言葉にならない。 断章之弐



 それはまだ、君が幼かった頃の物語。

 一番古い記憶は、ベッドに寝ている記憶だった。
 それ以前の記憶はない。忘れてしまったのか、それとも消されてしまったのか。いまとなっては真実などわかるはずもないが、幼い頃の自分にとって、それが始まりだった。
 それからの記憶は、訓練をしているか、化物と戦っているか、死にかけているかどのどれかだ。学校に通うことはなく(勉強はさせられていたが)、ただひたすらに人を殺し物を壊す技術を叩き込まれた。
 いや、人を殺す技術、というのは正確ではないか。それは、より野蛮に……化物を殺す技術、と称するべきだ。
 当然、勉強もそれに準じたものになる。古今東西の化物(妖怪とか、悪魔とか、魔物とか呼ばれる類)をひたすら覚えさせられた。
 もっとも、記憶に残っているのはそのうちの十分の一にも満たないが。覚える気などさらさらなかったし、名前と特徴以上のものは必要ないとも判断していた。化物の種族、それから類推される能力など、それこそ霞程にも頼りないと、すでに知っていたから。
 しかし、それよりもさらに昔の出来事がある。
 一番古い記憶よりもさらに古い記憶。矛盾しているが、それでも、その記憶こそが原記憶となって、いまの自分を形作っている。
 化物殺しの退魔として育てられる前の自分。それはそう、ただ秋葉と兄妹だった頃の自分。

 窓をノックする。
 少しして、少女の手が恐る恐る窓を開けた。
「兄さん……?」
「そうだよ。さあ、行こう」
 躊躇いなく差し出された手を見つめながら、少女は不安そうに眉をひそめる。
 手を差し出した少年は、不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
 なぜ少女が出てこず、自分の手を取りもしないのか理解できない。少年の眼差しに応えるべき少女は、愛らしい瞳を閉じて首を振った。
「行けません。私が行ったら……兄さんは、また叱られてしまいます」
「そんなこと気にするなよ。俺らは好きでやってんだから」
 少年の背後から、もう一人、少年が姿を現す。顔形はあまり似ていない。雰囲気とて似ているとは言い難い。
 それなのに、二人はよく似ていた。双子は無理としても、兄弟だと名乗れば誰もが信じるほどに。
「でも……」
「四季の言う通りだよ。これは、僕達が好きでやってるんだ。秋葉だって、外で遊びたいだろ?」
 少年、志貴がにっこりと微笑む。迷いも打算もない笑顔の前では、少女、秋葉の決意など薄氷の如く脆かった。
 秋葉は困ったように微笑んで、志貴の手を取った。
 もう一人の少年、四季は、つまらなさそうにそんな二人を眺めている。雰囲気を作る暇があったらさっさと行動すればいいとでも言いたげに。
 そうして三人は駆け出す。後のことなど考えずに。
 それが彼らの日常だった。

 それをすることになんの意味があったのか、と問われれば、意味などなかった、と答えただろう。否、例え意味があったとしても、そんなことはどうでもよかったのだ。意味なんてものが、自分たちのなにを左右できたというのか。
 彼にとって彼女は特別だった。彼女にとって彼は特別だった。
 ただそれだけ。それ以上のものなどにもなかった。必要すらなかった。
 いまある世界。それが彼らの全てだった。
 それが誰によって作られた箱庭なのかも知らずに。

「お前はなにをやっているんだ」
 男は感情のない声で詰問する。
「なにって?」
 少年は気付かないフリをする。
「決まっている。七夜と友達にでもなるつもりか?」
 自分でそうなるように仕向けておいて、いまさらそれか。
 ……いや、こいつは、秋葉と志貴が仲良くなるようには仕組んだが、自分もそうなるようにとは望まなかった。秋葉には全てを与え、自分には何も与えない。
 秋葉が生まれた時に、そう決めたんだろう。無駄な事はしない。合理主義を徹底する。まるで合理主義に取り付かれたように。
 いまさら財閥の成長を望んでいるのだから、そんなことは言わずもがなだ。すでに十分に財を成しているというのに、さらに、さらに、さらにそれを望む。
 すでにそうすることが目的になっている。目的が手段化してしまえば、目的のない野心だけが不必要に暴走するしかない。
 だからどう、とも思わない。この男がそうしたいのならそうすればいい、と思う。
 母を殺したこの男を父と思う気はない。秋葉を手駒にしようとしているこの男に組する気もない。ただ、血の繋がりのよしみで、直接手出しはしないでやろうと思っていた。
 遠野四季にとって、遠野槙久という男は、ただそれだけの存在だった。
「お前も遠野家の一員だ。秋葉ほどにとは望まないが、志貴程度には役に立ってみせろ」
 あんたはいつでもそうだな、と吐き捨てれば楽になれたかもしれない。秋葉秋葉と持て囃して、俺の能力になど欠片も興味を見せない癖に、成果を出さねば文句をつけられる。
 俺はいますぐあんたを殺せるんだぞ? と、思っても、表面には出さない。俺の殺意を読み取ることのできる能力者に、わざわざ敵意を見せてやる理由もない。
 どうせ親子としての関係など断絶している。この男は、自分の息子ですら敵としてしか認識できない。自分以外の存在は全て敵で、利用すべき駒だ。
 俺はそこまで壊れちゃいない、と思う。思いたいだけなのかもしれないが、例えそうだったとしても、これほど憎い反面教師が目の前にいれば、嫌でも壊れてなんていられない。
 なるほど、そういう意味では親らしいことをしていると言えなくもない。結果的にそうなったとして、そんなものを評価する気は欠片もないが。
 まあ、どうだっていいことだ。俺が何も望まなれないように、俺も何も望まない。それだけの関係であればいい。
「話はそれだけだ」
 それきり興味を失って、槙久は卓上の書類に視線を落とした。
 この男は。この男は、どこまで自分をバカにすれば気が済むのか。どこまで自分を蔑めば気が済むのか。
