ちょっとした矛盾 arcueid-side



 だって、わからないんだもん。

 幸せとはなんなのか、と考える。
 目的とはなんなのか、と考える。
 答えはない。私はそれを持っていないから。
 嬉しかったり、楽しかったりすることが幸せなのか、と聞かれたら、はい、とも、いいえ、とも言えるし、言えない。嬉しいという感覚がよくわからないし、楽しいという感覚がよくわからない。
 志貴と一緒にいるのは楽しい。一緒にいるだけで嬉しい。二人きりでどこかに行ったり、二人きりで部屋に居たり、なんでもないどうでもいいはずのことが、とても楽しくて、嬉しく感じる。
 それが幸せなんだ、と教えてもらえたなら、そうなのかな、とは思う。幸せというのはこういうものなのかな、と納得できると思う。
 その独特な気分の高揚のことを幸せだというのなら、私はそれがいい。
 それでも私は、知っている。それは、人間が言う、嬉しいとか楽しいという感情ではないことを。
 私にとって、志貴は餌でしかない。直死の魔眼も関係なく、ただただ魅力的な餌に過ぎない。
 思い入れがある分だけ、その血は味を増すのだろう。志貴の血で得られるものは、ロアの血で失ったものとは決定的に真逆にある。
 それがどれほどの快楽であるのか、私は知っている。血の味を知った真祖であれば、例外なくそれを理解できる。
 たった一つの命。それを奪う、その瞬間。
 私はきっと、泣くだろう。泣きながら、笑うだろう。気が狂うほどの快楽を得て、本当に狂ってしまうに違いない。
 血が吸いたいと思ったのは、志貴だけだ。
 だからきっと……私は、志貴の血だけは吸いたくない。
 酷い。酷い矛盾だ。
 守るべきものはなんだろう。
 それがわからない。

 家に帰ったら、留守電が入っていた。
 志貴からだろうかと思って再生してみれば、聞こえてきたのはシエルの声だった。
 今晩十時、いつもの場所で。短く要件だけを告げる声には、切迫した響きがあった。
 さて、どうしようか、などと考える。本来なら、考えるまでもない。埋葬機関に呼び出されてのこのこ出て行くような奴は、その時点で真祖失格だ。
 それでも、考えてしまう。最近のシエルは、そんなに嫌いじゃないから。
 それに、シエルの声にあった切迫感が気になった。シエルらしくない。なにを焦っているというのか。
 ただの殺戮マシーンになることはやめたんだな、と思う。神の僕として、滅私奉公するほどかわいい女じゃないとは思っていたけれど、やはり、そこまでのものにはなれなかったらしい。
 なにしろシエルは、神様なんて信じちゃいない。むしろ、神様をこそ呪っているはずなんだから。
 それが、いつの間にか埋葬機関の一員なんてものになっている。
 シエルは自分から不幸になろうとしている。救いのない選択ばかりを繰り返しつづけ、そんなものを望んでいない自分に蓋をして、どうにかこうにか生きている。
 それでも生きていたいから、そこまではわかる。だけど、どうしてそこまで生きたいのかがわからない。どうせいずれは誰もが死ぬんだから、いまという一瞬を生き延びるために未来をすべて犠牲にするというのは、よくわからない。
 それは、生きるために死んでいるようなものなんじゃないだろうか。
 失うものがあるのなら、得られるものはそれ以上でなければ意味がない。少なくとも前提として、得られるものが大きいからこそ何かを失うことができるんじゃないんだろうか。結果的に、そうならないことがあったとしても。
 そういう、理屈に合わない部分のことを人間性と呼ぶらしい。不合理が人間性だと言うのなら、人間には救いなどないということなんじゃないだろうか。
 それでも現実は、そうでもない。不合理だからこそ救われている志貴のような人間もいる。ロアもきっと、そういう人間だったんだろう。
 手段と目的を取り違えるな、ということなんだと思う。自分が考えていることは。
 でも最近、手段と目的は、そもそもそんなにも違うものなんだろうか、と思っていた。

 約束の時間より、大分早めに家を出た。あまりのんびりしていると志貴が来てしまう。伝言でも残そうか、とも思ったけれど、それほど長い用事になることもないだろうと考えて、なにもしないことにした。そもそも、来ると確定しているわけでもない。
 いつもの場所……そこそこ大きな公園の、噴水の前。そこにはすでにシエルが来ていた。
