ちょっとした矛盾 no I wish



 何一つ望まないことが幸せなのだと、望みを抱いた時に知った。

 移動の大半は飛行機だった。
 飛行機に半日以上揺られて、その間に数回乗り継ぎ、自分がどこにいるのか(地図上では一応把握しているとはいえ)さっぱりわからなくなった頃、ようやくそれから解放された。
 腰が痛い。途中からはセスナのような小型機だったから、正直乗り心地は最悪だ。目的地に辿り着く前に空中分解するんじゃないのかと思うぐらい、ガタのきてる機体だった。
 生きて大地を踏みしめることがあんなに嬉しいことだとは思わなかった。思わず神に祈ったりしたものである。(きっとシエル先輩が祈る神とは違う神にだが)
 そこからはまた、オフロード専用というかむしろ軍用なんじゃないかと思うようなジープに乗り換えて、数時間走った。何時間乗っていたかは覚えていない。悪路を走るせいで激しく揺れ、その結果車酔いに悩まされ、時間感覚すらおかしくなっていた。
 それだけの旅程を、シエル先輩は平気な顔でこなしていた。鍛え方が違うというよりは、根本的に生物として何かが違うんじゃないかと思うぐらい普通だった。
 移動を開始してから……開始する前から、シエル先輩とはほとんど口を利いていない。必要最低限の事務的な会話こそあったが、学校で交わしていたような日常的な会話はほとんどなくなっていた。
 これが仕事をしているときのシエル先輩なんだろう。そう思うと、少し悲しくもあったし、それが頼もしくも思えた。
 たとえ俺が鈍感でなかったとしても、いまのシエル先輩の胸中は察することすらできなかっただろう。本来ならば敵対関係にある真祖の元に、餌になりかねない人間をのこのこ運ぶなど、教会の人間としてはやってはならない行為の最上位ぐらいに位置しそうなことをやってくれているのが、果たしてなにに起因しているのかなんて、想像すらできない。
 そんなシエル先輩の事情をあえて考えずに案内を頼んでいる自分も自分ではあるが。それを言い出すとややこしくなりそうで、なにも言えなくなり……口数は減っていた。
 もうすぐ着きます、とシエル先輩が言った時、少なからずほっとしている自分がいた。
「なぜ」
 不意にかけられた言葉に、びっくりする。ずいぶん久しぶりに声を聞いた気がした。
「遠野君は、なぜアルクェイドを追おうと思ったんですか?」
 ハンドルを握り締めているシエル先輩は、こちらを振り向くこともしない。運転用なのか、かけたサングラスの隙間から覗けた瞳は静かだった。
「なぜ、ですか」
「あなたにもわかっているんでしょう? アルクェイドがなぜあなたの元を離れたのか」
 それはわかっている。わかっていると思う。思うけれど……
「わかりませんよ、そんなこと。あんな置手紙一つで何をわかれってんですか」
 納得なんて出来ない。そんなことのためにアルクェイドが離れていくなんて、そんなものを受け入れる気はない。
 そんな……アルクェイドが吸血衝動を抑えきれないから、だから俺の元を離れていったんだとしても、こっちは最初から覚悟済みの話だ。アルクェイドがアルクェイドではなくなって……理性を失って俺の血を吸うことだってあるだろうことは想像に難くなかった。
 それでもいいと選んだのは自分だ。だからそんなものは、いまさらでしかない。
「アルクェイドは、あなたの血を吸いたくないだけでしょう。自分の衝動とはまったく関係なく。あなたは血を吸われてもいいかもしれない……でも、その気持ちをアルクェイドに押し付けても、なんの意味もありませんよ?」
 そう……なんだろう。そうなんだろうと思う。
 確かにこれは、俺の我侭だ。どんな覚悟だろうとも、それは俺の都合、俺の事情であって、アルクェイドがそれをどう思うかとは、全然別の話だ。
 だからこそ、アルクェイドは離れていった。それを尊重するなら、いま俺がやろうとしていることはアルクェイドに対する裏切りでしかない。
「だったら言えばいいんですよ。俺の血を吸いたくないから別れようって。黙って消える必要なんてない」
「言ったら別れたんですか?」
「別れるわけないじゃないですか」
 なんですかそれはと、シエル先輩は呆れた声を出す。
「私はどちらかといえばアルクェイド寄りの立場ですから、あえて言いますが……自分が相手を殺すことになるとわかっていてそれを受け入れることは、そんなに単純なものではありませんよ」
 そう……だろう。それはそうなんだろうと思う。
 だけどそれは、俺だって同じ気持ちだ。現に俺は、一度アルクェイドを殺している。アルクェイドの姿を見る度に、アルクェイドを抱く度に、その時の感触がフラッシュバックし、殺してしまえと内なる声が囁きかける。
 俺は……俺は、アルクェイドを殺す快楽を知っている。それでも殺さなかったのは、それは。
「俺は死なないよ。アルクェイドは俺を殺せるし、俺もアルクェイドを殺せるけど、それでも殺さないよ」
 言葉にして説明することはできないけれど、それは俺が殺人鬼なのと同じぐらい当たり前のことだ。
 俺はアルクェイドを殺すことで、殺すことの意味を知った。それがどういうことで、なにをもたらすのかを思い知った。
 だから、俺はアルクェイドを殺さない。アルクェイドを殺したことがあるからこそ、アルクェイドを殺すことはない。
 むしろ、それがあったからこそアルクェイドを望んでいる。殺した人間と殺された相手にどんな関係が生まれるのかなんて、普通はわかるはずがないけれど……
 きっとそれは恋と呼ばれるものに似ているんだろうと、そう思う。
 強迫観念のように誰かを思い続けるということ。俺はそれを恋と錯覚してしまうような殺人鬼なんだから、しょうがない。
