言葉にならない。 断章之壱



「あっさり逃がすんだ?」
 アルクェイドが、じれったそうにネロを睨みつける。
「あの少年は、私には関係のないモノだ。私の目的は真祖の姫君だと言ったはずだが?」
 ネロは何をバカなとでも言いたげに睨み返す。
 決め手に欠ける。双方がそんな思いを抱いていた。
 アルクェイドとシエルが組んでいるのだから、戦力としてはネロを凌駕している。これは間違いない。いくらネロが強力だとはいえ、最強の真祖と埋葬機関を敵に回してただで済むはずがない。
 しかし、この二人には連携がない。いくら一時的な協力関係にあるとはいえ、そもそもシエルはアルクェイドに味方する理由が希薄だ。
 ネロがアルクェイドを狙っているというのなら、勝手に戦わせて、生き残ったほうを始末すればいい。それが最も合理的な考え方だし、事実シエルはそうしようと考えていた。
 だからこその、膠着。アルクェイドが勝つにしろ、ネロが勝つにしろ、後に控えるシエルと戦うなら、万全を期していなければならないのは明白だ。
 志貴はシエルとアルクェイドのタッグを疑っていなかったが、この二人ほど、コンビになりえない二人組みもないのである。
 しんしんと、殺気だけが降り積もる。
「ふむ。睨み合うばかりでは芸がないな」
 言いながら、それでもネロは何もせずに、右手を振り上げた。
「……? 何を……」
「まあ、そう急くな。答えはすぐにわかる」
 誰も何も動かない。ただ、ネロの影だけが……
 影だけが不自然に伸びた。
「なっ……!?」
 アルクェイドが慌てて飛び退く。しかしそれも間に合わない。
 影はアルクェイドの影を絡め取った。
 絡め取られた瞬間、アルクェイドの動きが止まる。
「見よう見真似でやってみたが、できるものだな」
 冗談のように冗談のようなことを言いながら、ネロはコートをまくり上げた……いや、内から飛び出したモノドモが、それを押し開けて弾け出た。
 溢れ出た闇が夜を制圧する。それは犬の姿をしていた。それは鰐の姿をしていた。それは烏の姿をしていた。それは獅子の姿をしていた。それは虎の姿をしていた。それは狼の姿をしていた。それは蜥蜴の姿をしていた。
 どれもが尋常な動物の姿形をしているというのに、それらはすべて闇で出来ていた。
 混沌。その二つ名が頭をよぎる。
「隙は一瞬でいい。……我々の戦いとはそういうものであったな?」
 言い換えるなら、攻撃はただの一撃でいい。有効な初撃を繰り出すことができたなら、後はその圧倒的な破壊力で蹂躙してしまえば事足りる。
 ただの一撃。確かにネロはそれを決めてみせた。
「混沌の海に溺れるがいい」
 噴出した闇がアルクェイドを覆い尽くした一瞬。ネロは淡々と勝利宣言を上げた。
「その程度で殺せるのなら、私が殺しています」
 シエルは溜め息を吐いて、首を振った。ネロともあろう者が、なにを甘いことをとでも言いたげに。
 ネロが疑念の眼差しをシエルに向けたその瞬間。
 闇が爆ぜた。
 あまりにも唐突な変化に、ネロでさえ対応できなかった。
 爆ぜた闇の奥深くから、金の瞳を輝かせたアルクェイドが、月光を背負って跳躍していた。
 美しい。誰もがそう感じただろう。強いということは美しいということなのだと、とうの昔に人を辞めたネロでさえ感じ入った。
 美影身は鮮やかにその右腕をネロの胸に突き立てた。
「……手応え無し、か」
 わかりきっていたとでも言いたげに舌打ちして、アルクェイドは飛び退く。右腕に残る異様な感触に薄気味悪さを覚えながら。
「お互い、決め手に欠けるようだな」
 顎に手を当てて考え込むポーズを取る。手と言いつつ、それは手のような闇でしかなく、ただ顔の一部が闇に紛れただけ、とも言えるが。
 ネロの攻撃……攻撃と呼ぶにはあまりにもいい加減な攻撃……では、アルクェイドの動きを止めることは出来ても、止めを刺すことが出来ない。
 一方のアルクェイドも、ネロの本体から分化した混沌を始末するのは造作もないが、ネロ本体に対しては有効打がない。混沌それ自体を滅するようことは、いくらアルクェイドとはいえ簡単にはいかない。
 となれば、それ以上の攻撃を繰り出さねばならず。そうすれば、シエルに狙われる。
 一瞬の隙ですら決着がついてしまうのだから、それ以上の隙を見せるわけにはいかない。
 最初の一手を打ったのはネロだったが、状況は変わらなかった。
「では、私の出番ですね。アルクェイドは下がってください」
 淡々と、シエルが前に出る。
 共闘する気はないらしい。しかし、相方を襲う気もないようだ。
 そうなれば、この戦いは、やはり二対一になる。一対一対一の状況と比べれば、圧倒的にネロが不利だ。
「二人掛りじゃなくていいのか?」
 ネロの挑発に飛び出しかけたアルクェイドだったが、それよりも速くシエルが一歩踏み出してそれを防いだ。
「一人も二人も同じことです。混沌を始末するには私達も準備不足ですから」
 私達、の部分をやけに強調しながら、シエルは得物を振り上げる。
 右手に四本、左手に四本、それぞれ黒鍵を構える。刃渡り一メートルにも及ぶそれを軽々と扱うのは、シエルが尋常ではない膂力の持ち主であるというよりは、それが魔術によって構成された概念武装であるからに過ぎない。
 その一本一本が、並の吸血鬼であれば六度殺せる威力を有している。しかしそれでも、ネロに対しては有効打にはなりえない。
 なりえないとわかっていて、シエルはそれを選んだ。なにか理由があるのだろうか。
「それでも戦うというのか? ……解せんな」
「いまの目的は、時間を稼ぐことです。混沌がどう今回の事件に絡んでくるかは知りませんが、ロアを殺すまでの時間を稼げば、とりあえず私の目的は果たせます」
「お前達がここにいるのに、ロアを殺すだと……?」
「もっとも……わざわざ自分から現れてくれた死徒を見逃すつもりもありませんが」
 宣言と同時に、両手の黒鍵を投擲する。迅雷の速度でネロへと疾った黒鍵は、狙い違わずその胴体を串刺しにし、爆散した。
 ネロの身体が膨張する。二倍……いや、三倍にも膨らんだそれは、しかし弾けることなく収縮した。
「獣王の巣……厄介な固有結界ですね」
