It's show time


「…………………っ!!」
「痛かったか? まあ、痛くしたんだが」
 あまりにも唐突な出来事に言葉もない。
 左腕を切り落とされた。それはわかった。それしかわからなかった。
 それでいて、なぜ、とは思わなかった。むしろ、そうだったのか、と納得した。
 なんてことだろう。そこまでされても、私はこの男を恨んでいないなんて。
「貴様っ…………!!!!」
 ランサーが飛び出そうとする。
 体当たりするようにそれを押し止め、体重を預ける。ただ立つのもつらい激痛に、それでも必死に意識をつなぐ。あまりの苦痛に意識が飛びそうになるのに、あまりにもそれが痛すぎて正気に返らされる。
 ランサーにきかかえられ、それを必死にこばみながら、右手に黒鍵こっけんをぶら下げた言峰ことみねに向き直る。自分の間抜けっぷりに泣きたくなった。
「最初から、これが目的……だったんだな?」
 ランサーに後ろから抱きかかえられてるお陰で、なんとか姿勢を保つ。膝はもう大笑いで、言うことなんて欠片かけらも聞いてくれそうにない。
「その通りだ。監督役かんとくやくとしては、あまり表立ってマスターになるわけにもいかないし……そうなると、外部の人間を使わなければ頭数が足りない。まあ、それだけといえばそれだけのことだが」
「そうか……そうだろうな。お前が私を呼び出した時点で、おかしいとは思っていたんだ」
 笑う。笑えただろうか。笑って見せられただろうか。
 笑ってやることが、できただろうか。
 苦しみを見せて、この男を喜ばせる気はない。恨みを見せて、この男を嬉しがらせるつもりもない。
 そんなもので、この男と同じ気持ちを共有したいと思ったことはない。
 私は……私はただ。
道化どうけだな、私は。……なあ、ランサー?」
 右腕を上げて、ランサーの頬に手を伸ばす。ランサーは何も言わずにその手を取った。
「ほんの少し……少しだけ、期待していたんだ……」
 この壊れた男が、少しでも変わってくれたんじゃないかと。だから私を呼んでくれたんじゃないかと、そんな期待を……むなしい期待を、いだいていた。
 現実は、これ。この男は何一つ変わっていないし……変わるはずもなかった。
「努力もせず、結果だけ望んだ……そうだな、これは当然の結果だ……」
 変える努力をしなかった。自分には出来ないと決め付けて、そのままにしていた。
 それが自分の望みだったわけでもないのに。……せめて、少しでも変えることが出来たのなら、殺されてやっても構わなかったんだが。
 何もかもが手遅れ、か。殺されかけてから気付くなんて、私は本当に……馬鹿みたいだ。
 言峰は無言で近づいてくる。
「ランサー」
「なんだ?」
 優しくはない。冷たくもない。いつも通りの声。
 お前はそんなに冷たい奴でもないのに、私のために今まで通りにしてくれるんだな。
令呪れいじゅはあいつが持っていった……あいつがお前のマスターだ」
「……馬鹿なこと言うなよ。俺のマスターはお前だ」
「いいんだ……私はここで死ぬ。令呪を奪われた以上、お前はもう私のサーヴァントじゃない。……だから、いいんだ」
 何がいいものか、とランサーは低くうめいた。こいつはそういうところが、甘い。こんなんで聖杯戦争せいはいせんそうなんてものを勝ち抜けるのかと思ってしまう。
 何かにこだわりを持ってしまったら、勝てるものも勝てなくなる。ランサーにはランサーの目的があって召喚に応じたんだから、私のことを気にする必要はない。
 かすむ眼を必死に開けて、言峰を見つめる。無表情なその眼差しは、初めて出会った頃と何も変わっていない。
 言峰は静かにその手を差し伸ばし……左腕の傷口を容赦ようしゃなくえぐった。
「…………………っっ!!!」
「気丈だな。気絶していれば、少しは楽だったものを」
 だからこそだ。だからこそ、気絶なんてしてやらない。
 どれほどの苦痛だったとしても、例え死が目前に迫っていようとも、最後の最後までこの男から視線を外さないと、そう決めたのだ。
「かといって、手当てをしなければ、いずれ死ぬ。そのまま死ぬ気か?」
「……自分でやっておいて……それに、生かす気もないんだろう? お前がマスターになったことを知る私は……邪魔だろうしな」
「その通りだな。確かに、私はお前を殺さなければならない」