 あれ? と思って、腕時計を確認する。約束の時間より、三十分ほど早い。これでも来る途中、時間を潰してきたというのに、シエルはいったいいつからそこで待っていたんだろう。
 なぜか声をかけずに、距離を取ったままシエルを観察する。表情に余裕がない。シエルが意図的に表情を消している時は、そういうことだ、と学習していた。わかりづらいようでいて、思い切りわかりやすい。わかって欲しいからなんだろう、と穿った見方をすることにしている。
 私はそれほどお人好しなわけでもないし、心が広いわけでもない。その気になればいつだって志貴を殺せるし、シエルだって殺せる。気持ちの上では、いつだってそうだ。
 殺す理由があればいつでもそうする。だから、この吸血衝動がなにかの拍子で溢れ出した時、志貴は死ぬ。
 それとも、もう殺せないだろうか。緩々と衰弱し続けているいまの私には、志貴を殺せるだけの力はないかもしれない。
 ただ一滴、志貴の血を口にしたなら、私はそうしてしまうだろう。志貴はきっと、抵抗すらしないに違いない。
 吸血鬼を信じるなんて、馬鹿な人間。そう思う反面、それがどうしようもなく嬉しい自分を自覚する。吸血鬼なのに、血の味を知っている真祖なのに、志貴はそんなことは微塵も気にしない(理解できていないだけかもしれないが)。
 そうして、私は思う。私は結局、どちらでありたいのかと。
 正しいとか、間違っているとか、そういうことはどうでもいい。私はただ、私自身がどうしたいのかが知りたかった。
 そんな問いに答えはない。唯一答えを出せる自分がわかっていないんだから、何者にも答えなんて出しようがない。
 わかっている。そんなことはわかっているのに、なにもわからない。それは時々、酷く胸を締め付ける。
 そんな自問自答をどれほど続けていただろう。気が付けば約束の時間になっていた。
「あんたが私を呼び出すなんて珍しいじゃない」
 何気なく姿を表す。約束に遅れたわけでもないんだから、特に気にする必要があるわけでもないけれど、なんとなく、ずっと観察していたことが後ろめたく思えた。
「今日は、仕事です」
 そう言いながらも、シエルには精彩がない。きっと、わかっているんだろうな、と思う。自分が矛盾していることはわかっているのに、それがどうしようもない自分もわかっている。
 だから……迷う。こんな状況が生まれる。
「教会から指令でもきたの? 私を殺せって」
 一番、ありそうな話だった。しかし、それはないだろう、とも思っていた。
 もしそうだったなら、わざわざ呼び出す必要なんてないし、待っている必要もない。自分から攻め込むほうがシエルらしい。
 私を目の前にして困惑なんかしている。それはあまり、シエルらしくない。
「確かにいまの私の任務はあなたの監視です」
 まあ、そうだろうな、と思う。ロアは滅びたとはいえ、自分が吸血を知った真祖であることに変わりはない。ハンターとして吸血鬼を狩り続けている間はいい、と言っても、いつまでそれが持続するかもわからない。
 中途半端だが警戒しなければならず、強者だからこそ監視にも強者をつけていなければならない。無駄な労力だ。
「ですが、殺すかどうかを判断する権利は私に一任されてます」
 ああ、そうなのか。
「そこまで教会に信頼されるようになったんだ」
 それはあまり、よいことではないだろう。シエルにとって、自らの立場を固めるということは必然だったとしても、教会のような組織には、シエルは似合わない。
 ロアがシエルの中で覚醒するまで、シエルはただの小娘だったんだから。いきなり殺された人間が、殺した人間を殺すために洗脳を受け入れ、殺人機械になるような話だ。
 大切なものを守るために大切なものを失う。そういうバランスなのかもしれないけれど。神様とやらは、どうしてそういう意地の悪いことばかりするのが好きなのか。
「私があなたの監視を買って出たのは不信がられましたが……最終的には納得したようですね」
 それはシエルに対する信頼なのか、シエルの持つ感情に対する期待なのか。後者だろう、と思う。行動の裏づけになるのは常に動機だ。そしてシエルは、私を憎んでいる。もし私が暴走した場合、嬉々としてそれを討つだろうと納得されるほどに。
 神も、その僕も、なにを考えているのか。こんな小娘を捕まえて、いいように操って、それで神の正義とやらが守れるというのか。
 そんなものを守るために人の心を殺すというのなら、神などろくなものではない。