「それに、アルクェイド寄りだとか、そんなのはナンセンスだ。先輩は俺をなんだと思ってるんですか?」
「……そうですね。そうでした。たまに忘れてしまいますが、遠野君は十分こちら側の人間でしたね」
 冷めた瞳に感情は覗けなかったけれど、シエル先輩はそれを認めながらも歓迎はしていないんだろうと、そう思った。
 俺は、みんなに思われてるような大層な人間じゃない。自分勝手で我侭で、他人の迷惑なんて顧みずに自分の望みを果たそうとするような奴だ。
 特別な能力は持っているけれど、特別な人間だとは思っていない。特別な人間になるには、俺はちょっと、覚悟が足りないと思う。
 だから、どこにでもいる人間のように、誰かのために命を賭けることもするし、自分のために我侭を貫くことだってする。
 物分りのいい大人になるほうが賢いのはわかるけれど、それじゃあ手に入らないものを望んでしまったんだ。そんなことをしている余裕なんて、ない。
「呆れてるんでしょう? 俺のやってることは……馬鹿げてる」
 こんなことをしたところで、アルクェイドに会えるとは限らない。よしんば会えたところで、俺を受け入れてくれるとは限らない。いや、そもそもアルクェイドは自分の意志で出て行ったんだから、拒絶される可能性のほうが高いだろう。
 それでもきっと、アルクェイドは待っていると、確信めいたものがある。だから俺は行く。なにがあろうとも。
「そうですね。呆れてはいます。……あなたの鈍感さに」
 シエル先輩は、言いながらジープを止めた。
「なにを……」
「ここまできて、まだ気づいていないんでしょう? 私の気持ちになんて」
 こちらに向き直っても、サングラスは外さずに……だが、睨まれていた。いや、憐れまれていたのか。シエル先輩の眼差しは、酷く……酷く、傷ついていた。
「なぜ私が、あなたをアルクェイドのところに連れて行こうと思ったかわかりますか? わからないでしょう? あなたは、そんなことすらわかろうとはしてくれない。わかっているんです。遠野君がそういう人だということぐらい。でも、だからって、私がアルクェイドのためにこんなことをしているんだと思われるのだけは我慢できません」
 それはつまり、俺のためにこんなところまできたんだと、そういうことか。
 シエル先輩は、アルクェイドを監視する立場にあるから追っているんだと、そのついでで俺を連れてきてくれたんだと、そう思っていたのに。
 ……そんなついでなんてないと、少し考えればわかりそうなものだけど。シエル先輩の言う通り、俺にとってそれはどうでもいいことだったんだろう。
「いまさら……ここまできて私の気持ちを知らないだなんて、絶対に言わせません」
 どうすればよいのかもわからずに、迫るシエル先輩の唇だけを見つめていた。

 どこまでも高く、どこまでも蒼い空の下に、その城はあった。
 天を貫く尖塔に、教会と見紛う程の典雅さを併せ持つ。吸血鬼、否、真祖の牙城としては、これ以上ないほどに相応しく、また、これ以上ないほどに相応しくなかった。
 見上げて、思う。これがロアも辿った道だろうかと。
「私が案内できるのはここまでです」
 感慨を断ち切るように告げる。
「え? 先輩も一緒に来るんじゃ?」
 遠野君は間抜けな顔で振り返った。目の前の城に気を取られていたからしょうがないんだろうけど、これで本当に殺人鬼なのかと疑ってしまう。
「中に入るのは一人だけ。そういう条件ですから」
 だから私は、最初からここに入れるとは思っていなかった。入る気も、あまりなかった。入ったところで、なにがどうなるわけでもないと知っていたから。
 私はただ、ここまで来たかっただけだ。自分の気持ちにケリをつけるなら、これ以上進む必要はない。
「……ごめん」
 情けない顔で謝られても、こっちが困ってしまう。まあ、だからこそ遠野君らしいけれど。
 結局、遠野君はアルクェイドでなきゃダメなんだろう。それがわかった……というよりは、骨身に染みてしまったから、これ以上遠野君について行く気にはなれなかった。
 アルクェイドを殺してでも奪いたかった気持ちが消えたわけではないけれど。アルクェイドを殺したところで奪えないとわかってしまった。
 なけなしの勇気を振り絞ったキスまでかわされてしまったんだから、もうどうしようもない。いまと同じ、情けない顔で謝られてしまったら、もうなにも言えなくなってしまった。
 私の気持ちを伝えることはできた。それで満足しておくべきだろう。
「こういう時は、ありがとう、と言うんですよ」
 それは以前、誰かに教えてもらった言葉で……誰に教えてもらったのかも忘れてしまったけれど、きっと、その生温い言葉こそが私を人間に繋ぎとめているんだろう。
 たまに、自分が人間でいたいのかすらわからなくなるけれど、それはそれでいいんじゃないかと思う。おっかなびっくり人間を続けていたって、悪いことはないだろう。
 ロアが死に、不死からは解放されたとはいえ、相も変わらず人外じみたこの体も、そんなに嫌いじゃなくなっていた。
 人間である自分を嫌いじゃなくさせてくれたのは遠野君で、人間ではない自分を嫌いじゃなくさせてくれたのも遠野君で、だからきっと、私はその想いを恋心と勘違いしていたんだろうと、それはただの憧れだったんだろうと、そう思う。
 どこから見ても完璧な殺人鬼なのに、どこから見ても普通の人間な遠野君がいたからこそ、日常から遠く離れていた自分は、日常から遠ざけられていたのではなく、自分から日常を遠ざけていたんだと気づくことが出来た。
