ちょっとした矛盾 shiki-side



 俺はたぶん、誰も嫌いたくないだけなんだ。

 アルクェイドのことが好きだ、と思う。
 一緒にいて楽しい。ただそばにいるだけで嬉しい。
 その滑らかな髪に口付けし、透き通るような白い肌を愛撫し、蠱惑的な紅い唇を啄ばみ、そのすべての感触を愛しく感じる。
 君の純真な眼差しは切なくなるほどこの胸を締め付け、俺なんて必要ないんじゃないかと思わせることもあるけれど、君のその微笑みの前では、俺の悩みなんて些細なものに思える。
 魅入られてるだけだ、と忠告してくれる人もいる。それは俺の本心じゃなくて、吸血鬼の魔眼によって操られているだけだ、と言う人もいる。
 それはそれでいいんじゃないか、と俺は思う。アルクェイドがそこまで俺のことを求めてくれているのなら、それはそれでいいんじゃないかと思う。
 それこそ思う壺じゃないか、と傍目には見えるかもしれないが、それが幸せだと思えるのなら、それでもいいんじゃないだろうか。
 幸せなんて、所詮はまやかしだ。自分は幸せだ、と思うからこそ発生するものであって、なんらかの形に対して与えられるものではない。
 俺はこれを幸せだと感じている。それこそが重要だ。
 俺は、アルクェイドと幸せになりたいと思っている。それだけが大事なことだ。
 例え騙されてたってかまわない。そこまで思う俺はもう狂ってしまっているのかもしれないけれど、狂気の代償がアルクェイドであるのなら、狂っていたってかまいはしない。
 ロアが吸血鬼となってまで望みつづけたものだ。俺はその想いを正しく理解できる。
 世界を敵に回したってかまわない。これはそういう感情で、絶対的で、無二なものだ。
 俺はアルクェイドのために死ぬ。それこそが実感だ。
 どうせ世界なんてものは壊れかけているんだから、いまさら俺一人、壊れたところで、何一つ変わりはしないだろう。
 どうせなら全部壊れてしまえばいいと思うほど傲慢でもない。俺が死ぬ時は、一人静かに朽ちていくと思っていた。
 いまはその道行きに、アルクェイドが一緒にいる。変わったのはそれだけで、結局俺は、なにも変わっちゃいない。
 昔から虚無的に生きてきた。必死に生きることの無意味さも、健気に生きる虚しさも、ありとあらゆる生の無価値を知っていた。
 だから俺は生きていける、んだと思う。なにものにも価値なんて存在しないからこそ、こんな壊れかけた世界で生きていけるんだと。
 正しい人も、間違っているものもいない。世界はそういうものなんだと、あるがままを受け入れるには、そうするしかなかった。
 だから、アルクェイドが俺にはちょうどいい。世界の剣として人間を間引くための存在こそが、それなのにそれに怯えている存在こそが、俺には相応しい。
 人間として生きるには不細工で、不出来で、みっともない存在だからこそ、俺たちには、俺たち以外はありえない。
 安心感が欲しいだけなのだ。世界がどうだろうと、人間がどうだろうと、朽ちて色褪せていくこの世界で共に生きるための道連れが欲しいだけなのだ。
 生きるのが下手な俺たちには、それぐらいがちょうどいい。
 ずっとそう思っていた。

 今日は食堂で昼飯にしようと思って食堂に入ったら、見慣れた顔がいた。
「……先輩、帰るんじゃなかったんですか?」
 そこにいるはずがない人を見つけてしまったなら、できる反応は呆然とするしかない。
 シエル先輩は、以前と変わらない様子でカレーを食べていた。
 ロアを殺すことを目的とし、教会という組織に属するが故に吸血鬼を退治し、アルクェイドに恨みを持って狙っていたシエル先輩は、仇敵であったロアを俺が殺した時、教会に戻ると言って去っていったのだ。
 それなのにここにいる。どこにでもありそうな食堂の風景に馴染んでいる。おかしいということはわかっていても、それを指摘しても意味がないこともわかっていた。
「いろいろありまして。もう少しいることにしました」
 カレーを食べる手を止めて、普通の笑顔で(この人の場合それは、ツクリモノなわけだけど)あっさりと答えてくれる。
「……そんな簡単なもんなんですか?」
 埋葬機関なんていう仰々しい名前のわりに、ずいぶんとアバウトだ。
 先輩はそれ以上は答えず、微笑むだけだ。となれば、これ以上は教えてくれる気はないということだろう。
 それならそれで、かまわない。言いたくないことを言わせるほどのことでもない。
「まあ、いいですけど。正直、先輩が残ってくれて嬉しいですし」
 嬉しいというか、心強いというか。
 アルクェイドと出会ってから出来た友人の中では、先輩が一番の常識人だ。いや、もしかしたら、俺の知ってる知り合いすべての中でも一、二を争うかもしれない。
 不条理で非常識な連中が多いせいか、先輩との会話は、心の安らぎになっていた。
 まあ、たまにぶっとんでることもあるけれど。そういう意味では、やはり漏れなく俺の友人というやつだな、と思うことにしている。
 言いながら先輩の隣に腰を降ろす。蕎麦の匂いにカレーの匂いが混ざる……なんてことは当然なく、圧倒的にカレーの匂いに負けてしまって、蕎麦を食べようとしているんだかカレーを食べようとしているんだかもわからない。
「仕事のほうは大丈夫なんですか?」
 具体的になにをやっているかは知っているが、組織的にどうなっているのかまではよく知らない。それでも吸血鬼退治を生業としているようなところなんだから、そこらの会社のサラリーマンとは別種の規則とかがあるんじゃないだろうか。
