Good Night Baby



 自分はなにか大きな間違いを犯したんじゃないかと思った。
「どうした? 怖気づいたか?」
 楽しんでいる。否、楽しまれている。しかも、こんな形で。
 それは侮辱だ。屈辱だ。私は決して、こんなことでは引かない。
「なにをバカな」
 吐き捨てるが、足が動かない。怖いわけじゃない。逃げたいわけでもない。
 ただ、足が動かない。
「いまさら照れるようなこともないだろ? ここまできて」
 それは、そうだ。それぐらいのことはわかっている。
 ランサーは裸でベッドに寝転がっている(シーツで隠してはいるが)。私はバスタオルで身体を覆い隠して、あと一歩、ベッドに近づけないでいた。
 ただ一歩。それだけの距離。一歩踏み出せば、私はランサーに抱かれる。
 ……なぜこんな状況になっているのか。ランサーはサーヴァントで、私はマスターのはずだ。売り言葉に買い言葉でこんなことになっているのはわかっていた……その時点でランサーに誘導されてしまったということも。
 わかっていても引けないこともある。そう、これはマスターとかサーヴァントとかそういうことは関係なく……関係ないのはまずいんじゃないかとも思うが……一人の魔術師として、そうしなければならないことなのだ。
 ……魔術師とか関係ないよなあと頭ではわかっていた。ただ、そう……いまさら、怖気づいている。怖気づいているが、引けない。それが正解だ。
「証明してくれるんだろ? いい女だってことを」
 そう、それが争点だった。召喚してすぐ、俺はいい女の言うことしか聞かないとか抜かしやがったので、私は女だ、から始まって、それなら世界の半分は女だよなあと嫌味を言われて、いい女とはなんだ、と問い質したら、男を悦ばせる女だ、と……すべてランサーのペースで流されてしまった。
 どう考えても、私がそんなものに固執していた理由はないのに。いい女? そんなものがなんの役に立つ? 魔術師は魔術師らしく、自らの技術を磨いていればそれでいい。それを実践してきた自分が、なにをいまさら。
「まあ、俺としてはどっちでもいいんだがね」
 意地悪そうに笑う。いつだって笑っているが、ランサーの笑いはどことなく気に入らない。それに、意地悪な笑いが一番似合っているというのが気に入らない。
 ここまで来て後に引けないのはお互い様だろとでも言いたげな余裕も気に入らなければ、まあ、お前にはできないかもなという余裕も気に入らない。
 敵前逃亡するぐらいなら玉砕あるのみ。いや、そんな特攻精神はだから違う。
「……ふんっ」
 こうなったら、なるようになる。なるようにしかならない。
 一息にバスタオルを脱ぎ捨てて、ランサーに覆い被さるように口付けをした。
 ランサーは少しびっくりした顔で、それを受け入れた。
 しばし、無言のままキスが続く。
 息が苦しくなって、唇を離す。目を白黒させながら、必死に空気を吸い込む。キスというのは……こんなにも苦しいものだったのか。
「……いや、なんというかこう……俺が言うこっちゃないんだが、色気ないなあ……」
 ランサーは笑うことすら忘れて呆然としていた。
「!!??!?!? ううううるさいっ! 黙れ! ふざけるな! キスなんてのはあんまり!! …………」
「……あんまり?」
「……したこと……ないんだ……」
 耳まで真っ赤になっていることを自覚しながら、俯いて誤魔化す。
 そんなものは必要なかったんだ、と言い訳はできる。できるが……ランサーに対してそんな言い訳をしてどうするのか。ランサーはそのぐらいわかっているだろうし、わかっていて挑発してきたに決まっている。
 意地とプライドだけで女らしくなれるなら苦労はない。そんなことはわかっている。わかっているが……
「いや、いや、なに。そうかそうか。いや、まったく」