 人を人に定めるものは、他のなにものでもなく心のありようなのだと理解できた。だから私は、これからも死徒を狩り続けるだろう……神の僕としてではなく、復讐者としてでもなく、人間の味方として。
 やることは変わらない。それでもそれは、大変革だ。
「そうだね、うん。……ありがとう、シエル先輩。先輩のおかげでここまでこれた」
 右手を差し出されて……それがなにを意味するのか理解するまで、数秒かかった。
 握手だなんて。ここまできてそれは……残酷すぎやしないだろうか。
「アルクェイドに飽きたら、いつでも帰ってきてください。私はきっと、待ってます」
 あの街で待っていることはできないだろうけど、遠野君を待ち続けることはできるだろう。きっと帰ってこないとわかっていても、それでもそれは、私の中で特別に輝く思いなんだから。
 そんなことを言ったら、遠野君がまた困ってしまうのはわかっていたけれど。それぐらい困らせたっていいじゃないか。
「そうだね。もしもの話は好きじゃないけれど……アルクェイドに出会わないで先輩に出会っていたら、多分俺は先輩を選んだんじゃないかな」
 そんなもしもはありえない。アルクェイドがいて、アルクェイドが真祖で、アルクェイドがロアの血を吸ったからこそ、私はいまここにいる。
 だから、もしもの話が好きじゃないという言葉は、私のための言葉で、そんなもしもはありえないけれど、それでもきっとそうしただろうという希望は、私に対する慰めであり、同時に最後通牒でもあった。
 だから、この場面に一番相応しい言葉は、感謝の言葉ではなく、別離の言葉なんだろう。
「さようなら、遠野君」
「さようなら、先輩」
 その言葉で、ようやく一つの区切りがついたんだと、そう思った。

 案内人に連れられた遠野君の後姿が見えなくなった頃、ジープの運転席で一人、黙していた。
 もうここに用はない。結果がどうなろうとも、私がここにいる必要がないのはわかっていた。いざとなれば連絡もできるように衛星電話だって渡してあったし、今日明日に連絡がこなければ、ともかく私は日本に戻ることになっていたし、戻らなければならなかった。
 用事……いや、仕事がなければ戻らなかっただろうか、と考えても、それはないだろうと思う。私は、本当に……ここで自分にすべきことは、すべて終えてしまった。過去の気持ちに区切りをつけ(まあ、アルクェイドを一発殴るぐらいのことはしたかったけど)、これからの生きる目標も再確認できた。
 気が抜けた、というか。やるべきことをやった充実感と一緒にある虚脱感、というか。成し遂げてしまったものがもたらす空虚さに包まれていた。
 祭りの後。そう、これはそれにとても似ている。
「浮かない顔をしているな、代行者」
 いきなり声をかけられてびっくりした。そこ……なんと、助手席……にいたのは、遠野君をアルクェイドの城、千年城に連れて行った案内人、魔道元帥ゼルレッチと呼ばれる死徒だった。
「いつの間にっ……!?」
「驚くことでもなかろう? 儂はそういう魔法使いだ。輪廻の蛇の知識には私のことはなかったか?」
 あったとも。だが、それを知っているということと、それに対して驚かないということは同義ではない。
 それに、ここに戻ってくる理由がない。死徒が、代行者になんの用があると言うのか。
 ゼルレッチは、死徒とは思えない笑みを浮かべ、視線はただ遠く彼方に向けて、自分の質問のことなど忘れたかのようにシートに深く身を沈める。
「贈り物はきちんと届けてきた。きっと姫も喜んでいるだろう。世話係として、寂しい思いがないわけでもないが……まあ、子の巣立ちは、どんな子であれ、親にしてみれば寂しいものには違いない」
 人間臭いことを言う。だが、ゼルレッチは元人間だ。人の身から死徒へと転じ、そのエピソードもまた、人間らしいというか、ゼルレッチらしいというか、この男はそんなことではなに一つ変わらないだろうと思わせるだけのものがあった。
 おそらくは、人間の擁護者としては最強の死徒。だからこそ、人間と関わりあうことのない究極の死徒。
「あなたにかかると、アルクェイドも子供扱いですか」
 ロアの記憶にも、ゼルレッチのことは刻まれている。それは常にアルクェイドの傍らにあって、ロアのことを睨み据えていた。
 実物は、どこから見てもどこにでもいそうなただの好々爺だった。まあ、格好と能力は普通とは真逆に位置しているが。
「いや、姫は真実、子供なのだよ。子供であるようにと作られ、また、そのように扱われてきた。……それを変えたのは、輪廻の蛇だが」
 苦々しく吐き捨てながらも、それを嫌悪する様子ではなかった。
「人は人として育てられて、初めて人となるのだろう?」
「は? ええ、まあ……そういうものらしいですが」
「人として成長する過程においては、まだ人は人ではないと、そういうことでもあるわけだ。だとしたら、人でありながら人ではなく……もっとも自由なのは、子供だということにはならないかね?」
 善悪の判断基準を持たない者、という意味で言えば、確かにその通りだろう。判断基準自体を育てている過程にあるのだから、それが成熟していないというのは、実に当たり前なことだ。
 無邪気に蝶の羽根をむしる行為も、子供にとっては悪でも禁忌でもなく、ただ生命というものに対する興味を満たすための観察に過ぎない。
 そこに悪はない。だが善もない。
「断罪者とはそうあるべきだと、真祖は主張した。自身に善も悪も持たないこと、自身の判断基準を持たないこと……それこそが抹殺者には必要だと。それ自体は正しかったことのように思う。姫は裏切り者の真祖、血に堕ちた死徒を狩る者として、望まれた以上の働きを見せたのだから」
 だけどゼルレッチはそれを喜んではいない。望んでいない。認めてすらいない。
