伝わる違和感は消えた。
「まさかっ……!」
「殺せないものなんてないんだよ……っ!」
 いくら結界を張ったとしても、それもまたただのエネルギーにすぎない。エネルギーに死という概念はないかもしれないが、枯渇することはある。
 では枯渇こそが死なのだと、ただそれだけのことだ。
 動揺する秋葉に向かって跳ぶ。刃はその首に届いた。

「……殺すんじゃなかったんですか?」
 秋葉は冷静に答える。
「……ああ。そうだ」
 秋葉を押し倒し、馬乗りになってその首にナイフをあてがいながら、引ききることもせずに秋葉と見詰め合う。
「お前だって……いま俺を殺せたはずだ」
 一息以上の間があった。それだけの隙があれば、秋葉にだって俺を殺せた。
「……そうですね。やはり私は、化物にはなりきれなかったということなんでしょうね」
 諦めたように目を閉じ、嘆息する。
「そうだな。……俺も、殺人鬼になりきれなかった」
 立ち上がって、ナイフをしまう。秋葉に手を貸して立ち上がらせて、その服についた埃を払う。
「ごめんな。痛かったか?」
「ええ。でもまあ……いいです。許してあげます」
 微苦笑を浮かべて、秋葉はされるがままになっている。俺は無心に埃を払う。
「よしと。これで綺麗になったな」
「兄さんは、埃塗れですよ?」
「いいんだよ。俺はいいんだ」
 秋葉が綺麗なら、それでいいんだ。
 壊れないものなどなにもなく。殺せないものなどなにもなく。
 ただ、殺したくないものだけがある。それでいい、と思う。
「……秋葉」
「なんですか? 兄さん」
 にっこりと微笑む秋葉の肩に手を置き、強引に唇を奪う。
 秋葉は何も言わずに目を閉じ、それを受け入れる。
 絡み合う舌。柔らかな吐息。脳髄が痺れる程、甘い唾液。
 どれぐらいそうしていただろうか。息が止まる程の時間が過ぎた後、そっと唇を離し、激しく秋葉を抱きしめた。
「もう……もう死なないでくれ……俺に……俺にお前を殺させないでくれ……」
 言葉もなく、音もなく、ただ涙を流す。嗚咽を堪え、苦鳴を噛み殺し、絶望を押しのけて、秋葉を抱く。
 その確かな感触に、また涙を誘われる。俺はいつからこんなに弱くなってしまったのかと嘆きながら、化物を殺せなかった殺人鬼は、己にも殺せないものがあるのだと、無感情な殺人機械ではないのだと思い知らされた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん……ごめんなさい……」
 最初に諦めたのは秋葉だ。最初にそれを望んだのは秋葉だ。
 俺は結局秋葉を殺せなかったけど……それを望んだのは、秋葉だ。
 責められるべきは自分かもしれない。秋葉の望みを叶えられなかった自分かもしれない。
 秋葉が吸血鬼となろうとしていた時、その前に殺すこともできず、ただ抱いた。殺すこともできず、見守ることもできず……ただ、自らの願望を叶えた。
 ずっとそうしたかった。それは言い訳にもならない。そんな浅ましい欲望を受け入れて、秋葉は死んだ。
 仮死状態になった、というのが正確なのかもしれない。吸血鬼の毒素を駆逐するために、生体機能すら停止させた。琥珀さんが見ても死体にしか見えなかったというのなら、それは完璧な擬死だったんだろう。
「私は……私はずっと、考えていたんです……私がいないほうが兄さんにとってはいいのではないかと……私こそが兄さんの足枷になってるのではないかと」
「……なにをバカな」
「ええ……バカでした……でも、それでも、私が昔、あなたを殺したのは事実なんです。四季に殺されてあなたの命を奪ったのは事実なんです。……あなたに翡翠を殺させたのは、私なんです」
 どくん、と鼓動が跳ねる。
 翡翠、という聞き慣れない名前に対する反応としては、あまりにも……あまりにも過剰なその反応は。
 その言葉が事実だと俺自身が裏付けていた。
「だから……だから、今回の事件の責任は、すべて私にあるんです。だから私は……」
「秋葉、もしかしてお前……最初から四季を……?」
「そうです。私は四季を殺すために……殺された復讐を果たすために、殺させた贖罪を果たすために四季を追っていました」