「遠野君に心配されてしまうなんて。私そんなにいい加減に見えるんでしょうか」
 先輩は悲しそうに俯いて、カレーを食べる手も止めた。
「いや、そんなことはないけど。ていうかかなりまともだと思うし。俺の知り合いの中でもかなりの常識人? みたいな。いやまじで」
 先輩=カレー命、という方程式が成立しているわけでもないけれど、なんとなくそんな思いが強い。
 だから、思わず必死になって抗弁してしまった。そこまでする必要なんてなかったんだろうけど、シエル先輩が本当に悲しそうだったから。
「だってもう、この街には吸血鬼なんていないんでしょう?」
 とりあえず、関係ない話題に振ってみる。
「一匹いるじゃないですか。とんでもないのが」
 うっとうめいて、言葉を飲み込む。どうやら藪から蛇を突き出してしまったらしい。
「いや、でも、ほら、あいつはさ、別に血とか吸わないし。暴れるわけじゃないし。まあちょっと常識足りないところもあるけど、そこも可愛いっていうか。じゃなくて、俺がフォローすればなんとかなる範囲だしさ。そんな神経質になったりする必要はないんじゃないかなって。勝手に思ってるんだけど。ダメかなあ? ダメなんだろうなあ。ダメなんですよねえ?」
 自分でもだんだん何を言ってるのかわからなくなってきた。墓穴を掘ってさらに広げている気がする。
「麺、伸びますよ」
 どこまで聞いていたのか定かじゃないが(というかほとんど聞いてなかったように見えるけど)、素っ気無く指摘されたので、はい、食べますと小さくなりながら蕎麦に箸をつけた。
 しばし、無言。
 数分経って、カレーを平らげた先輩は、ごちそうさまでしたの一礼をして立ち上がった。
 すかさずその腕を掴む。掴んでから、なかなか大胆なことをしてるな自分、と気づき、心なしか緊張する。
「どこに行く気ですか?」
 口の中には蕎麦があったが、まあそれはなんとか無視する。このぐらいは根性でなんとかなるもんだ。
「食事は終わったから、教室に戻るんです」
 素っ気無い回答。食事に対する礼はともかく、俺には挨拶もなしで行こうとしたのに、そんな普通に答えられても困る。俺にだって立場ってもんが……あるようなないような。
「教室なんてないくせに」
 反射的に言ってしまった。ただの事実の指摘のつもりだったのに、口から出てみればなんとも残酷な響きを伴っていた。
 迂闊すぎる。また先輩を傷つけてしまった。
「ええ。どうせ私には授業を受ける資格なんてありませんから」
 先輩は気づいていないかもしれないけど、こういうとき、いつも泣きそうな顔になる。
 顔全体の表情としては、すねているように見える。でも、その目だけが、涙が零れ落ちないのが不思議なぐらい、悲しそうになる。
 言い過ぎてしまったことに気づく。でも、気づいてもなにもできない。
 謝ったって滑稽だ。先輩はそれに気づいてない。気づいてないということは、指摘してもしょうがないし、謝られたところで、先輩には誤解して伝わってしまう。
 何も言えなくなって、うまく言葉に出来なくて、ごにょごにょ口の中で釈明する。それこそ、意味がない。
「もう少しで食べ終わりますから、待っててください」
 とりあえず、先輩には相談したいことがあった。そっちを優先することにして、無理矢理気持ちを切り替える。
 先輩は釈然としないまでも頷いて、再び席についた。
 そこで手を離し、蕎麦の攻略に取り掛かる。両手を使ったところで早くなるようなものでもないが。
 食べるというよりは飲むような勢いで平らげる。消化に悪そうだ。あとで腹痛を招くことになるかもしれない。
 この際だ、それはそれでよしとしよう。
「部室、開いてますか?」
 両手を合わせ、ごちそうさまの一礼。食べ物に対する感謝の気持ちはとても大事だ。
「茶道部のですか? 開いてませんけど、開けられます」
「じゃあ、行きましょう」
 実際、シエル先輩しか使ってないような部室だから、開いてるかどうかはともかく、開けられるのは知っていた。
 他に都合のいい場所も思い浮かばなかったし、とりあえずそこでいいだろう。
 自分のお盆と先輩のお盆を持って、返却口に返しに行く。
 先輩のところに戻ってきたら、なんだか不思議な顔をしていた。嬉しいような、悲しいような。
 哀れんでいるような。
「はい。じゃあ行きましょうか」
 並んで歩き出したら、腕を捕まえられていた。素早い。
 自分としては、周囲からの嫉妬の視線がレーザービームな感じで痛かったけれど、まあ、これも役得を教授している身としては甘んじて受け入れなければならないんだろう。
 それに、上機嫌な先輩を見てたら、別にいいじゃないかという気がしてきた。
 俺としては、胸が……とか、柔らかいなあ……とか低俗なことを考えただけだけど。
 アルクェイドもそうだけど、どうして女の人は男の困ることをするのが好きなんだろう。

 茶道部という部は、現在存在していない。
 それなのに真新しい道具が置かれていたり、隅々まで行き届いた掃除がなされているのは、シエル先輩の趣味らしい。
 ハイソな趣味というか、物好きすぎる趣味というか。普通、(自腹で)ここまでの投資をすることはないだろう。
 それもまた、シエル先輩らしさなのかもしれないけど。