「ふうん。まあ、いいんだけどね。教会になんて興味ないし」
 教会が敵対するというのなら戦うだけだ。元々協力関係にあるわけでもなく、当たらず触らず遠巻きに眺めているというのが実情である。
 これでも私は最強の吸血鬼だから。吸血鬼であると同時に、ハンターだから。吸血鬼を狩り続ける限りは黙認しようという、そういう意向なんだろう。
 もちろん、人間の血を吸わなければ、という条件付で。
「それで? 何の用なの?」
 結局、かまをかけてもシエルがなぜ私を呼び出したのかはよくわからなかった。そうなれば、直接聞くしかない。
 それでもシエルは答えなかった。まあ、なんとなくわかるような気もするんだけれども。
「やっぱり、私のこと殺したくなった?」
 そうじゃないかなあ、と思っていた。現在の関係はどうあれ、ロアの血を吸ってシエルをこんな境遇に追いやったのは私である。そこには言い訳の余地はなく、免罪の可能性もない。
 シエルにしてみたら、私を殺すことでしか報われないものがある。それが私を殺そうというのなら、それは認めてあげなければならないだろう。
 唯々諾々と殺される気はないけれど。
 シエルは一瞬、変な顔をした。苦みばしったというか、なんというか。不満がないことが不満なような、そんな顔だった。
「あなたを殺しても、私にはメリットがありません」
 ないはずがないじゃないか、と思いつつも、言えない。私にはそんなことを言う権利がない。
 少なくとも、気は晴れるはずだ。自分がそうされたように私を殺せば、シエルの溜飲を下げるぐらいのことはできるはずである。
 きっと私には、もうそれぐらいの価値しかないんだろうけど。
「じゃあ、なにしに呼び出したの? 世間話?」
 そうだったらいいな、なんて考えている自分に気づき、驚く。
 私はいつの間にここまで変質してしまったのだろうか。
「あなたが……あなたが、吸血衝動を抑えきれなくなりつつあると聞きました」
「……志貴、かな? まったく、普段はにぶちんなのに、妙なところだけ鋭いんだから」
 しかも、あんまりありがたくないときばかり、鋭い。
 でもそれは、肉体的危機を含んでいるんだから、志貴が鋭敏に反応するのは当然なのかもしれない。殺人鬼が、その研ぎ澄まされた感覚によって感知したというのであれば……まあ、そういうものだろう、と思う。
 気づいて欲しくなかった。志貴さえそれに気づかなければ、私はこの世の全てを騙してでもここにいたのに。
 いつかはこうなるんじゃないかと思っていた。……そんな言葉で納得できたなら。
「それで、なにが問題?」
 だとしたら、どうだというのか。シエルが私を狩らなければならなくなる、というのならわかる。しかしそうなら、わざわざこんなところに呼び出す理由はない。
 まさか、私のほうから、人間の血を吸ったから処分してくださいなんて言い出すはずもない。そこまで馬鹿正直になりたいとも思わない。
 根本において、敵同士なんだから。
「なに、とは?」
 質問の意図を掴みかねてか、問い返される。
「私が堕ちた真祖になること? それとも、私が志貴の血を吸うこと?」
 どちらも、結果としては同じだ。しかし、そこに至る過程のみが違う。
 志貴の血を吸わなくたって、堕ちた真祖にはなれる。ロアの血を吸ってしまっているんだから、遅かれ早かれ、血の乾きには耐えられなくなる。
 対処方法は一つだ。死徒を持つこと。血液製造装置としての死徒を作ること。
 そして、吸血鬼になりきってしまうこと。
 無闇に被害を拡散させなければ、教会は黙認する。それはわかっていた。教会が恐れるのは、吸血鬼の跳梁であり、それによる人間社会への影響であって、吸血鬼の存在ではない。
 吸血鬼のような悪の存在は、神が与えたもうた試練ではあるが、悪それ自体をどうこうする権限は、教会にはない。
 シエルはなにも言えずに黙り込んだ。不器用だなあ、と思う。
「志貴は、私に言ったよ。血を吸ってもいいって。本当に我慢できなくなったら、血を吸ってもいいって」
 それも、笑いながら言っていた。それが当たり前のことだと言わんばかりの笑顔で、躊躇いなど微塵もなく微笑んでいた。
 志貴は馬鹿なんだな、と思ったことを覚えている。自分の命がどれだけ大事なものかもわからない愚か者なんだな、と思った。
 人は死ねば終わりだ。どんな能力を持っていようと、どんな偉業を成し遂げようと、死んでしまえばなにもできなくなる。ただそれだけの当たり前のことを、志貴は全然まったく、理解していない。