「それで……帰りが遅かったのか。じゃあ、なんで……?」
「四季に血を吸われたのか、ですか? それは……」
「それは、私のせい、ですよね」
 涼やかとさえ呼べる一言。世は並べて事もなしとでも言うかのような微笑を浮かべて、琥珀さんが現れた。

 それを考えなかった、といえば嘘になる。
 琥珀さんは、絶対に今回の騒動に関わっていると思っていた。それも、限りなく核心に近い位置において。
 でなければ、四季が重要視するはずがない。たかが歌一つで、四季が動きを止めたはずがない。
 歌の内容がどうこうということではなく。それを歌っていたのが琥珀さんだからこそ、四季はその手を止めたはずなのだ。
 あれは特別な歌じゃなかった。特別ではないことが特別な歌だった。
 子守唄。ただそれだけのもののはずなのに。
「秋葉様は、やっぱりご無事だったんですね」
 その微笑みは嘘だ、と直感する。いつもとなんら変わりない笑顔だというのに、薄皮一枚被っただけの無表情だ、と直感する。
 こんなものが本当に琥珀さんだと言うんだろうか。
「あなたにはわかっていたんでしょう? 琥珀。それとも、お父様と呼ぶべきかしら?」
 ……は? 目の前にいるのは琥珀さんだ。親父……遠野槙久であるはずがない。秋葉はなにをとち狂った事を……
「ふむ。四季すら欺いたというのに、お前には効かないか。さすがだな、秋葉」
 姿形はそのままに、琥珀さんはまったく別の物に変貌していた。
 これはなんなのかと。そう言いたくなるような呆気なさで。
「私の能力を誰よりも理解しているのはあなたのはずです。あなたはそこまでして……実の息子を殺してまで、対退魔の化物を作りたかったんですか?」
「目的までお見通しか。やるじゃないか」
 俺、は。俺の役割、は。
 秋葉の抑止力、ですらなく。秋葉に殺されるためだけの存在だったと、そういうことか。
 殺されるために生かされたというのか。殺されるために……何度も殺されかけて強化されたというのか。
「戦闘力に欠けた臆病なお父様が兄さん……志貴を引き取る理由は、他にありませんから。でなければ、なぜ七夜を滅ぼしたのか。退魔の一族を滅ぼし、退魔の一族の子供を引き取り、退魔の能力者として育てる……あまりにも簡単な矛盾じゃないですか。いくら私の護衛として育てたといっても、無理があります。志貴を必ず護衛役として教育できる確証でもない限り、お父様がそうするはずがない……では、なんらかの目的があったと考えるのが自然でしょう? 例えば、私に志貴を殺させるため、とか」
 秋葉はなんでもないことのように言い放つ。その実、俺の心は千路に乱れていた。
 俺は俺の意志で秋葉を守ろうと思い。俺は俺の意志で秋葉を殺そうと思い。それらのすべてが、遠野槙久の手による策略だったというのなら。
 そんなものはとうの昔に受け入れたはずだったのに、愕然としている自分がいた。
「その計画も、四季の暴走で狂いが生じてしまった。対退魔の化物で分家を制圧して、さらなる勢力の拡大を目論んでいたというのに、暴走した四季に殺されてしまった。あなたはあまりにも脆弱すぎた。でもそんなことはわかりきっていた……だから、琥珀と翡翠という感応者を自分のバックアップとして用意していた。感応者の能力は定義が曖昧で、どう動作するのかも不明でしたが……魂を媒介として命を操るんですね? 翡翠はそうやって志貴に命を提供し、お父様は琥珀の魂に寄生することによって生き長らえた。……なんておぞましい」
 最大級の嫌悪と侮蔑も顕わに、秋葉は吐き捨てる。
 寄生……そうか、なるほど。その一言で納得がいった。
「そこまでわかっている、ということは、私がなぜ姿を現したのかもわかっているな?」
 琥珀=槙久は余裕のポーズを崩さない。可憐な琥珀さんの顔が邪悪な槙久の意志に歪められている様は見るに耐えなかった。
「当然です。私は対退魔の化物として完成しなかった。四季に吸血までさせて覚醒させたというのに……皮肉にも、私を対退魔の化物として成立させ得る能力こそがそれを阻んだわけですが。なら自分がそれとなればいい。琥珀の魂を踏み台にして、私の身体に自分の魂を移植する……純粋に魂同士の競い合いであれば、肉体的な強弱は関係ありませんから。琥珀のバックアップを受ければ、お父様が勝つ公算が高い。そう考えたのでしょう?」