 抜け抜けと。思わず苦笑がこぼれる。
 ランサーに触れていた手を、言峰に伸ばす。拒絶されるかと思ったが、言峰はなにもせずにされるがままになっていた。
 その顔に触れる。顎に触れ、唇に触れ、頬に触れ、耳に触れる。
 それで限界だった。もう手を上げる力も尽きていた。
 落ちかけた手を握ったのは、言峰の手だった。
「誰でもよかったわけではない。お前を……お前だから呼んだのだ、と言ったら信じるか?」
 それ……は。それは……それは。
 例えうそでもいい。どんないつわりでもいい。
 いまこの瞬間、それを信じられたなら、死んでもいい。心底、そう思った。
「お前を殺したかったわけではない。だが、必要だから殺す」
 殺されることでしか必要とされない。それは悲しいし、辛いことだが……それでも求められたのなら、それでもいいんじゃないかと思ってしまった。
 私はいま微笑ほほえんでいるだろう。その自信だけはあった。
とどめが欲しいならくれてやろう。私もそこまで残酷ではない」
 十分残酷だよと思いながら、最後の力を振り絞って言峰の手を引いた。どこからそんな力が出てきたのかと思うような力で言峰を引き寄せて
 ただ一度の、口付けをした。
 もう、なにも考えられなかった。

 ぼんやりと目を開けて……それがどういうことなのか、理解できなかった。
 生きて……いる?
 だが、なぜ? 左腕を切り落とされて、意識を失った……あの状況で生き延びられるはずがない。
 混乱した。生きていて嬉しいなどと思うよりも、状況を把握できない不安のほうが大きかった。
「起きたか」
 扉を音もなく開けて現れたのは、ランサーだった。
 相変わらず、味も素っ気もない挨拶である。まあ、口のにこびりついたような笑みは放置しておくことにしよう。
「なぜ……私は生きている?」
 部屋を見回す。簡潔かんけつな部屋だ。ベッド以外の調度はなにもない。白く、四角く、清潔せいけつおりを思わせる部屋だった。
 ただ扉だけが黒い。
「俺が頼んだ」
 それだけじゃ、なんの説明にもなってない……そう思ったが、それ以上説明する気はなかったらしく、ベッドの脇まできて、ベッドの端に腰を降ろした。
「痛むか?」
 左手をつかまれ、少しびっくりする。ランサーに手を握られたのは初めてのことかもしれない。
 いや、それもそうだが……左手?
「痛くはない……が、どういうことだ?」
 切り落とされた左腕が、きちんとくっついている……し、機能すらしている。
 ランサーの手は、思ったよりも冷たかった。
「俺が頼んだって言っただろ? 取引しただけさ。あの野郎とな」
「言峰とか。……いったいどうやって?」
 私を殺しに来たはずのあいつが、どうしてそんな取引に応じたというのか。
 左腕が元通りになっているのが、その成果なのはわかる。言峰は治癒魔術ちゆまじゅつが使える……なんでこの男がと思うような特技だが、ランサーの言っていることに矛盾はない。
 矛盾がないからこそおかしい。
「お前を助けなきゃ、命令を聞かんと突っぱねたのさ。あいつも、そんなことで令呪を消費する気はなかったらしくてな。交換条件は出されたが、まあ、んだってことだ」
 なんでもないことのように淡々と言う。だけど、それは……
「……なぜだ?」
「なぜって?」
「なぜ、お前がそこまでしてくれるんだ?」
 ランサーが私のためにそこまでする理由はない。私は令呪を奪われたマスターで、ランサーはサーヴァントだ。サーヴァントがマスターに執着しゅうちゃくする理由なんてものが、聖杯に執着する理由を凌駕りょうがするとは思えない。
 しかしランサーは、どうでもよさそうに小さく溜め息を吐いた。
「言っただろうが? 俺のマスターはお前だってよ。マスターを守るのはサーヴァントの役目だ」
 それがおかしい、と言っているのに……ランサーにとって、それはくつがえしようのない事実になっているようだった。
 これ以上ただしたところで、ランサーはそれ以上のことは言わないだろう。短い付き合いだが、こいつがそういう奴なのはわかっていた。
「ま、お陰でお前はここを出られない。少なくとも聖杯戦争が終わるまでの間、監禁されてもらう。出られるもんなら出てみろ、とも言ってたがね……まあ、出ないのが無難ぶなんだな」