「幸福を知らぬ者は幸福だと言った人間がいたな。まさしく、そうなのだろう……姫は幸福など知らなかった。そんなものがあることすら知らなかった。故に最強であり……故に最悪だった」
 ゼルレッチとアルクェイドの関係がどのようなものであるのか、私は知らない。ロアも知らなかった。ロアが姦計を巡らせ始めた時、ゼルレッチは姿を消していた。
 だからこそロアの計略は成功した。
「私は姫のために死徒となった。否、厳密に言えばそうではないが……結果的にはそういうことだろう。私が果たさねばならぬものの内に姫がいた。そして私は、私の望みのために、姫を見捨てたのだ。最悪の方法で」
 独白か、懺悔か。後悔に似た、後悔ではない何か。
 それでもその表情は淡々としている。己の行いのすべてを受け入れている、それはそういう態度だった。
 達観ではない。諦観でもない。ただひたすらに強固な……意志。
 目的のためなら大事なものですら犠牲にする。一番大事なものがわかっている、ということだ。
「結果、姫は輪廻の蛇を死徒とした。そこから先は、言うまでもないな」
「ええ。ですが……それが、なにか?」
「さて。なんなんだろうな」
 顎を撫でながら、自分でもなぜそんなことをしたのかわからない様子で、ゼルレッチは溜め息を吐いた。
「人と真祖は相容れない。肉体的、精神的な差異もそうだが、存在の成立からして、根本的に異質なものだ。究極的には、真祖は人を狩らねばならぬし、人はそれを唯々諾々と受け入れるほど諦めた種でもない。そこにあるのは対立であるはずだった。そして、対立であるべきだった」
 長い、長い独白は、そもそもなんのためなのかと、いまさら気になった。
 あまりにも唐突な出現、意味不明としか取れないその言葉、なにを考えているのかまったく読み取れない表情。怪しさしかないというのに、そんなものを忘れさせるなにかがあったのは事実だ。
 それでも自分たちの関係は敵だ。なにを呑気に会話などしているのか。
「真祖よりも、人間という種が頑強だったと、ただそれだけのことではあるが。だとすればそれは、真祖を生み出したものの失敗だろう」
 計算が甘かったと、ただそれだけであるならば、誰にも責任はないのかもしれない。
 真祖は人間の天敵になれなかったという、ただそれだけの話ではあるが。
「儂は、姫が一人でそれのツケを背負わねばならぬのが許せなかった」
 それを……そんなことを、ゼルレッチが思ったというのか。その責の一端は、人間であるゼルレッチもまた負っているものだというのに。
 だからこそだと言われたら、納得はするのだろうが。ゼルレッチが目指すものがなんなのか、よくわからなかった。
「だから、今回の依頼を受けたのだよ。代行者には悪いことをしたかもしれないが、な」
「……なにもかもお見通し、ですか?」
 敵である私の依頼を聞き入れた理由はなんだろうかと、考えてはいたが……まさか、そんなものだとは思わなかった。
 私のためでも遠野君のためでもなく、アルクェイドのために。それはそうだろう、言われるまでもない、と、言われてから気づいてもしょうがない。
 ということは、ゼルレッチは、アルクェイドのことを、ずっと監視していた、のだろう。でなければ、アルクェイドと遠野君、そして私の関係を知っているはずがない。
「儂に知りえることはあまりにも少ない。儂に行えることもまた、それに等しい。魔法使いだ、魔道元帥だと持ち上げられたところで、儂にできることは、儂個人にできること、ただそれだけでしかない」
 それがどういう意味なのか、魔法使いであるゼルレッチにしかわかりはしないのだろうが、世界で五人しかいない魔法使いの言葉にしては、あまりにも気弱だった。
 魔法は魔術ではない。言葉は悪いが、それは万能とほぼ同義だ。人の才も能も超えた境地にある、神の業と言ってもいい。
 だからこそ教会は魔法使いを排斥しようとするのだが。魔法使いを排斥できるものがいるとすれば、それは魔法使いだけであるという矛盾の前に、手も足も出せないでいる。
 もっとも最近では、その対策にも目処がついているらしいが……
 魔法使いとて人間かと、そう思わせるだけの人間臭さが、ゼルレッチにはあった。
「姫を救うこともできない。であるなら、魔法使いであることになんの意味が? 確かに儂は、姫と代行者と直死の魔眼の関係は知悉しているが、ただそれだけだ。私がそれになにができる? ただ眺めることができて、誰かをどこかへ連れて行けるだけだ……そんなものは、この車とそう変わるものではない」
 そんなものに意味などないと、ゼルレッチは吐き捨てた。
「何を言い、何を望んだところで、儂にはなにもできん。儂には姫よりも大事なものがあるという……ただそれだけのことだ」
 納得づくでそれを選んだはずなのに、いまさらそれを認めがたく思っている。
 後悔と言えば後悔。覚悟と言えば覚悟。
 それよりは単純に、誓いと呼ぶのが相応しいだろう。アルクェイドのことを思うのもまた、それの上にある感情にすぎないのだから。
「……他人に感情を覗かせるとは悪趣味ですね」
 なにかおかしいと思っていた。目の前の死徒になぜ悪意がないなどと断定できたのか。なぜゼルレッチのアルクェイドへの想いがわかるのか。
 答えは単純だ。ゼルレッチは、私にそれを見せ付けている。
「覗こうと思ってる者には覗けんよ。必要があれば覗けるようになっている。百の言葉を並べ立てるより、一つの感情を伝えるほうが確実なこともあるというだけだ。いつもいつも、そうしているわけでもない」
「私に……代行者にそれを見せてどうするつもりですか?」
 同情しろとでも? まさか、理解しろとでも?