「大したものだ。いつから気付いていた? わかっていながら罠にはまるほど愚かでも無謀でもなかろう……四季に血を吸われてからか? でなければ辻褄が合わないな。たったそれだけで、私の存在を看破したか。惜しいな……実に惜しい。その能力を遠野家のために……」
「遠野家のために発揮したなら、生かしておいてやったのに、ですか?」
「そうだ。私とて、なにも好きでお前を壊そうというわけではない。お前が対退魔の化物として完成していたなら、ただ私に従えばよかったのだ」
 それは結局、秋葉の自由意志など認めないということじゃないか。
 なんだろう。気分が悪い。
「そんなことはできません。それに、簡単な話じゃないですか」
「簡単、だと?」
「あなた以外の誰がこんな陰湿な計画を考えるというんですか?」
 その痛烈な皮肉に、琥珀=槙久は
 笑った。
「なるほどなるほど……確かにその通りだ。分家連中に出来る芸当ではないし、そもそも分家連中の動きであればお前にわからないはずがない。私の死後、分裂するかと思われた一族を纏め上げた手腕を持ってすれば、連中が何をしようともお前にわからないはずがないからな。そうなれば、残るのは死んだ私ぐらいしかいない、か。どれほどありえなかろうと、最後に残ったものが真実、とはよく言ったものだな」
 出来のよい生徒を誉める教師のような笑み。
 悪趣味な男だ。吐き気がするほどに。
「ずいぶんと余裕ですね」
「うん? 当然だ。お前たちはこの身体を、琥珀を殺せはしない。確かに琥珀を殺されれば私も共倒れだが、お互いを殺せなかったお前たちにそれができるはずもない。お前達が何も出来ないでいる間に、私は秋葉、お前の肉体を乗っ取ればいいだけの話だ」
 簡単に言ってくれる。事実、簡単に出来ると思ったからこそ出てきたのだろう。
 最後の最後で詰めの甘い男だ。俺に琥珀さんが殺せないと本気で思ったのか。
「いざとなれば、琥珀を人質に取ればいい、ですか。……本当、骨の髄まで腐った人ですね。生き汚さもそこまでくれば芸のようです」
「ふん。誉め言葉と受け取っておこうか。それもこれも、遠野家のため、遠野本家の正統を維持するためだ。生意気な分家が台頭しようとするならば、力でもってこれを制圧する。人に混じって生きるようになって幾年月、遠野寄りの血は健在だ。お前たちの代で先祖帰りすら起こした。ここからだ。我々はここから始まるのだ」
 くだらない妄執、と切って捨てるには、その執念はあまりにも強烈だった。
 なにが槙久にそこまでさせるのかは知らない。知りたいとも思わないし、知りたくもない。遠野家は現時点で隆盛を誇っているのだから、再興を願うというわけでもない。ただただ、さらなる富、名声、権威のために、手段であるはずのそれを目的化してまで追い求めているにすぎない。
 そんなくだらないもののために秋葉は死に、四季を殺し、……翡翠を殺したというのが心底頭にきた。
 頭がぐらぐらする。全ての事象が整理されて、これが真実の姿だと言わんばかりに展開していく。
 それはおかしい。これはおかしい。こんなことはありえない。
 次から次へと嘘八百を並べられている気がしてならない。本当は翡翠が生きていると言われたら信じてしまいそうなほどに。
 もうなにも信じられない。ただ目の前にいる存在が邪悪なことだけは理解した。
「さあ、その身体を明け渡すがいい。私の能力とお前の能力が合わされば、この地上に敵はない」
 槙久の能力、とぼんやりと考える。他人の感情を読み取る能力、だったか。精神を同調させれば記憶を読み取る事も可能だと言うが、そこまでの同調をしてしまえば自我にすら影響を及ぼす。自分と他人の境界線を定義出来なくなる。記憶の改竄も、魂の乗っ取りも、それを突き詰めた能力と考えればわかりやすい。
 直死の魔眼も似たような性質を持っている。あまりにも深く死を理解してしまうと、リミッターを越えた瞬間死に至る。……いや、死と同化してしまう。