 それほど残念そうには見えない。もっともシエルの場合、本当に残念に思っていないのか、それとも最初からこうなることも計算していたのかは区別しづらいが。
「そりゃそうでしょ。これだけの固有結界を自在に操るのなんてネロぐらいだし。まあ、それだけの固有結界になっちゃったせいで、逆に内部制御はできないみたいだけど。制御するために制御を手放すなんて、酔狂な話よね」
「それは違うな、真祖の姫君。私は最初からこれを望んでいたのだ。原初の混沌の実現……それを望む以上、それの制御など出来うるはずがない。制御される混沌などありえないのだから」
「呆れた。じゃあなに? 最初から制御できないってわかってたんだ?」
「そうだとも。根源へと至る道……これが私の解だ」
「魔術師が望む究極、か。そこまでして至りたいものなのかなあ」
 アルクェイドにはわからない。わかるはずがない。
 真祖は最初から根源の近くに在る。その原理を、自ずから体得している。
 故に答えを知らない。それを言葉にする術を知らない。いや、そもそもそれは言葉にできるようなものですらない。
 ただそれを知っているだけだ。それは、至ったものでなければ理解することができない。
「姫君にはわかるまい……我々のような、生まれた時から見捨てられていた種のことなど」
 ネロは、死徒となる前は、当然人間だった。魔術師などという、いささか人と呼ぶのは躊躇われるモノだったとしても、人だったことに変わりはない。
 ネロの根源を構成するものはそれであり、だからこそ根源に至ろうとする。
 根源を知り得ない身だからこそそれを望むのだとすれば、それはんという……不毛だろうか。
「別にわかりたいとも思わないけど。でも、そうね。私にそれがわからないのと同じぐらい、あなた達にはそれがなんなのかわからないんでしょうね」
 その奇妙な言い回しに、シエルは首を傾げ、ネロは眉をひそめた。
「それはどういう……」
 意味だ、とネロが続けようとしたところで、アルクェイドが遮った。
「わからないでしょ? わからないなら、わからないのよ。聞いたって、説明したってわからない。わかるようなら、そんなのになるわけがない。そうでしょ?」
 それは、否定だった。
 単純で、明快な、究極の否定だった。
 そんなものに至るために死徒になったモノには、所詮わかりはしないのだと。そう決めつけた否定だった。
 それが他の者による否定であったなら、ただの言いがかりだと虚勢も張れた。例えそれが事実だったとしても、否定することができただろう。
 だが、アルクェイドが。真祖がそう言ったのなら、それは紛れもない事実だ。知る者に否定されてしまったのなら、それは……
 唯一絶対の否定になってしまう。
「そんなことが……そんなことがあってたまるものかっ!!」
 これだけの固有結界を創出した。その固有結界を維持するために四桁を越える人間を食らってきた。いや、人間などどうでもいい……この混沌に取り込む価値すらない種のことなど、気にする必要はない。
 ただ食らい、ただ食らう。飢えを、渇きを、満たされぬ思いを満たすかのように。
 ちり、と何かが神経に障った。
 自分はいま何に気付きかけたのか……?
 それを振り払うかのように頭を振り、怒りも一緒に弾き出して、ネロは再び右腕を振り上げた。
「そう。それが正解。そうしなきゃ……あなたはそれのままではいられない。ねえ? フォアブロ・ロワイン」
「その名を……その名を呼ぶなぁっ!!」
 それがどうして激情の引き金を引いたのか、ネロには理解することはできなかった。
 ただ、それを認めてしまえば自分が自分ではなくなることだけは理解していた。
 振り上げた右腕から、ばさばさと鳥が飛び立つ。大きな鳥、小さな鳥、一つとして同じ形のものはなく、何十羽と群れをなして空を舞う。
 夜闇の中に黒い鳥が舞う姿は、誰の目にも写らない。羽音だけがばさばさと空を満たしていく。それはすでに、ネロにすら把握できないものになっているはずだった。
「その能力の最大の欠点は、そこに終始する……自らの内より出でるものを制御できないということ。それを……克服したのですか。そんな方法で」
 シエルが静かに黒鍵を構える。どうやらあくまでもそれのみでネロを制するつもりらしい。
 一方のネロは、余裕の笑みを覗かせながら、シエルを肯定した。
「その通りだ。私は私の混沌の内より生ずるモノを特定することはできない……ならば望みのものが出るまで出し続ければいい。それ以外のものを排除して」
 狂ってる、と低く小さく呟いて、シエルは先ほどと同じように両手に黒鍵を構えた。
 そこまでしてネロは上空に結界を張った。ならばこれから行われるのは……ネロによる殺戮劇だ。
 圧倒的な破壊力を持った抹殺的な攻撃の準備をしているのだろう。
 ではどうするか、など、アルクェイドもシエルも考えはしなかった。
 やりたいことがあるのならやればいい。それを圧倒しなければ、勝機はない。元よりこの戦いには、勝利条件自体が存在しないようなものなのだから。
 つまり……どう戦おうとも、どちらかが消滅しない限りは終わりはない。故に最大級の攻撃を行うしかなく、それを凌いで反撃するしかない。攻撃こそが、最もエネルギーを消費する行動だから。
 そこにあるのは、純然たる力比べにすぎない。技巧も知恵も介さない、ただ効率だけが勝敗の分かれ目になる。
 重要なのは、最大の攻撃の準備中にやられないようにすること、であって、最大の攻撃を放つことですらない。
 そしてネロは準備を始めた。誰にも隙を見せない静かな形で。
 アルクェイドにしろ、シエルにしろ、どちらかが行動を起こせば、即座に対応できる状態のまま下準備をする。混沌を内包するネロならではのやり方と言えた。
「やりづらいなあ……大したものね。確かにこれじゃあ、私は動けない。上に鳥、下に犬……獣で檻を作る、か。皮肉っぽいけど、シャレてるわね」
「ふむ。見抜いていたか。それでも逃げないとはな」
 アルクェイドは仁王立ちに立ち尽くし、シエルは黒鍵を両手にぶら下げて、やはり立ち尽くしていた。
