May I help you ?


 子犬が足元にじゃれついてきていた。
 両手一杯の買い物袋のせいですくい上げることも出来なければ、邪険に足蹴あしげにするわけにもいかない。
 ただ、困った。どうすればいいのか想像もつかなくて、凍りついたように動けなかった。
「どうしたんですか? 先輩」
 こちらも両手に荷物を抱えた桜が、追いついてきた。意地悪をして置き去りにしていたわけじゃない。買い物の内容と量から、手分けして買出しをしようと……そして、商店街の入り口のこの場所で合流しようと、そう取り決めていたのだ。
 少し先に買い物が終わった俺が、所在無く立ち尽くしていたら、袋の中身の匂いをかぎつけてか、子犬がどこからともなく現れ、……こんなことになっていた。
「どうしよう、桜」
 自分でも情けない声が出てしまったと思った。桜はくすりと笑って荷物を地面に置き、子犬を抱き上げた。
 子犬は元気よくキャンキャン鳴き、桜をべろべろと舐める。
「先輩、動物って苦手でしたっけ?」
「いや、そんなことはないんだが。犬は……苦手なんだ」
 無邪気に桜にじゃれつく姿を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。口中に苦い唾液が満ち、舌打ちが自然と零れる。
 まだ、吹っ切れていない。それが自分の弱さかと思うと、怒りのあまり眩暈めまいがした。
「荷物、俺が持つよ」
 自分が持っていた荷物を片手にまとめ、桜が地面に置いた荷物を空いた手に持つ。お、重い。真剣に深刻に重い。
 それでも、その重さにかまけることで、子犬のことを意識から追い出すことができた。それに安心している自分に気づき、歯軋はぎしりが零れる。
 違う。違うんだ。俺はそれを否定したいわけでも、なかったことにしたいわけでもない。俺はただ、本当はもっと……
「だ、大丈夫ですか?」
 桜が心配げに声をかけてくれる。
 大丈夫じゃない。大丈夫じゃないけれど、これぐらい、どうってことない。
 そして何度も、疑問がよぎる。俺はここまでして、なにをしようとしているのか。まさか……まさか、この子犬を拾おうとしているのか?
 もう、犬は飼わないと。そう決めたのに。俺はなんだかんだいって……まだ、それを未練に思っているのか。
 いや、違う。あの子犬は首輪をしていた。誰かの飼い犬なのだ。だから、飼い主が見つかるまで預かるだけである。
 そうだ。それだけのことだ。大したことじゃない。
「とりあえず、荷物が邪魔だし、俺は一度家に戻るよ。桜、その子犬、首輪してるだろ? 飼い主、探しててくれないか?」
 俺もすぐ、戻ってくるから。言わなくても桜ならわかってくれるだろうと思った。
「はい、わかりました。この辺でうろうろしてますから、早く戻ってきてくださいね」
 桜の言葉に含まれる切実さには気づかずに、応と答えて歩き出す。
 足取りの重さを荷物のせいにして、子犬から逃げるように家路いえじについた。

 とりあえず荷物を玄関に置き、食料品だけをピックアップして冷蔵庫に封入して、急ぎ足に家を出る。
 最初は走っていたのに、次第にそれもにぶり、急ぎ足になって、ただの徒歩になって、ぴたりと止まってしまった。
 なにが気を重くさせ、足取りを止めたのかはわかっている。俺はまだ……逃げているのだ。過去のあやまちから。
 あの時、俺は助けられなかった。助けられず……死なせてしまった。
 俺には一つの命も背負えないのだと、思い知らされた。
 それから必死になって、自分が目指すもののために努力を重ねた。重ね続けた。
 俺はそれに、幾ばくかの自負を抱いていたはずだったのに……実体を伴わない努力は、砂上さじょう楼閣ろうかくごとく、もろくも崩れ去ってしまった。
 俺はまだ、それに迷いをいだいている。自分に本当にそれができるのかと、恐れてすらいる。
 ……そして、桜にそれを押し付けて逃げるのか? それこそ願い下げだ。
 ともかく、歩き始める。進まなければどこにも行けない。目指したところにも、そうでないところにすら、たどり着くことはできない。
 俺はどこに向かっているんだろうか? 未来に? 過去に?
 俺に残されているのは残骸だけだった。

 商店街についた。桜が誰かに手を振っている。その胸に子犬の姿はなかった。
 桜の視線を追うと、小学生ぐらいの女の子が、あの子犬を抱えながら大きく腕を振っていた。飼い主なんだろう。すごく嬉しそうだった。
 まぶしいものを見つめるように目を細め、じっとその光景を眺める。
 その光景には、失われたものの匂いがした。
「あ、先輩。さっきの子犬、飼い主が見つかりました」
 それこそ子犬のように駆けてきて、俺の腕を取る。無邪気に嬉しそうに。
「見つかりましたっていうか、散歩中にちょっと勝手にお散歩してただけみたいなんですけど。子犬も可愛かったですけど、飼い主の女の子も可愛かったです」
 桜のほうが可愛いよと言いかけて、恥ずかしくなって黙り込む。
 ほっとしている自分を殴り倒したかった。