 秋葉のせいで、茶道は齧っていたりする……わけでもなかったりするので、先輩の作法というやつが正しいかどうか、実はよくわからない。遠野家は秋葉の代になってから和風な要素はめっきり減ってしまったらしい。朝食にしろ昼食にしろ夕食にしろ夜食にしろ、英国風かどうかは知らないけれどパンとかパスタとかライスとかばかりだ。
 たまにはお茶碗と味噌汁で煮物とか焼き魚とかそういうのが食べたいと主張できるほど、家では発言権がない。
 そういう意味で、日本に住んでるくせに、日本と出会える数少ない場所になっていたりする。
「どうぞ」
 細かい作法云々はわからないけれど、先輩の所作は綺麗だな、と思う。
 まるでジグソーパズルのように、一つ一つの動きがピタリと決まっていて、それが逆に、機械的な、考えるのではなくそう定められた動きを繰り返している印象を与える。
 それなのに、綺麗。この独特さは、先輩にしか出しえないだろう。
「頂きます」
 出されたのは、湯呑みに入れられたコーヒーだったりする。作法とかそういうことを語る以前に、いろいろなものが間違っているのは明白だ。
 そういう型破りなところも含めて、二人ともこの場所が気に入っている。少なくとも俺はそう思っていた。
「なんか久しぶりですね、ここも」
 ぐるりと室内を見回す。標準的な茶室(他の茶室は知らないけど)の構成になっていて、掛け軸があったり薬缶があったり、あけたらお菓子が出てくる棚があったりケーキとか和菓子を一時的に入れておく冷蔵庫まであったりする。
 一番最後のは茶室として相応しいかどうか謎だけど、整然としているというよりは多少の猥雑さのあるこの部屋が俺は好きだった。
「ええ、そうですね」
 応えるシエル先輩の声にも感慨深さを感じる。
 前回、俺がここに来た時、先輩は殺されていた。全身に剣山のように剣を突き立てられ、百舌の早贄のように断末魔の苦しみにもがいていた。
 死なないということの残酷さを目の当たりにしたのはあの時だ。
「それで?」
 先輩は直前までの感慨をいきなり捨て去って、そう声をかけてきた。
「はい?」
「なにか用事があるんでしょう? わざわざこんなところに連れ込むんですから」
 まあ、そりゃそうですけど、と思いながら、とりあえずコーヒーを一口啜る。
 暑そうだと思って啜ったら、思ったより大きな音が出てしまった。行儀が悪い。
「連れ込む、って言ったら、連れ込まれたのは俺のような気がしないでもないですけど」
 ここを指定したのは俺だけど、鍵を持っていたのは先輩だし、開けたのも先輩だ。状況的には、先輩に連れ込まれたといってもそう間違いではないと思う。
 もっとも、ただの冗談だ。本気でそんなことを言ったわけじゃない。
 あまり、迂遠なことをやっている時間はないことは承知の上だ。
 それでも切り出しづらかった。セッティングをしといていまさらだけど。
「じゃあ、単刀直入に」
 一つ、呼吸を入れる。間を持たせた、というよりは言葉が喉につかえてそうなってしまった、というだけだけど。
「先輩は、いまでもアルクェイドを恨んでいますか?」
 これを聞いたら、先輩はどういう反応をするだろう、と考えていた。
 怒るだろうか? 悲しむだろうか? 無視するだろうか?
 怒るんじゃないか、と思っていた。
 先輩は悲しそうに顔を伏せた。無表情に怒られたり無視されたりするほうが何倍もマシだと思った。
「俺がこんなことを聞くのは筋違いだってわかってます。でも俺は、気になるんです。先輩も俺にとっては大事な人だから」
 先輩がいたからこそいまの俺がある。それは間違いじゃない。
 先輩に殺されそうになったこともあるけど……でも俺は、別にそれを恨んではいないし、結果的にそれが俺を生かしている以上、感謝こそすれ、文句を言う筋の話でもない。
 顔を上げた先輩は、泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
「私は、アルクェイドを直接的に恨んでいたことはありませんよ」
 言葉が上滑りしている。そう思い込もうとしているのかもしれないけれど、先輩自身、それを信じていないか、認めていないか、ともかく、それは嘘だと声音でわかった。
 理屈でいえば、アルクェイドが先輩に恨まれる理由はない。ロアの血を吸ったのは確かにアルクェイドで、それがあったからこそ先輩がロアに転生されることになったんだろうけど、アルクェイドが先輩の血を吸ったわけでもなければ、アルクェイドが先輩に転生しろと命令したわけでもない。
 子供が人を殺したら親が殺したことになるのか、ということだ。そんなことはない。
 ただし、それは理性の話だ。感情の話じゃない。
 もし俺が先輩の立場だったなら、アルクェイドを恨むと思う。恨まずにはいられないと思う。ロアを憎むだけでは足りないと思う。
 それだけのものを失わされたんだから、それは当然の感情だと思う。
 だから俺は、先輩がアルクェイドを恨んだり憎んだりしていても、それはしょうがないと思う。
「でも、私はアルクェイドを狩らなければならない立場にあります」
 先輩のその発言は、埋葬機関の一員としての立場からのものだった。
 私怨ではない。ない、と思う。
 そうあって欲しくない、というだけかもしれない。そのほうが先輩は救われるかもしれないけれど、そのほうが先輩が傷つくだろうと思うから、私怨ではないほうがいいんだろうと思う。