 ネロの左腕より出でた獣が、周囲を埋め尽くそうとしている。気付いてはいたが、それを止めるのであれば、最初から鳥による結界を張ろうとした時点で止めていた。
 空と地面。両方に檻を作っていたからこそ、止められなかった。どちらかの相手をした瞬間に、もう片方から攻め込まれるのは眼に見えている。
 計算された、というほど緻密ではなく、ただそうすることで勝利してきた、経験則のようなものを感じていた。
 ネロはこれに絶対の自信を持っている。空を埋め、地を埋め、獣で囲いを作って、さてなにをするというのか。
 その状態でなお動いたのは、シエルだった。
「そちらが動かないのであれば……こちらから動きます」
 そう言い放って、シエルは両手の黒鍵を振りかぶり、投擲した。
 空に四発。地に四発。
 それらは狙い違わず空と地に満ちた獣に穴を穿ち……しかしいまさらその程度の数を減らしたところで、全体にはなんの影響もなく。
 当然そんなことは理解していたシエルは、投擲直後にはすでに新たな黒鍵を構え、再度投擲していた。
「うわあ……無茶苦茶だあ」
 アルクェイドが、感心というよりは、呆気に取られて呟く。
 まるで小型の竜巻になったかのように、シエルは縦横無尽に黒鍵を投擲する。振り上げた手から黒鍵が飛び、振り下ろした手から黒鍵が飛び、振りぬいた勢いすら利用して両手を振るい、休みなく、遅滞なく、ただひたすらに、穿ち、穿ち、穿つ。
 空が落ち、地は割れた。連投が五十を越えた頃、シエルはぴたりと、その動きを止めた。どれほど獣を潰したところで、その数は変わらない。その不毛にようやく気付いたかのように。
「やはり本体はそこにあるんですね」
 徒手空拳のままひたとネロを見据える。眼光は鋭いが、それでいて本当にネロを捉えているのかと疑いたくなるような茫洋とした雰囲気も感じさせた。
 現実味がない、と言ってしまえばそれまでのような。なにもかも心底どうでもいいと思っているような。
 最初から、ネロなど相手にしていないかのような。余裕ではない、だが余裕としか思えないものを見せ付けていた。
「器を潰さない限り、中身はいくらでも回収可能……そして器には無限に近い許容量、ですか。自分で言っておいてなんですが……確かに準備不足ですね」
 そしてそのまま、ネロに背を向けて後退する。世界そのものに対する興味を喪失したかのように。
 アルクェイドが盛大な溜め息を吐いた。
「やる気ないなぁ……まあ、シエルだししょうがないか」
 入れ替わりに前に出て、アルクェイドは右手を上げて、手招いた。
「なにをする気かはわかんないけど……やってごらんなさい」
 そのあまりにも馬鹿にした挑発に、ネロは会心の笑みを浮かべて、右腕を振り下ろし、左腕を振り上げ、がっちりと組み合わせた。
「fang」
 空が降ってきた。
 大地が押し寄せてきた。
 それらの全てがネロから出でた混沌だった。
 混沌は闇の具現であるかのように、無色の津波となって押し寄せる。
 だが、それ自体は初撃となんら変わりない。より大規模に包囲網を作ったところで、それではアルクェイドを拘束することすらできない。
 では、ネロはその裏でなにを準備していたのか。
 アルクェイドは戦神の如き勢いで寄せてくる混沌を叩き潰し……それが先ほどのシエルと同じ行為だと認めて、嘆息を一つ漏らし、手を止めた。
 ちらりと、シエルに視線を送る。
「まあ、いいや。……次は何が出てくるのかな?」
 混沌に覆い尽くされる寸前。アルクェイドの眼に写ったのは、ネロの組み合わせた手が巨大な牙を持つ獣の顎に変わっていく姿だった。

 アルクェイドのやることはよくわからない、と思いながら、シエルは嘆息する。
 なぜわざわざネロの攻撃を受けているのか。アルクェイドなら、自分がネロを攻撃している間になんらかの手が打てたはずだ。むしろ、そうしてくれなくては、不本意ながらもタッグを組んだ甲斐がない。
 そしていま、自分はネロの攻撃から度外視されている。行きがけの駄賃とばかりに襲いかかってくる混沌を打ち砕きながら、それでもネロはアルクェイドの捕獲に全力をあげていることを理解する。
 そう、捕獲、だ。ネロはアルクェイドを捕獲しようとしている……見たところ、あの混沌の中には、幻想種すら何匹か混じっているようだが、真祖は取り込んだことはないというし、そもそも根源に通じるそれを取り込めば、ネロの目的も叶うということだろう。
 混沌でアルクェイドを覆い、少しの間、その自由を奪う。その上でネロ本体が幻想種の巨大な顎となって、取り囲んだ混沌ごとアルクェイドを食らう……まあ、そんなところだろう。
 外に出すには巨大すぎる、即ち消費が激しすぎる幻想種を、その部分のみ顕現させることである程度の制御を可能にする。アレはそういうものであり、つまりアルクェイドに対しても必殺の威力を持ち得る攻撃だ。
 ただの獣では、いくらネロの混沌に取り込まれているとはいえ、アルクェイドの敵ではない。私ですら容易に圧倒できるそれが、アルクェイドの脅威になりえるはずがない。
 消費の少ない獣を牽制に使い、消費の大きい幻想種で止めを刺す。セオリー通りと言えばあまりにもセオリー通りだ。だからこそ有効だとも言えるが……
 元魔術師らしい。術式に則るかのように、攻撃すら一定の法則に支配される。無貌の徒と成り果てても、それの呪縛からは逃れられないらしい。
 死徒など所詮はその程度ということか。
 擬似死によって永生を得た代償に、魂を固定されてしまう。それは純粋なのかもしれない……だが純粋過ぎるが故に、変わらないものなどなにもない現実の前では歪まざるを得ない。
 純粋なものを純粋なままにしておくのには、この世界は向いていない。
 まあ……だからどう、ということでもないですが、と締め括って、シエルは再び黒鍵を構えた。
 ネロはすでに巨獣の顎そのものになっている。剣を連ねたような巨大な牙を持って、混沌に覆われたアルクェイドに迫る。
 そのぐらいのことは、アルクェイドも想定しているはずだ。牽制攻撃は初撃と変わらないのだから、その後にそれ以上の攻撃があることは誰にでも想像できる。
 だとすれば……獣に飲み込まれる直前の、あの目配せになんの意味があったのか、だが。
