薄い暗闇と生死の代償



 すでに夜に包まれた街の、一際大きなビルの屋上で、不釣合いで不似合いな安楽椅子に腰掛けた少女と相対していた。
 少女は、純白のワンピースを着、血の色の瞳を輝かせ、だが死者の肌色で、瞬きもせずに私を直視している。
 私は死にたくなかったの、とその少女は言った。
「だってそうでしょう? なにもしないでいれば数年で、特別な治療を受けてもその倍ぐらいで、どちらにしろ死んでしまう私が生き延びるには、それしかなかったんだもの」
 だからなんなの、とすら、私は答えなかった。そもそもが、死徒と……さらに言えば、その死傀儡などと話し合う口を、私は持たない。
 それらはただ滅殺するのみの存在だ。私はそれらを許さず、また、それらも私を許さない。
 その果てにあるのは、闘争だ。血と死しか介在しない、戦争だ。
 だからこそ私は戦える。それを口に出したことはない。
 ゆっくりと黒鍵を振り上げる。それは躊躇ではない。ただの間であり、宣言にも似た何かだ。
 私が殺すと決めた瞬間に、そいつの運命は決まっている。それは、必ずしもその少女に対する決意ではないが、そんなことはどうでもいい。
 自らの運命をそのような方法でしか覆せなかった弱者に対する、それは制裁だ。
「人間の味方が私を殺すの? 哀れで愚かなこの私を?」
 哀れであれば守られる価値があるのか。救われる価値があるのか。
 愚かであれば虐げられない権利があるのか。無条件で保護される権利があるのか。
 現実はその逆だ。哀れで愚かな被害者には、そんなものを要求する権利すら存在しない。権利を主張する前に搾取されることが運命付けられているのだから、それを覆さない限り、被害者はいつまでも被害者で、哀れで愚かなままだ。
 誰かにそれを助けてもらおうなどというのは、搾取する側よりもなお傲慢だ。
 この世には正当な権利など存在しない。あるのはただ、ひたすらな弱肉強食だ。
 そもそも私は人間の味方ではない。化外の敵だ。
 威嚇ではなく、少女の眉間目掛けて黒鍵を投げつける。だがそれは、面白いぐらい綺麗に避けられた。たかが死傀儡にできる芸当ではない。であるならば。
「たかが元司祭に食われただけの分際で、すっかり埋葬機関の一員面か?」
 少女の声が、不意に野太い男のものに変わった。それがこの少女を操っている奴の声なのだろう。
「死ねない分際で、死した者すら裁こうとは、傲慢なことだなあ、シエルよ?」
 私の名前が死徒の間で広まっていることは、それほど不思議なことではない。私を、私の魂を食い千切り、この肉体に、この脳に、嫌というほどの魔術回路を残していったあの元司祭は、やはり死徒であり、しかも特異な存在であったが故に知名度が高かった。
 だからこそいまの私があるわけだが。
「この少女はそう、ただの哀れな虫けらだったが。私が血を啜り、血を与えることによって一つの生命として成立した。それは救いではないのかね?」
「人が人の分際を弁えず、死徒のような下等な存在になりさがることによって得られる救いなど、地獄にも劣ります」
 人は、人だ。人であるが故に、人だ。そうでなければならないし、そうでなければ私が戦う理由もない。
 私はそんなつまらないもののために命を賭けている。自分が命を賭けているものに、自分でどのような価値を設定しようとも、それは私の勝手だ。
 そんな私を否定するには、私を殺すだけの力がなければならない。それがこの世の摂理というものだ。
「では、この少女を殺すことによってお前の言う救いとやらが与えられるとでも?」
「当然です。弱者が弱者であることに罪はありません」
 強者が罪と業を背負っていたとしても、弱者にはそんなものはないだろう。
 辛いだけの世界がどこまでも辛いだけなら、そんな世界には意味も価値も見いだせない。救いのない世界にそれでも救いを求めるのが弱さだというのなら、私はその弱さをも許容しよう。
 弱さ故に過った者を正すことも、強者の責務だろう。正し方に因縁をつけられるいわれもない。ただ強者は強者であるように振舞う。