 どこまで、自分を無視すれば気が済むのか。
 無駄に広い書斎に視線をさ迷わせる。この物言わぬ紙切れの山こそがこの男の牙城なのだろう。他人を信用することのできない男は、独りの世界で完璧を求める。
 その気持ちもわからないでもない。他人の考えが否応なしにわかってしまうのなら、それを信じることなどできないだろう。
 実の息子の俺ですら、敵意以外の感情を持っていないのだから。この世は全て、敵だらけ。それこそが唯一の真実なのだろう。
 ありとあらゆる前提に、悪意が介在している。そう思い込んでいる。世界には利己的な人間しかおらず、誰も彼もが誰かを騙そうとしている。
 哀れな男だ。殺す価値もないほどに。
 この世界がそこまでくだらない世界だとは思わない。思いたくもない。
 どうせ生きているんだから、少しはマシな世界なんだと思わなきゃやってられない。絶望しながら生きられるほど、心が強いわけじゃないから。
 そっちがその気なら、こっちだって好き勝手やってやる。いつもと同じ結論を出して、書斎を出た。
 扉を後ろ手に閉め、そのまま体重を預ける。溜め息を一つ零して、足元を見つめた。
 いまさら、なにを期待しているのか。あの父親になにが期待できるというのか。
 あの男に、なにを求めているのか。どれほど捨て去ろうとしても、どれほど諦めようとしても、それでも……それでも、父親を求めてしまう自分がいる。
 わかっている。そんなことを望むことこそが間違いだということは。
 それでも……一度ぐらいは触れてみたいと。そう、思ってしまう。
 これが弱さなのか。それとも、それ以外のなにかなのかはわからない。
 きっと、ただの悪足掻きなのだ。いまさら正気にすがり付こうとしたり、いまさら家族愛に頼ろうとしたり、そうまでして、俺は俺を捨てたくないらしい。
 なんのために? 所詮、この身以外はなにもない。死んでも持っていけるものなど、なにもない。
 それでもきっと、最後まで俺と運命を共にするこの心のために。
 悔いたり、恥じたりして死ぬぐらいなら、惨めだろうが、みっともなかろうが、足掻きに足掻くと決めたのだ。
 顔を上げる。そこに志貴がいた。
「うわあ!」
 思わず声をあげてしまう。まさかこんな、気配も感じさせずに接近されているとは思わなかった。
「怒られた?」
 俺の驚きを無視して問う。
「まあな。親父は説教が趣味みたいなもんだしな」
 照れ隠しに咳払いなどしつつ、足早にその場を離れる。志貴と仲良くするなと説教されたその場で呑気に会話なんぞしてたら、逆上した槙久に殺されかねない。
 まあ、逆上したところであの親父にはそんなことはできないんだろうが。
「なにしてんだよ、こんな時間にこんなところで」
 志貴の部屋は、ここにはない……志貴は、戸籍上は家族扱いだが、実際の扱いは使用人で、部屋も使用人用のものを割り当てられている。そして、使用人用の部屋は、棟が違う。
「うん。四季が呼び出されたって聞いたから」
 それ以上は答えない。というか、それは答えのようで答えになっていない。
「別に、お前のせいじゃないだろ?」
 実際には、志貴のせいでしかないが、それを志貴のせいと言うわけにはいかない。これは、俺が勝手にやっていることなんだから。
「秋葉を連れ出したからでしょ?」
 一瞬、なんのことかと思った。どうやら、昼間の脱走の話をしているらしい。
 ああ、なるほど。確かにあれであれば、志貴にも責任の一端はあるか。
 しかし、そのことを怒られたことは一度もない……少なくとも、わざわざ呼び出されてまでは。
 脱走が見つかった直後はいつも叱られるが、その程度で終わりだ。親父にしてみれば、それもまた折り込み済みなんだろう。だから、本気で怒るようなことはない。
 志貴にはその区別はつかないだろうが。志貴は結局……親父からは、使用人としてしか扱われていない。
 役に立たない息子よりも役に立つ使用人としてしか。
「まあ、気にすんなよ。別に大したことじゃない」
 本当に、気にしてなんてほしくない。この上志貴にまで同情されてしまっては、俺の立つ瀬ってもんがなくなってしまう。
「わかった。気にしない。あれは四季も悪かった」
 なるほど。そういう折衷案でくるか。
「そうだな。言い出したのはお前だけどな」
「けしかけたのは四季だけどね」
「抜かしてやがれ」
 そして二人して、くすくすと笑う。
 くだらない意地の張り合い。他愛無いやりとり。
 いつまでも続く、日常。
 あの頃、それが世界のすべてだと思っていた。

 赤ん坊の泣く声が聞こえる。
 そんなものが聞こえていたはずがない。秋葉が生まれた時、俺もまだ赤ん坊のようなものだった。自分で歩くことぐらいはできていたが、物心つく前の行動だ、本能以上のものがあったわけもなく……本能に導かれたというのなら、それもまた、ありえたのかもしれないが。
 秋葉が生まれた時、母が死んだ。その死の匂いに誘われたのかもしれない。
 ともかくそれは、俺が覚えているはずのない光景だ。
 親父はベッドの傍らで椅子に座っていた。いつもと変わらない無表情。だのに俺には、その心中に渦巻いているのがこれ以上ないぐらいの焦燥だということがわかった。
 ベッドに両肘を突き、手を組み合わせ、そこに額を乗せている。神を信じないこの男が、いったい何に祈っているのだろうか。
 一方の母は、ベッドに横たわり、穏やかに寝息を立てていた。別段、体調が崩れているような様子はない。出産を負えた直後だから、疲労の陰は濃かったが、それを除けばいたって健康体に見えた。
 親父はいったい何を祈っているのか。何を祈らなければならないことがあるというのか。秋葉は無事に生まれた。母さんだって無事だ。親父が心配しなければならないようなことはなにもない。
 なにもないはずだ。
 親父の胸中を占めるのは、後悔だけだった。こんなことになるのなら、と、考えてはいけないことまで考えていた。