 先輩は優しいから。優しすぎるから。アルクェイドのことを知ってしまった今となっては、私怨では殺せないと思う。
 何よりも救われがたいのは、先輩自身が、その優しさを否定していることだろうけど。
「それは、教会とかいうところの命令があれば、先輩はアルクェイドを殺すってこと?」
 わかっていながら念を押す。
「そうです」
 迷いなく、躊躇わない反応。
 それを強さと呼ぶのはあまりにも悲愴だ。
「もしそうなったら、俺はアルクェイドと一緒に戦うことになるけど。それでもいいかな?」
「いい、とは? いいも悪いもないんじゃないですか? 私にとっては、ただの仕事ですから」
 だったらどうしてそんなに辛そうな顔をしているのさ、といいたかった。
 表面上は確かに無表情だ。感情なんて微塵も見えない。それは先輩が訓練の末に身に付けた自己抑制法であって、一種の戦闘モードだ。
 いつもはあんなに表情が豊かなのに、いきなり無表情になったのでは、ポーカーフェイスとは言いがたい。
「俺は、アルクェイドに血を吸われなくてもアルクェイドのために戦うけど、それでもいいかな、って意味」
「どうぞ、ご自由に」
 先輩だけがわかっていない。きっと、先輩だけがわかっていない。
「つまり、先輩は、それが敵であれば、吸血鬼だろうと人間だろうと、等しく処分する、ということですか」
「いままでだって、そうしてきましたから」
「それでも先輩は、俺を殺したら悲しむよ」
 一瞬だけど、先輩は変な顔をした。
 怒っているような、苛立っているような、拗ねているような。
 先輩は本当に気づいていないんだろうか。そんなことはないだろうに。
「なんですか? それは」
「なんとなくです。だけど自信があります。先輩は、俺を殺したいとは思っていない。少なくとも、吸血鬼の味方としては、ね」
 それができるのなら、とっくの昔にそうしていただろう。
 いまの俺は、アルクェイドの恋人だ。搾取されることがないだけの吸血鬼の奴隷のようなものだ。アルクェイドがそうしてくれと言ったら、俺は自らの血を差し出すことすらするだろう。
 それは、血を吸われているのとそう変わらない。
 だけど俺は人間だ。いまのところ、まだ。
 先輩は、人間を殺したい、とは思っていない。吸血鬼を始末したいとは思っていても、吸血鬼となったものを始末することに躊躇はないのだとしても、人間を殺したいとは思っていない。
 殺さなければならないなら殺すだろう。けど、それだけだ。
 それじゃああまりにも辛すぎる。
「だからって、私はあなたに味方することなんてできませんよ」
 ようやく、先輩の表情に対する印象が決まった。
 困っているんだ。
「そこまではお願いしません。ただ、敵にならないで欲しいだけです」
 俺は先輩とは戦いたくないから。先輩の気持ちを知った上で戦うことなんてできないから。
 意に添わぬものを強いられ続けてきた先輩と戦うには、俺は弱すぎる。先輩のすべてを肯定することも否定することも、俺にはできない。
 俺はきっと……それでも、最後にはアルクェイドを選ぶけど。
 ……こんなのは、ただの言い訳だ。自分の都合で先輩を振り回してるだけだ。
「アルクェイドは……吸血衝動を抑えられなくなっているんですか!?」
「……そういうこともあるかもしれない、というだけです。実際に兆候があるわけじゃありません」
 間が空いてしまった。その想像の残酷さに、思わず言葉が詰まって。
 アルクェイドが、真実吸血鬼になろうとしている。それは疑いようがない……吸血衝動を抑えるための僕も持たずに、それを抑え続けることはできるはずがない。
 そういうものだから、とアルクェイドは説明してくれた。実際、アルクェイドは衰弱している……それを振り払うかのように明るく振舞う様が、見ていて痛々しい。
 俺にはなにができるのかと、そればかり考えている。
「もしそうだったとしても、俺は先輩とは敵同士になりたくないんです。ただそれだけです」
 強くならなければならない、と思った。
 ここで先輩に愚痴を零すのではなく、きちんとした相談ができるほどに、まずは自分を強く保てるようにならなければ、と思う。
 優先順位を間違えてはいけない。アルクェイドのためにということであれば、先輩の気持ちを考えてはいけない。少なくとも、考えすぎてはいけない。
 どうせわがままなこの気持ちであるならば、多少の無理は押し通すべきだった。
 それができないから、先輩を傷つけてしまう。
 俺はなんてバカなんだ。
「話はそれだけです。お邪魔しました」
 無責任に言い放ち、湯飲みを置いて部室を出た。
 先輩は返事をしなかったし、俺も返事が欲しいとは思っていなかった。
 先輩は、先輩なんだから……必要以上の負担をかけてどうするというのか。
 自分の未熟さに泣きたくなった。

 真夜中になって、アルクェイドが帰ってきた。
「こんな時間までどこ行ってたんだよ?」
 アルクェイドの部屋のリビングで、やきもきしながら待っていた俺は、詰るように問い質した。
「うん。ごめんね」
 アルクェイドはいつものように微笑みながら、いつもより精彩のない顔で、リビングに入ってすぐのところで立ち止まる。
 いつものアルクェイドはこんなことはしない。どこかに行くなら行くで事前に断るし(そうすれば俺はここにはこない)、それについて問い質したことも一度もない。