 困った事に、あの女は自分のことをそれなりに信用しているらしい。事が死徒狩りであれば、確かにアルクェイドと教会は共闘したこともあった。
 しかしそれは、自分を信用する理由にはならない、とシエルは考える。むしろ個人的な因縁があるからこそ、シエルにはアルクェイドを信用したくない理由がある。
 アルクェイドを認めるということは、ロアも認めるということだ。死徒としてのロアの親であるアルクェイドを認めるということは……そういうことだ。
 それはできない。それだけはできない。それをしてしまえば、自分を否定してしまうことになるから……ロアを否定することで成り立っているいまの私には、それはできない。
 それでもネロは滅ぼさなければならない。ネロを滅ぼすにはアルクェイドを信用しなければならない。
 矛盾の狭間で身動きができない。
 私の身体は、それでも私の心を無視して動いた。
 ネロはアルクェイドを一呑みにした。ただ一つだけ人間を維持している顔が喜悦に歪む。まさか食い散らかすだけで終わりだとは思えないが……ともあれ、術式の基本的な部分は完了したということだろう。
 ここまできてようやく、アルクェイドがなにを考えていたかはわかったが、まさかここまで無茶をするとは思わなかった。真祖の考えることだ、突拍子もないことだろうとは思っていたが、まさかこんな……メリットよりはリスクが高いとしか思えない方法を取るとは。
 こんな事をするやつに人の事を無茶苦茶などと言う資格はない。こんな……こんなバカバカしい方法、作戦と呼ぶのもおこがましい。
 そしてなによりも……この作戦が、自分の信用を前提としているなんて。
 アルクェイドが腑抜けた、と考えることもできるだろう。誰かに頼った作戦を取ることに抵抗がない、ということは、そういうことだ……自分以外に信を置くなど、真祖にあるまじき行為である。
 それを不快とも思わない自分に、少し驚く。むしろこれは……喜んでいる?
 打ち消すように、黒鍵を振るう。アルクェイドを取り込んで沈黙、硬直しているネロに対して、果てのない連撃を繰り出す。
 黒鍵をどれほど打ち込もうとしたところで、溢れ出た混沌が行く手を阻む。そんなことは承知の上だ。一撃。ただ一撃。効くかどうかもわからない一撃を加えることができれば、それで自分の役割は果たせる。
 無心に振るう。ただ振るう。振るうがために振るうが如く、ただ一点を目掛けて投擲し続ける。
 だが届かない。ほんのわずかの距離を阻まれる。たかが獣。されど混沌。自らを守るように主を守り、その身を幾度梳られようとも混沌の器に回帰し、そしてまた、梳られる。
 果てしない。それこそ、未来永劫続くのではないかと思われた。
 十。二十。三十。
 黒鍵は、シエルの魔力によって作られる。一見便利に見えるし、無尽蔵にも思えるが、実際にはシエルの魔力が尽きれば、黒鍵を作り出すことはできなくなるという、至極当たり前な性質を持っている。
 五十。六十。七十。
 シエルの魔力貯蔵量は、並の魔術師の数百倍にも達する。黒鍵のような強力な概念武装をこれだけ作りつづけることができるのは、その異常なまでの魔力量によって支えられている。
 百二十。百三十。百四十。
 どれほど器が巨大だったとしても、有限であることに変わりはない。シエルは先ほども黒鍵を乱発していた。その上さらにこれだけの黒鍵を連発すれば、限界も間近と思われた。
 百八十。百九十。二百。
 息が上がる。ぜえはあと、雑音のような呼吸を撒き散らしながら、それでも黒鍵を振るい続ける。なにを意地になっているのか、と思わないこともない。アルクェイドを吸収したネロの脅威、それを理解しているからこそ、踏み止まっている。
 それになによりも……助けたい、と思っているのだ。埋葬機関の一員である自分が、真祖の姫君であるアルクェイドを。
 馬鹿げている、と否定することもできない。いつからこんな……馴れ合う関係になっていたのか。
 私はずっと、アルクェイドを殺そうとしながらも、ただ単純に……
 アルクェイドに認められたかっただけなんじゃないだろうか。
 投擲が二百五十を数えた頃。一投が届いた。
 巨大な器であったとしても、無限ではない……それはネロにも適用された。
 徐々に再生速度の落ちた獣の隙間を穿って、ただ一投、それは確かにネロの脳天を貫いた。
 ネロは微動だにしなかった。ただ黒鍵が脳天に突き刺さった瞬間、かっと目を見開き……そのまま、内側から裂けた。
 崩壊は一瞬だった。がらがらと、積み木を崩すように零れ落ちていく。
 地面に蟠った混沌の中から、生え出したようにアルクェイドが現れた。不気味な脱出をしてくれる。
 しばし虚脱したような姿勢のまま、硬直する。いまのアルクェイドに近寄るのは危険だ……消耗し、飢えた獣に近づく愚は犯さない。
 なにしろ、ネロに吸収されるのに抵抗し、同時に反撃の一撃を加えるための力を溜め、ただひたすらに外部からの刺激によってネロの力が弱まるのを待っていたのだから。
 外から破れないのなら内から破る。単純な発想の転換だが、そんな方法が有効かどうかすら定かではなかったというのに、アルクェイドはそれを断行し……そして、果たした。
 それができるからこその真祖であり、スレイヤーだ。例えそれがどれほどご都合主義じみていたとしても、そもそもがそれはそういう存在なのである。
 所詮は紛い物である死徒に勝ち目などない。
 ただでさえ、前提が違うのだ。それでもなお真祖を打倒するためには、前提ごとひっくり返す何かが必要になる。
 ネロとアルクェイドが、一対一で対峙していたならどうなったかわからない。ネロは確かに、前提を引っくり返せるだけの準備をしていた。アルクェイドがあれほど消耗しているということは、そういうことである……真祖を吸収できるだけの術を完成させていたんだろう。
 私だけが計算外の要素だったんだろう。もっとも、私がいなければ、アルクェイドがあんな方法を取ったとも思えないが。
 そうなればまた、別の展開を見せていたに違いない。アルクェイドは結局、最強の攻撃を出さずに勝利している。
 手っ取り早く勝つためにそうしただけ。まあ、その程度のことだろう。