 そもそも、親父がそれを考えるのはおかしいじゃないか。秋葉が生まれなければよかった、だなんて。
 何かに導かれるように、親父は顔を上げた。
 母さんが、静かに目を開けた。
「やはりやめるべきだった」
 開口一番、親父はそんなことを言った。普段の冷静さなど微塵もない。ただ、愛する人を失うことに狼狽していた。
 そうだ。確かに、母さんは死んだ。だが、なぜだろう。これが夢でも幻でもなく過去の投影であるのなら、母さんが死ぬ理由なんてどこにも見当たらない。
 いや、それ以前に……親父は、母さんを愛していたのか。
 当主の地位目当てに母に取り入ったのだと、口さがない親戚連中は言っていた。
 親父はそもそもが分家の出である。
「私が望んだんだもの。あなたのせいじゃないわ」
 久しぶりに母の声を聞いた。母が死んだ時、俺は一歳だったか二歳だったか、そのぐらいだった。それでも断片的に覚えている。それが母の声であることを。
 その声を聞いただけで、ひどく優しい気持ちになっていることに気づく。
「あれを……秋葉を産めば、お前の命を根こそぎ奪っていくことはわかっていたのに。私は、お前を……お前のためなら、私は……」
「それでも、あの子は私とあなたの子供だもの。私は……私は、満足よ」
 秋葉の能力の強さは異常だと思っていたが、生まれる前からそれほどの異常を発揮しているとは思わなかった。
 槙久がどうやってその能力に気づいたのか、秋葉はどうして生まれるだけで母さんの命を奪うのか、細かい事情はさっぱりわからない。
 それでもそれは事実で、確定事項で、そしていま、まさしくそういう状況なのだと、この場のすべてが告げていた。
 そしてなによりも意外なことに……親父は、それを嘆いている。
「ねえ、泣かないで、あなた。私は今日ここで死ぬけれど、後悔なんてしていないんだから」
 痩せた手を伸ばし、槙久の手を取る。なにもかも……母さんが衰弱していることとか、それが目に見える形で現れていることだとか、死ぬことを受け入れているとか、そういった母さんの死に関わる諸々のすべてを……認めがたい思いで見つめながら、槙久は、ああとうめいた。
 なんてことだ。あの親父が泣いているなんて。
「私は精一杯あなたを愛した。あなたに愛された。あの子達が成長する姿を見られないのはつらいし、未練だけど……だけどそれは、しょうがないじゃない。私には、あの子達が先に死んでしまうことのほうが耐えられないんだもの」
 そうなるぐらいなら死んだほうがましだと微笑まれ、親父は説得された。
 秋葉を殺して自分が生きるぐらいなら、自分が死んだほうがマシだと、母さんは泣いた。
 親父は否を唱えられなかった。母さんが死ぬことになっても、秋葉を殺すことになっても、どちらも地獄には違いなかったから。
 愛する者を生かすために愛すべき者を殺すことはできなかった。
 ずいぶんと人間らしいじゃないか。実の息子を役立たず扱いした男とは思えない。
 それともやはり、秋葉が特別なのか。
「ねえ、あなた。お願いがあるの」
 覚悟を決めた母さんの声に、親父も覚悟を決めたようだった。力強く、母さんの手を握り返す。
 お前の願いならなんだって叶えてやるという想いを込めて。
「私の分も、あの子達を愛してあげてくださいね?」
「なにを当たり前のことを」
 そうでしたね、と微笑んで、母さんは目を閉じた。
 親父の手から母さんの手が零れ落ちる。
 そうして母は死んだのだと、俺は悟った。

 心に灰が落ちた。

 白昼夢を見ていた。やけに鮮明なその夢は、親父の過去のようだった。
 それにしては、親父自身を見ていたような気もするが。まあ、夢は夢ということだろう。根拠などないに違いない。
 ぐるりと部屋を見回す。血塗れだった。
 こうなることを望んでいたわけじゃないが、と頭の中で一人ごちる。それでいて、この結果に不満があるわけでもない。可能性は十分あったし、その可能性通りの結果になったというだけのことだ。
 それよりも、秋葉だ。こんな残骸のことを考えるよりも、秋葉を殺さなければ。
 ふらりと、廊下に出る。書斎の扉を閉めて、秋葉の部屋に向かって歩き出す。
 親父は始末した。一番の邪魔者がいなくなった以上、いまの俺を止められるやつはいない。分家の連中が出てきたところで俺の敵じゃない。叩き殺してやればいい。
 秋葉は……秋葉こそが、難敵だ。出来るだけ素早く、こちらの姿を確認できないぐらい素早く殺さなければならない。あいつは不良品の俺とは違う完成品だ。完全で、完璧だ。油断させることすらできない。油断なんてものはしない。
 秋葉はいつだって俺を警戒している。だから、肉親だからという幻想は使えない。
 血も涙もない関係だと嘆くこともできるだろう。しかし残念ながら、この屋敷においては誰一人そんなものを信じてはいなかった。
 所詮は血に狂った獣の檻だ。ここには人間など一人もいない。
 いや、志貴は。志貴だけは違う。違う、はずだ。あいつは人間で……でも、普通の人間ではなくて。それでも、人間だ。
 志貴だけが希望だ。志貴こそが理想だ。俺は……俺は、どうせなら志貴のようになりたかった。
 親父なら、馬鹿なことをと切り捨てただろう。貴種が賤種を羨むなど、本末転倒にすぎると。
 何が馬鹿なものか。どこが貴種なものか。
 遠野家は確かに、人間以上の存在の血を引いている。肉体には四元素以上のものが紛れ込み、魂には高次元要素が混じり合っている。
 だが所詮はこの世の存在だ。この世に存在する、しているという、その一事によって縛られている。
 この世に存在する以上、この世界の不完全さに縛られる。世界そのものが不完全である以上、そこに存在するものが完全になれるはずがない。
 完全にはなりえないものが貴種だなんだと喚きたてたところで、所詮はどんぐりの背比べだ。種の繁栄という観点からすれば、賤種と蔑む人間にすら劣っているではないか。