「なるほど。秘密を知っているのに生かしておいてくれるんだから、それぐらいは当然だろうな」
「食事は俺が運ぶ。トイレは部屋についてる。シャワーはないがね。風呂に入りたくなったら、監視付きでよければ入ってもいいそうだ。俺が監視するんだがね」
「お前は、一度約束をわしたら破れないからな。私を生かすためなら、私を殺しもするというわけか」
「ま、そういうことだ。俺としては、俺の手でお前を殺すことがないように願いたいね」
 おどけているようでいて、その実、ランサーはすべて本気だ。私を生かすための取引の結果、私を殺すことになったとしても、躊躇ためらうことなくそうするだろう。
 そして私を殺しても、溜め息一つ吐いて、片付けてしまうに違いない。律儀りちぎは律儀なんだろうが……困った奴だ。
「……で、私の服を脱がしたのもお前か?」
 シーツの下は裸だった。治療のためか、魔術の媒介媒介を奪うためかは知らないが、念の入った事である。
 ランサーはなにも言わずににっこりと微笑んだ。肯定の意だろう。
「……ふん。まあ、いいが」
 裸を見られたところでどうということもない。命を助けられた礼だと思えば安いものだ。
「物好きだな。聖杯戦争の脱落者を守ってなんの意味がある?」
 自嘲じちょうの笑みが零れる。あそこまであっさりと敗れたマスターなど、そうはいないに違いない。
「女は守るって決めたのさ。……気に入った女は、だがね」
誓約ゲッシュか?」
「ああ。俺はどうも、強い女に気にいられやすいらしくてな。……守りたいと思った女を守ると、そう決めたのさ」
 それは。それには、さすがになんと反応したものかわからなかった。
「私はそんなに弱くない」
 思わず虚勢を張ってしまう。言峰に殺されかけておいて、どの口がそれを言うか。
「そうだな。お前は強いさ。強いが……守らなきゃ、と思ったんだから、しょうがないだろ? お前みたいな女は危なっかしくてな。誰かが見てやらなきゃならんと思ったのさ」
「それが自分だとでも?」
「他に適任もいなさそうだったしな。俺だったらお前だって不満はないだろ?」
 自信たっぷりに微笑んで、ランサーは手を伸ばし、私の頭をぽんぽんと叩いた。
「俺みたいないい男が守りたいって思ったんだ。光栄だろ?」
「どうだかな」
「いいねえ。いい女ってのはそうじゃなきゃ」
 かっかっかと笑いながら、ランサーは立ち上がった。
「お前が望むものはできるだけ揃える。服はダメらしいがね。食い物でもなんでも、好きにしていいとのおたっしだ。あいつも変な野郎だな」
 昔から、そういうやつだった。一言で言ってしまえば、理解できない。行動原理の全てが謎で、ありとあらゆるものを冒涜ぼうとくしているのかと思えば、どこにでもありそうなものをこれ以上ないぐらい神聖なものとして扱ったりもする。
 理解できないと、ずっと思っていた。それはいまでも変わらない。
 それじゃあ私は……どうして、言峰なんかを好きになったのか。
「言峰に会いたい、と言ってもか?」
「……それはダメだそうだ。他はともかく、それだけは先に断られた」
 そうか。まあ、なんとなくそんな気はしていたが。
 言峰にとって、私は本当に……用済みなのだろう。利用価値があるから生かしているが、それ以上でもそれ以下でもない。ランサーを縛り付けるための道具でしかない。
 でも、それじゃあ私は。
 ここで生きて、なにをするのか。
 ただ生き延びて、なんの意味があるのか。
「だからまあ……俺で我慢してくれ」
 なんとも情けなくランサーは笑って、頭を掻いた。
 私はそれがおかしくて、思わず微笑んでいた。

 ランサーは、食事の時だけやってきて去っていく。その食事も、朝食、昼食、夕食と三食あるようだが、きっちり八時間おきに持ってくるだけなので、時間の感覚すらも曖昧あいまいになってくる。
「それなのに、あいつは笑ったんだ。あの男がだぞ?」
「信じられんな。まあ、普段のアレを笑ってると言えば珍しくもないのかもしれないが」
「バカを言うな。あんなものは笑っているとは言わない」
「そりゃそうだな」
 ランサーの相槌が適当になってきているのはわかっていた。
 何度も腰を浮かしかけ、その度に私が話し掛けるせいで立ち上がれずにいるのもわかっていた。
「なあ、バゼット」
