プラス±マイナス



 士郎の部屋から、桜が出てきた。
「……なんで出てきちゃうかなあ」
 まあ、私が文句を言う筋じゃないんだけど、と一人ごちて、桜の前に姿を現す。
「黙って出てきちゃうんだ?」
「……姉さんには関係ありません」
 暗い目をして、桜は唐突な質問に陰鬱に答える。
 根が暗いとかどうとかいう問題ではなく、それは桜が勝手に感じている負い目のせいだ、というのはわかっている。わかっているが……それだけに、余人にはどうしようもないというのも、また事実だ。
「いいじゃない。士郎のこと、好きなんでしょ? 抱いて欲しいって言えば抱くわよ? あいつ、バカだし、あれでも男なんだから」
 できるだけ、気軽に言う。実の妹に向かって、好きな男ととはいえセックスしてこいとけしかけるのは、さすがに気が引けるし、照れてしまう。
 時間はまあ、こういう話題にふさわしいけれど。
「……っ! 姉さんに……姉さんになにがわかるって言うんですか……!?」
 わからない。わからないからこうしてこんなことをしている。
 でもそれは、桜のことがわからないから、ではなく……自分自身のことがわからないから、ではないだろうか。
「怒る? そう、怒るんだ。じゃあなんでそのままにしておくの? 桜だって、正直限界なんでしょ? そんな爆弾抱え込んで、平静にしてられるのはすごいと思うけど」
「……知っていて、そんなこと……」
「ま、ここじゃ話しづらいし。私の部屋、来る?」
 問い掛けておきながら、答えを聞かずに背を向ける。桜は敵だ、ということは認識していたが、この屋敷にいる限りは仕掛けてこないだろう、というのもわかっていた。
 命がけで自分を助けてくれた男のそばで、実の姉を殺すほど悪趣味じゃないだろう。
 そこまで計算していたわけでもなく、それならそれでいいか程度に考えていたが、案の定、桜はなにも言わずについてきた。
 理由はどうだっていい。ともかく、士郎にこの会話が聞こえてしまうのは、やっぱり好ましくはない。
「まあ、士郎もほとほと鈍感みたいだけどさあ……」
「………ください」
「ん? なに?」
 聞き取れなかったので、肩越しに振り返る。
 桜は怖い顔をしていた。
「先輩のこと、呼び捨てにしないでください」
 ああ、なるほど。そういうことか。
 すさまじいまでの嫉妬だ。桜が感情を表に出すことはあまりないけれど、こういう反応ができるなら、まだまだ救いはあるんじゃないかと、そう思う。
 それに、ここまで思われているんなら、士郎だって本望なんじゃないだろうか。
「あ、そう。……そうね。気をつけるわ」
 殺されかねない妬心を軽くいなして、沈黙のまま廊下を進む。ふむ。他の奴なら容赦しないが、桜に恨まれる分には、それを認めてしまうらしい。
 これが私の負い目か、と嘆息する。感じなくてもいい負い目を背負っているのは、桜だけではないようだ。
「凛」
 アーチャーの声だけが聞こえてきた。実体は見えない。ということは、霊体になって側にいるんだろう。さすがにこの状態では、私でもその姿を見ることはできない。まあ、見えなくたって呼びつければ出てくるんだから問題ないんだけど。
「なに? 敵でも近くにいる?」
 声は出さず、唇だけを動かす。それだけでアーチャーにはわかるはずだ。
「それならば君の真後ろに。そういう話ではない。彼女は……」
「マスターだって言いたいんじゃないの?」
「そうだ。だが、それだけではない」
「……それも『自分の世界の聖杯戦争』の知識?」
「そうなる。だが、君もそれはわかっているはずだ」
「桜の正体のこと? まあ、そりゃあね。こんだけ近くにいればいくらなんでも」
 そういうものは、なんとなくわかってしまう。私が頭がいいから、というわけではないだろう……ただ、アーチャーのことだって、それでわかってしまったのだ。
 理屈ではない。女の勘だ。他の勘ならともかく、自分のそれぐらいは信じてもいいと思う。
「それでいて二人きりになろうというのか? ……君は思ったよりも愚かだな」
「別にいいじゃない。二人きりになったからって桜がなんかしてくるとも思わないし。少なくとも、この屋敷の中じゃ、ね」
「それはそうだが。……気付いていないのならば、忠告する必要があるかとも思ったが、聞く気はなさそうだな」
「そうね。その忠告なら受け取らないわ」
 アーチャーが何を言いたいのかはわかっている。桜との会話は、確実に私にとって足枷になる。
 桜のアキレス腱が士郎であるように、私にとってのアキレス腱は桜なのだ。
「……君は強いが、どうも時々強すぎるようだな。それが君自身を苦しめねばいいのだが」
「そんなのは余計なお世話、よ。そんなこと言ったところで、どうなるもんでもないんだから」
「それはそうだが……」
「そろそろ黙って」
 もうすぐ、部屋につく。
 自分は納得していないぞ、という気配だけ残して、アーチャーは沈黙した。
 あいつはあいつなりに私のことを心配しているらしい。それ自体は嬉しいけれど、どうにも過保護すぎるんじゃないだろうかという気がしてならない。