 合鍵をもらってから、なんとなくそういう習慣がついていた。俺にしたって、いつもここに来るわけではないけれど(それは秋葉が恐ろしすぎる)、できるだけここに来るようにしているのは、アルクェイドだって理解してくれていると思っていた。
 それなのに今日に限って、なんの連絡もなかった。心配するなというほうが無理がある。
「どうしたんだ? なんかあったんだろ?」
 あからさまに様子がおかしい。どうしてそんなところに立ち止まっているのかもわからない。
 いつもなら、問答無用でフライングボディープレスぐらい仕掛けられている。無茶苦茶なことをするのがアルクェイドの持ち味だし、そういうところも含めて気に入っている。
 アルクェイドは、隠し事をしない。それなのに。
「ごめんね、志貴」
「何がだ? 別に怒ってるわけじゃないさ。そりゃあまあ、心配したけど、心配してただけで、怒りたいわけじゃない」
「ごめんね。……ごめんね」
 そのままぽろぽろと涙を零す。本人には泣いている自覚なんてないのかもしれない。
 零れる涙を拭いもせず、謝りつづける。
「なんなんだよ。なにがあったんだよ」
 駆け寄り、抱きしめる。
 こんなにも頼りないアルクェイドは初めてだった。
「ごめん……ごめんなさい」
「いいよ。別にいいよ。俺は怒っちゃいないから。気にするなよ」
 それでも泣き止む気配はない。
 どうすればいいのか。なにをしたというのか。
 なにがあったんだろうか。
「なんだよ。なんなんだよ。なあ、泣き止んでくれよ」
 どうにも、困る。困るしかない。
 俺は何かアルクェイドを傷つけるようなことをしてしまったのかと、そういうことばかりが気になるのに、心当たりがまるでない。
 なんだか自分がとても悪いことをしているような気がしてきた。
「ごめんっ……ごめんなさいっ……」
 嗚咽が混じり、言葉にならなくなる。
 アルクェイドが本気で、心の底から泣いている。
 それなのに俺には、なにもわからない、なにもできない。
 一緒になって泣きたかった。だけど、それだけは出来なかった。
 アルクェイドに抱き返されても、俺には肩を貸すことしかできない。
 惨めだ。これじゃあ電柱となにも変わらない。ただ突っ立っているだけじゃないか。
 アルクェイドは泣き続け、俺は途方に暮れるだけ。
 アルクェイドは身を離し、不意に口付けてきた。
「お願い……抱いて」
 アルクェイドがそんなことを言い出したのは初めてのことだった。

 夜が明けた。
 アルクェイドは安らかな寝息を立てて眠っている。
 俺は上半身を起こし、険しい顔で眠っているアルクェイドの頭を撫でて、額に口付けする。
 アルクェイドの緊張が、少し、緩む。
 昨晩のアルクェイドはおかしかった。
 しかし、なにがどうおかしかったのか、と問われると、具体的な言葉にならない。
 ただ、おかしかったとしか言えない。
 それが致命的だったというわけでもないけれど、嫌な予感ばかりが募った。
 なにかがあったに違いない。
 問題なのは、なにがあったのか、だ。
 そうして……なにがアルクェイドにそうさせたのか、だ。
 俺はそれを知らなければならない。
 どうすればいいのかはわからなかったが、なにができるかははっきりしていた。
 アルクェイドを起こさないように、そっとベッドから抜け出す。
 聞かなければならない。何があったのかを。
 素直には教えてくれないだろうけど。それだけはわかった。

「先輩。アルクェイドとなんかあったんですか?」
 早朝の校門の前で待ち構えていた。
 先輩を捕まえるには、それが一番手っ取り早く、確実だと思った。
 そして、先輩はいつも通りにやってきた。
「昨日の夜、ふらっと出かけて。なにがあったかはわからないけど、帰ってきたあいつは、ずっと、謝ってばかりで。……なにがあったんですか?」
 先輩はなにも言ってくれない。
 勢いを抑えきれず、自然、詰問調になる。
「先輩がなにかしたとか、そういうことを聞きたいんじゃない。ただ、なにがあったのか、なにを話したのかを教えて欲しいんだ」
 努めて冷静に話そうとしている。しているが、それよりも勢いのほうが強い。
 周りのことなんて目に入らない。ただ先輩が、なにも言えない顔をしていることだけはわかった。
「アルクェイドは、なんて言ってましたか?」
 言いながら、先輩は歩き出す。
 校舎のほうに向かっていたので、後について歩き出す。
「なにも。なにも言ってくれない。ただずっと、ごめんって。ごめんねって謝るんだ。……泣きながら」
 あんなアルクェイドは見たくない。いつも明るい奴だったからこそ、落ち込んだ時の姿が痛々しい。
 ……そう、落ち込んで、いたんだ。アルクェイドはきっと、落ち込んでいた。
 俺はそんなことにも気づかずに、ただわからないと思っていた。
 こんなんじゃあ……恋人失格だ。
「一つ、確認させてください」
 先輩はくるりと振り返って、挑戦的な笑みを覗かせながら、容赦なく切り捨てた。
「それを聞いて、あなたはどうするんですか?」
「……どう、って?」
「アルクェイドが話したくないことを、私から聞き出して、アルクェイドをどうする気なんですか、ということですよ」
「それは……」
 言われてから気づく。まともに考えようともしていない自分に気づく。
 先輩を逃げ口にしているだけだ。聞けばなんでも教えてくれる人のように崇拝しているだけだ。
 なにも自分で考えていない。先輩に聞くことでなにかわかった気になろうとしていたに過ぎない。