「ななななにがおかしいんだっ!?」
 堪えきれずに笑い出したランサーをぽかぽかと叩く。裸にまでなったというのに、ただ笑われるだけでは、それこそ女のプライドが許さない。
「別に、無理はしなくていいんじゃないのか? お前はそのままでも十分いい女だと思うぜ?」
「無理など……っ!!」
「俺に対して『自分がいい女だ』って証明したいわけじゃないだろ? もちろん、お前のためでもない。誰かは知らんけど、惚れた野郎のためにお前が無理をしてるのはわかるさ。いやはや……ここまでさせておいてなんだが。こうなると、一番惨めなのは俺だなあ」
 なんだかよくわからないことを勝手に言って納得したのか、ランサーはシーツを身体に巻き付けて立ち上がり、私が放り投げたバスタオルを拾って優しく巻き付けてくれた。
「お前は十分可愛い女だよ。少しは自信を持ちな」
 ぽんぽんと、慰めるように頭を叩かれた。
 そしてそれきり、部屋から出て行こうとする。ここは私の寝室で、だからなんだというわけでもないが、確かにランサーが寝る場所はここにはないわけだが。
「お前はっ……! 私にここまでさせておいて逃げるのかっ!?」
「……ってもなあ。別に抱かれたいわけでもないだろ?」
 肩越しに振り返り、いまさらそんなことを言う。
 いまさらだ。いまさらじゃないのか? それは。
「俺は別に、お前が俺のことを好きだとは思っちゃいねえよ。好きになって欲しいわけでもない。いや、むしろ好きにならないほうがいいとも思ってる。だから、お前が誰か他の奴のために俺に抱かれるってのはな。……辛くなるだけだろ?」
 辛く? 誰が、辛く? 私が、お前が?
「俺はお前のサーヴァントだ。なら、それでいいじゃねえか」
「なにが……なにがいいんだ」
「お前が俺のことを好きじゃなくてもいいし、俺がお前のことを好きじゃなくてもいい。ただ、お前がいい女なら俺は満足だ。そうだろ?」
 じゃあな、と言ってひらひらと手を振りながら、部屋を出ていく。
 怒っていた。なにに怒っているのかはわからなかったが、私は怒っていた。
 ランサーが姿を消して、どれぐらい経ったかはわからない。収まらない怒りに任せて枕を掴み、思い切り扉に叩きつけた。
 悔しくて涙が零れた。

 廊下に出て後ろ手に扉を閉め、そのまま扉に背を預け、ずるずると座り込む。
 あれは反則だろ、と顔を撫でる。あんな顔をされて自制できた自分は、男としては如何なものなのかと思ってしまうほどに。
 バゼットは自覚が足りない。女としての魅力とかそういうものは皆無だと思い込んでいる節がある。そんな女に手を出すほど無粋ではないし……他の男のために抱かれようとしている女を抱くほど、安くもない。
 四の五の言わず抱けばいいじゃないかとも思った。バゼットはいい女で、俺はいい女が大好きだ。気が強くて、素直じゃなくて、ちょっと抜けてて。本人はしっかりしてるつもりなんだろうが、俺にしてみれば隙だらけにしか思えない。
 思わず、守ってやりたくなるような。そんな女は嫌いじゃない。
 あと一歩踏み出して、あと少し手を伸ばせば、いい女が抱けたのだ。男ならそれを躊躇う理由などどこにあるだろうか。
 泣きそうな顔してるんだもんなあ。抱けねえよなあ。
 いい女は好きだが、いい女を泣かすのは趣味じゃない。あそこでバゼットを抱いていたら、バゼットは後悔しただろうし、俺も後悔したに違いなかった。
 いや……それはただの言い訳だ。バゼットを抱いたら後悔する? 後悔で済むのなら抱けばいい。後悔ぐらい、いくらだってしてきた。これからだってするだろう。
 そんなものは、理由にならない。
 自分はただ単純に……怖かったのだ。バゼットの真っ直ぐな気持ちが。
 俺のことなど欠片も見ずに、惚れた男のためなら俺にすら抱かれようとするその強さが、怖かった。