「それでもな、あいつはあれで笑っているつもりなんだ。神父だからな。仏頂面ぶっちょうづらばかりはしていられないということなんだろう」
「……そうか。なあ……」
「おかしいだろう? なあ、ランサー。……おかしいだろう?」
 おかしいのは私だ。そんなことはわかっている。
 ランサーが眉を寄せる。
「どうしたんだ? なにかあったのか?」
 ランサーはようやく……初めて、心配そうな顔をして、顔を覗きこむように身を屈めた。
 私は、身体に巻きつけたシーツを握り締め、俯いたままきつく目を閉じる。
「な、なにも……」
 どうしようもなく声が震える。わななく唇が抑えられない。
 ランサーの手が肩に置かれた。たったそれだけのことに怯え、身をすくめる。
「なにがなにもだ。……びびってんじゃねぇか」
「なにも……なにもない……」
「あのクソ神父がなんかしやがったのか? まさか……」
「違う……違うんだ……本当に、本当になにもないんだ……なにもなさすぎるんだ、ここは……」
 床と壁の境界すら曖昧な白い壁。時計すらない。他にはなにもない。
 なにをしても、なにもしなくても、なにも変わらない。
「眠れない……眠れないんだ……寝ようとして目を閉じても、どうでもいいことばかり思い出す……次から次へとどうでもいいことばかり……それなのに、考えることを止めることができない……気が狂いそうだ」
 それこそがこの部屋の役割なんだ、と思い知らされた。言峰はランサーとの約束を守るために私を生かしたが、それ以上のことはする気はなく……ただ私が生きている以上の状況を作る気はなかったらしい。
 こんな部屋に押し込められて、正気でいられるはずがない。どれほど鍛錬たんれんを積んだ魔術師でも、時間の感覚さえおかしくなるこの牢獄ろうごくでは、なにもかもが意味を失う。
 自分が生きていることすらうそ臭く感じる。起きているのか寝ているのか、座っているのか立っているのか、そもそも目を開いているのか閉じているのかすら区別がつかない。
 何一つ音すらなく。何一つ気配すらない。
 息をすればそれが耳につき、起きあがろうとすれば衣擦きぬずれれの音が気にさわる。
 ただ一つの安らぎは、時折訪れるランサーとの会話だけ。
 私を私たらしめているものが、あまりにも多かったことに気付く。それらは些細ささいで、ちっぽけで、どうでもいいとすら思っていたのに、失ったいま、それらの限りない得難えがたさを痛感させられている。
 なのにもうそれは手に入らない。拷問と言うのなら、これこそが拷問だろう。
 ただただ磨耗していく。くしずられるわけでもなく、磨り減っていく。
 食欲すらも消え失せている。ここにはあまりにも……なにもなさすぎる。
 肩に置かれたランサーの手に手を重ねる。
「私は……私は、このままでは壊れてしまう」
 それは哀願あいがんだった。いっそ殺してくれと願っていた。
 まだ正気でいる内に殺してしまってくれ。私から最後の尊厳そんげんまで奪わないでくれ。
 どうせなら、私を生かしたお前の手で殺してくれ。
「バカなことを」
 悲しそうな顔をして、ランサーは私の手を払った。
「バカだと……?」
「ああ。バカだ」
「私のことを勝手に生かしておいて勝手なことを言うなっ……!」
 そもそも私は、あの瞬間、死を覚悟していた。あのまま死んだとしても、なんの不都合もなかった。
 それなのに生きていて、こんな苦汁くじゅうめさせられているのは、元はと言えばランサーが勝手に私の命を取り引きしたからだ。
 私がこんな目に会っているのは、すべてランサーに原因がある。
「バカでないなら、なんだってんだ? 辛かったなら、さっさと俺に頼れば良かったじゃないか。俺は俺に出来ることならなんだってする。お前のためなら、クソ神父の犬にだってなる。なのにお前は……俺の事なんぞ信じちゃいなかったんだろう?」
 痛切に詰られて……言葉もなく、項垂うなだれる。
 確かに、ランサーの言う通りだ。そうすることができたはずなのに、それをせずにいたのは私だ。
 なにもしないでいた自分を棚に上げて、他人を責めるだけ。それでは……それでは私は、なにも変わっていないじゃないか。
「だけどまあ、お前が俺のことを気にする必要はない。これは俺が勝手にやってることだ。お前が俺におもねることはしなくていい……ただ、俺がお前の味方だってことを忘れないでくれればな」