 そんなことはありえない。私が死徒を理解し、あまつさえ許すことなどありえない。
「過分な業は背負わずともよかろう? 代行者であれなんであれ……人には分際も限界もある。わきまえねば進めぬこともあるだろうさ」
 それは……それは、言いたいことはわかるが。しかしそれは、なんの説明にもなっていない。
「儂は常に人間の味方だ。前を向き、正しくあろうとする人間の味方だ。代行者が代行者であったとしても、人間であるということはそれ以前の問題だ。ならば儂は、戯言でしかないのかもしれないが、助言ぐらいはするのだよ。無能非才の身なれば、この身が学んだことしか語ることはできないが」
 お前は人間なのだと……そう叩きつけられて、答える言葉をなくす。死徒にお前は人間なのだと教えられて、心が揺らぐ。
 それが私の立脚点であることに間違いはない。確かに私は人間で、人間であることにこだわっていて、だからこそ代行者をやっている。
 それがいつの間にか、代行者をやるために代行者をやるようになっていたと、遠野君に気づかされ、ゼルレッチに思い知らされ、そして私は、ようやく思い返す。
 あの日、あの時、私が願ったのは救いで、あの日、あの時、私が諦めたのもまた、救いだった。
 死徒に堕とされ、人間として蘇り、死ぬことのできない存在となって、私は私が手に入れることができたものをすべて切り捨てた。切り捨てることによって、私のような思いをするものが少しでも減るようにと誓いを立てた。
 死ぬために生きるのは辛すぎて、生きるために活かすことを選んだ。そう、それは間違いなく、私の決断だった。
「死徒を狩る代行者だからこそ、正しくあって欲しいという……自滅的に見えるかもしれないが、切実な願いでもある」
 死徒が悪なのはかまわない、ということか。死徒を悪とするからには、人間は善なのだと信じさせて欲しいと、そういうことか。
 なんて矛盾した。なんて綺麗な。例えようもないほどに愚かな願いじゃないか。
「話はこれで終わりだ。……つまらない話を聞かせたかな」
 顎鬚を撫でながら、ゼルレッチはようやくこちらを向いて、苦笑のようなものを浮かべた。他に表情を選択できなかったという、ただそれだけの理由で浮かべられたその微笑みは、なぜか晴れ晴れしい気持ちにさせてくれた。
「私は死徒に感謝する口を持ちませんから、これはただの独り言ですけど……私たちはよく、それを忘れてしまいます。ともすれば正義のための正義を行使し、正義が守るべきものを置き去りにします。そうしなければ得られない結果があることも確かですが、それはそれを忘れていいということにはなりません」
 正義を掲げてそれを行うのなら、正義が果たすべき義務を蔑ろにしたこともまた、掲げなければならない。そこまで含めて初めて正義は正義たりえるのであって、正義というお題目がなにかの免罪符になったり、行為を正当化するわけではない。
 正義を唱えることは容易い、しかし正義を行うことは困難だ。一人の人間の主義主張ですら明日も同じであるとは限らないのに、それだけの信念を築くということは不可能ごとにすら思える。
 それでもそれはある。幻想のような力強さを持って、それから離れることはできない場所に。
 人間は生まれた時からそれを持っている。だから私は神を信じる。
「正義の担い手には、正しさなど必要ないのでしょう。それは目指し、望むものではなく、最初から自らの内にあるのですから」
 誤らないことが正義ではないと、いつもそれを間違える。過ちを正すことができることが正義なのだと、いつもそれを忘れる。
 過ちを無条件で認め、受け入れるわけではない。ただそれがなくなることはないということを知っているだけ。
 努力と結果の間にある埋まることのない溝を埋めるものはそれなのではないかとすら思う。正義にはそれぐらいの価値があってもいいはずだ。
「完全な敵などいない……ただ許しえない敵がいる。我々の関係とはそうあるべきだと、儂は思う」
 許せない敵すらいないと、それでもなお許すことができない敵がいると、それはそういう、感情論でしかないのかもしれない。
 それでもその答えに不満はなかった。私はきっと、ずっとそれが欲しかった。
「私は私の役割を果たすでしょう。主名に誓い、我が名、エレイシアにそれを誓います」
 ずっと、それを認めたくなかった。私は私が私であることを認めたくなかった。
 誰も、私が私のままでいいなんて言ってくれなかったから。私がロアに乗っ取られたのも、私が死に損なっていたのも、私を責める言葉にこそなれ、私を許すものではなかった。
 私は私を許し、認めることにした。もう怖いものなんてなにもない。
「よかろう。ならば闘争だ。いや、殺し合い、潰し合いこそが我々にはお似合いだ。命の限り、力の限り、お互いを断罪し合うとしよう」
 そう微笑むゼルレッチの姿が、急速に薄れていく。やはり、なんとなくそうじゃないかとは思っていたが、ここにいたのは本人ではなく、本人の影だけだったようだ。
 いくらなんでも、ゼルレッチほどの死徒の接近に気づかないはずがないと思っていた。それは間違っていなかったわけだ。
「私は人間の敵の敵です。死徒の敵ではありません」
 微笑みと共に言葉を返し、薄れゆくゼルレッチの苦笑を認める。頑固だな、とでも言いたげなその笑みが消えた頃、私はジープのエンジンをかけた。
「私には私のやるべきことがある、か」