 それでも、そうだったとしても、私を頼っていた。あのアルクェイドが。
「……ふぅ。疲れた」
 一つ頭を振って、アルクェイドはこちらに向かってきた。
 瞳の色も、すでに赤い。戦闘態勢は解除されたということだろう。
 いまのアルクェイドなら、私でも殺せそうだ。……最も私も、相応に消耗しているが。
 だからといって、いままでなら警戒を緩めることなどなかっただろう。
 なにが変わったというのか。お互いに。
「なんかさ。……気が抜けちゃった」
 そのままぺたりと、地面に座る。
 気の抜けた笑いを浮かべて、アルクェイドは私を見上げた。
「そうですね。私達がなにをしてもしなくても……あの男はきっと、敵を作らずにはいられないんでしょう」
 誰も彼もが寄ってたかってロアを殺そうとする。自分のことを棚に上げるつもりはないが、よくもまあそこまで誰にでも恨まれられるものだ。
 ずっとずっと、私が追わなければと思っていた。私がこの手で殺さなければと思っていた。そうすることでしか、私自身が救われないと、そう思っていた。
 実際にはどうだろう。それにこだわっていたからこそ、私には救いがなかったんじゃないんだろうか。
 だからといって……
「だからって、ねえ。他人任せにできるような話じゃないのにねえ」
 その通りだ。理屈はどうあれ、自分で片を付けなければならない。ならない、はずだった。
 それでも……あんな殺人鬼に懇願されてしまっては、任せるより他にないと思ってしまった。
 他の誰よりも完璧に殺せる殺人鬼。あれはもう、死を生み出すためだけの存在だ。
 なにがそれを躊躇わせているのかは知らないが、あれが覚醒したなら、何人たりとも死から逃れることは叶わないだろう。
 例え転生を続けるロアだって。逃げられるような代物ではない。
「ずっと殺し続けてきた。これからだって殺し続けるんだと思ってた。殺して殺して殺し続けて……それでも殺して。そんなことしたところで、私があいつの血を吸った事実が消えるわけでもないのにね」
 いまさらなにをしたところで、過去は変わらない。……確かにその通りだ。過去の過ちを消すことなど、なにをしたところで叶うはずがない。
 それでもそうせずにはいられない。それはもう理屈でも理性でもなく、愛や憎しみがなければ支えられない感情だろう。
 それなのに、憎しみなど持たずに殺せる人間がいる。
 それでもう……バカバカしくなってしまった。
「私はずっと、ああだったんだなって思った。シエルを見てたんだから、わかってたはずなのに……私は、私たちは……ずっと、あんな顔をしていたんだね」
 なにも望んでいない顔。ただ壊し、ただ殺すことを目的としている顔。
 その先には何もないんだと伝えたくなるほど。……しかしそれを言えた筈もなく。
 あの男と私が同じだとは思わない。むしろ、似ても似つかないと思う。
 それでも行き着く先は同じ場所だと思った。誰もがおっかなびっくり到達するそこに、あの男だけは嬉々として赴くだろう。
 それ以外はなにも持たないからこそ。どこまでも壊れている者は行き着くしかない。
「こんなこと考えるの、柄じゃないってのもわかるんだけどさ」
 まったくだ。自分にしろアルクェイドにしろ、柄じゃない。
 そんなことを考えていたら、戦えない。戦えるはずがない。戦う相手に同情するような奴が、まともに戦って生き残れるはずがない。
 殺される前に殺す。そういう世界に身を置いている。
「真祖の姫君とて、変わらずにはいられない。それだけのことではないかな?」
 聞き覚えのあるその声に、全身が反応した。
 即ち、戦闘体勢へと。
「ロアっ!?」
 アルクェイドも、飛び上がるように立ち上がり、振り返る。
「警戒する必要はない。いまの私には、警戒されるほどの力もないからな」
 ぐずぐずと地面に蟠っていた混沌の残骸の中から、一人の男が生まれていた。
 長い金髪。柔和な笑顔。凶暴性など微塵も感じさせないその男こそ、ミハイル・ロア・バルダムヨォン。その人間だった頃の姿だ。
「私が殺された時のために、ネロにバックアップを仕掛けていたが……こちらもこうなってしまうとはな。計算違いも甚だしい」
 皮肉な笑みを閃かせて、足元を見回す。ネロだったものは、一陣の風に吹かれて、灰となって消え去った。
「そう殺気立たないで欲しいものだな。見ての通り、いまの私はただの残骸だ」
 ロアからはなんの魔力も感じない。それは事実だ。目の前にいるはずなのに、その存在を掴み取ることすら難しい程微弱な気配である。
 しかし、しかし、しかし。
「わざわざ殺されなくとも、もうじき消える。ネロの魔力の残骸が尽きれば、私は私を維持できなくなるのだから」
 魂を扱うことにかけては超一流の魔術師であるロアだからこそだろう。どうやってネロを騙したかはわからないが(なにを代償に持ち出したところで、こんな寄生をネロが承知するとは思えない)、今代の宿主の死を見越して、ネロの混沌の内に自らの魂を紛れ込ませ、本体の死をトリガーにして復活する、という目論見だったようだ。
 ということは、つまり……あの少年は勝ったのだろう。
「それが永遠の夢の末路ってこと?」
「そうだな。そうなんだろう。いまさらだが……いまさらのように、そう思う。永遠などという見果てぬ夢の末路は、この程度のものだろう、と」
 アルクェイドの揶揄にも、苦笑で応える。悪足掻きをするでもなく、なにかを悔いるでもなく、ただ淡々と現実を受け入れている。
 ロアはそんな男ではなかったはずだ。次々と生贄を食らい、自らの生存のために他者の魂を蹂躙し続けてきたような男が、いまさらそんな当たり前のことを言うなんてありえない。
 かといって、なにかを企んでいるようにも見えない。司祭服を纏い、端然とたたずむ姿は、教会に仕えていた頃のロアを想起させる。
「私はずっと、永遠を探求していた。永遠などないと知りながら、他の誰よりもそれを知りながら、それでもなお永遠を……魂の永遠を望んでいた」
 知っていたというのか。それを望んでいたというのに、永遠などないと……知っていたというのか。