 それを正すのは、別の強者ではない。天だけがそれを裁く。
 強者の存在など、所詮は夢幻に過ぎないのだから。弱者を裁くことができないように、強者を裁くことも、また不可能だ。
「そうやって背負いきれぬ罪を背負うか。それがお前の贖罪か?」
「罪も罰も、お前ごときに語られるいわれはありません。死徒はただ死者のごとく、黙って棺桶にでも入って震えていなさい」
 死の根源が死を語ることは許さない。死の介在人が死を説くことは許さない。
 死はただ死であり。人は人でなくなれば、その身には罪も罰もない。
 ある意味では、完璧で、完全な存在だ。だが完全であるが故に、それは無だ。
 完全や絶対の存在しない世界での完璧は、即ち矛盾であり、それを成立させるのは、無か混沌でしかない。そしてそれは、指向性や方向性を持たないが故に、個としては成立しない。
 論理はそうやって整合性を保つ。究極は存在しても完全は存在しない。人は洗練されるが完璧にはならない。人が人である限り。完全など存在しない。
 だから完全な存在は人ではない。人ではない身に、罪も罰も、語る資格はないだろう。
「ははは、まさしく、まさしくだ。震えが走ったぞ、埋葬機関の犬よ。お前達はいつだって断罪する側だ。我々はいつでも断罪される側だ。お前達は生きようが死のうが勝者で、我々は勝とうが逃げようが敗者でしかない。それがお前達の正義であるならば」
 それはしかし、もっともよく使われる類の詭弁でしかない。確かに組織としては個人の生死は意味を持たないが、私自身は、死徒に敗北することを決して良しとはしない。
 もっとも、私を殺すことはともかく、敗北させることのできる死徒など、そういはしないが。その点だけは、この身体に感謝しないこともない。
 それも不毛な矛盾ではあるが。
「能書きを聞く趣味はありません。首を洗って待っていなさい」
 死徒が若干力を注いでこの少女を強化したところで、滅殺することにはなんの問題もない。ベースとなる少女が死徒としても若いし、操っている死徒とて、そう大きな力を持っているわけでもなければ、こんな消耗戦に必要以上の力を注いでいるはずがないのだから。
 黒鍵を構え、弾むような足取りで間合いを詰め、その眉間に突きたてようとした。速度もタイミングも申し分ない。だが、私の足は、自然と止まっていた。
「この娘は親殺しだ」
 黒鍵が、少女の眉間に触れ、一筋の血を流させた。
 それ以上突き出せなかった自分に舌打ちする。その言葉が、たとえ事実だったとしても、どれほどの意味があったはずもない。死徒とされた者が一番最初に襲うのが肉親なんてのは、それこそどこにでもある話にすぎないのだから。
 それなのに躊躇ってしまったのは、私の弱さだ。唾棄すべき弱さだ。
「やはり、止まるか。人間とは、不自由だな。お前もまた、親殺しだというのに」
 例え表情が消せたとしても、この躊躇は誰の目にも明らかだ。私は確かに人殺しで、親殺しで。それを悔いていないのかと言われれば、血反吐を吐きながら後悔していると泣き叫ぶほどのトラウマにもなっている。
 だが、戦いの場にそんなものは必要ない。必要のないものは持ち込まないのが私の主義だ。それがどれほど私の心に根付いているものだったとしても、いや、根付いているものだからこそ、私はそれを、忘却する。
 それができるから戦えるし。それができたから勝ってきた。それができなくなれば、戦うことも、勝つことも、負けることも、逃げることすら、できなくなる。
 私はいま、それを思い出している。
「死徒の分際で、まだそんなものにしがみつくか」
「……うるさい」
 視線はただ、死蝋のごとき少女の瞳に自らを見る。
「人を捨てて得たものもあるだろうに。なにかを手に入れればかならずなにかを失う。すべてを手に入れることは何者にもできはしない。そんなものはただの幻想なのだから」
「…………うるさい」
 頭の中では、私が犯した罪が高速で何回も何回も繰り返されている。
「人を捨てて得た力で我らを裁くというのに、なぜそれに執着する? お前が我らを狩り続ける限り、お前はそれを否定し続けているというのに」