 だからこそ死を望むと同時に酷くそれを畏れている。能力を使えば使うほど死に侵食され、殺人鬼となっていくことも最近になって理解した。
 能力によって磨耗した精神を死が代替していく。代替された死が増えれば増えるほど能力は強化されるが、それは加速度的に精神を磨耗していく事に他ならない。
 俺の精神はすでに半分が死で満たされている。この先、もう長くはない。
「いい加減にしやがれ、このイカサマペテン師が」
 唾棄して、ナイフを構える。見たいものはもう見えている。
 それが他人に死をもたらすと同時に自分に死をもたらすものだったとしても、構うものか。こいつは踏み込んではならない領域に土足で踏み込んできたのだから。
「御託はどうでもいい。つまりあんたは俺の敵で、秋葉の敵ってことだろ? 秋葉を殺して、四季を見殺しにして、俺を殺人鬼に仕立て上げた。なら殺してやる。あんたがなにを作り上げたのか思い知りながら……死ね」
 槙久は俺の能力を知っている。それなのに俺の前に出てきた。となれば答えは一つだ。
 槙久は俺の能力を誤解している。死を見る能力ではなく、破壊をもたらす能力程度にしか認識していないということだ。
 奴にとって俺の価値とはそういうものだったということだろう。それはいい。それ自体はどうでもいい。
 奴は琥珀さんを殺さなければ自分を殺せないと誤解している。
 そんなバカなことはない。それが出来ずしてなにが直死の魔眼か。
 生きているなら神すら殺す。絶対死こそが我が力。
 魂をすら打ち砕く、死の顎をしかと見よ。
「なにを……」
 必殺の気配を読み取ったのか、琥珀=槙久は怯えながら後退する。
 遅すぎる。一歩の後退の間に三歩を踏み込む。神速の体術から逃れる術はない。
「あんたはやりすぎた」
 ナイフは深々と琥珀さんの心臓を貫いた。

 夢を見ていたような気がする。
 底無しの悪夢を見ていたような気がする。
 どこまで行っても救いがない。辿り着いた最果てにすら救いはなく、歪み、壊れ、死に至る。
 それは絶望だと誰かが言っていた。死へと至る病の別名を絶望というのだと言っていた。
 では死を見続けてきた自分にあるものは、死への道程を観察し続けて来た自分にあるものは、紛うことなき絶望以外にはありえないのではないだろうか。
 この道の果てにあるものは死以外にありえないのだから。そこに至るまで、ただ絶望していくことしかできないということか。
 しかし、絶望など生温い。生きている以上、誰もが絶望しているというのに、ただ死を見据えただけで、それの何が変わるというのか。
 だからこれは絶望などと呼ばれるものではないのだ。絶望に似た、絶望ではない、絶望以外の何か。
 まさしく死としか呼べないようなものが、虚ろな器を埋めていく。
 それが満ちた時、自分は死ぬ。それはわかっていた。
 自分はそれを認めるのか、ということだけがわからなかった。

 午睡から覚める。西日が眩しかった。
 気が抜けているなと嘆息しながら、身体を起こす。
 対面のガーデンチェアには秋葉が腰掛け、本を読んでいた。
「ずいぶんとお疲れのようですね」
 皮肉、ではないはずなのに皮肉に聞こえてしまうのは、立場上の後ろめたさが加味された結果なんだろう。秋葉は学業と遠野家の当主という激務をこなしているというのに、自分はだらだらと学生しかしていない。
 まあ、手伝おうと思ったところで手伝えるようなものでもないけれど。幼い頃から帝王学を学んでいた秋葉と自分では、あまりにも格が違い過ぎる。
「なんだか気が抜けた。俺はずっと知らなかったんだぜ? 翡翠が生きてるって」
 それを言ったら、そもそも翡翠の事は覚えていなかったのだが。
「ずっと入院していましたし。私はてっきり、顔を合わせづらいからお見舞いにも行かないんだと思っていましたけど」
 それはまあ……確かに、そういうのがないとは言わないけれど。
 俺の記憶の中では、あの少女は俺に殺された。すでに死んだと思っていたんだから、お見舞いもなにもあったもんじゃない。
 事の真相は、こうだ。俺は秋葉に命を奪われていた。奪われていたのなら、それを補完してやればいい。