 後はまあ……それじゃああまりにも惨めだとか。いろいろはあるが。
 こっちは向こうのことが好きなのに、向こうは自分のことを好きじゃない。まあ、そういう状況なんだろう。これは。
 愛しているか、と言われれば、それほどの気持ちでもないが。好きなのかと問われれば、迷わず頷くだろう。
 惚れた弱味ってやつだなあと、頭を掻く。その時点で俺の負けは確定じゃないか。
 それでも気分は悪くない。なんとなく微笑んでしまう。
 正義とか大義とか、聖杯のためとかサーヴァントとしてとか、そんなもののために戦うよりは、惚れた女のために戦うほうが、よっぽど自分らしいじゃないか。
 マスターがバゼットでよかったと、心底思った。これで少しは、やる気になれるってもんだ。
 さて、今日はどこで寝たもんかねえと考えながら、立ち上がる。
 背中の扉が、いきなりバシンと大きな音を立ててびっくりした。
 こりゃあ、さっさと退散したほうがよさそうだ。シーツを放り出して、蒼い戦闘服をまとう。
 明日が大変だろうなあと他人事のように考えながら、歩き出した。

 バゼットが妙に浮かれていた。
「気色悪ぃなぁ。なんか変なもんでも食ったのか?」
「気色悪いとは失礼な! 私が拾い食いをするとでも思っているのか!?」
 その反応がおかしい、と気付いてない。普段ならもっと静かに怒る。ここまで露骨に感情を剥き出しにしたりはしない。
 冷静さを欠いている。そういう時にこそ、落とし穴はつきものなんだが。
 言って聞くとは思えなかった。であれば、俺が気を付けてやるしかないだろう。まったく、世話の焼けるマスターだ。
 それは俺の仕事なんだろうか? と、思わないでもない。マスターとサーヴァントの関係は、もっと殺伐としているはずだ。それぞれが、自分のためにお互いを利用する。それだけの無味乾燥な……相手のために、などという余地は欠片もない関係のはずなのに。
 まあ、そんな関係になりたいわけでもないが。いまの関係が一番理想的だというのはわかっていた。
「なんつったか? お前を呼んだ奴」
「言峰のことか?」
「そうそう、その言峰とかいう野郎。いまさらなにしに来るんだ?」
「何か相談したいことがある、と言っていたな。まあ、ろくな相談ではないだろう」
 言葉とは裏腹に、バゼットは嬉しそうな表情を崩さない。普通、そこまでわかっていたら喜ぶよりも警戒するんじゃないだろうか。
「あいつは昔から酷い奴だった。何度か協力して仕事をしたことがあるが、大体が私を囮にしたりと危険な役割を押し付けてきたからな。何度死にかけたやら」
「……ああ、そう」
 だから、それは嬉々として語る内容じゃない。
 こいつ、もしかして筋金入りのバカなんじゃないだろうかという気がしてきた。
「それでもまあ、今回はまともな仕事で呼ばれたようだしな。あいつに貸しを作るのは悪くない」
 瞬間、閃いた笑みは、微笑みなどという可愛らしいものではなく、にんまりとした悪魔の微笑だった。
「それに、最初はサーヴァントなんぞろくなもんじゃないと思っていたが……実際、召喚してみればお前のようなやつだったからな。拍子抜けだ」
「なんだそれ。ずいぶん失礼な話だな」
「そうか? 悪気はないんだが。騙し騙され、欺き欺かれるのがマスターとサーヴァントだと聞かされていたからな。お前みたいに信頼できる奴が出てくるとは、正直思っていなかった」
 言峰に感謝してやってもいいぐらいだと、バゼットは料理の支度を続ける。男装なんぞしてるくせに、料理やら掃除やら、家事全般を器用にこなすんだから、まったくもって魔術師らしくないと言えた。
 バゼットのそういうアンバランスさは嫌いじゃない。簡単に俺のことなんぞ信じてしまっているあたり、不用心にも程がある。
「俺はお前のことを騙そうとしているのかもしれないぜ?」