 何も望まない、と言うのか。私には何一つ望まない、というのか。
 それは……それは、では言峰と何が違うというのか。
「落ち着いたか?」
「……なんとかな」
 思考はクリアになった。まどわされていたとしか思えない程の困惑はすべて消え、もどかしいほどの居心地の悪さに変わっていた。
 しかし、そんなことをランサーに言っても仕方がない。これは、自分で考えなければならないことだ。
「じゃあ、行くぜ」
 ランサーは立ち上がる。手を上げて挨拶した。
 音もなく扉が開き、音もなく扉が閉じる。
「私は……いまだに道化か……」
 つぶやきは、やはり耳障りだった。

 それは、食事の回数も忘れかけた時の事だった。
「今回で最後だ」
 食事を運んできたランサーは、唐突にそう言った。
「……最後、だって?」
「ああ。俺はもうここへは来ない」
 それがなにを意味するのか、なんてのはわかりきっていた。わかりきっていたのに、理解したくなかった。
「お前と一緒の時間は楽しかったよ」
「なんだ……なんだそれはっ」
 まるで、別れの言葉のようじゃないか。
 私は……私は認めない。そんなものは、決して。
「予感だよ。別に、どうしたってわけでもない」
「ただの予感ならそんなことを言うものかっ」
 いつもの飄々とした余裕すら見せない。
 それでもう……こいつはそうすることを決めてしまったんだと思った。
「サーヴァントってのは……そういうもんだったんだ。俺だけが例外になれる道理もない」
「だからって……っ! それで諦めると言うのかっ!?」
「諦め? まあ、そうかもしれないな」
 ランサーがなにを知ったのかは知らない。サーヴァントがなんなのかなんて、私は知らない。
 ただ、失いたくない。それだけなのに……どうして、こんな。
 ランサーはどうして、もう十分だとでも言うように微笑んでいるんだ。
「だけどな。最初からわかっていたことだろう?」
「最初から、だと?」
「ああ。俺がサーヴァントとして召喚された時から、形はどうあれ、こういう結果になるってのは……わかっていたはずだ。違うか?」
 それは……それは、そうだ。その通りだ。
 確かに、ランサーはサーヴァントで、一時的な使い魔でしかないんだから、こうなることはわかっていた。それこそ、召喚する前からわかりきっていた。
 理解した上で召喚したというのに……いまさら、この体たらくか。
 情けなくて涙が出る。私はいつからこんなに……弱くなったのか。
「お前がここから出られるようにはしてやるさ。ようは、聖杯戦争が終わって、クソ神父がいなくなればいいだけのことだろ? だったら……」
「言峰のことはどうでもいい! そんなことより、お前のことだろう!?」
「どうでもいい、ったってお前……あいつのこと……」
 なにを言い出すんだと言わんばかりの反応だ。
 しかし本来、ランサーがそれを気にするのはおかしい。いまのランサーのマスターは言峰なのだから、私が言峰のことをどう思っていようが、ランサーがそれを気にする必要はまったくない。
 それに、私にしても……正直、言峰のことをどう思っているのか、よくわからなくなっていた。
 それでも。例えそうだとしても。
「私は……私は、お前を失いたくないんだよ……ランサー」
 なぜかはわからない。いつからそう思っていたのかもわからない。
 それでもその言葉を、不思議なほど簡単に口にしていた。
「……いまさらだろ? そいつは」
 ランサーは笑っている。笑うしかなくて、笑っていた。
「確かに……な。マスターですらない私には……いまさらだ」
 せめてマスターだったなら、聖杯を手に入れて、ランサーを受肉させるということもできたかもしれない。そうすればきっと、この詮無き望みも叶っていただろう。
 苦笑するしかない。何一つ……何一つ手に入らないとわかっていても、なお希望を捨てられないんだから。
 それこそが……この諦めの悪さこそが、本来の私なんだろう。
「俺はいなくなる。死ぬわけでもないが、まあ……お前とは二度と会えないだろうな」
 だからどうした、と言わんばかりのランサーは、それでも微笑んで、手を握ってくれた。
 ランサーから手を握ってくれたのは、これが初めてだった。