 しかし、そもそも死んでいなかったんだから、命を丸ごと補完する必要はない。秋葉も命をすべて吸い上げることはしなかった。
 結果、三人で二人分の命をシェアリングしているような状態になった。秋葉は化物の血を抑えるために余分にエネルギーを必要としたため、それが身体能力に影響して熱を出しやすくなっていて、その分のエネルギーを補助するために、翡翠は入院していなければならないほど、弱っていた。
 しかし、秋葉は四季に血を吸われたことで一度完全に死に、化物の血で蘇った。そのお陰で、翡翠も俺に命を提供し続ける必要がなくなった。
 その話を秋葉に教えてもらったとき、命ってのは簡単に足したり引いたりできるもんなんだなあと見当違いなことを思ったことを覚えている。
 まあそんなわけで、もうすぐ翡翠も退院してくるらしい。
「記憶もおかしなことになってたしなあ。俺を殺人鬼として成立させるために、不要な記憶を削った、なんて言われても、マジかよとしか思えないし」
 削り方がおかしかったのは、選択基準が曖昧だったからだろう。殺人衝動を強く感じている記憶だけを残す、なんて芸当は、さすがの親父でも不可能だったらしい。
 お陰でいまだに記憶はちぐはぐだが。日常生活で困るほどの影響はない。
「能力の強化が狙いだったようですけど。最高の敵を用意するために、なんて、それに殺されてるんだから世話はないですね」
 女王様然とした微笑み。何が怖いって、絵になるのが怖い。
 親父……と呼ぶか、槙久と呼ぶかはいまだに悩みどころだが……に関しての秋葉のコメントは、至って簡潔だった。
『大嫌い』
 まあ、そんなものだろう。
 秋葉にしてみれば、実の父親のはずなんだが……そういうのは、まともな愛情を育める家庭で言うべきセリフか。殺すだの殺されるだの支配するだのされるだのが蔓延しているような環境で、この程度のひねくれで済んだんだからマシなのかもしれない。
 だが、それでも。
「四季は……」
「……あの人は、手遅れでしたから。いえ、あの人がああなってしまったことが発端ですから。……どうしようもなかったんです」
 秋葉とて、四季のことは嫌っていなかった。槙久に関しては嫌悪の情を隠さないが、四季の話になると、いつも寂しげに微笑む。
 四季が悪かったわけじゃない。俺も、秋葉も、それはわかっている。わかったからといって、どうにもできないこともある。
 言葉にすると、運が悪かったとか、そういう事になってしまうけど。
 ほんの少し、何かが違ったならこんなことにはならなかったんじゃないのかと。そう願わずにはいられない。
 それは弱さなんだろう。その弱さがあるから、俺は人間でいられる。
「あいつ、俺の事を殺した、ってずっと言ってたけど……あれも記憶弄られてたってことなのか?」
「さあ……真相はすでに闇の中、としか言えませんが……四季が本当に殺したかったのが兄さんだった、ということであれば、わかるような気がします」
 ああ……それは、わかる気がする。四季はずっと、俺を殺したかったんだろう。
 秋葉を殺したかったのは、兄として妹が不憫だったから。
 俺を殺したかったのは……俺に殺された、最後の瞬間の呟きが、その動機になるんだろう。
 お前のことが好きだったんだと言われても、困る。困るけど、それなら仕方ない、とも思った。
 俺と四季は、あまりにも違いすぎた。違いすぎたからこそ、お互いを認め、お互いを認められなかった。
 好きとか嫌いとかいう感情を越えたところで、俺たちは親友だったんだと思う。
「シエルとアルクェイドは、結局どうしたんだ?」
「……その事に関しては、まだ釈明を聞いていませんが……ロア、でしたか? それの作ったグールがまだ少し残っているので、それを一掃するまでは逗留している、とのことです」
「……釈明ってのがなんのことかはわからんが……そうか」
 アルクェイドが妙に馴れ馴れしかったことをまだ怒ってるんだろうか。
 何が気に入ったのかはわからないが、やたらと絡んでくるわ、しまいには私の下僕にならないかと言い出すわ、秋葉はぶち切れモードだったが、アルクェイドはそんなものはお構いなしに始終上機嫌だった。