 それは、軽い冗談のつもりだった。
 一瞬、手を止めて振り返ったバゼットは、そんな言い訳では許してくれそうにないぐらい、悲しそうだった。
「……そうか」
 怒りもせず、料理に戻る。
 数秒の沈黙。包丁の音だけがキッチンに響く。
「……怒ったか?」
「怒ってなどいない」
 だが、その声には刺があった。
「怒ってるじゃねぇか」
「怒ってなどいない!」
 語気を荒める。
 怒りで手元を誤ったのか、いたっと声を上げた。どうやら包丁で手を切ったらしい。
「やっぱり怒ってんじゃねぇか」
 溜め息を吐きながら素早く包丁を取り上げ、バゼットの指を咥える。
「なっ……!?」
「ふむ。大した怪我じゃないようだな」
 バンソウコウなんてものがこの家にあるんだろうかと思いながら、キッチンをぐるりと見回す。ふむ。なさそうだ。
 とりあえずティッシュでも、と思って歩き出そうとしたら、いきなり平手を食らった。
「……痛いじゃないか」
 はたかれた頬をさする。口で言うほど痛かったわけではない。
 ただびっくりした。
「バカモノっ……! いきなりなにをするっ!?」
 バゼットは顔を真っ赤にしている。なんでそうなるのかさっぱりわからない。
「消毒だよ、消毒。なんか変なことしたか?」
「変なことだと!? 変なことだと!? しただろうが!? したにきまっている!!」
 なんだそりゃあ。言いがかりじゃないのか?
 しかしバゼットは、それが当然のことだと言うが如く、戦闘態勢の猫のようにふーふー言ってる。
 とりあえず、興奮しすぎているというのはわかった。
「はいはい、俺が悪かった失礼しました。んじゃあなんだっけ? その言峰とやらが来るまで、俺は引っ込んでるからよ。後は好きにしてくれ」
 言い捨てて、キッチンを出る。これ以上ここにいたら、息をしているだけで文句をつけられかねない。
 バゼットがなにか言いかけて、それを飲み込んだ気配だけが伝わってきた。
 言いたいことがあるならはっきり言やいいんだ。そう思いながら、扉を閉めた。

 その瞬間、頭に血が上った。
「貴様っ…………!!!!」
 思わず槍を召喚し、飛び出す。
 だが、俺を止めたのはバゼットだった。片腕を切り落とされたというのに、体を張って押し留められる。
 バカなことを。俺を……マスターを傷つけられたサーヴァントを、マスターが止めてどうする。
 しかも、切り落とされたのは令呪の宿る左腕だ。その時点で、そいつの……言峰とやらの目的ははっきりしていた。
 なにか企んでいるだろうとは思っていたし、バゼット自身もそれを示唆していたというのに、ここまで直接的な手段に出るとは思わなかった。俺の……俺の失策だ。
「最初から、これが目的……だったんだな?」
 確認するように、バゼットが問う。言峰は当然だと言う顔で頷いた。
「その通りだ。監督役としては、あまり表立ってマスターになるわけにもいかないし……そうなると、外部の人間を使わなければ頭数が足りない。まあ、それだけといえばそれだけのことだが」
 いまにも崩れ落ちそうなバゼットの身体を左手を回して支える。言峰の言葉は、意図的に聞き流していた。まともに聞いていたら、バゼットを放り出してでも殺してしまいそうだった。
 バゼットの望まないことをする気はない。例えバゼットが死んだとしても。
「そうか……そうだろうな。お前が私を呼び出した時点で、おかしいとは思っていたんだ」
 そうだ、その通りだ。バゼットは、言峰の胡散臭さを知っていた。それこそ、いまさら俺が警戒する必要などないほどに、知っていたはずだ。
 それなのに、あっさりと左腕を切り落とされた。バゼットの浮かれようはわかっていたはずなのに。
 声にならない声の替わりに、歯軋りが零れる。バゼットがどう言おうと、言峰とやらを許すことはできそうにない。