 こんなだから、アルクェイドはなにも話してくれなかったんだろう。すべては自分で撒いた種だ。
「そんなことをしても、アルクェイドが困るだけですよ。私とではなく、二人で話し合うべきなんじゃないですか?」
 その通りだ。まったくもって、その通りだ。
「でも、アルクェイドは」
「話してくれないから、ですか? では、私なら話すとでも?」
 話して欲しい。その気持ちはどこから来るんだろうか。
 それは……俺がいまだにアルクェイドと向き合っていない、ということだ。
 アルクェイドに聞いたところでわからない、と自分で壁を作っている、ということだ。
 馬鹿げている。先輩が怒るのだって当然だ。
「いくら私でも、アルクェイドの内心まではわかりません。私とアルクェイドの会話を語ることはできますけど、それは、私の主観というバイアスがかかったものにしかなりません。アルクェイドの気持ちを知るために、そんなものが本当に必要ですか?」
 必要なのかと問われれば、それでも必要だ、と答えることもできる。
 誰のために必要なのか、と問われれば、俺のために、と答えることもできる。
 ……誰よりも先輩を傷つけているのは俺だ、と答えるしかない。
 俺は先輩に甘えている。頼り切っている。
 アルクェイドのことを信用もせずに。
 ……俺は馬鹿か。
「私はアルクェイドの敵なんですよ?」
 そんなこと、欠片も願っていないぐらい悲しそうな顔で、先輩は微笑んだ。
 ああ、俺は。そして、先輩は。
 帰ることのできない道に踏み込んでしまった。逃げ場のない道に踏み込んでしまった。
 救われることのない道を選んでしまった。
 それでも、前に進もうとしているのか。
 だからこそ、前に進もうとしているのかはわからないけれど。
 前にしか道はない。
「じゃあ」
 立ち尽くし、煩悶し、答えを持たず、項垂れる。
 なぜだろう。酷く寂しかった。
「それじゃあ、なんで先輩は俺の話を聞いてくれるのさ?」
 俺がアルクェイドの味方で、先輩の敵に近いことは知っていた。
 出会いからしてそんなようなものだった。それでも信頼関係を築けたと思っていた。
 俺には先輩を敵視する理由なんてない。
 でも、先輩にとってはそうじゃなかったんだろうか。
「あなたが好きだからに決まってるじゃないですか」
 先輩はそれ以上は言わず、逃げるように校舎に入っていった。
 俺はただ呆然と立ち尽くし、自分がなにをしたのかと考えていた。

 結局、放課後になっても先輩を捕まえることはできなかった。
 怒らせてしまった。あるいは、愛想をつかされてしまった。
 自分の責任というものを振り返れば、それで当然だと思う。言い訳の余地もない。
 ただ一言、謝らせて欲しかったけれど。それもできないのは、少し辛い。
 日が暮れるまであちこち探してみたが、どうやら校舎内にはいないようだということしかわからなかった。
 教室で一人、席につき、立ち上がる気になれずに、思考に沈む。
 自分の優柔不断さがこれほど嫌になったことはない。
 一番大事なのは誰かと問われたなら、アルクェイドだと答えることができる。
 アルクェイドのためなら先輩とだって戦うこともできる。
 でも、先輩を殺すことはできそうにないし、そもそも傷つけることですらできそうにない。
 八方美人はみんなを傷つけるだけだ。少なくとも、俺にはみんなで仲良くなるような解決策は思い浮かばない。
 それなのに、誰からも嫌われたくないと考えている。それこそが俺の甘さだろう。
 アルクェイドが大事なら、アルクェイド以外の何者に嫌われてもかまわないぐらいじゃないといけない。アルクェイド以外のものも大事なら、本来はそうしなければならない。
 優柔不断は残酷に人を傷つける。それよりはまだ、人を傷つけないために人を傷つけるような方法論だったとしても、取り返しのつかない状態になるよりは何倍もましだ。
 自分がそれほど人に好かれているという自信があるわけでもない。何の取り柄もないし、背だって高いわけでもないし、頭がいいわけでもない。
 誰とも関わらないように生きてきたけれど、だからこそ、関わりをもった相手には真剣になる。
 自分のキャパシティでは、自分の能力ですら持て余すことはわかりきっていた。その上で他人との関わりを持つほど無責任にもなれなかった。
 有彦あたりは、お前は考えすぎなんだとよく言うけれど、それも含めての俺だし、俺の性分だ。そう考えてしまう自分が出来あがってしまっている以上、どうもこうもない。
 遠野君は背負い過ぎるから、と、弓塚にも言われた。私が吸血鬼になったのまで自分のせいにしなくてもいいんだよ、と言われた。
 後悔には意味なんてない。過去は変えられない。そんなものは未来を作らない。
 それでも俺は、それを抱えていなければ俺ではいられない。他人から見てバカバカしくても、意味がなくても、俺にとっても意味なんてなかったとしても、それでもそういうものがなければ、俺は俺ではいられない。
 志貴は真面目だから、とアルクェイドは微笑んでくれた。その一言にだけ救いがあった。
 それがなければ、俺は殺人鬼になるしかない。アルクェイドだけがそれをわかってくれた。
 アルクェイドは、俺を、遠野志貴を受け入れてくれた。殺人鬼ではなく、直視の魔眼の能力者ではなく、一人の人間として、遠野志貴を受け入れてくれた。