 同様に、遠野君には遠野君のやるべきことがあるだろう。それは私がここにいたところでなにも変わらないことに違いない。
 とりあえず、この気持ちもいまはお預けだ。たとえ遠野君がアルクェイドのことを好きだったからって、私が遠野君のことを好きじゃなくならなきゃいけないわけじゃない。
 自分を偽らないということ。それが自分を許すということだ。

 謁見の間だった。
 案内人とかいう爺さんに案内された先にあったのは、広大な空間に等間隔に支柱が据えられ、その最奥に玉座が据えられただけの謁見の間だった。
 明り取りには例外なくステンドグラスがはめられ、そのどれもが悲劇的な場面を描写している。人間と吸血鬼の戦い。いまこの場において、それが悲劇以外のなにものになるだろうか。
 玉座に彫像のように座している人影が一つ。この城の主にして唯一の真祖、アルクェイド。
 白を基調としたドレスを纏い、目を閉じている。どこかで見た気がする姿だけれど、アルクェイドの髪の短さが違和感を醸し出す。いや、一番違和感を覚えるのは、いつとも知れぬ記憶の中のアルクェイドの髪の長さに対してだが。
 アルクェイドはなに一つ変わらず……だが呼吸すら止めて、そこにいた。
「姫は眠りについている。二度と目覚めることのない眠りに」
 案内人の爺さんは、戸口にもたれかかるようにして腕組みをしている。それ以上中に入ってくる気はないらしい。
「二度と目覚めないなら死んでるのと一緒だ」
「それの違いを一番よく理解してるのはお主だろう?」
 そうだとも。俺はわかっている。こんなものは死じゃない。死はもっと圧倒的で、おぞましくて、なによりも美しい。
 死にはこんな寂しさなんてない。だからこれは死じゃない。
「だったら……なんなんだこれは?」
 理解できない、というのはいまさらすぎて、言葉にするのも憚られた。いままで自分がなにかを理解できたことがあっただろうかと自虐的に考えるほど、自信なんてものはなかった。
 だが、それでも、目の前にあるものをあるがままに受け止める覚悟は決めてきた。
「棺だよ。ここが、ではなく、玉座が、でもなく、この城が、だがね。巨大で壮麗な、真祖の墓標だ」
 皮肉な笑みを浮かべる爺さんを無視して、アルクェイドに向き直る。
 清冽。静謐。だからこそ、美しい。
「無邪気な子供のようにと、姫はそのように作られ、育てられた。いや、教育なんてものを受けたことはなかったか。世界そのものから情報を吸い上げる真祖だ……己の役割も、望まれた存在理由も、なにもかも理解していたに違いない」
 だけど、意味を理解することはできなかった。これから起こることがなんなのかまったく理解していなかった。
 そんなだから、ロアにいいように利用されるのだ。
「真祖の滅び、それ自体は必然の結果だったのだよ。そういう意味では、な。ただの自滅だが、だとしても、それは変えようのない結末だったんだろう」
 そうしてアルクェイドはロアを追い、自らを鎖で縛り、目的を果たした後は、こうして死に朽ちていこうとしているのか。
 だからなんだ。
「俺はもう、アルクェイドの都合なんかかまいやしないって決めたんだ。そんな脅しは必要ない」
 意味もない。いまの自分を止めることができるものはなにもない。
 正しく間違ったものだらけの世界で、いまさらなにが正しいのかと煩悶する無駄を悟った。どうせ間違えるしかないのなら、自分の好きな方法で間違える。そうすることにした。
 俺が生きていても死んでいても世界は関係なく回るだろう。だとしたら、俺がすべきは世界におもねることじゃない。
「傲慢だな」
 爺さんは鼻を鳴らして言いながら、それでも笑った。笑いながら、姿を消した。
 俺は答えずに笑みを返して、アルクェイドに歩を進めた。
 自分の足音だけが響く。呼吸音が煩わしい。動悸すらも耳障りだ。死に絶えた世界の中心で眠り続ける姫の元に馳せ参じるのは、死をもたらす騎士しかいない。
 二人きり、という言葉を強く意識する。死に満ちたこの場所には、俺とアルクェイドしかいない。二人だけが、この世界を真に共有できる。
 死をこの身に宿した殺人鬼と、死だけを生み出してきた真祖の狩人だけが。
 玉座に辿り着き。アルクェイドの手にそっと手を重ねる。
「迎えに来てやったぞ、アルクェイド」
 ひやりとした手。冷たく、熱のない……出会った頃の、アルクェイドの手。
 完全な命だと思ったあの時、なぜそれが完全なのかなんて考えもしなかったけれど、いまならわかる、いまなら説明できる、なぜアルクェイドを殺したくなったのか。
 その姿に命はなく、限りなく死を冒涜していたからだ。なのにそれこそが完全な命だとわかったからだ。
 完成された命は、命それ自体を問題にはしない。命を、生を超越したところにだけ完全な命がある。
 それは矛盾を孕んでしまう。どうしても前提から矛盾してしまう。完全な命こそがもっとも命から遠いものだと定めてしまう。
 そんな矛盾が許せなくて殺した。壊した。永遠の命という馬鹿げたものが許せなかった……死ぬからこそ命は命なのだと、俺は知っていた。
 それでも、だからこそ、いまでもわからないことがある。
 俺は完全な命を殺してなにがしたかったのか。
「あんまり心配かけるなよ。俺は一般人なんだからな。お前みたいなお姫様と付き合うのは命がけなんだよ」
 アルクェイドからの反応はない。構わず言葉を続けた。