 それとも、知ったのだろうか。希求の過程において、それを知ったのだろうか。
「魔術師としても、司祭としても、私は半端だった。どちらにもなれなかったと言ってもいい。私は自らの本義を定義し損ねた……そうしてアルクェイド。お前と出会った」
 アルクェイドと、ロアの出会い。それは私も知らない。ロアの知識を有していても、アルクェイドとの出会いに関する記憶は、厳重に封印されていた。
 ロアにとってそれは、秘さなければならないほどのものだったのだろう。そこにはなにがあったのだろうか。
「私も魔術師だ。ネロと同じく、根源を追求し、魔法を研究した。魔法に手が届きさえすれば、根源に至ることもできるだろうと信じて。しかし私は、それの限界にも気付き始めていた。魔法というものは、そもそもが魔術師の至れるものではないことに。そうして私は……狂った。アルクェイド。根源に通じる真祖の姫君によって」
「なにそれ。私が悪いわけ?」
 憮然として、アルクェイドは唇を尖らせる。愛しいものを見守る柔らかな眼差しで微笑みながら、そういうことではないんだが、とロアは言い訳する。
「ショートカットだったんだよ。私には、お前こそがゴールに思えた。お前を手に入れることができれば、私は私の求めるものが手に入ると……そう思った」
「わからないなあ。根源に通じてるモノと、根源に通じるコトは別でしょ?」
「そう。その通りだ。そして、根源に通じている者が必ずしも根源を理解しているわけでもない。いや、根源を知る物を知りながら、結局それを理解できなかった私には、どうあっても理解など出来なかったんだろうな」
 ロアは、元司祭だ。しかも、埋葬機関のかなり高位の位置にいた。だからこそ、吸血鬼殺しであるアルクェイドのことを知っていたし、それに近づく方法もあった。
 そして、埋葬機関の者は、許可さえ得られれば、原典の閲覧が許される。神に通じる唯一の聖書と呼ばれるそれには、根源について記されていると言われていた。
「私はそれが認められなかった。プライドだけが高かった、とも言えるかもしれない。なにをやっても人並み以上に出来た。出来ないことなどほとんどなかった。万能の才能と呼ばれて、それでも私は満たされなかった。私が求めたのは万能ではない。根源へと至ること。そのためには万能など、眼を曇らせるだけのものだったのだから」
「なんだ。わかってるんじゃない」
「わかった、のだよ。ようやく理解した。私は……私は、根源に、神に至ることのできる器ではなかったのだろう」
 魔術師はそれを根源と呼び、宗教家はそれを神と呼ぶ。それがなんなのかなど、結局は誰にも理解できないはずなのに、それでも求めてしまうことをサガと呼ぶ。
 始原であり究極。混沌にして完全。個にして全。天であり地。
 それは言葉になるようなものではない。故に言葉に縛られるものには至ることはできない。
 魂に縛られるロアもまた、至ることができるはずがなかった。永遠の生を選んだ時点で、永遠に至ることのできない道を選ぶことになったに過ぎない。
 空を見上げながら、ロアは溜め息を漏らす。
「私はなにを求めていたのか、といまさらながら思う。私は根源へと至ることを諦めた。諦めていた。諦めたというのに……欲をかいた。望むものが根源へと通じていることを知った時、捨てたはずの夢が首をもたげた。そうして私は……何もかもを破滅に巻き込みながら、行動を開始した」
 根源を求めて、アルクェイドを望んだのではなく。アルクェイドを望んだ結果、根源を求めたということか。
 そうして……そんなもののために、何もかもを犠牲にしたというのか。
 天から視線を引き降ろし、ロアは私を見据えた。
 怖いほどに真摯な眼差し。
「後悔はしていない。謝罪をする気もない。私は一時の欲望のために天にすら弓引いた背徳者だ。許しを乞うことはなく救いを求めることもない。殺すために殺し、奪うために奪ってきた。そうして私は、今を得た。全てだ。全てを代償にして、ようやく私は今を得たのだ」
 その時のロアの表情を言葉にするなら、大歓喜、となっただろう。
 今を得たと言いながら全てを失ったというのに、死を目前にしてロアは何を喜ぶというのか。
「アルクェイド。お前にならわかるだろう? 私はいま、根源に繋がっている」
 なん……だって?
「そうみたいね。理屈は……わかるようなわからないようなだけど。どうしてあなた達は、死を目の前にすると近づくのかなあ」
「我々の概念の中では、死こそが最もそれに近しいということだろうな。我々は死を知らず、死を学ばず、死を盲信し、死を畏れる。拝して遠ざけ、近寄ろうとすらしない。まあ、根源の場合は近づけないんだが……結果的に、それは非常によく似ている」
 似ているだけなら、偽物だ。近しいだけなら、紛い物だ。
 しかし、相似性は類感関係を生む。共通点を持つものは、その本質もまた似るのだ。
 死に近づき、それの本質を感得し、その結果、根源に至ろうとしていたものは、それがなんなのか、糸口を掴む。後は手繰り寄せられるかどうかだ。
 ロアはそうして、ようやく手に入れた……転生の秘術を完成させたが故に遠ざかっていた根源を。
「私も最初は、まさかと思った。なぜいまさら根源に繋がることができるのかと、忸怩たる思いもあった。だが、だが……それを理解してしまえば、なるほどと言わざるを得ない。それはそういうものなのだと、納得するしか、ない」
 苦虫を噛み潰したような。いままでの自分の行動の全てが過ちだと認めるような。
 いまさら……そんなもの、いまさらだ。
「だから……だからなんだと言うのですかっ!!」
 瞬時に精製した黒鍵を振り上げる。
 話などするべきではなかった。ロアの身勝手な理屈など聞くべきではなかった。
 私は最初から、本来の目的通り、ロアを抹殺するべきだった。
「私はここで死ぬということだ」
 諦観ではなく。納得し、理解した上での結論。
 違う違う違う。私が欲しかったのはそんなものじゃない。
 ロアに大往生してもらうために追っていたわけじゃない。
「そんな……そんなことっ……! そんなものっ……! 私が許すと思っているんですかっ!?」
 許せるとでも、思っているのか。