「道化だな、私は。……なあ、ランサー?」
 それなのに……それなのに、バゼットにそう言われ、そう笑われてしまったなら、俺は何もできなくなってしまう。
 バゼットが、こういう事態すらも予想していたというのなら、これもまた、バゼットの望みの内だったというのなら……俺自身の気持ちはどうあれ、言峰のことを憎んだり恨んだりする気持ちは消え失せてしまった。
 バゼットの声に混じる、絶望的なまでの悲しさに、大声で喚き散らしたくなった。
「ほんの少し……少しだけ、期待していたんだ……」
 俺に体重を預けて、バゼットはそれでも立ち上がろうとする。
 それなのに、やはり左腕の傷のせいか、何度も膝が崩れ落ちてしまう。
 俺はただなにも出来ず、壁のようにそれを支え続ける。
「努力もせず、成果だけ望んだ……そうだな、これは当然の結果だ……」
 なぜお前が自分を責めるのか。お前は騙されただけで、騙したのはあの男なのに、なぜお前が後悔しているのか。
 騙されたことを詰るならわかる。騙された愚かさを自嘲するならわかる。
 騙されたことではなく、騙されないと思っていた自分を叱るのは、わからない。わかりたくもない。
「ランサー」
 バゼットの右手が、頬を撫でる。その手の震えに、怒りを感じる。
「なんだ?」
 優しく、言おうとした。出てきた声は、いつも通りだった。
 優しくしてやればいいじゃないかと思う反面、バゼットは優しくされたいわけじゃないと思った。どうすればいいのかわからなくて、結局いつも通りになってしまった。
「令呪はあいつが持っていった……あいつがお前のマスターだ」
 あいつ、とやらが、バゼットの左腕を拾って近づいてくる言峰のことなのはわかった。それ以外には誰もいないはずなのに、それだけのことを理解するのに酷く時間がかかった。
 バゼットが馬鹿なことを言うからだ。自分を殺そうとしている相手を、なぜいまさら。
「……馬鹿なこと言うなよ。俺のマスターはお前だ」
 せっかく、いい女のために戦えると思ったのに。マスターとサーヴァントとしてではなく、対等な人間として、対等な個人として扱ってもらえると思ったのに。
 それじゃあ、俺はまた英雄に逆戻りだ。英雄が嫌なわけじゃない……それでも、ただの人間になりたかったことだって、ある。
「いいんだ……私はここで死ぬ。令呪を奪われた以上、お前はもう私のサーヴァントじゃない。……だから、いいんだ」
 何がいいものか。お前はそれで納得できるのかもしれないが、俺は何一つ納得できない。満足もできない。
 お前が満たされて死ぬのは悪くない。俺の力が及ばずにこんなことになっているが、それでもお前が俺を責めるでもなく、満足できているのなら、それは悪いことじゃない。
 俺の至らなさを責めるには、俺一人がいれば十分だ。だけど、だけどこれは。
 お前は、こんなところで、こんなタイミングで死んでいいわけがない。
「…………………っっ!!!」
「気丈だな。気絶していれば、少しは楽だったものを」
 近づいてきた言峰に傷口を抉られて、バゼットの体が跳ねる。言峰を殴りつけてやりたくても、バゼットを抱えている限りそれはできない。
 バゼットの復讐をすることよりも、バゼットを抱きかかえることを重視するような俺は、サーヴァント失格なのかもしれない。
「かといって、手当てをしなければ、いずれ死ぬ。そのまま死ぬ気か?」
「……自分でやっておいて……それに、生かす気もないんだろう? お前がマスターになったことを知る私は……邪魔だろうしな」
「その通りだな。確かに、私はお前を殺さなければならない」
 バゼットは、俺に触れていた手を言峰に伸ばした。
 言峰は、それを拒絶するでもなく、されるがままになっている。