 親父は何一つ理解しようとしなかった。母との約束だかなんだか知らないが、遠野家の繁栄をこそ希求した親父にしてみれば……遠野家の血、人外の血も、どうでもいいものだったのかもしれない。
 貴種とは己の血脈のことであり、母の血に連なるもののことだったのだろうか。
 いまとなってはわからない。親父の望みなど、そもそも望みがあったのかどうかすらも。
 思わず殺してしまった。親父は抵抗すらしなかった。できなかった。
 馬鹿にされて。それでもう、なにがなんだかわからないうちにやってしまった。あの親父は、それでも俺を直接詰るようなことはしなかったが、志貴のことを侮辱したのは許せなかった。
 魔の者の飼い犬に甘んじるとは、退魔の族も衰えたものだ、と。
 そうしたのはお前だ。そう仕組んだのはお前だ。自分が当主となるために退魔の一族を利用して、当時権勢を誇った分家頭を抹殺し、易々とその財を継いだ。
 そして、退魔の一族も始末した。志貴だけを生かして、他はすべて抹殺した。
 それ自体はどうということもない。所詮は魔の一族と退魔の一族だ。殺し殺されるのが当たり前で、そこに恨むだのなんだのいう感情は存在しない。
 だが、志貴に関しては違う。志貴を生かしたのは、秋葉のためだ。自分では秋葉を制御できないから、秋葉に対抗することのできる退魔を欲した。
 狩人と獲物を同じ場所で育てるようなことをしたのは、親父だ。そんな奇妙な箱庭を作り出し、すべてを思い通りに進めようとしたのは親父だ。
 その上でのその言い種に、心底腹が立った。
 俺はわかっていて乗せられてやっていたが、志貴に目隠しをして従順な番犬として調教をしたのは親父だ。
 だからぶち壊してやった。
 殺した瞬間の親父の表情は見物だった。なぜ俺がこんなことをするのかわからない、という顔をしていた。
 そして俺も、同じだったに違いない。なぜこんなことをしているのか、理解できていなかったから。
 意味も理由もなかったし……意味も理由も、必要なかったのだ、と思う。俺はただ、化け物らしく誰かを殺せれば、それでよかったんだろう。
 殺すために殺してこそ、救いの道があるんじゃないのかと。何一つ満足に出来なかった俺だからこそ、そうすることに意味があるんじゃないのかと。そんな幻想を抱いて。
 手が震えていることに気づく。無視した。
 高揚しながら消沈している。そんな馬鹿な。そんなことはありえない。
 俺は殺したくて殺したんじゃないか。それなのになぜ手が震える。わななくように、躊躇うように、恐れるように。
 頭が痛い。割れるように軋む。
 俺ではない何者かが這い出そうとするかのように、内側から俺を食い破ろうとするかのように。
 俺はいつから俺なのか、と考える。俺の中のこの凶暴な殺意は、なにに根差しているのだろうか、と考える。
 考えながら、そんなことはどうでもいいことだと考える。なぜ殺すのかを考える必要はない。どうやって殺すのかだけを考えればいい。
 それができれば生きていける。それができなければ生きていけない。
 そうだ。俺は略奪者だ。誰かから命を奪わなければ生きることすらできない。
 そんな馬鹿な。じゃあいままではなんだったのか。俺は誰も殺さなかった。誰も殺さずに生きてきた。誰を殺す必要もなく、誰も殺したいとは思わなかった。
 それがそもそもの間違いだ。勘違いだ。誰も殺したいとは思わなかった? 親父を殺しておいて、なにをいまさら。俺はずっと殺したいと思っていたはずだ。俺のことを何一つ理解しようとしない親父を、秋葉だけを持て囃す親父を。
 俺はずっと、妬んでいたじゃないか。何もかも与えられた秋葉を、才能も愛情も遠野家すら与えられた秋葉を、殺したいほど妬んでいたじゃないか。
 妬む? 妹を? 妬んでどうなる? 決まってる。どうにもならない。
 だからって、諦めてるわけじゃない。俺は……俺はただ、ずっと……
 それが嫉妬でなくてなんだというのか。
 これが嫉妬だというのか。妹が己よりも優れたるを認め、我が身の非才を嘆くでもなく、妹は妹、自分は自分だと、己の分際を弁えて……
 人生をただ遊興に費やす覚悟を決めることが、俺にとっての人生だというのか。そんなもののために生まれ、そんなもののために生きるつもりなのか。
 否、否、否。
 ではやはり俺は……殺すために、殺すことによって、殺すからこそ……
 頭が軋む。ぎしぎしと、みちみちと、音を立てながら傾いでいく。
 のぼせたようにくらくらする。頭に血が上って、思考が灼熱する。
 なにもかもどうでもいいじゃないか。秋葉を殺せるなら、それで。
 それよりもなによりも、志貴が殺せるなら、それでいいじゃないか。
 そうだ、それでいい。志貴を殺そう。あいつを殺そう。俺をただ一人、人間扱いしてくれた、志貴を殺そう。
 それでなにもかも終わりだ。めんどくさい人生も、なにもかもどうでもいい人生も、救いも実りもない人生も、なにもかも、すべて。
 未来がないのなら終わらせてしまえばいい。終わったところでなにも終わらない。始まることすらないのだから、終わりようもない。
 ありえない夢を抱いて未来を望むぐらいなら、この手ですべてを壊してみせる。
 それが……それだけが、俺に許された世界への復讐に違いないから。
 さて、どうやって殺そうか、と考える。秋葉を殺すことなら出来るだろう。志貴を殺すことなら出来るだろう。しかし二人とも殺すとなると、これはかなり難しい。
 それをするには、同時に殺さなければならない。秋葉を殺すと同時に志貴を殺すか、志貴を殺すと同時に秋葉を殺すか。
 あの二人を。同時に。
 ……まずは志貴を殺すべきだろう。そうすれば、秋葉は死ぬしかない。
 秋葉の強大な力は、志貴がいるから制御可能になっている。志貴がいなくなれば、自滅するだろう。
 そして自滅するまでの間に、俺のことも殺してくれるに違いない。