 私はこれでも生粋の魔術師で、魔術師としての実力はなかなかのものだという自負もある。経験は足りなかったとしても、それを自覚し、補うだけの知恵もあると思うし、なによりも魔術師というものを知り尽くしている。
 理解した上で、それを無視することもできる。私はそういう不合理なもので出来ていて……だからアーチャーの心配だってもっともな話なのだ。
 私は、自分がしなければならないことを度外視して、自分がしたいことをしてしまう。冬木の管理者としては失格で、魔術師としても不良だ。
 無機質な歯車になってしまわないために。人間らしさを維持したまま魔術師になるという、ばかげた夢を叶えるために。
「で? なんで黙って出てきちゃったの?」
 桜にはベッドを勧めて、自分は椅子に腰掛ける。桜は俯いたままだった。
「……から」
「え? なに?」
「姉さんは、知らないから。だからそんなことが言えるんです」
 見上げられた瞳は、暗いだけではなく、陰火が燃えていた。この世の何もかもを呪っている眼差しは、ただ一人、士郎だけを例外とする。
 私のことを姉と呼びながら、それすらも呪うとは……いったい桜になにがあったというのか。
「そりゃあね。桜が間桐に引き取られてからのことは知らないけど。あなただって、遠坂に残った私のことなんて知らないじゃない。そんなのはおあいこでしょ?」
「だったらっ……だったらなんで私のことなんてかまうんですか!? わからないなら……わからないってわかってるなら放っておけばいいじゃないですか!」
「バカね。それができるならこんなことしてないわよ。……これでもね、心配してるのよ? あなたが間桐に引き取られてからのことは知らないから……なおのこと、ね」
 そして……桜は口を閉ざした。どうしても言いたくはないらしい。
 まあ、言いたくないならいいんだけど、と嘆息する。別に、桜の過去を穿り返したいわけじゃない。ただ……士郎に抱かれないと正気ではいられないはずなのに、それでもなおそれを拒むのが理解できないだけだ。
 嫌いだから、ではないはずなのに、嫌いなんじゃないかとしか思えない。だからまあ……それが理解できないだけの話で。
「汚い……から」
 桜は聞こえないほどの小声で、ようやくそれだけの言葉を搾り出した。
「私は汚い、から……だから、先輩のことは大好きだけど、抱かれたいって思うのは先輩だけだけど、私は先輩にだけは抱かれたくない……ただ、それだけです」
 ぼそぼそと、血を吐くように、身を切るような言葉を吐く。
 矛盾だ、といえば矛盾だろう。だけどそれは……どうしようもない矛盾だ。
 汚い、ということがなにをさしているかはわからない。わからないが……桜の言いたいことは、わかる気がする。
 女の子、ではない。女だから、だ。やるせないほど女だから……だから、士郎に抱かれたいのと同じ強さで、士郎にだけは抱かれたくないと思う。
 でも、だったら……桜はどうすれば生きていける?
「だからって、士郎……衛宮君は許さないでしょう? ……桜が人を殺すことなんて」
「……気づいて……いたんですか……」
「これでも管理者だから。……なんてのは、嘘。ただのカマかけよ」
 最近街で起こっている事件。一見脈絡なく、無作為に発生しているそれは、実際には二つのパターンがある。
 被害者が確実に(それこそ目撃者ごと)死んでいる場合と、殺されはせずに魔力を吸い上げられている場合に。
 どちらも、目的は変わらない……魔力の吸収。それだけだろう。
 それでいて、現場に残されていた匂いはまったく異質だった。
 片や、人間に対する憎悪すら感じさせる、徹底的な搾取。殺せるのに、殺さないでおいてやるという歪んだ優越感。お前達の命は自分の手の中にあるんだぞという、単純な示威行為。
 片や、無感情で無機質な、ただの食事。人間だから殺すというわけでなく、ただ魔力を持っている肉として咀嚼しているだけの殺人。
 どちらがどう、という根拠があったわけでもない。しかし、いまの桜の異常なまでの魔力を知ってしまった私には、それがどういうことなのか結びついてしまった。
 桜はもう……止める間もなく、引き返せない道に踏み込んでいるのだ、と。
「私は。……私は本当に、安心していたのに……」
 ちくしょう、と言葉にならない呪いが零れる。
「安心……?」
「遠坂は魔術師の家系で、しかもこの冬木の管理者……そのぐらいのことは、桜だって知ってるでしょ?」
「はい」
「当然、私は後継者として育てられたし……その時点で、私には選べる未来なんてなかった」
 魔術刻印を刻まれた日。魔術に失敗して死にかけた日。
 なんで自分がこんなことをしなければならないのか、と欠片も考えなかったわけじゃない。間桐に養子に出され、一般人として生きることになった桜を、わずかでも恨まなかった、と言えば嘘になる。