「………………うるさい」
 ありとあらゆる記憶が迷走を始める。
「お前は矛盾しているのだよ、シエル」
 身体が動いた。
 なにも考えなかった。思考は空白となった。指向はあった。考えずとも実行される復讐があった。存在すらしない意志は、意志を超えて、自分を守った。
 後にはなにも残らなかった。黒鍵の威力によって、ではない。ただただ微塵に刻まれた少女は、現世に血と肉の欠片を残して消滅した。
「いまさら……言われるまでもありません」
 自分はいま、泣いているだろうか、と考える。泣いていたら、私はまだ人間を忘れていない。もし泣けていなければ、人間ではないか、前よりは強い人間になったということだ。
 だが、大事なのは、重要なのは、それではない。そんなことではない。
 自分はいま、泣きたいのだろうか。
 そしてそれは、わからない。私にはもう、自分がなにを考えているのか、なにを思っているのかすらわからない。
 なにかを投げ出そうとする度に、痛みだけが甦り。なにかを許そうとする度に、苦しさだけが甦り。何かと戦っている時だけ、痛みも苦しみも忘れることができるけど、それは新たな痛みと苦しみを生むだけのもので。
 戦うことを望んだわけじゃない。でもそれを否定しているわけじゃない。
 逃げることを望んでいるわけじゃない。でもそれを否定しているわけじゃない。
 受け入れることを望んだわけじゃない。でもそれを否定したいわけじゃない。
 結局私はそうやって、なに一つ選べない。矛盾していることが前提で、矛盾していなければ自分の存在を許せなくなってしまうから。
 本来なら、死んでいるべきだったのだ。両親をこの手で殺し、友人をこの手で殺し、好きだった人までこの手で殺した私は、その罪に相応しく、あの真祖の姫君に殺された時、そのまま死ぬべきだったのに。
 こうして生き恥をさらしている。死にたくなかったから? それは強意ではない。生きていたかったから? それもまた決定的ではない。
 殺されたくはなかったから? それが一番、近い。
 なにもかもが間違った因果律の組み合わせ。世界は矛盾を修正するために私を生かしているが、それが私という矛盾を生み出した。
 現実がどうなのかなんて興味がない。私にはそう思えてならないだけで、さらに質の悪いことに、それが絶対的な強度を持っていた。
 自分は死徒。許せないのも死徒。
 魔術は死徒であるあいつの力。でも死徒を滅ぼすには必要な力。
 私は親殺し。死徒も親殺し。
 どこまでいっても、死徒であることがつきまとう。私には、いっそそれしかないのだろうかと思ってしまうほど、他にはなにもない。
 でも、死徒を裁くことに正しさはいらない。死徒の被害者を、一片の許しもなく殺戮することには許しだっていらない。
 ただ世界がこんな色になってしまったあの日を返して欲しい。あの日一日をなかったことにして欲しい。
 そして、こんな紅い夢からは抜け出したい。
 ……埒もなく、また、望外な、それこそ、夢でしかないが。
 夢ぐらいは、抱きたい。他には復讐しかない、この身だからこそ。
 何一つ得られるものはないのだとしても。夢ぐらいは、抱いていける。
 陽の当たる場所で、穏やかに微笑むことのできる日常を夢見るぐらい、許してくれても、いいじゃないか。
 誰がそれを許すのかと問われれば。それは神だと答えただろう。
 ……大丈夫だ。私はまだ、戦える。手は動く。足も動く。欠損すらない。
 身体が動く限り、私は戦える。戦える限り、私は生きていける。
 私は、この命の限り、戦おう。そして、救おう。あの時救いを求めていた私を覚えている限り、私は私を救い続ける。
 そうしていつか、私自身が救われるか、それとも、私を断罪してくれる者が現れた時、私はそれに、身を委ねよう。
 その時には私はもう、立つことすらできないはずだから。救われようが断罪されようが、大差はない。
 そう、決めたのだ。あの日あの時、死んだ時。もう何一つ望んでやるものかと、そう決めたのだ。
 重い体を引きずるように、私は歩く。今日もまだ生きている自分を嘲笑いながら。