 殺されてどうする。自分が死んでどうする。何もかも殺してでも自分が生き残ることにこそ意味があるんじゃないか。殺すために殺し、生きるために生きるだけで十分じゃないか。
 壁に思い切り頭を叩きつける。
「うるせえよ。俺の邪魔をするんじゃねえ」
 そんなものには意味などない。
 ただ生きるだけならいままでだってしてきた。これからだってできただろう。
 そこから抜け出そうと足掻いているのだから、いまさらそんなものを望むはずがない。
 額を伝い、血が滴り落ちてくる。
 舌先でそれを受け止め、覚悟を決めた。
 まずは、志貴だ。

 四季と目が合った瞬間、秋葉を突き飛ばした。
 手の届くところにナイフがない。やばい。この状況はやばい。
 四季は無言で部屋に侵入してきた。秋葉はなにが起こっているのか、まだ状況を把握していない。
 眩暈がするほどの血の匂いが部屋に立ち込めている。それをまとわりつかせてきた四季は、誰を殺したのかはわからないが、人を殺した直後の興奮状態だろう。
 四季の手が伸びる。鉤爪が暗闇に光る。血に塗れたそれで誰を殺したのか。額から滴る血は反撃を受けたものか。
 秋葉に何事かを囁き、俺の部屋に送り込んだのも、この状況を作り出すためか。
 殺られる、と思った瞬間、身体は跳ねていた。
 跳び上がった瞬間、ベッドが両断される。羽毛が舞い飛び、視界が塞がれる。
 素手では無理だ。ただ防ぐことすらままならないこの状況では、秋葉を守ることができない。
 四季はすぐさま反転して、追撃してきた。体勢を立て直そうと床に手をつき……その手が、滑った。
 こうなってしまってはもう、どうしようもない。身体は自由に動かず、ただ慣性に流され、四季の鉤爪が伸びてきても反応することすらできず……
 身体の中心に灼熱した痛みが走った。これは死ぬな、と思った。
 だが、それよりもなによりも……
「秋葉っ……!!」
 秋葉の髪が、顔にかかる。柔らかい身体を、全身に感じる。
 倒れこんでくる身体を抱えるように受け止める。俺の胸を貫いている四季の鉤爪は、俺を庇うように飛び込んできた、秋葉の身体をも貫いていた。
 四季の顔が、歪む。そんなものが見えていたとも思えない。その時頭の中にあったのは、秋葉が死んでしまうという、ただそれだけだった。
 四季の腕が燃え上がった。見る間に身体も炎上を始める。笑いながら……その喉の奥から炎を吹き上げながら、四季は笑っていた。
 身体を貫く鉤爪も崩れ去る。焼却を実行しているのが秋葉だというのはわかった。秋葉がまだ生きている、ということもわかった。
 口から煙を吐いて、四季は崩れ落ちた。気配でわかる。まだ生きている。
 だが、秋葉は。四季を燃やしていた秋葉は、すでにその鼓動を止めていた。

 気が付けば、気絶していた。というのも変な話だが、ベッドの上で目覚めた瞬間、自分が気絶していたことを知った。
 瞬間、いくつもの言葉が頭の中を駆け巡る。秋葉は無事なのか(無事なはずがない)、四季はどうなったのか(生きているとしたら殺さなければ)、誰が俺をここまで運んだのか(見捨てられてもおかしくなかったのに)、俺はどうして生きているのか。
 なぜ、なぜ、なぜ、なにが、なにが、なにが、どうなったのか。
 身体が動かなかった。少しずつなら動かせるが、まるで自分の身体ではないかのように、満足に動かない。
 身体を起こそうとしただけで眩暈がした。あまりにも調子がおかしい。まるで、自分の身体の半分がなくなってしまったかのようだ。
 ふと、視線を感じた。導かれ……いや、操られているかのように、ぎこちなく、首だけを横向きに倒す。
 同じようにベッドに横たわった秋葉が、瞬きもせずこちらを見つめていた。
 その目にあるのは、遠野家の当主としての秋葉ではなく、妹としての秋葉ではなく、復讐者としての秋葉だった。
 こんな秋葉は知らないという感情と、秋葉の望みを叶えたいという感情が、同時に湧き上がる。
 秋葉は俺のすべてだ。でもこれは俺の秋葉じゃない。それでもこれは、秋葉なのだ。
 蛇に睨まれた蛙のように身動きができない。
 秋葉の唇が動く。
 コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ…………
 やめてくれ、と絶叫する。声すら満足には出なかったが、秋葉の思念が不活性な脳を掻き回し、ただ一つの方向性を植え付ける。
 復讐。復讐。復讐。四季を殺せ。四季を殺せ。四季を殺せ。
 殺し損ねたと、秋葉もわかっている。殺しきる前に殺されてしまったと、秋葉もわかっている。
 だから殺さなければならないと、秋葉はわかっている。敵は殺せ、一度傷つけた相手ならなおのこと、殺し損じた相手なら次こそは確実に。
 殺されないためには確実に殺すことが重要だ。たとえその先にはなにもないとわかっていても。
 そしていま、自分たちにはそれが出来ないこともわかっている。俺の身体はこんなだし、秋葉だってきっと、似たようなものだ。
 それでも、だからこそ、秋葉の殺意は止まらない。秋葉は……秋葉は
 俺を殺そうとした四季を殺したいと思っている。
 殺されたのは秋葉なのに。
 君の想いが……痛い。
 ……君が望むなら、君がそこまで望むなら、俺は四季ですら殺すだろう。
 四季はきっと、俺を殺したいとは思っていないけれど、それでも君が望むのなら。
 俺が殺すのは君のため。それ以外に理由はいらない。
 そうして俺は、理性を手放した。

 牢獄で過ごす。
 おざなりに撒かれた包帯がうざったい。こんなもの、つけてもつけなくてもなにも変わらない。全身を重度の火傷が覆っているが、だからどうということもない。
 ようやくだ、と思った。ようやく、秋葉は俺を殺す気になった。俺はようやく、秋葉を殺す気になった。
 あとは殺し合いだ。殺して殺して殺して殺して。
 殺して。どうするのか。
 決まっている。それこそが救いだ。生きることではなく、死ぬことにこそ救いがある。