 自分よりも他人の心配を優先するなんて、馬鹿げている。まずは自分ありきでなければならない。自分が大切だという気持ちがわからなければ、誰かを大切にすることなんてできるはずがない。
 はずがない、のに。志貴はそれでも、それがわかっていても、そう言うに違いなかった。
「志貴の寝顔を見ながら、いつも思う。血を吸いたい、血を吸いたい、血を吸いたい。志貴を私だけのものにして、私も志貴だけのものになって、そうやって死ねるんならそうしたいって、いつも考える」
 ぶらぶらと、歩き出す。手持ち無沙汰な手は後ろで組んで、足元を見つめながら、一歩一歩、まるで荊の道を歩くように、鈍重に。
 自分は吸血鬼なんだ、ということは知っている。そんな当たり前のことはわかりきっている。私は吸血鬼で、志貴は人間で、私は略奪者で、志貴は搾取される側だ。
 それなのに、それなのに。
「でも……でも、私には志貴を殺せない。殺したくなんてない。そう思うと、泣きたくなるんだ」
 それが禁忌だということは理解している。しているつもりだ。
 捕食者が、被捕食者に同情したところでどうしようもない。食わずに生きられるのなら捕食者になるはずもなく、食うのに邪魔になる感情なんて、持つだけ無駄だ。
 私はすでに捕食者になってしまっていて、そして志貴こそがなによりも美味な餌であることを理解している。
 思い入れが深ければ深いほど、その血は豊穣を増すのだと、壊れた本能が教えてくれた。そうすることが正しいのだと、吸血鬼としての私は知っていた。
「志貴はいま生きていて、だからこそ志貴で、死んじゃったり、死徒になったりしたら、それはもう志貴じゃなくて。私は志貴が好きで、だから殺したいんだけど、殺しちゃったら志貴じゃなくなっちゃうから、それはとてもイヤで。……なんなのかな? 私はどうして、人の血を吸う化け物なのかな?」
 なぜなんだろう、と思う。なぜなんだろう、としか思えない。
 理由なんてないのはわかっている。これほど切実に願った事はないほどに、理由が欲しかったと思っている自分がいる。
 自然の摂理だ、といえば、そうなのかもしれない。自然界と人間の仲立ちをするためのバランス機構としての吸血鬼だ、というのであれば、納得もできる。
 でもそれなら、こんな気持ちなんていらない。人間らしい感情なんて必要ない。
 理性などなくしてしまえばいい。それはわかっている。そんな瑣末な感情に左右されるぐらいなら、堕ちた真祖となってしまえばいいのだ。
 ……でも、それはできない。志貴が、悲しむから。
「一緒にいればいるほど殺したくなる。わかってるんだ。私は、眠りにつかないとこの吸血衝動を抑えきれない。でも、今度眠りについたら……もう二度と、志貴には会えない」
 人の命は短い。異能者である志貴のそれは、さらに短いだろう。
 人の並を越えた力を持つというのは、そういうことだ。並の人間よりも蛇口が大きいだけで、力の貯蔵量が大きいことはそうない。
 勢いよく力を噴き出せば、確かに志貴のような能力も行使可能だろうけど……それはやはり、人の手には余る力だ。
 志貴の体は……いや、魂は、すでにぼろぼろだ。
 それなのに、そんなことには気づかずに微笑んでいる志貴を見ていると、どうしようもない気持ちになってしまう。ただ傍にいられるだけでいいと、そう思ってしまう。
 でも、それは結局、志貴が自滅するのを待つか、私が止めを刺すかの違いがあるだけ。
「なにが正しいのかもわからない。志貴は私に殺されてもいいって言うけど、それは殺せって意味じゃないのもわかるから。私が殺さないってわかってるから殺してもいいだなんて……残酷だよね」
 そういうことじゃないだろうな、とも思う。志貴は本当に、私が志貴を殺したいと思ったなら殺せばいい、と思っている。
 だけど私は、志貴を殺したいと思う私なんて私じゃないと思うし、志貴もそんな私は好きじゃないだろうと思うから、だからそんなことはしない。できない。
 矛盾、ではなく。二律背反、ではなく。
「でも、だからこそ遠野君です」
 そう。結局はそうなるんだろう。
 だからこそ志貴は志貴なんだろう。
 鈍感で、女心なんてちっともわかってなくって、それでいて、本当に欲しいものだけはいくらでも与えてくれる、そういうのが志貴なんだろうと思う。
「私なんて、ただの吸血鬼なのにね」