「言峰の野郎は聖杯戦争に勝つ気なんてさらさらない。それでも俺は行く。奴のためじゃない。お前のためにだ」
 優しく、手の甲に口付けされ……それでもう、私は何も言えなくなってしまった。
 それは、決定的な別れを意味していた。
「だから俺は死ぬ。勝てなければ死ぬしかない。……それでもまあ、いいさ。お前のために死ぬなら、悪くない」
 どこまでが本心なのかすら、私にはわからない。どこまでも本音なのだと思いたいと思っている自分を自覚すればするほど、わからなくなる。
 なによりもわからないのは……自分の気持ち、なのかもしれないが。
「お前はっ! ……お前は、勝手だ……」
 何かに反発して……何かを否定したくて、ランサーの胸倉を掴んだ。力任せに揺さぶって、瞬間で気持ちは冷めて、否定したいのは自分だ、と自覚する。
 ただなにもできない自分を否定したかった。否定することしかできない自分をすら否定したかった。
 否定する事では何も変わらない。そうだ。それこそがこの部屋で学習したことだ。
 肯定することをしなければなにも変わらない。例え曖昧だったとしても、私はまず、私の中の感情を肯定しなければならない。
「男はいつもそうだ……残される者の気持ちなどおかまいなしに去っていく。自分勝手に、自分の都合で。……だから私も、そうなろうと思った。自分で選び、自分で行動し、……でも最初は違ったんだ。私はただ……置いていかれないように、一緒に行けるようになりたかっただけなんだ」
 待つだけの女になりたくなかった。前を向くだけではなく、前に進める女になりたかった。
 そのためにここにいる。ここにいるのは結果論でしかないが、私がそう決めたからこの結果が出たのは間違いない。
 それを全部他人のせいにしていた。私はずっと……逃げていた。
「だけどお前は、私を連れて行きはしないだろう? ……それは別に、いいさ。それがお前の役割だ。私は……私にしか出来ない事をする」
 いまさらみじめに泣き叫んでも何も変わらない。ランサーに同行して一緒に殺されたって意味はない。
 私が戦うためには、いま少し待たなければならない。
「戦ってこい。勝ちも負けも関係ない……お前らしく、戦ってこい」
「ああ。なんだ、わかってるんじゃねえか」
 ランサーはにっこりと微笑んだ。
 いまいる場所がどこだろうと関係ない。ただそこで、どれほど自分らしく生きることができるのか。私たちはずっと、ただそれだけのために……自分らしく生きるために、戦ってきたのだから。
 マスターとサーヴァントは似た性質を持つという。私とランサーのどこが似ているのかと、ずっと疑問に思っていたが……そういうことだったらしい。
 命ではなく、命以上のものをやり取りする。私たちはずっと、そうやって生きてきた。
 曲げられぬ信念のために。ただそれだけのために。
「じゃあ、行ってくる」
 手を離し、立ち上がり、それ以上は言わずに背を向ける。
 ああ本当に。これが最後なんだと理解した。

「ランサーは死んだ」
「……そうか」
 初めて訪れた言峰は、感情の覗けない無表情で戸口に立ち止まった。
「それで? 私を殺しに来たか?」
 ランサーがいなくなってしまえば、私を生かしておく必要はない。ランサーに命令を聞かせるために生かしていたんだから。
「いや。お前は必要なくなった。どこへなりと好きに行くがいい」
 淡々と告げて、背を向ける。
「必要なくなった……だと?」
 口封じする必要すらなくなったというのか。私にはもう……殺す価値すらないと言うのか。
「すでに私がマスターであることは周知の事となった。いまさらお前を殺してもどうにもなるまい」
 瞬間、それがランサーの狙いだったんだ、と悟った。
 確かに、言峰の言う通りなのだ。ランサーのマスターが言峰であるという事実が、自分以外の人間に知れてしまえば、私を監禁する意味も、殺す意味も消失する。いまさら私が……マスターですらない私がしゃしゃり出て、なにができるわけでもない。
 私の役割は、傍観者に決まってしまった。だから、傍観者は傍観者らしくしていろ、ということだろう。
「だから逃がすのか。……お前はどこまで……」
「最初に言ったはずだ。お前を殺したいわけではない、と」
 いわおのようなその背には、どんな言葉も通じないに違いない。そう思わせるだけの強さが言峰にはあった。
