You cries on my heart


「やれやれ……サーヴァント遣いの荒いマスターだ」
 いきなり、部屋の片付けをやらされるとは思わなかった。頭を掻き、嘆息すら零しながら、それでもマスターの言い分にも一理ぐらいはあると認める。
 不本意だったのは、さてどちらだろうかと考える。理想的といえば理想的だが、ありがたくないと言えばまったくありがたくない。他に呼ばれるよりはマシだが、それでも実際には、一番呼ばれたくない相手に呼ばれたかったのかもしれなかった。
「……矛盾しているな、それは」
 ぼそりと、一人ごちる。この時代、そしてこの時に呼ばれることを願っていたのは、他でもない自分自身だ。そうなることはわかっていたとはいえ、本来なら喜ぶべき状況だろうというのに、いまいち釈然としない思いが強い。
 凛に……遠坂凛に対する何がしかの感情が残っているわけではない。磨耗しきった過去において、自分が彼女をどう思っていたかなど、英霊となった自分には影響しない。
 しないというのに、実際に目の前にすると、どうにもダメだ。苦手というのでもなく、かといって得意というわけでもなく、ちぐはぐとした違和感ばかりが募る。
 思わず正体を隠してしまったのも、その違和感のせいだ。
 せいだろう。せいだと思いたい。
 こんなものを後生大事に持っていたのがいけなかったのかもしれない。そう思いながら、ペンダントを取り出す。
 赤い宝石のペンダント。凛が自分を呼び出す触媒となったもの。
「英霊の分際で……」
 こだわっている、のだろう。自分が助けられた事に。自分が助けられたという事に関しては、一つの例外もなく。
 それこそが英雄エミヤの始原だったのだから。
 理想と現実。埋められない溝。どれほど否定しても、否、否定しようとすればするほど、それは綻びをみせる。
 理想に殺された英雄は、どうすれば英雄で居続けることができるのだろうか。
 救い続けた人々。救えなかった人々。それらが等価にこの背にある。
 ただ潰れることもできない。そんなものに押し潰されては、それこそ自分が救った人々をすら否定してしまう。
 自らの無価値を認めてしまうことになる。救うために殺したことすら偽物になってしまう。
 なりたかったのは、単純な正義の味方。世界がそんなに単純ではなかっただけで、理想と現実のギャップと呼ぶには、あまりにも冷酷なものがその狭間にあった。
 彼女は憤るだろう。それはきっと、自分にとっての救いだ。
 凛に肩入れする理由は、そんなものでいい。サーヴァントはマスターを選べないが、自分は凛をマスターに選んだ。このペンダントこそがその証拠だ。
 感傷だ。これは、遠い昔に切り捨てた感傷だ。
 切り捨てたということは、それはいらないものだからだ。いらないものを持ち続けても重荷になるばかりで、何一つ意味などない。
 背負いきれないほどのものを、すでに背負っている。すでにこの手から零れてしまったものすらある。それでも後生大事に、なにを守っているのか。
 ……そっと、ペンダントをしまう。結論はとっくのとうに出ているが、結論を出すのは後でいい。
 自分は自分を、衛宮士郎を殺す。それをこそずっと願っていた。
 凛が悲しまないように。報われない自分を、そうして殺してしまおう。
 死んでも理想を手放さず、永遠に理想に裏切られ続ける前に。
 人々のために生きた代償として、ただ一人の人間を悲しませないために、自分自身を殺してしまおう。
 それでも凛は怒るだろうが……構うことはない。世の中には望まずに救われる人間だっている。
 自分は英霊と呼ばれるには歪んでいるな、と自覚する。
 だからこそ、凛をマスターにはしたくなかったんだと気付いた。
 真っ直ぐな彼女には、自分は相応しくない。セイバーこそが本来彼女に仕えるべきサーヴァントだ。
 それでも、それでもこれを選んでしまった。
 これを言ったら彼女はきっと笑うだろうけど……
 英霊になってまで、私は遠坂凛の側にいたかっただけらしい。

 私は本当に、ただむかついただけなのだ。
 なににと言われれば、自分を含めた人間というやつになるんだろうけど。それでも無責任にも、むかついてしまった。