 私が本来得られるものは、血と殺戮だ。愛と平和なんてものとは対極にいる。
 それでもきっと、だからこそ、それを切実に願ってしまう。陽だまりの中で生きる自分を夢想してしまう。
 叶わぬ夢だと、知っているけど。
 思わず、微笑んでいた。
「ねえ、シエルはどうしたらいいと思う?」
 答えを期待しての問いかけではなかった。ただ、目の前にいたのがシエルだったから聞いた、という条件反射に近かった。
 言ってから、言うんじゃなかったと思った。シエルが辛そうに顔をゆがめてしまったから。
「少なくとも、あなたが死んでも、遠野君のことを心配する必要はありませんね」
 気丈に、あるいは無自覚に、そんなことを言う。シエルもきっと、幸せになるのが下手な人種に違いない。
 私に死ねと言えなかった時点で、狩人としては失格だ。望んでそれになったはずなのに、それを裏切っているということは、実際には、そんなものになることは望んでいなかったということだろう。
 せめて望むものを違えずにいれば、と私が思うのは、間違いなんだろうけど。
 それでも願ってしまうのは、間違いなんだろうか。
「私がいるからって? それもきっついね」
 嘱望は軽口で誤魔化して、苦笑を浮かべる。
 それもいいかも、と思いながら。
「あなたは自分の立場を自覚するべきです。吸血鬼云々もありますが、遠野君の恋人なんですから」
 わずかだが眉間に皺を寄せ、それとは正反対に表情を消す。
 シエルの感情制御能力は大したものだと思うけど、隠そうとしているのが丸わかりなのがいまいちだ。そんな感情を隠せるだけでも大したものだが、それではあまり、意味がない。
「人間の恋人と吸血鬼の恋人じゃ、意味が全然違うでしょ?」
 違って欲しいという、願望も混じっている。
 でも、それが違ったからって、なにが変わっていただろう、とも思う。
 本当は、そんなものは問題にすらならないことを知っていた。
「あなたは吸血鬼で、遠野君は人間だというだけです。意味が違うというのなら、遠野君を殺したらどうですか? そのときは私があなたを殺しますが」
 シエルも矛盾している。志貴が欲しい気持ちでいっぱいのくせに、たやすく殺せとけしかける。
 手に入らないなら殺してしまえ、というわけではない。私を殺すために殺せ、と言っているわけでもない。
 ただ、どうしようもない気持ちだから、思いついたことを言っている。だからきっと、それは偽りのない本当の気持ちだ。
 どっちつかずの宙ぶらりん。やっぱり、私たちは似ているのかもしれない。
 だとしたらこれは、近親憎悪か。
「一番いいのは、眠りにつくことです。そうすれば……」
「そうすれば?」
「……なんでもありません。ともかく、あなたは遠野君を殺さずに済みます」
 それが一つの現実解だ、というのはわかっている。そうすれば確かに、シエルの言う通り、私は志貴を殺さずに済むだろう。
 でも、それは。
「それは、私にとって一番いい解決、ってやつだよね」
 堕ちた真祖に堕することなく、志貴も殺さず、ただ生き延びるための選択。
 自己保存はそれを推奨する。それでも私は、いまさらそんなものを選択できないほどの贅沢を覚えてしまった。
 朝起きた時、隣に志貴が眠っている。ただそれだけのことが捨てられなくて。
「ベストな解決がないのであれば、ベターな方法で妥協するしかないのでは?」
 シエルが妥協案を提示するなんて。おかしくて笑ってしまう。
 シエルが本気だからこそ、笑ってしまいたかった。
「それができれば苦労しないんだけど、さ」
 私が望まないと思うと同様に、きっと志貴もそんなものは望まないだろう。望まないだろう、と思う。望まないで欲しい、という願望なのかもしれないけれど、それでも。
 私はいつからこんなに弱くなったんだろう。志貴に出会った時? 志貴に殺された時?
 きっと……ロアの血を吸った時からだ。
「どちらにしろ、あなたは遠野君を殺すわけですね」
「うん。そうだね。きっと、そうなるんだよね」
 それをどう認識すればいいのかわからない。
 血を吸っても、吸わなくても、私は志貴を殺してしまう。それならいっそ、ためらいもなにもかも捨ててしまえばいいんじゃないか、と思う。
 許してくれる、ということと、望んでくれる、ということは、似ているようで、全然違う。私を躊躇わせているものは、そのわずかな違いなのかもしれない。