 それでも、そんな気持ちとは裏腹に、私は安心していたのだ。こんな辛い目に会うのが自分でよかったと。桜がこんな目に会わなくてすんでよかったと。……本当に、心の底から思っていたのだ。
 私が辛くても、桜がこんなものに関わらずに済むならと。本気で思っていた。
 そして……思い込もうとした。
「桜が一般人になれるなら、いいかなって。いつ死ぬかもわからないような魔術師にならないで済んだんならそれでいいかなって。……私は本当に、そう信じてたんだ」
「……バカなんじゃないですか。別に私がどうなったっていいじゃないですか。姉さんは姉さんで、私じゃないんですから。私がどんな目に会ったって、それを姉さんが……」
「そうね。悲しむのだって同情するのだって筋違いよね。……そりゃまあ、そうも思うけどさ。それでも私は、そう考えちゃうんだもん。だから……バカでもしょうがないじゃない」
 桜のことなんで、ほとんど知らない。なにも知らないと言っても嘘にはならないぐらい、私は桜のことを知らない。
 知らないままでいたいと思っていたわけでもなく、知りたいと思っていたわけでもない。両方が混ぜこぜになって、どうしたいのかわからなかった。
 桜が一般人として暮らしていたら、恨んでしまいそうで。桜が……ありえないと思いつつも……魔術師として生きていたら、救いがなくて。
 私は私が救われたいがために、自分の気持ちに桜という余裕を残しておくがために、あえて桜を無視していた。
 酷いのは、私だ。心配しているなんてお為ごかしにも程がある。
 私はずっと……心のどこかで、桜が酷い目に会っていればいいと、本気で望んでいたのだ。
「姉さんは、なんでそんな……だって、あなたは……私は、ずっと、……」
 桜は混乱している。それを呼び起こしたのは私なのに、私は心底、桜に申し訳なく思っていた。
 これだって、私の我侭だ。いまさら横からしゃしゃり出て姉ぶって、一人前のような顔をして説教をして、私は桜よりも上なんだと、そんなことを示そうとしている。
 くだらない。こんな私には、救いなんてない。
 私のこととは関係なく生きてきた桜はこんなにも強いのに、桜を犠牲にして生きてきた私はこんなにも弱い。
 惨めだ。
「だからね。私、あなたのためならなんだってすると決めたの」
 凛、と強く呼ぶ声が聞こえた。
 聞こえない振りをして立ち上がり、桜の手を取った。
「あなたが魔力を補給しなきゃ乾いてしまうなら……」
 そして、俯く桜の顔を上げさせて、そっと口付けをした。
 士郎に抱かれることができないのなら、私がその代わりになってやる。私には、それぐらいのことしかできないから。
 それで桜に許してもらえるとは思っていない。それでもいいのだ。私は桜のためにそうしたいだけなんだから。
 驚いている桜からそっと唇を離し、滴る唾液を拭ってやる。
「いまさら許してなんて言わない。だけど……一人で抱え込まなくても、いいよ」
 私はこれでも魔術師だ。冬木の管理者だ。桜を止める義務がある。それが殺すことを意味したとしても、私はそうしなければならない。
 わかっていて、それを選ぶことができなかった。私は、いまさら桜にだけそんなものを負わせる恥知らずではいたくなかったらしい。
 もしかしたら自分がそうなっていたかもしれないという後ろ暗さがそうさせるのかもしれない。それでも……私がそうしたいと思う気持ちに、嘘や偽りはない。
 アーチャーは許さないだろう。彼は他の誰よりも、桜を警戒していた。
 桜こそが破滅をもたらすのだと、未来を知る英霊は知っていたのだ。であればそれは、そこに原因があるという意味において、否定しようがない。
 私の行動がそれを促進させるか、抑止できるかはわからない。しかしアーチャーの焦りからすれば、間違いなく前者だ。
 私は強すぎる、とアーチャーは指摘した。その結果がこれ。
 桜の行動を助長させるようなことをしていながら、私は何一つ諦めてはいない。桜を殺してこの街を生かすのではなく、桜を殺さずにこの街を生かすことを選んだ。
 それが、冬木の管理者として果たす責務であり。
 それが、桜の姉として果たす義務だ。
 私は本当に……そう思っていた。
「姉さんが……私に抱かれる、って言うんですか?」
「……そうよ」
「そうですか。そう……ですか」
 そう言いながら桜の浮かべた微笑みは……
 イヤラシイを通り越して、不気味だった。
 私は、やはり間違ったのではないかと、背筋を走る悪寒に思わされる。
 桜は、もしかしてもう本当に……取り返しのつかないところまできているんじゃないかと。そう思ってしまった
「ええ、そうですね……それなら私は人を殺さなくていいし、先輩に抱かれることもないですね。……いいじゃないですか。そうしましょう。是非そうしましょう」
 今度は、桜に腕を掴まれ、唇を奪われた。
 それはもう、口付けなどという生易しいものではなく……ただ魔力を吸い上げようとする、一方的な搾取でしかなかった。
「姉さん……あなたはもう、私のモノです」
 蜘蛛に囚われた蝶の如く、身動きができなかった。