 努力は報われなければ嘘だと思う。それが理想論で、ただの奇麗事で、それが本当なら誰も傷つかないで済んでいたんだろう、ということもわかっているし、現実には誰もが大なり小なり傷ついているということも知っているけれど、それでも私はそう思うんだから仕方がない。
 その背中が、あまりにも強くて。頼るにはこれ以上確かなものはないと思わせてくれるのに、その心の空虚さを知っていたからこそ、私はどうしても、最後の言葉が言い出せなかった。
 剣だけの荒野に一人立つ。その圧倒的なまでの孤独に打ちのめされて。それでもそれもまた、そいつの望んだものだとわかってしまったからこそ。
 あんたは幸せにならなきゃダメなんだと。幸せになれなきゃ嘘なんだと。……ただ、それだけのことなのに、言えなかった。
 彼にそれだけのものを背負わせたのは、彼が救おうとした者達だからこそ。それを指して報われないだなんて言ったら、それこそ彼から救いを奪い去ってしまう。
 歯がゆくて、認めたくなくて、否定すらしてしまいたいのに、それだけはできない矛盾。
 こいつを救うには、自分が幸せにしてやるしかないんだと。いつからかそんな思いを抱いていた。

 さようなら、遠坂。

 それが最後になると直感していた。
「だってそんなっ! 士郎、そんなことしたらあんた、死ぬんだよ!?」
 そうだろう。そうに違いない。
 きっと俺は死ぬ。この戦いに勝ちはない。
「それでも俺は行かなきゃいけない」
 わかってくれと言う気もない。言ってわかってくれるなら、そんなことを言うはずもない。
 この道が絶望だと言うのなら、それは事実なのだ。俺はすべてを間違えた。
 俺の甘さがこの結果を生んだ。それから逃げる気はない。
 そもそも、逃げられるはずもない。俺はどうあっても……死ぬしかない。
「桜は、でも、だってっ!」
 遠坂らしくないほど、取り乱している。いつだって、どんなときだって、それこそ心底頭に血が上っているときだって、遠坂は冷静に怒ることができるから。
 だから、なりふりかまわず俺を止めようとしているのは、不思議な光景にすら見えた。
「なんであんたが桜を殺すのっ!?」
 それは、姉としての叫びではなく……ただ、理解できない者の問いだった。
「俺が追い詰めたからだ。俺が桜から逃げ道を奪ったからだ。桜はずっと、俺に助けを求めていたのに……俺は、なにもできなかった。だからだよ」
 むしろ優しく答える。遠坂の激情が、俺の心を冷静にさせる。
 皮肉なものだ。頭の中は自分に対する怒りでいっぱいだってのに。
「でも、桜はっ! ……桜は、あんたの恋人じゃない」
 理解、は、されないかもしれない。してもらう必要もないと思う。
 俺はただ単純に、俺が果たすべき責任を知っているだけだから。
「だから俺がしなきゃいけないこともある。そうだろ? 遠坂だって、桜を殺そうとしてたじゃないか」
「私は、それはっ……!」
 管理者だから、だ。この冬木の管理者として、遠坂にはそれをする権利と義務があるからだ。
 俺にはそんなものはない。出来損ないの魔術師に、そんな大層なものがあるはずがない。
「俺が桜を止めるよ。俺はそうしなきゃいけないんだ」
 いまの桜に、理性はない。きっと、俺のことが誰だかもわからないに違いない。
 そんな桜が俺を殺すなら、それはそれでいい。殺されてやるぐらいのことをしても、罰は当たらないだろう。
 桜の心を壊したのは俺なんだから、……その責任ぐらいは、果たしてみせる。
 たとえどんな手を使っても。
「遠坂は、手を出さないでくれ。これは、俺と桜の問題だから」
 このこだわりに意味がないことはわかっている。それは俺を殺しこそすれ、生かしはしないだろう。
 それでも、いい。たとえ死んでも、そこには答えがある。
 究極の目的地が目の前にあるんだから、逃げ出す理由はない。俺はいま、俺自身に試されているんだから。
「……あんたが桜に勝てる可能性なんて、万に一つもないのに」
「わかってるよ。……でも、遠坂に言われると辛いな」
 苦笑するしかない。その決定的な事実は、いまさら覆しようがない。
 桜と対峙すれば、俺は死ぬだろう。俺には桜に勝てる要素などまるでないんだから。
 そして、俺自身……桜に勝とうとは、思っていないんだから。
 だからそれはもう、折り込み済みの未来だ。
「もう、決めたんだ」
「……そう」
 ようやく納得してくれたのか、そうつぶやいたきり、遠坂は沈黙した。