 秋葉は死ぬ以外に救われようがない。俺は殺す以外に救われようがない。
 これが兄が妹に対して抱く感情か、と思う。不憫だから殺してやるなど、いや、兄だからこその想いなのだとしたら、想いなのだとしても、それは、だが、きっと。
 死、死、死、すべてが死。ありとあらゆるものが死に塗れている。生まれたものは死ななければならないその定めこそが、この世は地獄だという言葉を肯定している。
 生の牢獄。それこそが人生だ。いまさらなにに囚われたところで、何一つ変わらない。
 自分はそれから抜け出そうと考えているのか、それともより深くそれに埋没したいと考えているのか。
 生きているのか死んでいるのかもわからない感覚。生きていたいのか死にたいのかもわからない感覚。
 気が狂いそうだ。俺はもう、ただ死ぬことすらできないのだろう。
 どうすれば死ねるのだろうか。これがその答えだろうか。
 志貴がいる。
「諦めろよ、志貴。いまのお前にゃ俺は殺せねぇって」
 鉄格子を掴み、両手で揺さぶっている。しかしその手に力はない。こんなものかと拍子抜けするぐらい、いまの志貴には力がない。
「お前のために親父だってぶっ殺したのに……それでもお前は、俺を殺すんだな」
 それもまた、秋葉のためか。秋葉、秋葉、秋葉、秋葉、秋葉秋葉秋葉秋葉秋葉秋葉秋葉……誰も彼もが、秋葉のために。
 俺はなんなんだ。俺はお前にとって、その程度のものだったのか。
「秋葉はお前を呪ってるんだぞ……?」
 志貴を殺した秋葉。命は繋ぎとめたが、そんなことは問題じゃない。秋葉が初めて殺した……殺そうとしたのが志貴だった。それに意味がある。
 人を殺すのが殺意なら、たとえ息の根を止められなかったとしても、誰かを殺そうと思うこと、それだけで立派な殺人だ。物理的な破壊になどどれほどの意味があるものか……間違いで人を殺したところで、そこには殺意はなく、残る罪悪感は自らの過ちに対するものであり、殺人という禁忌を一義とするものではない。
 人を殺すことと、人を死なせてしまうことは違う。
 もっとも志貴には、その区別などつけられないだろうが。
 志貴は生まれついての欠陥品だ。殺人を禁忌と思わない。思えない。
 殺人という行為を認識できない。だからこそ殺人機だ。殺人鬼などという人間らしい存在ではない……ただ、人を殺すための存在だ。
 それが制御されているのは、制御されているように見えるのは、刷り込み現象の結果に過ぎない。秋葉は昔、志貴を殺し……自分が上位者であると、覚えこませた。
 だから志貴は、秋葉には逆らわない。自らの統治者として、秋葉を君臨させている。
 その呪縛から解き放ちたかった、というのは、結果論かもしれないが。失敗した以上、動機には意味がないだろう。
 失敗の代償が、これか。秋葉を殺し、志貴を壊し、そして俺は、志貴に殺される。
 火傷が疼く。秋葉にだけは殺されてなるものかと、拒否反応を示す。
 志貴に殺されるのなら受け入れられる。だが秋葉に殺されるのだけは納得がいかない。死ぬのはかまわないが、秋葉に殺されるのだけは我慢できない。
 だから志貴。せめてお前が……お前が、俺を殺してくれるのなら。
 表情のない志貴の顔を見つめながら、鉄格子を揺さぶる志貴の手に、そっと手を重ねる。
「いまのお前には、俺を殺せない。……殺せないんだ」
 志貴の力は、死を媒介とする。だがそれは、死人となったものには扱えない。生きているからこそ死ぬのだから、死んでいるものには死の力は扱えない。
 それがなければ、志貴はただの壊れた人間だ。志貴の能力のすべては、死に対する異常なまでの感性に支えられているのだから。
「俺を殺すには、秋葉に奪われた命を補完しなければならない。……琥珀か翡翠を殺せ。あいつらのどっちかから、命を奪え。ただの口付けでいい……要は体液の交換が契約の証だ。それからあいつらの命を奪って、お前の命は秋葉にくれてやれ」
 ……そんなこと、志貴にできるはずもないか。
 人殺しをなんとも思わないくせに、人殺しが怖いなんて。殺人鬼のくせに、人を殺せないなんて。
 殺せば殺すほど自分が死に近づくから、殺せないなんて。なんて不出来な、能力。
 秋葉よりも何倍も、俺はお前が不憫でならないよ。志貴。
「秋葉に俺を殺させないでくれ。俺を殺すなら、お前が殺してくれ」
 これ以上何一つ、俺の命すら、秋葉にくれてやる気はない。他のすべてはとうの昔に奪われているんだから、せめてこれぐらい自由にしたっていいじゃないか。
「俺もお前と同じだ……勝手に死ぬことすら許されない。許されなかった。この屋敷から、この牢獄から抜け出すために、親父を殺して、秋葉を殺そうとした。だから俺は悪くない、なんて言う気はない。俺は俺のためにお前も殺そうとした」
 邪魔だった。自分を知るすべてを壊さなければ安心できそうになかった。
 ありとあらゆる過去を断ち切らなければ、俺は死ぬこともできないと思っていた。
 それでもこれは、だからきっと。
 俺を殺すのは志貴がいい。
「だからお前も、お前のために俺を殺せ」
 それまではなにがあっても生き延びてみせる。何を利用してでも生き延びてみせる。
 いまの俺の気持ちがわかるのは、この世にお前しかいないはずだから。
 志貴は鉄格子を掴む手から力を抜き、ふらふらと立ち去った。
 そうだ。そうだとも。まだ死なないさ。
 せっかく秋葉があいつを焼いてくれたのだから、俺が諦めるわけにはいかない。
 過程などどうでもいい。誰がなにを企んでいようと関係ない。
 俺はただ、俺の心に従うのみだ。

 ひたひたと、足音が聞こえる。
 尾行されているのは、とうの昔に気づいていた。尾行者は、自分が尾行していることを隠そうとすらしていない。よほど間抜けでなければ誰でも気づくだろうその尾行は、尾行していることを気づかせるためにしているとしか思えなかった。
 そんな尾行があるだろうか。尾行していることを相手にわからせて……それで?