 俺はそれでいいんじゃないだろうか、と思う。そういうものがあればいいんじゃないだろうか、と思う。
 俺が俺でいるために、俺が俺でいることを望んでくれる人がいてくれるなら、それでいいんじゃないか、と思う。
 不意に、教室の明かりがついた。
「暗いなぁ。なにやってんだお前」
「有彦か」
 明かりをつけたのは、とっくのとうに帰ったと思っていた有彦だった。こいつがこんな時間まで学校に居残ってるのは珍しい。ような気がする。
「なぁにが『有彦か』だ。悲劇の主人公みたいに黄昏やがって」
 遠慮なくずけずけと文句を言いながら、隣の席までやってきて机に腰を降ろす。こいつはいつでも変わらない。その強さを羨ましいと思う。
「なんかあったんか? まああったんだろうが。すぐ悩み込む癖は相変わらずだな」
「癖だってわかってんならいちいち突っ込むなよ。これでも気にしてるんだ」
「そうだったのか? 俺ぁてっきり、悩みたいから悩んでるんだと思ってたけどな」
 それを否定する要素もない。沈黙を選んで、有彦を見上げる。
「お前の問題はお前の問題だ。そんな目で見られたって気のきいたことなんか言えんよ」
 ポケットから携帯を取り出して、だらだらといじる。なにをしているようにも見えないし、実際なにをしているわけでもないんだろう。
「冷たいな。友達だろ?」
「甘やかしたら友達かよ?」
 それは、そうだ。甘やかされたら友達なんて理屈は気持ちが悪い。
 冷たくすることと立ち入り過ぎないことは似ている。適度な距離を保っているのか、一方的に距離を置こうとしているかの違いは、存外に見分けづらい。
「俺はお前のことはある程度知ってるし、どういう時にどういうことをするだろうってのもわかるけどな。確実なわけじゃないし、ただの思い込みな部分のほうが多いんだろうし。それでも俺は、お前のことを知ってるぜ? なに悩んでんだか知らないけど、自分の目で見て確かめないと納得できないんだろ?」
 携帯をいじるのをやめて、神妙な面持ちで静かに語る。
 有彦は俺のことを知らない。俺が殺人鬼なことも知らない。俺が抱えてる問題も、俺が考えていることも、一切知らない。教えていない。
 それでも、この悪友にはわかるんだろう。言葉にする必要もないぐらいのものを共有してきたからこそ、言わなくたってわかってしまうことがあるんだろう。
 昨日の俺と今日の俺がどれほど違ったとも思わない。事実、他の級友は普段通りに接していた。
 有彦にだけわかる信号を俺は出していたんだろうと思う。きっと、こういう話がしたくて。
「悩むぐらいなら行動すりゃいいじゃねえか。待ってたって誰も助けちゃくれねえぞ?」
「お前が言うかよ、それを」
「馬鹿だな、俺だから言えるんじゃねえか」
 まったくだ。有彦の言うことは一方的に正しい。
 いきなり現れて、助言までしてくれて、その上でそんなものに甘えるなと注意してくれる奴が他にいるだろうか。
 押し付けるでもなく、おもねるでもなく、ただ淡々と為すべきを為す。それこそが理想ではないだろうか。
「わかったんならさっさと帰ろうぜ。腹も減ったしよ」
「ああ、そうだな」
 考えたってしょうがない。悩んだところで過去は変わらない。
 いま行動するからこそ未来がある。行動するしかないことだってあるということだろう。
「……なあ、有彦」
「んあ? なんだ?」
 すでに歩き始めていた有彦は、肩越しに振り返った。
「弓塚は……いや、なんでもない」
 言ったところでしょうがない。それは有彦の問題じゃない。
「あー……」
 前を向き直って、頭をがしがしとやってから、振り返らずに有彦は言った。
「なんのことかはわからんが、お前のことを好きだったと思うぜ? ……俺が言うこっちゃないけどな」
 ぶっきらぼうなその口調に、思わず泣きそうになった。
 君の微笑みはいまでもこんなに辛いけど、それでもいつの日か思い出として語ることができる日が来るんだろうか。そんなことを思う。
 アルクェイドのことを、そんな思い出にしてしまっていいのか。そう問い掛ける。
 答えは否だ。アルクェイドへのこの気持ちは、いまさらそんなに簡単に割り切れるほど簡単じゃない。
 過去なんてどうでもいい。未来だってどうでもいい。
 いまどうしたいのか、そんな当たり前のことを考えれば良かったんだ。
「すまん。恩に着る」
「そのうち飯でも奢ってくれ」
 ひらひらと手を振りながら、有彦は歩いていく。
 俺は何も言わずに足を止めた。有彦も特に何も言わなかった。
「これが最後かもしれないけど……」
 もう二度と、この学校に来ることはないかもしれないけど。
 それでも、俺は前に進まなきゃいけないんだと思う。
 だから、ありがとう。だから、さようなら。
 今度会うときは、少しは前向きな自分になっていると信じて。
 いまはただ、なにも言わずにここを去ることを許して欲しい。

 アルクェイドの部屋を訪れるのに緊張するのは久しぶりのことだった。
 いつからそうなっていたかは覚えていないが(ということは、かなり初期の頃からそうだったということだろう)、おそらくはアルクェイドの部屋の鍵を渡される前から、俺はアルクェイドと二人でいることが当たり前だと思うようになっていた。
 恋人だからという言葉は似合わない。俺はアルクェイドを殺した男だ。いまは恋人関係だったとしても、出会った頃は憎むべき相手だったのだ。