 納得なんて、してないだろう。こんなことを納得してくれるほど、遠坂は冷たい奴じゃない。
 ただ、俺の決意が覆せないと知っただけだ。
 だからせめて、俺も幾ばくかの置き土産をしなければならない。
「きっと」
 懐に、手を差し込む。
 引き出されたのは、赤い宝石のペンダント。
「……こんなこと言うの、柄じゃないけど。遠坂のことを好きになってればよかったのかもしれないな」
 じっと、ペンダントを見つめる。
 ランサーに殺された俺を蘇生させた、遠坂のペンダント。それが遠坂にとって、どれほどの意味を持っていたかもいまならわかる。痛いほどに。
 あれがなければ、聖杯戦争を制覇していたのは遠坂に違いない。すべてを制する決定的な状況で、詰めの一手を仕損じたのは……単純な、魔力不足からだ。
 それほどのものを支払わせてしまった。そしてそれはもう、どうしようもない。
 その強さに憧れていた。その想いもすでに過去のものだ。
「……なにそれ」
 理解できないと、その表情が物語っていた。そうだろう。そうだろうとも。遠坂はきっと、自分のしたことが俺にどんな影響を与えたのかなんて、欠片も考えやしないんだ。
 それぐらい当たり前に、ああいうことをしてしまえるんだから、俺なんかがかなうはずがない。
「本音、かな。……いや、別に桜のことがどうこうってわけじゃないけど。俺はきっと、遠坂のことを好きになってれば……」
 なってれば。なんだというのか。
「……自分から死にに行くようなことは、しなかったのかもなって思っただけだよ」
 遠坂のように、前を向いて生きる覚悟を持てたのかもしれないと。そう思っただけだ。
 いまの俺には、なにもない。すべてを救おうとしてすべてを壊してしまった俺には、もうなにもない。
 生きる理由も、生きる目的も、なにも。
 この街で生きているのは、すでに俺と遠坂だけ。その状況がすべてを雄弁に物語っている。
 責任は、果たさなければならないだろう。正義の味方に憧れた者として。
「いまさらじゃない」
 そのあまりにも身も蓋もない言い方に、苦笑が漏れる。
 そうだろう。そうなんだ。こんな想い、本当に、いまさらなんだ。
「いまさら、そんな……私だって、あんたのこと……」
 子供をあやす時のように、唇に人差し指をあててウィンクをしてみせる。それ以上は、言って欲しくない。それこそそれは、いまさらだから。
 例えこの想いが報われるものなのだとしても、報われてしまっては行き場をなくす。
 行き場をなくした想いは、俺を引き止めるだろう。それは、困る。
「俺は、それを誇りに思うから行けるんだ。だから、止めないで欲しいな」
 きっと、なにも間違えなくたって、なにかを間違ってしまうこともあるんだろう。
 俺はきっと、わかっていたって間違えてしまうような馬鹿で、だからきっと、何度だっていまみたいな決断をしてしまうんだろうけど。
 遠坂が隣に居てくれれば、何度だって俺を正しい方向へと導いてくれただろうと、そう思えてならなかった。
 だからこれは、ただの後悔だ。意味のない弱さで、唾棄すべき薄弱さだ。
 すでに選んでいるのに、その選択を後悔して、ありえない未来を想像してなんの意味があるのか。どこに救いがあるのか。
「遠坂と一緒に居られて、楽しかった。……じゃあ、な」
 見慣れた自宅の居間と遠坂に背を向ける。これで終わりだ。俺はもう、振り返ることはないだろう。
 最初から、高嶺の花だった。最後まで、高嶺の花でいてほしかった。
「バカっ」
 背中にぶつけられたクッションにびっくりして、思わず振り返る。
 こんな子供っぽいことをするなんて、本当に思っていなくて。
 遠坂が泣いているなんて、本当に思っていなくて。
「バカバカバカバカバカ!」
 立ち上がり、駆け寄ってきた遠坂に唇を奪われる。
 心ごと奪われてしまいそうな、激しい口付け。
「いいわよ別に! あんたが死にたいなら勝手に死ねばいいじゃない!」
 拳で胸を叩かれる。押し付けるように吐き出された言葉に呆然とする。
 遠坂がなにを言ってるのか、まるで理解できない。
 胸倉を掴み上げて、涙を必死に堪えながら、なんでそんなことを言うんだろう。
「そんなことになんの意味があるってのよっ……!」
 ……だから、遠坂は認められないんだろうか?