「どうしても遠野君を殺したくないなら、一つだけ方法があります」
「へえ。どんな?」
 あまり、期待せずに。シエルのことだから、それは……きっと、自分勝手な方法に違いなかった。
 志貴を手に入れるためなら、私を殺すことだってするだろう。だからこそ私は、シエルを認めているのかもしれない。
「私があなたを殺します」
 瞬間、シエルから叩き付けられる殺気に反応する。シエルが本気かどうか見抜けないほど間抜けではない。シエルは本気で私を殺そうとしている。
 敵。そう認識したものを生かしておいたことはない。どんな手を使ってでも追い詰め、抹殺してきた。
 狩人は常に狩られることを意識している。自らが狩る者であるからこそ、狩られるということがどういうことか理解しているから。
 狩人の大半は、狩られたくないから狩っている。それはつまり、自らも狩られることを前提にしている。
 二人の狩人が出会ってしまったなら、無事ではいられない。狩られないために狩るからこそ。
 シエルを見てると、なんだか泣きたくなってきた。なにもそんなに頑張らなくたっていいのに。
「そうだね。うん、そうだよね。私がいなくなっちゃえば、志貴も幸せになれるよね」
 それが志貴にとっての幸せかどうかはわからない。幸せでなければいいのにと思ってしまうから、思ってしまう自分を自覚できるから、ますますそれがわからなくなる。
 私はもっと単純な造りだったはずだ。こんなことで思い悩むようにはできていなかったはずだ。
 こんなことを考えるようになってしまった時点で、私は吸血鬼としては失格なんだろう。
「バカバカしい。自虐に付き合う趣味はありません」
 寸前までの殺気もどこへやら、拍子抜けしたシエルは戦闘モードを解いた。
 私を殺すのなら、これ以上のチャンスはないというのに。
 だから私は……シエルはもう、私を殺せないんだろうな、と思った。
「私を殺せないあなたには用なんてありません。せいぜい吸血鬼に落ちぶれなさい」
 激励すらされて。不甲斐ない我が身を叱咤までされて。
 私は……私は本当に吸血鬼なのか。シエルに憎まれてやることもできないで、憎ませてやることもできないで、一体……
 体の中心にぽっかりと穴が開いていた。それでもう、私はこのままじゃいられないんだと気づいた。
「……ごめんね」
 誰にともなくつぶやいた言葉がシエルに届くよりも早く、その場を跳び去る。
 そうか。そういうことだったんだ。
 それなら確かに、この道が袋小路なのも理解できる。
 私はもう、吸血鬼じゃない。
 だからなにもできない。……志貴を愛することすら。
 逃げ出したかった。なによりも自分自身から。

 まっすぐ家に戻ろうと思っているのに、足取りは重く、必要のない迂回を繰り返していた。
 シエルとの対談は、予想した時間内で終わった。部屋では志貴が待っているだろうし、まだ待たせたというほどの時間は経っていない。
 すぐに帰るべきなのはわかっていた。すぐに帰るつもりで家を出てきた。
 それなのに、どうしようもなく怖かった。志貴に会って、志貴の顔を見て、志貴と愛し合うことが、とても怖かった。
 私にはその資格がないと気づいた。……それは、詭弁だ。私は生まれたときから吸血鬼だった。志貴と出会った時だって吸血鬼だった。吸血鬼が人間と愛し合うなんて、そんな資格なんてありえない。
 ……夢を、見ていたかった。志貴と一緒にいれば、なにかを得られるんじゃないかと思って。遠い昔、血を吸ったことをなかったことにして、まっさらな私に戻れるんじゃないかと夢想していたかった。
 それは、人間である志貴だからこそできることで、でも、志貴が人間だからこそ、私にはそんなものを望む資格はない。
 私の願いはもう、永遠に叶わない。あの日、あの時、ロアの血を吸った瞬間から。
 だから、だとしても、だからこそ、……願いは強烈だ。
 叶わないとわかっていても切望する。叶わないとわかっているから切望する。
 私の中の矛盾の塊は、私ですら目を背けたくなるほどに成長していた。
 もう、潮時なんだろう。なにもかもが終わっていることから目を背けている間はまだよかったが、それに目を向けた瞬間、逃げられない呪縛となって私の心を縛り付けた。
 終わらせるしか、ない。
 それが志貴を傷つけたとしても。

 自分の部屋の扉に手をかけて、躊躇する。まだ逃げたいと思っている自分を自覚する。