「いいや。お前は私を殺すだろう。なにもしなくても私が死ぬとわかっていても、殺さずにはいられないだろう? それを受け入れるだけの覚悟はある。私がお前にしたことを思えば当然の権利だ。お前は私を殺していい」
 そんなものを受け入れられてしまったら、私はもう……もう、何も叶えられないじゃないか。
 この憎しみはどこに行けばいいのか。
「だったらいますぐ死になさいっ……!」
 しかし、例え殺しても救われない。殺しても、殺さなくても、なにをしても、ロアには意味がない。
 後悔と絶望の果てに死んでもらうはずだったのに、死にたくないと喚き散らしながら死んでもらうはずだったのに、これじゃあ、それじゃあ、なにをしたところで……
 なにもかもを傷つけ、殺し、死なせてきた男が救われて、その男に殺された私が救われない。
 そんなのって……ない。
 黒鍵を振りかぶる。躊躇わずに投擲する。いまのロアを滅ぼすなら、これで十分。この程度で十分。
 この一撃のために生きてきた。なのに心は今にも折れそうだった。
 空気を灼いて飛ぶ黒鍵は、ロアに届く前にアルクェイドに叩き落とされた。
「気持ちはわかるけど。私がこんなことする義理もないけど。それでもあんたは殺さないほうがいい。あんたがロアを殺すのはやめたほうがいいよ」
「いまさら……いまさら止めるんですかっ!?」
 しかも、アルクェイドが。問題の元凶が。何もかもの始まりが。
 どの面下げて私を止めるのか。
「私にしか止められないでしょ? 私が原因なのはわかる。忘れたわけでも、どうでもいいと思ってるわけでもない。でも、だったら、だからこそ。私が止めないといけない。そうでしょ?」
「……責任を取る、とでも言う気ですか?」
「んー……そういうのじゃないけど……ま、それでもいいや。理由がどうだったとしても、あんたにとって違いなんてないでしょ? だったら、理由なんてどうでもいいじゃない」
 ロアを庇うように……というわけでもなく。アルクェイドは一歩、踏み出した。
 私に向かって。
「……かかってきなさい」
 誘うように、手招きする。
 そんな安い挑発に乗る理由など、微塵もなかったというのに……
 私は駆け出していた。

 黒鍵を投擲することはできない。そう踏んでいた。
 それをするには、シエルは消耗し過ぎている。普段なら牽制にすぎない黒鍵も、いまとなっては主力の奥の手だ。それなくして勝利はなく、かといってそれ以外に武器はない。
 一方のアルクェイドはどうかと言うと、これはよくわからない。消耗はしているが、疲弊と呼ぶほどでもない。かといって、余裕を見せられるほどでもなく、なにか特殊な概念武装を持っているわけでもない。
 アルクェイドの能力というのは、端的に言ってしまえば基本性能だ。ただ全ての能力値が圧倒的に高い。特徴はないが、欠点もない。万能に近い能力を万能に近い性能で発揮する。
 全ての攻撃が最強の一撃。そういう冗談じみた化物がアルクェイドだ。
 本来なら、シエルにはアルクェイドに勝つ余地はない。近距離戦を比較的得意とするアルクェイドだが、遠距離戦が苦手というわけでもない。ただめんどくさいからしないというだけで、投擲するのに都合のいい物があれば、なんであれ銃弾以上の破壊を実行するのだから。
 シエルは本来、遠距離戦を得意とする。弓という二つ名が証明するように、投擲武器による殲滅こそが持ち味だ。接近戦など、自らの身を危険に晒す愚かな行為だと端から決めてかかっている。
 だからといって、近接戦闘が苦手というわけではない。ただ、近接戦闘向きの概念武装で使い勝手がいいのがないだけだ。
 武装と能力を見れば、シエルは埋葬機関でもトップクラスである。人の常を越えた非常識さで言うなら、アルクェイドとそう変わらない。
 それでもシエルはアルクェイドには勝てない。シエルも結局は、アルクェイドと同じ万能型なのだ。であれば、アルクェイドに勝てるはずがない。
 劣化版アルクェイドにアルクェイドが打倒できるはずがない。でなければ劣化版であるはずがない。
 前提からして、勝てるはずがないとわかっている。
 しかしいまのシエルには、そんな前提などなんの意味も持たない。
 とにもかくにも、なにかがしたいのだ。憎しみをぶつけるための対象が欲しいだけなのだから、それが誰であっても関係ない。
 それこそ、殺されたってかまわないだろう。ただ憎しみをなくすことができたなら、それでいいのだから。
 そんなどす黒い感情を背負うのは、背負い続けるのは辛すぎる。シエルはそういう人間らしさを色濃く残しているのだろう。
 それも、考えてみれば当たり前のことだが。憎しみを背負い続けられるのなら、なにも憎む相手を追うことなどなく……そもそも、憎むことすらないだろう。
 言ってみれば、憎しみは人の弱さなのだ。憎むことによって救われようとする弱さこそが、憎しみを生み出しているに過ぎない。
 だから、誰かを憎めるというのは、それはとても人間らしい感情なのだ。
 シエルは脇目も振らずにアルクェイドに向かう。いまこの瞬間、シエルの頭にはロアのことすらないに違いなかった。
 それが本末転倒であることすらかなぐり捨てて、シエルはあと数歩でアルクェイドに届く距離から黒鍵を投擲した。
 至近からの投擲攻撃。しかも切り札のはずの黒鍵を。
 これにはさすがのアルクェイドも、面食らった。いきなり黒鍵でめくらましをしてくるとは思っていなかったのだろう。
 アルクェイドは左手で黒鍵の切っ先を摘み止めた。止めたはずの黒鍵が、さらなる勢いを持ってアルクェイドの左手を貫通した。
 シエルは黒鍵を投擲した直後、もう一本の黒鍵を、一本目の黒鍵とまったく同じ軌跡で投擲したのだ。一本目の黒鍵をアルクェイドが掴んだ瞬間、二本目の黒鍵が一本目の黒鍵の柄に当たり、強引に押し込んだ。
 手のひらを突き破られながらも、顔面に突き刺さる前になんとか黒鍵を止めたアルクェイドを、頭上からの斬撃が襲った。
 状況がどうあれ、シエルにとって黒鍵は、飽く迄も消耗品であり、牽制に過ぎなかった。
 本命は、パイルドライバーのような巨大な銃、否、銃と呼ぶよりは、やはり杭打ち機としか呼べない代物。それを振りかぶり、叩きつけるように振り下ろしていた。