 俺がアルクェイドを殺したのは、憎かったからではなく、純粋にその美しさに焦がれたからだけれど。アルクェイドにしてみれば、不意打ちで十七分割にされたのだから、憎んでも憎み足りない相手だろう。
 憎まれたっていい。恨まれたっていい。いまならそう思う。いっそ殺されたってかまわない。アルクェイドの中で俺が無為になるぐらいなら、そのほうがいい。
 俺はもう、骨の髄までアルクェイドに惚れていて、もうどうしようもないぐらい、恋に狂っていた。
 だから、この不安は、アルクェイドを失うかもしれない恐怖だ。必死になってそれを否定するのは、否定しなければならないほど確実に存在しているからだ。
 俺がアルクェイドを諦める。それはありえない。
 でも、アルクェイドが俺に愛想を尽かすことはあるかもしれない。
 それはない、とは断言できない。俺はアルクェイドじゃないんだから。信じるとか信じないとか、そういう言葉で納得できれば気も楽だろうけど、これはそういうことじゃない。
 俺が馬鹿なだけなのかもしれないけれど。俺は俺が思ってるほどはアルクェイドを愛していないのかもしれないけれど。
 否定すれば否定するほど肯定している自分を発見し、肯定すれば肯定するほど否定している自分を発見する。
 酷い矛盾だ。結局俺はなにがしたいのか。
 答えを出すためにここに来た。アルクェイドの顔を見れば、些細な悩みも吹き飛ぶだろうと思って。
 チャイムを鳴らす。反応がない。
 もう一度チャイムを鳴らす。反応がない。
 そして気づく。明かりがついていない。
 やけに落ち着いて鍵を取り出す。鍵穴に入れて、ゆっくりと回す。
 音を立てて開錠し、ドアノブをひねって中に入る。
 明かりがついていない。何者の気配もない。
 明かりをつけて、靴を脱ぎ、居間に向かう。
 ダイニングテーブルに、一枚の紙切れがあった。
『ごめんね さようなら』
 頭がぐらぐらする。
 なんだ。これはなんだ。どういうことだ。
 これはなんの冗談だ。
「間に合わなかったようですね」
 背後から声をかけられた。そういえば鍵をかけなかったな、と思う。
「どういうことですか、先輩」
 振り返ったその先には、シエル先輩がいた。いつもの制服姿ではなく、埋葬機関の執行者としての貫頭衣姿だ。
「アルクェイドは、あなたを捨てた。そういうことでしょう」
 何も言わずに歩み寄り、襟首を掴みながら壁に押し付ける。
 ダン、と鈍い音がした。
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「では、いったい何を? アルクェイドを追い詰めたのが遠野君なのかどうか、ですか?」
 ずきり、と心が軋む。みしり、と心が痛む。
「あなたは選べない未来を選ぼうとした。アルクェイドはそれについていけなかった。それだけのことじゃないんですか?」
「選べない? 選べないってなんだ」
「人間と吸血鬼の恋物語? そんなものを本当に信じていたんですか?」
 それが素敵な結末になるとでも思っていたんですか?
 言葉の裏に隠れた追求が聞こえる。
「どちらかが耐え切れなくなるのはわかっていたはずです。それがたまたまアルクェイドが先だっただけなのに、アルクェイドを責めるんですか?」
「違う。……違う」
「そうですね。違うんでしょう。あなたは誰を責めてるわけでもない。自分自身を責めている。……そして、責められたいと思っているんでしょう?」
 そうだ。そうだとも。
 俺は誰よりも俺が許せない。アルクェイドにこんな決断をさせてしまったことが、それに気づかず諾々と流されてしまったことが、ありえないほど憎たらしく感じている。
 だからってどうすればよかったんだ? そんな問いに答えるモノもない。
 答えなんてどこにもないんだから。
「それなら、答えは簡単です。アルクェイドを追いなさい、遠野君」
「どうやって?」
「準備は私がします。あまり正規の仕事とは言えませんが、道案内もしましょう。ただし準備には時間がかかります。この街にはまだロアの造ったグールが残っているからです。それを殲滅するまでは、ここを動けません」
「それなら手伝う」
「どうやって? あなたは普通の人間とグールの区別なんてつけられないでしょう?」
「……だからって、黙って待ってろっていうのか?」
「ええ。罰だとでも思ってください。あなたにはいま出来ることなんてなにもないんです」
 残酷だ。残酷すぎるじゃないか。
 出来ることをしなかったから、出来ることがなくなってしまったなんて。
 それも罰だと言われれば、そうなのかとしか言えない。納得なんてしないし出来ないけれど、それ以上に相応しいものは、自分にだって思いつかない。
 もっとも理不尽なのは、自分自身の怒りだ、という自覚がある。悪いのは先輩でもなければアルクェイドでもない。ただ楽観的に未来を期待し、アルクェイドの背負っているものを何一つ理解せず、それが実現可能だと夢見ていたことだ。
 一ヶ月。一ヶ月も、なにもしないでいないといけないのか。それは……それは、あまりにも辛い。
「一ヶ月の間に、覚悟を決めてください。それだけがあなたにできることです」
 なんの覚悟だ、とは言わなかった。聞かなくてもわかっていた。
 全てに対する覚悟だ。何もかも得ようとする覚悟だし、何もかも捨てようとする覚悟だ。
 俺にそんな覚悟を決められるんだろうか、とは思わなかった。
 この怒りだけがいまの俺の全てだから。