 それはしょうがない。それが本音なんだから、いまさらだろうがなんだろうが、私はそれをすぐに実行することなんてできない。
 やるべきことは決めた。覚悟だけがなかなか決まってくれなかった。
 どれぐらいそうしていただろう。音を立てないように扉を開けた。
 玄関で靴を脱ぐ。リビングの扉を開ける。
「こんな時間までどこ行ってたんだよ?」
 気配は、消していたつもりだけど。志貴は即座に反応して、腰を上げた。
「うん。ごめんね」
 謝る以外になにが出来ただろう。それでもその謝罪は、待たせたことに対するものではない。
 これから志貴を捨てることに対する言葉だ。
「どうしたんだ? なんかあったんだろ?」
 一歩、踏み出せば、それで済むはずだった。一歩だけ踏み出して、いつものように微笑んで、いつものように中身のない会話を楽しんで、それで仲良くベッドに入れば、それで終わり、と決めていた。
 ただの一歩も踏み出せなかった。それが志貴を傷つけるとわかっていたのに。
 それはもう、弱さとすら呼べない弱さだった。
「ごめんね、志貴」
 あなたを愛してごめんなさい。私を愛してくれてごめんなさい。
 あなたを捨てられない私を許してください。
「何がだ? 別に怒ってるわけじゃないさ。そりゃあまあ、心配したけど、心配してただけで、怒りたいわけじゃない」
 不審そうに……というよりは、理解不能な顔で、志貴は立ち尽くしている。
 志貴にしてみれば、なにもかもが突然。でも、私にしてみれば、いつか訪れると思っていた日がたまたま今日だっただけ。
 なのに。だけど。
「ごめんね。……ごめんね」
 あなたは心の底から私を心配してくれている。なにがあっても私が変わらずあなたを愛していると信じている。
 それはきっと、そうだったらいいという私の想いが見せる妄想なんだろうけど。想いにぐらい、騙されていたかった。
 私はこれを抱いて墓に入るんだから。
「なんなんだよ。なにがあったんだよ」
 駆け寄られ、抱きしめられた。
 決別を……切り出すはずだったのに。志貴に抱きしめられた瞬間、なにもかもがどうでもよくなってしまった。
 このままの関係でいいじゃないかと、思ってしまった。
「ごめん……ごめんなさい」
 いいはずがない。そんなことは許されない。
 いや、許せない。他の誰でもなく、私こそがそれを許せない。
 私が愛したから、私が愛した人が死ぬ結果になるだなんて、そんなこと。許せると思うほうが間違いだ。
「いいよ。別にいいよ。俺は怒っちゃいないから。気にするなよ」
 怒って欲しかった。詰って欲しかった。責めて、欲しかった。
 お前が悪いんだと、お前が吸血鬼だから悪いんだと、最初から住む世界が違ったんだと、そう言ってくれれば、そう言えれば、私は楽になれたんだろうか。
 そんなことはありえない。志貴は絶対にそんなことは言わない。
 だから、ではないけれど、私の志貴は、そんなこと言いっこない。
「なんだよ。なんなんだよ。なあ、泣き止んでくれよ」
 泣いて……? 私は、泣いていたのか。いつの間に?
 いや、それよりもなによりも……私は、泣くことができたのか。泣くための感情を持っていたのか。
 それはなんだか、とてもほっとする事実で……泣けたことが嬉しくて、泣けるほどに嬉しくて、涙は止まってくれそうになかった。
 それでも、それなのに、それだからこそ。
「ごめんっ……ごめんなさいっ……」
 私は志貴を捨てなければならない。
 夢を、見させてくれたから。人の血を吸った吸血鬼である私が、人と共に暮らすことができるという幻想を抱かせてくれたから。
 人の血を吸うことが終わりではないんだと、教えてくれたから。
 教えて、くれたからこそ。それを断罪し続けてきた私は……私だけは、やはり、救われる資格なんてないんだろう。
 人の血を吸い、それでもなお人に執着した吸血鬼も始末してきた。人に害を為すかどうかではなく、ただ人の血を吸ったからというだけで。
 私はなにもわかっていなかった。わかっていなかったから裁くことができた。
 いまの私には、そんな権利はない。私はただ裁かれる側で……私を裁けるものはいない。
「お願い……抱いて」
 どうすればいいのかわからなくなって、思わずそんなことを囁いていた。

 夢を見ていた。
 夢を見ていたように思う。
 それは、夢と呼ぶには生々しい過去の姿だったけれど、それでもそれは夢なんだと思った。

 ハンターがハントする時になにか考えるだろうか?