 だから、遠坂は俺を憐れんでくれているんだろうか。
 だとしたら、それは……
「あんたが逃げたって、誰も責めやしないわよっ!」
 でも、それは。
「俺は俺を責めるよ」
 そしてそれからは、逃げられない。絶対に。
「意味だって、きっとない。俺が桜を殺したって、なんの意味もない」
 それでも、きっと、だからこそ。
 意味はあるのだ。
 そうしなければ、俺は英雄にはなれない。誰一人助けることができない。
 俺のことを心底想ってくれている遠坂すら、救えない。
 そんなのは願い下げだ。俺は正義の味方になるって決めたんだから。
「俺は誰も救えないだろうけど……それでも俺は、行くって決めたんだ」
 俺は、誰か、を救いたかったんじゃなくて……
 俺を救ってくれた人を、救いたかったんだと。そう、気づいてしまった。
 そして……それが叶わないと、知っていた。
 手遅れなんだと、その想いだけがリピートする。
 俺はもう誰も救えない。それでも誰かを救わなきゃいけない。その矛盾。
「死ぬつもりのくせにっ……」
 どうして、それで遠坂が泣くのかは理解できなかったけれど……
 俺は、きちんと笑えたと思う。
「死なないよ」
 きっぱりと、断言する。
「俺は、死なないよ」
 確認するように、もう一度言う。
「俺は、死なない」
 遠坂を引き離して、微笑みを浮かべる。
「俺にはまだ、やらなきゃいけないことがあるから。だから、死なないさ」
 遠坂は息を呑んで、押し黙った。
「……遠坂は、なにも悪くないよ」
 ぽつりと。
「遠坂が悪いわけじゃない。悪いのは……俺なんだ」
 いきなり、平手を食らった。いくら最後だからってやりたい放題やりすぎじゃないか、遠坂。
「だからあんたはバカなのよっ……!」
 遠坂は責任を感じているんだろうか? そんな必要はどこにもないのに。
 桜を殺せなかったのは、遠坂の責任じゃない。俺が止めたからだ。
 遠坂が桜を殺す決定的瞬間で邪魔をしたのは、俺だ。
 桜を死なせたくなかった、それもある。だけどそれだけじゃない。
 遠坂が誰かを殺すところなんて、見たくなかった。俺を救ってくれた人が誰かを殺すなんて、認められなかった。
 だから、遠坂は悪くない。これは、いまの状況はすべて、俺の我侭の産物だ。
「わたしは悪くない!? だからなんなのよ! そんなの関係ないじゃないっ! いまはあんたの話をしてるんだからね!?」
 ここで、この状況で、関係ないと言い切れる。
 そんな君の強さが好きだと思った。そんな君だからこそ憧れた。
 その一言に、背中を押された。迷いは、ない。
「待っててくれないかな」
 自信があるわけでもないけれど。
「俺は、必ず戻ってくるから。……帰ってくるから。だから、遠坂に待ってて欲しい」
 そして……俺を断罪して欲しい。桜を殺してしまえば、俺はもう……
 それが正義なのだとしても、正義のために正義を殺さなければならないというなら、断罪を受けなければならないのも、また必定だ。
 正義のために生きると決めた。正義のために死ぬだろうことは、その時からわかっていた。
「……桜を殺させなかったくせに、自分のことは殺せって言うの?」
 曖昧な笑みを浮かべて答えず、遠坂の髪をくしゃくしゃに掻き混ぜて、背を向けた。
 再びクッションを投げつけられたが、振り返らなかった。
「本当に……バカなんだから……」
 遠坂の呟きは届かなかった。

 そして私は桜を殺した。

 目が覚めた瞬間、自分が泣いていることを自覚した。
 涙。いまさらそんなものを。
 安らかな寝息をたてる凛をベッドに残し、服を纏って部屋を出る。
 どこまでも過去が追いかけてくるというのなら、好きにすればいい。私はいまさらそんなものに負けはしない。
 それを忘れようとした時、たやすく心も折れるだろうが、私はただの一度だってそれを忘れたことはない。
 私は私の行いを忘れない。それが私を支える強さだから。