 いくらアルクェイドとて、これは防げない。ただでさえ左手は縫い止められ、視界は塞がれていた。それ自体の重量を伴った一撃は、受け止めただけで肉体を微塵に砕くだろう。
 それにそれは、概念武装だ。ただの杭打ち機などであるはずがない。原型すら留めていないほどカスタマイズされているが、転生を否定する第七聖典は、高次の魂を持つ者にも例外なくその威力を発揮する。
 言ってみれば、人間が人間以上の存在を打倒するための秘密兵器。デモンベインやロンギヌスに匹敵する概念武装だ。
 アルクェイドもそれに気付いた。気付いて、右腕を上げ、防ごうとした。
 右腕が消し飛んだ。
 消し飛んだ以上、それ以上アルクェイドを守るものはない。杭はわずかに速度を鈍らせて脳天目掛けて落下し、アルクェイドはそれを避けるようにのけぞり……そのまま回転してシエルを蹴り上げた。
 体術などと呼ぶのもおこがましい。それを言うなら、シエルの動きですら奇術じみているが、アルクェイドのそれは、物理法則すら超越しているとしか思えなかった。
 数メートルも蹴り上げられたシエルは、空中で体勢を整える。落下位置を再計算し、どうすれば第七聖典が最大の効果を発揮するか、追撃の前の牽制をどうするのか、手と言わず腕と言わず、アルクェイドの存在を塵と化すための算段を冷静に積み上げている。
 戦い始めたら、勝てないとは考えないものだ、という。勝つための要素、勝つことのできない要素、なにをどれほど計算したところで、思い通りになるものなどない。勝つための意志を、勝つためだけに維持できたなら、その時初めて勝機が生まれるのだという。
 この二人の間には、それすらないのだ。ただ戦う。ただ滅殺する。相容れない存在だという、ただそれだけのことのために、己の存在のすべてを賭けて駆逐する。
 顔見知りが道で出会ったら、挨拶をする。それと同じぐらいの気軽さで、親の仇……いや、自分の仇に出会ったように、殺し合う。
 この二人の間には理性はない。積み重ねられた不条理だけがある。
 シエルの杭がアルクェイドに迫る。アルクェイドは黒鍵を突き刺したままの左手を振り上げ、その勢いで黒鍵を投擲した。シエルは足で黒鍵を打ち払い、その隙にアルクェイドは右腕を再生し、拳を握り込んだ。
 打ち上げられるアルクェイドの右拳。振り下ろされるシエルの杭。鋼の響きを撒き散らし、アルクェイドの拳は砕かれた。
 アルクェイドは脳天から破砕された。塵も残さず消え失せる。
 後に立ち尽くすは、修羅と成り果てた鬼人のみ。
「さあ……私に殺されなさい。ロア」
「アルクェイドをすら打倒した、か。それがお前の意志であるならば」
 ゆるゆると近づいてくるシエルに対し、いまさらなにかできるはずもない。私はいま、真実無力であるし、いまのシエルを打倒するには、神殺し以上の力を持ち出さなければならないだろう。
 私は私が生存するための術を持たない。である以上、ここで死ぬのは必然だ。
 ただ、待つ。
「逃げてもいいんですよ?」
 勿体をつけるように、ゆっくりと歩く。疲弊しているから、ではないだろう。敵にそんな姿を見せるぐらいなら、死ぬ気でそれを隠し通す。そういう娘だ。
「逃げたところでどうなるものでもあるまい」
 ありとあらゆる能力は消え失せている。魔力が枯渇しているのだから、なにができたところで、それを行使できるわけでもない。
 ネロの残骸から魔力を吸い上げ、この姿を構成まではしたが、それ以上のことはできそうもなかった。
 シエルが目の前に立つ。手を伸ばせば触れられそうな距離にいるというのに、私にはそんなことをする権利もない。
「今この瞬間のために、どれほどの夜を越えてきたでしょう」
 歌うように、囁くように。
「ただ生きることも出来ず、ただ死ぬことも許されず、ただ壊し、ただ壊され、それでも揺るぎなく聳え立つ復讐のために」
 殺気はない。そんな生易しいものなどない。
「私はあなたを殺すために生きてきました」
 断罪する神の如く。
 永遠に届かないものを知っている。
 殺すがいい、と思った。それこそが最後の呪いの鍵だ。
「……終わりです」
 儚く呟いて、シエルは第七聖典を構えた。
 私は目を閉じた。もうこの世界に未練などない。
 生の、輪廻の軛から解き放たれる。そうすることこそが私の望みだったのだから。

 沈黙が場を支配した。
「あーあ、殺しちゃった」
 ひょっこりと、アルクェイドが姿を現す。
 やはり殺せなかったか、と思いながら振り向く。
 瞬間移動だってできる化物だ。あんな一撃で殺せるとは思っていなかった。
 そもそも、手応えなんてなかったんだから。
「わかってたんでしょ? あんたに……第七聖典に殺されることがあいつの望みなんだって」
 そうとも。わかっていた。私がロアを殺す時、そうせずにはいられないことだって、わかっていた。
 私はロアの支配を受けた死徒に近い存在だ。ロアがその気になれば、いくらでも私にその意識を押し付けることができる。
 ロアは絶えず私の憎悪を掻き立てた。私に第七聖典を出させるために、ひたすら挑発し続けた。
 不様に乗せられたのは私だ。
 アルクェイドにも、それはわかっていた。だから私を止めようとした。ロアの挑発は、すべてアルクェイドにも筒抜けだったんだろう。
「私は、期せずして彼を救いました。……それでも、悔いはありません」
 それでも、殺せたから?
 そうじゃない。そういうことじゃない。そんな気持ちじゃない。
 私は、私はただ、これでようやく。
 アルクェイドが目の前まできた。
「うん。そうだね。……頑張ったよね」
 にっこりと微笑んで、頭を撫でてくれた。
 私は。私は。私は。
 あれほど憎んだロアを、許すことができた。
 私はロアを憎みたかったわけじゃない。憎まずにはいられなかっただけだ。
 ロアを殺した瞬間、ロアの望みを叶えた瞬間、憎しみは吹き飛んだ。
 憎しみをぶつけたって救われない。許すことでしか救われない。
 私はようやく、救われることができた。
「泣いても、いいよ。今日ぐらいは、さ」
 アルクェイドに抱きすくめられ、声を上げて、泣いた。