 この男は最初から、他人など見ていない。他人の負の感情こそが喜びだと言いながら、それですらまやかしだ。
 この男には、最初から自分しかない。他人がどうこうなどと考える余裕すらなく、ただひたすらに自己を追求してきたに過ぎない。
 ようやく、それがわかった。他人を殺しても、どれほどなにを殺しても、この男はなにひとつ殺せやしなかった。ただただ自分を殺し続け……殺すものすらなくなっても、まだ殺し続けて、そうして空っぽになってしまった。
 それは、例えば良心と呼ばれるようなものであったり、良識と呼ばれるようなものだっただろう。殺すことによって確認しようとした……殺すことができたなら、自分はそれを持っていたことになるから。
 気付いた時には、なにも残っていなかった。
 生きていることは死ぬことでしか証明されない。ただそれだけのことなのに……そんなことをどこまでも追求したら、こうなってしまうに違いなかった。
 誰よりも滑稽こっけいなのは……こいつじゃないか。
「少しぐらい、話に付き合ってくれてもいいんじゃないのか?」
 さっさと歩き出そうとした言峰を呼び止める。そんなことになんの意味もないことは知っていた。いまさら何を話したところで、こいつは何一つ変わらない。
 それでも話をしなければ、と思った。
「何の話があると言うんだ?」
「お前がなぜ私を選んだのか、だ。私にも、それを知る権利ぐらいはあるんじゃないか?」
「……ふむ。まあ、よかろう」
 あっさりときびすを返して、部屋に入ってくる。こいつに関しては、真面目に考えるだけ無駄だと思い知らされた。あまりにも違いすぎて、何を考えてるのかわからないんだから。
 ベッドの足元のほうに仁王立ちになる。ランサーのような気安さはない。
「もっとも、大層な理由などないが。……お前は、死んだ妻に似ていた。それだけだ」
 ……結婚、していたのか。
 知らなかった。私は、そんなことすら……知らなかった。
「似ていたからよく覚えていた、というだけの話だ。魔術師としての技量も申し分なかったし、最初から殺すつもりだったから、条件さえ満たしていれば誰でもよかった」
 それがこんなことになるとはな、と嘆息する。
「姿形はまったく似ていない。妻はそれほど健康な身体ではなかったし、活発なたちでもなかった。だが、そう……その眼が、意志の強い眼が似ていた。妻は……私の事など、何もかもお見通しだったんじゃないのかと、いまさらながら思う」
 静かに、淡々と語る。
 それなのに、それなのに……これ以上ないほど優しく語っている。
「私は妻を愛していなかった。……いや、愛そうと思ったが、愛せなかった。切っ掛けがなんだったのか、どうしてそんなことをしようとしたかは覚えていない。動機などないのかもしれない。結局私は、妻と呼んだ女ですら愛せなかった。それだけのことだ」
 激しい嫉妬しっとと……悲しくなるほどの同情を感じた。
 こんな男と結婚するぐらいだ。きっと本当に……本当などという言葉が意味をなくしてしまうぐらい真剣に、この男を愛していたに違いない。
 愛してしまえば、愛されたくなり、それでも、愛されることはない。どこまでも一方通行に、観察者の眼差しで自分を観察する愛する男と一緒に暮らして、それで満足だったんだろうか。
 そんな形で手に入れて……結局、どちらも幸せになれなかったのなら、つくづくこの男は、幸せになるのに向いていないとしか言えない。
「二年ほど一緒に暮らした。不治の病に冒されていた妻は死んだ。病のせいではない。私の目の前で、自らの喉を突いた。それでも私は、泣くこともなかった」
 それはのろいだ、と思った。死者のことをしく言う気はないが、それでは呪いと変わらない。
 そんなことをしても、言峰にはそれがなんなのか理解できない。なぜ死んだのかわからないのであれば、それは言峰を変えることもできず、ただ愛そうとしていた事実だけを残して、硬直してしまう。
 誰よりも……何よりも愛していたはずなのに、愛していたからこそ、それが呪いとなってしまった。
 これ以上悲しいことがあるだろうか。誰一人そんなものを望まなかったとしても、そうなってしまうということがあるのか。
 言峰の妻に似ているという私のことを、殊更ことさら印象強く覚えていたのがその証左しょうさだ。