 食後の一時。縁側に出て、茶を啜っていた。
 桜も隣にいる。空気は暑くなく、風は冷たくもなく、輝く満月だけが綺麗だった。
「昔、犬を飼ってたんだ」
 ぽつりと、言葉が漏れる。
「名前は……つけてたか、つけてなかったか。実はあんまり、覚えてない」
 桜は黙って聞いている。
「俺はその犬が大好きで、いつも一緒にいた。親父は家を空けがちだったから、世話は全部俺がしなきゃいけなかった。俺は、自分で言うのもなんだけど、きちんと面倒を見てたと思う」
 名前は……そう、キリツグ、と呼んでいたのだ。
「寝るのも起きるのも一緒で、遊ぶのも怪我するのも一緒だった。俺達は家族で、家族以上に家族で……だからきっと、それは当然の結果だったんだと思う」
 俺がキリツグでもそうしただろうと、今でも思う。
 あの時、あの瞬間、それでも俺は、それが思い出せない。
「散歩の時は、リードをつけてた。本当はそんなことをしなくたってキリツグは俺の言うことを聞くし、誰かを傷つけるようなことは絶対にしないってわかってたけど、でも、そういう『セケンテイ』も大事なんだって親父に言われて、しょうがないからリードをしてた」
 きちんとしていれば、と今でも思う。リードをきちんとつけて、それをきちんと扱えていれば、あんなことにはならなかった。
「俺はキリツグを待たせて、公園で友達と遊んでた。キリツグはいつだって大人しく座って俺を待ってた。俺は……ふとしたはずみだったんだ。サッカーボールが思い切り飛んで、車道に転がっていった。俺は何気なく……本当に、何気なく、それを追いかけた」
 覚えているのは、クラクションの音。視界一杯に迫るトラックのライトとバンパー。時間はやけにゆっくり流れていた。あの瞬間、俺は、怖いとは思っていなかった。
 ただ、それがどういう状況なのか理解できず……ただ、足がすくんでいた。
「気が付いたら、俺はトラックを眺めていた。タイヤのあととか、宅急便のトラックだったとか、そんなどうでもいいことがやけに鮮明で。俺はそれでもまだ、自分の置かれた状況がわかってなかった」
 え、と思ったのだ。
 急ブレーキのタイヤの黒い跡、とか。それに混じって見えた紅い血、だとか。
 自分がサッカーボールを両手に抱えて道路に座り込んでいることが、全然本当に、よくわからなかった。
「……キリツグは……キリツグは、……キリツグはっ……!」
 俺を突き飛ばして、トラックに引かれた。そういう、ことだ。
 それなのに俺は、キリツグの姿を覚えていない。肉なんだか骨なんだか皮なんだかわからないような残骸だけがやけに鮮明で……その中に傷一つない首輪があったことしか、覚えていない。
「俺は……俺は、俺のせいでっ……! 親友だったんだ! 家族だったんだ! 兄弟みたいに、ずっと、ずっと、……なのに、俺はっ……!」
 涙が零れる。嗚咽おえつが抑えられない。
 俺のせいで死なせてしまった、その事実が。俺の責任で家族を失ってしまった、その事実が。
 俺さえしっかりしていれば、キリツグは死なずに済んだという、その事実が。
 後悔などという生易しいものではなく。それでいて、後悔にしかなりえない惜別せきべつが、俺をさいなんでいた。
「先輩は、悪くないです」
 桜がそっと、抱いてくれた。
 子犬を抱き上げた時のように、その胸に優しく抱いてくれた。
 俺は見上げることもできず……振り払うことも、否を唱えることもできず、ただされるがままになっていた。
「きっと、逆の立場だったら先輩だって同じことをしたんだろうし……だから先輩は、悪くないんです」
 優しく、頭を撫でられた。
 包み込むように、背中に手を回された。
 俺は一瞬だけ、びっくりしたように息を飲んで。
 いてもたってもいられなくなって、桜を抱きしめながら、泣いた。
「その犬……キリツグさん、ですか? キリツグさんも、自分にできることを、自分にできる精一杯をしただけです。たぶん、きっと。……絶対。だから、先輩は、悪くないです」
 いつも、なにひとつ、言葉にならない。
 キリツグのことを思い出すだけで胸が締め付けられ、涙が零れそうになり、それでもキリツグを死なせてしまった自分には泣く権利すらないと奥歯を噛み締め、嗚咽を噛み殺してきた。
 親父は、何も言わなかった。何も言わずに、抱き締めてくれた。
 キリツグのことで泣いたのは、その時だけだった。
 キリツグのことを話したのは、桜が初めてだった。
「先輩は、悪くないです」
 きっぱりと、ただそれだけを。
 呪文のようなその言葉に、締め付けられていた思いが解き放たれる。
 謝りたかった。許して欲しかった。ただずっと……一緒に、いたかった。
 同じ思いだったんじゃないかと、思えば思うほどに悲しくなって。思えば思うほどに、苦しくなって。
 いっそ、いっそのこと、あの時一緒に……
「大事なヒトがいなくなって、自分だけ残されて、それが悲しいのはわかります。わかりますけど、でも、だからって、自分がいま生きていることとか、そういうことを否定したらダメなんです。私達が生きていることには意味があって、もしかしたらそれは、生かされているということなのかもしれないけれど、それでもきっと、生かされているんだとしても、それには意味があるんです。……生きていて欲しいって、願いがあるんです」
 だから、生きていることを否定しちゃ、ダメなんです。
 桜の言葉に応えることすらできずに。
 桜の優しさに応えることすらできずに。
 ただ、その胸で泣き続けた。

 それが、彼と彼女の思い出だった。