 目的と手段が矛盾している。相手に気づかれずに後をつけるための行為を、相手に気づかせるために行うなんて。
 だからこれはきっと、尾行ではなく、意思表示なのだろう。自分はここにいると、他の誰でもない私に知らしめているのだ。
 そんなことは私の知ったことじゃない。誰がなんのためにそんなことをしているのだとしても、こんな不愉快な状況は許しがたかった。
「いい加減にしたらどうですか」
 橋の上で足を止め、振り返る。たまたま街灯があったのがそこだったというだけで、意図して選んだわけではないが、それにしてはあまりにも、演出されすぎた状況ではないだろうか。
 私が足を止めるタイミングまで計算されていたとは思いたくないが。さて。
 足音はぴたりと止まっていた。
「私、今日は機嫌が悪いんです。早く出てきたほうが身のためですよ?」
 原因は決まっている。兄さんだ。
 あの人は、帰宅部の癖にいつもいつも生徒会役員である私を置き去りにして帰ってしまう。たまには一緒に帰るぐらいのことをしてくれてもいいだろうに。
 今日という今日は、文句の一つも言ってやると、そう思っていた。ただでさえ、最近は殺人事件が続発しているのだから、少しは兄らしくしてくれてもいいはずだ。
 そもそもが番犬なのだから、と考えて、自己嫌悪する。とうの昔にそんな役割は消え失せたはずなのに、自分の中にはまだそんな感情が巣食っていたのか。
 あの人を一番貶めているのは、自分に違いなかった。
「そう睨むなよ。久しぶりの再会じゃないか」
 明かりと暗闇の境界で立ち尽くしているその男は、その声は、その姿は。
「四季っ……!?」
 体中に包帯を巻きつけている風なのは、なんの嫌がらせなのか。粗末な着物に身を包み、病人のように頼りない足取りで少しずつ歩を進める。
「呼び捨てとはひどいな……実の兄に向かって」
 やはり生きていたのか。そうではないかと思っていたが、まさかそんな、本当に生きていたなんて。
 湧いてきた疑問は、なぜ、だった。
「のこのことっ……!」
 瞬時に戦闘モードに入る。肉親などという認識はない。殺すべき敵であり、殺したはずの敵だ。
 それがいまも生きているのなら、何度だろうと殺す。災いの芽は摘み取る……摘み取り損ねた芽ならなおのこと。
「まあ、待て。何も戦いに来たわけじゃない……どうせ俺は、お前にはかなわないんだ。お前ならわかるだろう?」
 ……確かに。確かに、目の前の四季からは害意は感じられない。それどころか、魔の者の力も感じられない。
 だとしたら、なぜ姿を現したのか。私の前に出てくれば殺されるぐらいのことは、四季だってわかっているはずなのに。
 まただ。また矛盾している。
「今日はな、挨拶に来たのさ」
「挨拶?」
「ああ。お前を殺そうと思ってな」
 ……なにを言うかと思えば、くだらないことを。
 それは不可能だと、自らが語っていたというのに、さらにはそれを認めすらしたというのに、なにをいまさら。
 四季には私を殺せない。それはわかっている。いまここにある力がこれほどまでに違うのだから、四季にはそれはできない。
 それでも四季は、私を殺せる。それもまた矛盾している……矛盾が私の中にまで及んでいる。
 四季は私を殺せると思って私の前に姿を現した。そこで一つ、矛盾はなくなる。でもそうすると、四季が私に尾行を勘付かせていたのと矛盾する。殺せるのであれば尾行などする必要はなく、それを勘付かせる必要はさらなにない。
 いくつもの矛盾がさらに矛盾を産み、すべてが解決することなどありえなく思える。そしてそれは、きっと事実だ。これはただの撹乱の一手段にすぎない。
「といっても、お前がただで殺されてくれるとも思っちゃいないし、俺がただでお前を殺せるとも思っちゃいない。お前は最強の魔だ。俺は凡俗の魔だ。力の差は歴然、俺がお前に勝てる道理はない」
 それはわかっているのか。そこまでわかっていて、それでもその発言。
 やはり、四季は狂っているのだろうか? その可能性はかなり高い。
「だから奥の手を用意させてもらった」
 暗闇に手を伸ばし、なにかを引き寄せる。闇なら見通せる。光の下でなら言わずもがなだ。しかしその境界においては、闇を見通す目も役には立たない。光が闇を駆逐してしまうから。
 現れたのは、琥珀だった。
「……人質ですか?」
 なんて陳腐な。
 琥珀は縛られていた。手は後ろに回され、目隠しもされている。わかりやすい誘拐の風体だ。いまどきこんな誘拐の仕方をする者はいない気もするが。
 目隠しをする理由がないな、と訝る。屋敷はもう目と鼻の先、琥珀にしてみれば馴染んだ場所だし、それ以前に、こうして私の前に引き出すためにさらったのなら、手を縛るのはわかるとしても、目隠しをしてもなんの意味もない。
 営利目的の誘拐ではないのだ。では、なぜ。
「まさか。お前がこの程度でおたつくとでも? こいつの使い方は、そんなものじゃない」
 その通りだ。琥珀では人質にはなりえない。琥珀の命を私が考慮しなければならない理由はどこにもないのだから。
 たかが使用人だ。たとえば兄さんが人質だったなら、話は別だが。
 ……あの人が人質になるはずがないけれど。
「琥珀」
「……はい」
「秋葉の眼を見るんだ」
 眼?