「理由としては……そんなところだろうか」
 そのままそこに立ち尽くしているのかと思ったら、ベッドサイドまでやってきた。屈み込んで私の頬に触れ、仏頂面のまま、身を離す。
「これで満足か?」
 満足、なんてどうすればできるのか。
 足りない。足りない。足りない。
 私が言峰に惹かれていた理由はそれなんだろう。自分に圧倒的に足りないものがあることを知っていた……足りないものこそ違えども。
「結局お前は……私を殺したかっただけなんだな?」
「……? どういう意味だ?」
「自分の手で殺せなかった女を、改めて殺したかった。そうなんじゃないのか?」
 死なれてしまったから。死なせてしまったから。
 それをわずかでも悔いているからこそ、自らの手で殺そうとする。自殺は最悪の悪徳だから、自分の手で殺すことを許しとしようとする。
 神ならぬ人の身に許される所業しょぎょうではない。だが、代行者である言峰にはそれが出来てしまう。
 出来てしまった、と言うべきだろう。幸か不幸か、と分類するなら、それは不幸だ。
 言峰を言峰として成立させるものがあまりにも多すぎた。型に嵌まっただけといえばそうなのかもしれない。運命と呼ばれるものが導くままに、言峰は言峰になってしまった。
「お前は結局……愛していなかったんじゃない。愛していた事を認められないだけだ」
 そう言った瞬間、言峰は、事もあろうに呆気に取られた顔をしていた。
 それが事実だとは思っていない。言峰の思考は、私の理解を完全に超えている。私にわかるような理屈で、言峰が動いていたとは思わない。
 までもそれは私から見た言峰に過ぎない。それがなんらかの影響を及ぼすことができれば、それでいいんじゃないだろうか。正しかろうと、間違っていようとも、言峰のなろうとしたものになれるのならば……別に、正しさなど必要ないんじゃなないだろうか。
 だとしたら……だとしても。言峰が驚くだけのものがあったのだろう。
「そのセリフを聞かされたのは二度目だ」
 驚きの理由はそれだったのか。
「そうか。……誰にでもわかるんだろうな。お前は、お前が思ってるよりはわかりやすいんだろう」
 もっとも本人は、わかりづらいと思っているわけでもないのかもしれない。意図的な偽装をしていたとしても、それを徹底する気があるとも思えなかった。
 言峰の行動は、破綻しているように見えることが多い。しかし言峰は、破綻した行動を取る人物には思えない。
 そのギャップに、誰もが騙される。まともな人間のように見せながら、その実、真実壊れていることを隠している。だから誰もがいいように翻弄ほんろうされてしまう。
 言峰にだまされないためには、言峰に関わらずにいるしかない。
「お前は、これからどうするんだ?」
「聖杯戦争を見届ける。それが私の役割だ」
 人を殺そうとしてまでマスターになっておいて、勝利する気などないと言う。
 そう。そういうことだ。こいつはきっと……ただ、真面目なだけで、何事にも全力を尽くしているだけだ。
 観察者になると決めたからには、徹底してそれになろうとする。私を殺そうとしたことも、ランサーを利用したことも、こいつにとっては、ただそのための布石に過ぎない。
 そうしてどこまで行こうと言うのか。そんなことで、どこまで行けると言うのか。
 ずっと全力で走り続けられる人間などいない。いずれは力尽きる。
「私は帰る。邪魔したな」
「そうか。残念だ」
 また、いまさら……そういうことを言う。
 これだからこいつは放っておけないと思ってしまうんだ。
「着替えは部屋を出た所に置いてある。どこへ行くなり好きにするがいい」
「そうさせてもらう」
 言い捨てて、言峰は部屋を出ていった。実にあっさりしている。
 言峰は、最初から私のことなど問題にはしていなかった。……それこそが現実だ。
 でも、もういいのだ。それにこだわることはやめた。言峰にとっての私がどうこうなど、論じたところで意味がない。
 私にとっての言峰がなんなのか。結局は……それだ。
 立ち上がり、まとっていたシーツを投げ捨てる。
 時間だけはたっぷりあった。訓練するためのスペースもあった。
 手を握る。身体は思い通りに動く。
 では、行動を開始しよう。私はまだ終わっていない。
 私の戦いは……これからだ。