「お前が俺に愛想を尽かしたってんなら、別にいいさ。俺はいい相方じゃなかったんだろうし、そうなんだろうと思う。お前を満足させることも安心させることもできなかった。それは俺の責任だ」
 きっと、不安だったんだろう。俺があまりにも無防備に接していたからこそ、衝動に負けそうな自分を感じて安心できなかったに違いない。
 万に一つの間違いも許せなくなっていた。好きなのに、好きだからこそ離れなければならないと思った。お互い、お互いを殺したくないのに、お互い、いつか自分は相手を殺すと思っていた。
 矛盾だ。狂っているとしか思えないほどの矛盾だ。
 そして、それをそれと知りながら放置していたのは自分だ。
 自然に跪き、アルクェイドの手を握りながら、懺悔するように見上げる。静謐な、荘厳な、言われなき死よりも確かな存在として、アルクェイドはただ黙している。
「俺はお前のために生きるよ。ずっとずっと、言えなかった……言っていたのかもしれないけれど、きっと伝わっていなかったと思う。けど、いま、改めて。俺はお前のために生きるよ。お前と一緒に」
 祈りを捧げるように、目を閉じる。頭を垂れて、沈思する。俺の言葉はすべてが独りよがりで、アルクェイドのことなんて何一つ想ってはいないのかもしれないけれど、それでもこれだけは言っておきたかった。
 なんで俺はここにいるのか、とか。俺はお前をどう想っているのか、とか。
 いや、そんな難しいことじゃなくて……俺はお前を殺した責任を取るという、その約束の証明のために。
 殺人鬼だからこそ、死に対してはなによりも真摯でいたかった。
「……いまさら、許してもらえるとは、思っていないけど」
 目を開けた。
 アルクェイドと、目が、合った。
『……………………』
 言葉にならない責め苦を、直接脳に叩き込まれた。瞬きもせずに見据えられ、睨み付けられ、魅入られ、殺してやると語るその眼差しが、一切の感情も躊躇もないその表情が、背筋に悪寒を走らせる。
 ぞくぞくする。皮膚が粟立つ。死の恐怖が背後に迫る。それなのに、これ以上ないぐらいに興奮していた。いますぐ絶頂に達してしまいそうなほどの高揚が、アルクェイドから視線を外させなかった。
 そうだ。これだ。きっと俺は、これになりたかったんだ。そして、なりきれないことを悟ったから、見なかったことにしてしまいたかったんだ。
 なかったことをするために、認めたくないものを否定するために、俺はアルクェイドを殺したんだ。
 自分より完璧な殺人鬼なんて許せない。どこまでも狭量な自分。
「ああ、いいよ。かまわない。殺したきゃ殺せよ。それぐらい覚悟してきてるんだ」
 アルクェイドに殺されるのは構わない。むしろ本望だ。本来の俺なら全力で抵抗しただろうけど、いまの自分ならなんでも受け入れられそうだ。
 自分の弱さを認めたから。ようやくまともに、アルクェイドと向き合うことができる。
「ごめんな。俺のくだらないプライドのせいで、ずっと謝れなかった。本当はお前を殺した時にそうするべきだったのに……どうしようもないところで俺は殺人鬼なんだな」
 人を殺して謝るなんて、そんなこと思いつきもしなかった。自分にとってはそれは当たり前のことで、それを肯定することこそが大前提で、それ以外の動機なんて何一つない。
 殺す時はそれしかない。善も悪もないからこそ、俺は殺人鬼だ。
 アルクェイドの殺意に、金縛りにあっていた。動けない。動かない。体が言うことを聞かない。観念するしか、ない。
 そこまで想われて殺されるのなら本望だ。お前だけが正しく俺を殺せるだろう。
「……ばか」
 引き寄せられ、抱きしめられた。アルクェイドの暖かい吐息が首筋を撫ぜる。俺は動くこともできずに、アルクェイドを抱き締め返す。
「ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか! 志貴のばか! こんなところまできてなにやってるの!? なんのために私がっ……!!」
「うん、うん、そうだな、その通りだ。俺はまた、お前の気持ちを無視してるよな」
 結局は、そうなってしまう。なにをやっても同じ間違いに行き着いてしまう。
 それがいままで、逃げ回っていたツケだ。俺がアルクェイドをないがしろにしてきた結論だ。
 俺の理屈で縛り付けていた。破局は当たり前だったんだと、いまなら思う。
「私は、私だって、私もっ……!」
 首筋に当たる吐息を意識する。強く、強く。
「許してくれなんて、言えた義理じゃないのはわかってる。それでも、許して欲しい。それが俺の決意だから」
 共に生きるという、二人の関係がこんなものでなければ当たり前で簡単だったはずの言葉を偽りにはしない。アルクェイドが真祖で、人の血を吸った真祖で、俺は殺人鬼で、自分の分身とも言える存在を殺したような奴だけれど、それでもきっと、だからこそ、その言葉には真実があると思う。
 いろんなものを犠牲にしてきた。クラスメイトも、家族もなにもかも、アルクェイドには比べられなかった。
 だからきっと……俺にはもう、アルクェイド以外にはなにもない。死ですらこの手を離れていったに違いなかった。
 そんな抜け殻を、アルクェイドが欲しがるとも思えない。だからせめて、介錯だけでもして欲しかった。……どこまでも、ただの我侭だ。
「私はずっと前から許してるのにっ! いまさらこれ以上、なにを許さなきゃいけないの!?」

 許せない許せない許せない許せない! 本当に許せない!