 四季はぞんざいに目隠しを剥ぎ取った。
 そして琥珀は、私の目を、眼を、瞳を、ミタ。
 意識が沈降する。音を立てて血の気が引いていく。
 世界が逆さまになって落ちてくる。視界が狭まり、意識が……意識が……
「それでもまだ意識を保つか。さすがだな、秋葉。こいつの精神操作を凌ぐなんざ、並みの魔には出来やしないってのに」
「琥珀……が、精神操作……?」
 琥珀にそんな能力はない。確かに琥珀は能力者だが、琥珀の能力はそんなものではない。
 それに、琥珀自身が操られているような状態だというのに、そんな琥珀が精神操作などできるはずがない。
 まともに焦点すら合っていない琥珀を後ろに従え、四季はゆるりと前に出た。
 まだだ。まだ囚われている。私はまだこの矛盾した世界に捉えられたままだ。
「だが、お前は殺さない。……まだな。まだ殺しちゃいけないことになってるんだ」
 ではいつ殺すというのか。視界が滲み、ぼやけ、意識もフェードアウトしそうだ。四季の登場で動揺していたのだろう、こんなものはすぐに解除できるはずなのに、根深く侵入した精神支配の糸が解けなかった。
 まさかこんな、簡単に。
「殺しはしない……だが死ね」
 四季は、獣のように鋭く尖った牙を閃かせ、それを深々と私の喉に突き立てた。

 何度やっても慣れない。人の血を吸うということは。
 いまとなっては、それが自らの命を繋ぐものである以上、気持ち悪いだのなんだの言うまでもないことだが。
 それでもまあ、慣れないし、気持ち悪いのは事実だ。
 何人殺したかな、と指折り数えてみる。
 両手の指で足りなくなったところでやめた。
 後悔しているわけではないし、後悔したいわけでもない。そんなものはただの結果だ。殺したかったわけでもなく、結果として死んだことを後から愚痴愚痴言ってもどうにもならない。
 誰がなにを利用している、のだろう。俺が琥珀を利用しているのか。琥珀が俺を利用しているのか。俺が秋葉を利用しているのか。琥珀が秋葉を利用しているのか。
 俺が志貴を利用しているのか。琥珀が志貴を利用しているのか。
 誰もがなにかを利用しているのか。だとしたらそれは、あたりまえのことなんじゃないだろうか。
 正しいこと、ではないかもしれない。それでもそれは、きっとあたりまえのことで、大した意味などないのだろう。
 食うか食われるか。奪うか奪われるか。そういう効率の悪いことしかできないのだ。
 それならば、いっそ。
 利用したい者を利用するのは当然のこと、利用されたい者に利用されるのも、また一興。利用したい者に利用されることのないように、ただそれだけのことに気をつけながら、寄る辺なき者共はよすがを求める。
 ただ生きるために。そのためだけに。
 なぜ生きるのかと、誰もが繰り返し問い掛ける。誰一人答えることのない問いを、拷問のように繰り返しながら、それでもいま、生きているのだからと。
 だから、究極的には理由などないのだ。そして、そんなものはいらないのだろう。生きるということに、そんなご大層なものは必要ない。
 ただ、いま生きているという現実がある。それだけだ。
 それだけのことが、こんなにも心を苦しめるのだ。
 自分は生きるのに向いていないのかもしれない。そんなことを思う。
 たかが生きる程度のことができないだなんて、どれほど不器用だというのか。
 理由のないものに理由を求め、理由がなければ納得できない……割り切ることもできずに生き続けることしかできない。
 これは……弱さだ。
「これからどうするんですか……?」
 秋葉を玄関前に横たえた琥珀が、忘とした眼差しで問い掛けてくる。こういうのも狸寝入りと言うのだろうか。
「準備をするさ。いろいろと、な」
 琥珀のことなど……それに巣食う者のことなど、どうでもいい。あくまでも琥珀がそうしているように仕向けているが、秋葉ですら気づいたそれに、俺が気づかないとでも思っているのだろうか。
 あるいは単純に……それに気づいたところで、俺がなにをすることもないと見切っての判断か。
 その考えに反応したかのように、琥珀は唇の端を吊り上げるだけの笑みを覗かせた。相変わらず食えない奴だ。
「貴様は……聞くまでもなさそうだな」
 それこそ、準備を始めるのだろう。何年かかっているんだかは知らないが、その執念だけは大したものだ。
 殺されても諦めきれない、その気持ちぐらいはわからないでもないが。
 お互い、とっくのとうに道を違えている。自分勝手に突き進むしかない。
「秋葉に免じて、貴様は見逃してやる。……俺の邪魔だけはするなよ」
 委細承知と言わんばかりに頷いて、琥珀は屋敷に入っていった。
 この屋敷は、いまも昔も……そしてこれからも、化け物屋敷のままということか。
 魑魅魍魎の中で、お前はどうやって生きていくんだ?
 それでもこなして生きていくだろう。いままでそうしてきたんだ。それができないはずがない。
 せいぜい、気張るがいいさ。どうせお前はなにもかも手に入れるんだから。
 いいや……お前からは何者も何物も奪えやしないんだ。
 なあ、志貴?