 一方のシエルは、仇敵(というよりは怨敵か)を自分の手で始末できなかったことに不満があるようだったが、それに関しては特になにも言っていなかった。あまりにも無表情すぎて、絶対に満足も承服もしていないのは丸わかりだったが、だからといっていまさらどうしようもない。
 最初は怒っていたはずの秋葉は、二人を連れ出してどこかに行ってしまったので、その後がどうなったかは実は知らなかったりしたのだが。どうも女性陣で風呂に入ってたらしい。……いや、どういう発想なのか本当によくわからないんだが。
 風呂上りは実に和気藹々していたが、なんか悪い湯にでも当たったのかと思ったものだ。
 仲が良い分には責める筋合いはないが、なぜこんなにも末恐ろしい予感がするのだろう。
「しかしなんだな。あれだけ大騒ぎして、結果はこれか。大して変わりないんじゃないか?」
 取り立てて変わった事と言えば、翡翠がこの屋敷に帰ってくることぐらいで、俺は殺人鬼のままだし、秋葉は遠野家の血に覚醒して生粋の化物になった。
 ……十分、変わったようにも思うが、表面上はそう大きく変わっていない。
「あら。そうですか?」
 意味ありげに微笑みながら、本を読み続ける。
 俺は席を立ち、秋葉の傍らまで椅子を引いていく。
 覗きこんでは見たものの、なんの本かはわからなかった……まさか、英文だとは思わなかった。
 ふむ、と意味のない嘆息を零して、椅子に腰を降ろす。手の届くところにある秋葉の髪を指に巻きつけ、想像通りの感触を楽しむ。
「もう、なんなんですか?」
 文句を言いながら本を置く。俺の手を止めるわけでもなく、それ以上たしなめるわけでもなく。
「……意外と少女趣味だよな、秋葉は」
「意外とは余計ですっ」
 本のタイトルを見て思わず呟いていた。あまり秋葉と関連付けしにくいタイトルに反射的に出た言葉だったが、まあ、そういうこともあるだろうと納得する。
 鬼の霍乱なんて言ったら殺されかねないが。
「そういう兄さんはずいぶんと子供っぽいじゃないですか」
 ふむ、と髪をいじる手に目を止める。なるほど、確かに。
「琥珀さんは?」
 髪をいじる手は止めない。
「今日、退院だそうです。翡翠と一緒に帰ってくるって、先ほど連絡がありました」
 元より、大した怪我はなかった。槙久を殺すために死の点を突いたが、身体には傷一つつけていない。我ながら神技じみていると思ったが、それができると思っている時はできない可能性など些細にも考えないものだ。
 ただ、槙久に寄生されていたせいか、寄生していたものを無理矢理殺したせいか、衰弱が激しく、翡翠と同じ病院に入院していた。
 今日退院なのか。しかし、どんな顔をして迎えればいいのやら。
「そうか。じゃあ、二人きりも今日までか」
 ぽつりと呟く。ただの本音だったが、ふと秋葉を見上げると、顔を真っ赤にしていた。
「……残念か?」
「そんなことはっ……少しはありますけど……」
 ごにょごにょと、それ以上は言葉にならず、言い淀む。
 いまさら照れる必要もないだろうに。だからこそ秋葉らしいと言うべきか。
 髪から手を離し、席を立って秋葉の手を取り、立ち上がらせる。
「兄さん……?」
「心配しなくてもいいさ。誰がいたって、俺たちは二人きりだ」
 優しく抱き締める。秋葉は、あ、とか、う、とか言ってわたわたしていたが、結局は何も言わずに俺の背中に手を回した。
 言葉はいらない。言葉よりも雄弁なものがこの世にはあるんだから。
 チャイムが鳴る。
「琥珀さんかな?」
「ええ、たぶんそうでしょうね」
「じゃあ、一緒に迎えに行かなきゃ」
 手を繋いで歩き出す。秋葉は嬉しそうに微笑んでいる。
 この思いが言葉にならないというのなら、こうして手を繋げばよかったんだと、ようやく気付いた。
 言葉にするには儚すぎるこの思い。この手を通して君に伝わる体温よりも、伝えきれないこの気持ち。
 愛していると言ってしまえば陳腐化し、口の端に掛けただけで偽物じみて、身も蓋もなくこの世には誠などないのだと思わせる。
 ならばとナイフをこの手に取る。
 言葉にならない真のために、この身に能う全てを為す。
 この命尽きる、その時まで。