 私がどんな思いをして、私がどんな思いをしてまでここにいるのか、なにもわかっちゃいない!
 殺したいとか殺したくないとか、憎いとか憎くないとか、愛してないとか愛してるとか、そんなことはすべてどうでもいいと思えるぐらい、志貴のことを死なせたくなかった、ただそれだけなのに、なにもわかっちゃくれていない!
 吸血鬼が吸血衝動を抑えるのにどれだけの忍耐が必要なのか! どれだけの力を必要とするのか! なにひとつ! なにひとつだ!
 私は死徒に狙われるだけの存在になっていて、吸血衝動を抑えるために力を使っているせいでろくな抵抗もできなくなりつつあるというのに、そんな単純明快なことすらわかってくれない!
 私が殺すならまだいい。それならまだ許せる。でも、志貴が私以外の誰かに殺されるだなんて、そんなことは想像しただけで吐き気がするほどおぞましい!
 あなたは私のなんなのかと。あなたは私をどうしたいのかと。ただ愛し合うだけなら、私以外の誰かでもいいじゃないかと、そう詰りたかった。詰ろうと思った。
「志貴が私を殺したことなんてどうでもいい! 私とあなたの出会いはそれだったけど、だからっていつまでそれを引きずってなきゃいけないの!? 私は……私はいつまで殺され続けなきゃいけないの!?!?」
 答えなんてとっくのとうに出ていると思っていた。私と志貴に共通するのは……真実、共通するものは……ただそれだけだと思っていたのに。
「志貴はいつまで私に愛させてくれないの!?」
『私はいつまであなたを憎み続けないといけないの!?』
 血を吐くように叫んで……言葉はそこで途切れた。

 何一つ終わっていなかったんだ、と気づいた。気づかされた。
 アルクェイドの戦いは、ロアを殺した時に終わったと思っていたけれど、そんなものは終わりでもなんでもなくて、そんなことでは終わることもできなくて、それを終わらせることのできた唯一の存在である自分は、それに対してあまりにも無頓着だった。
 許しがたく、許されがたい。償いという言葉は、あまりにも重い。
「ああ、そうだな……その通りだ。俺はお前に愛させてやることすらしてなかった。俺が勝手にお前にのぼせ上がってるばかりで、お前のことなんて何一つ……何一つ、認めてなかった」
 それは、不安の裏返しではあったけれど。自分に自信がなかったという、情けない話ではあるけれど。
 あなたのことを愛していると、ただそれだけに囚われた。あなたに愛されたいと、そんなことを望むこともできなかった。哀れで愚かな、愛し方もわからない男の末路。
「だからここに来たよ。お前と向き合うためにここに。……だから帰ろう。一緒に手を繋いで、俺たちが出会ったあの街へ」
 自分でももう、なにを言っているのかすらわからない。なにを言えばいいのかすらわからない。
 殺される覚悟を決めてきたくせに、なにが帰ろうだ。アルクェイドにとっては箱庭のような、鳥篭のようなあの街に、なにが帰ろうだ。あそこにはアルクェイドに必要なものなんて何一つない。必要のないものだらけじゃないか。
 それでもここよりはましだ。あそこにはきっとなにもないだろう……それでもここにないものはすべてある。
「俺はお前より先に死ぬだろうけど、お前が望まない死に方はしないと誓うから」
 そんなもの、ただの言葉だ。約束にすらなりえない、ただの言葉だ。なんの根拠もなく、なんの意味もなく、なんの力もない。
「俺を殺していいのは、お前だけだから。……だから帰ろう」
 それがお前の慰めになるのなら。俺の死にも意味はあるんだろう。この上ない、喜びとして、それは存在しているだろう。
「……志貴の、ばか」
 アルクェイドは少しだけ強く、抱き締め返してくれた。なにもわかっていないと、その言葉は言っていたけれど、それでも俺を、許してくれたらしい。
 抱擁は解かれ、久しぶりに向き合い、見詰め合う。たぶん二人とも、涙でぐしゃぐしゃの顔をしていただろう。
「私が欲しいのは志貴だけ。志貴だけなんだからね?」
「俺が欲しいのはアルクェイドだけだよ」
 どちらからともなく、口付けを交わす。初めて交わすキスのような緊張感があった。
 そこに言葉はなく、静寂だけが残った。