 なにも考えない。考えるはずがない。ハントする以外のことを考えるはずはなく、ハントするということはつまり、なにも考えないということだ。
 なにかを考えてハントするようなハンターは失格である。それをするためにすることができるからこそ、ハントなんてことが可能になる。
 屠殺者が屠殺されるもののことなど考えるか? 考えるわけがない。それは生きていようが死んでいようが、肉という記号以外は持っていないんだから。
 だから私が狩りを行う時も、やはりそれがなんなのかということは考えない。血を吸った吸血鬼という、ただそれだけの存在で、私はそういう存在を狩ることを目的としている。
 なぜ、と問うことはしない。しても意味がない。問うぐらいなら狩れという不文律こそが絶対だった。
 あの頃はまだ髪が長かった。そんなことを思い出す。
 すでに堕ちた真祖は追い詰めていた。後は緩々と……いや、遠慮会釈のない手際で断罪し、抹殺し、再び眠りにつくだけの状況になっていた。
 私は狩人としては優秀らしい。そうならそうなんだろうと漠然と思うだけで、だからどうということもないのだけれど。それは結局は、機械的に動作していたからこそ、対象に左右されずに動作していたからこその成果であり評価だったんだろう。
 狩り取られるべき吸血鬼は、薄暗く薄汚い路地で息を潜めていた。
 その手には、人間の……人間だった死徒の手が握られている。これから私は、この二人を殺すことになる。
 なぜ殺す、と問われた。
「私は確かに人の血を吸った。彼女の血を。だが、それがなんなんだ? 彼女以外の人間の血を吸ったわけでも、彼女が誰かの血を吸ったわけでもない。私は死徒を持つという当然の権利を行使しただけだ」
 私は答えない。私にはそんな理屈は関係ない。
 この吸血鬼が狩られる理由は、人と交わったという、ただその一点のみだ。人の血を吸ったからではない。人と情を交わすという行為が許されざる罪なのだ。
 なぜなのかと、当時は考えなかった。考えてもわからなかっただろう。
 いまなら少し、わかる気がした。
「なにもわからぬ木偶人形が断罪するというのか。命じられるがままに動く傀儡の姫め」
 それがその吸血鬼の最後の言葉となった。
 私はなにも考えずに手刀を繰り出し、まず脳天から二つに切り分けて、改めて首を切り飛ばし、心臓を抉り出した。
 吸血鬼だから、半分にされたぐらいでは生きていたかもしれない。念には念を入れるという、いつもの当たり前の行動。
 吸血鬼の陰に隠れていた死徒は、絶叫を張り上げた。
 言葉にならず、聞くに堪えない鬱陶しいそれを止めるように、死徒を両断した。
 静寂が戻る。まず吸血鬼が灰となり、続いて死徒も灰となった。
 灰になる直前まで、死徒は吸血鬼の手を握り締めていた。
 死徒の瞳から血の涙が滴っていたことも気にせずに、私は身を翻した。

 目が覚めたら涙が零れていた。昨日から泣いてばかりだ、と思う。
 いままで泣いたことなんてなかった。泣く必要なんて、どこにもなかったから。涙は眼球の洗浄液であって、感情に左右されて流すようなものではない。
 そもそも、感情なんてなかった。必要なかった。私は木偶人形で……自分が木偶人形であることも知らない幸福な木偶人形で、ただ命じられるがままに処刑する存在だった。
 傀儡の姫。いまさらあの吸血鬼の言葉が胸に刺さる。確かに私は、なにもわかってはいなかった。
 悔いる気持ちがないではないが、かといって悔いてもどうにもならないこともわかっていた。だったらそんなものは捨ててしまうべきだ。
 いまの私には余分なものが多すぎる。これだけ長く起きていたのは初めてのことだし、人間に執着するようになったのもその影響ではあるんだろうけど、人間社会の仕組みを知るために吸い上げた情報が、私を人間と同化させることになるとは思わなかった。
 知ることは変わることだと、その理屈は理解していた。理解するということは、理解できるということは、認識主体の一部を同じくするということだ。理解できるものが積み重なって、認識主体の重複が増えて、私は人間が理解できるようになってしまった。
 概念の共通化。その観点からすれば、私はもう人間と区別がつかないだろう。
 これこそが堕落なのだと、これこそが真祖が堕ちる理由なのだと、人を理解して初めて真祖は堕するのだと、人こそがもっとも恐ろしい魔物なのだと、私は理解していた。
 人と手に手を取り合って生きていこうとする真祖は、だから危険なのである。人の血を吸おうが吸うまいが、それはすでに人と等しいのだから、同族に向かって牙を剥くようになることも容易に想像できた。
 私が処刑人だった理由はそれだ。真祖が滅びないように、真祖を保つために、真祖ではなくなった真祖を抹消してきた。
 すべての真祖を抹消してしまった私には、すでに自分を真祖だと認識することができない。次代の真祖は生まれず(それはきっと、この星にすら真祖は必要とされなくなったということだろう)、従える民を持たず、私は孤独な傀儡の姫となった。
 いまの私は真祖じゃない。人間でもない。ただ存在し、やがて朽ちて逝くだけの存在に成り果てた。
 私が滅びるその瞬間まで、志貴と一緒にいたかった。志貴と一緒ならどこにだっていけると、そう思った。
 でも、それはもう志貴じゃない。志貴はここにいて、妹とかシエルとかと一緒にいるから志貴なだけで、私と二人きりになった志貴は、もう志貴じゃない。
 人が人であるために必要なものは、そんなに少なくない。これだけのものを得て人間を知ることができるようになった私がそう思うんだから、それはきっと正しいのだ。
 志貴の血を吸って、死徒にしてしまって、城に引き篭もって、二人だけで朽ちていけたならと思うけれど。
 志貴を殺すぐらいなら、一人孤独に朽ちて逝こうと心に決めて、ベッドを抜け出た。