「誰でもよかったわけではない。お前を……お前だから呼んだのだ、と言ったら信じるか?」
 バゼットの体が小さく揺れた。ただそれだけのことで、バゼットが言峰のことを心底好いていたことを知る。
 それは酷く不愉快な感情だった。
「お前を殺したかったわけではない。だが、必要だから殺す」
 ぬけぬけと。死に逝くものへの鎮魂だというのなら、それはあまりにも悪趣味にすぎた。
「止めが欲しいならくれてやろう。私もそこまで残酷ではない」
 ここまでやっておいて、なにをいまさら。
 だが、バゼットの行動は予想外だった。
 どこにそんな力があったのか、言峰の腕を掴んで引き寄せて、キスをした。
 たった、それだけ。それでもう、バゼットは気絶してしまった。
 お前はやっぱり、バカ野郎だ。
「話がある」
 表情を変えずに血のついた唇を拭った言峰に話し掛ける。
「こちらもだ」
 言峰の話など聞かずに言葉を重ねる。
「貴様の話はどうでもいい。主替えには同意してやる。だが、バゼットを殺すのは許さねえ」
「だが、そのままでは死ぬぞ?」
 言われずともわかっている。
「聞こえなかったのか? 俺は、死なすなっつったんだ。てめぇは四の五の言わず、バゼットを生かせばいい。そうすりゃ、俺は貴様の犬にでもなんにでもなってやるさ」
「ふむ。従わなければ殺されそうだな。これでは、どちらがマスターなのかわからない」
「うるせぇよ。どうすんだ? 主替えを強制する間で貴様を殺すこともできるんだぞ?」
 言峰の皮肉は無視する。ともかく、バゼットの状態が一刻を争うものなのはわかっていた。
 すでに槍はこの手にある。バゼットを抱えながらも、右手の槍は言峰の心臓に狙いをつけていた。
「おかしなサーヴァントだな。サーヴァントにしてみれば、マスターなど、所詮は現世に留まるための契約者に過ぎないと思っていたが」
 そんなだから、お前にはわからないのだ。バゼットの気持ちも、俺の気持ちも、なにもかも。
 だから……やはり、お前はバカだったんだよ、バゼット。
「選択肢は二つだ。やるか、やらないか。いますぐ決めろ」
「やらなければ、私は殺される。そういうのは、選択肢とは言わない」
 言峰が顔をしかめる。流石に不愉快に思ったようだ。
 なにしろ、これは脅迫なのだから。
 バゼットを生かすためなら、それぐらいはする。なぜかと言われても、わからない。好きだからという理由では納得できないほどに、それは強い衝動だった。
「よかろう。令呪を使わずにできることに令呪を使う理由もない」
「ふん。契約成立だな」
 これはこれで、主を売り渡したサーヴァントということになるんだろうか?
 そんなどうでもいいことを考えていた。

 居たたまれなくなって、一度閉じた扉を再び押し開けた。
 バゼットは驚いている。それはそうだろう。いままでこんなことをしたことはない。
「一つ言っておく」
 つかつかと歩み寄る。
「俺は、お前は俺を信じちゃいないと言った。だがきっと、俺もお前を信じていない。いまさらだがな。俺は……お前のことをどうでもいいとすら思っている」
 ベッドサイドまで来て……勢いでこんなことをしたわりに、それ以上どうすればいいのか、なにも思いつかなかった。
 ので、とりあえず頭を下げた。他にどうすればいいのか思いつかなかった。
「すまん。偉そうなことを言っているわりに、どうも俺はダメだな。……結局、お前を守ることすらできてないってのに」
 謝罪しているというのに、それでも偉そうな言い方だな、と我ながら思う。
 それが自分なんだからしょうがない。偉ぶっているつもりはないが、そう取られてしまう。
 わかっているが……だからなんだ、としか思えない。他人のために動いているわけでも喋っているわけでもない。俺は俺のために考え、動いている。
 それがバゼットを傷つけてしまったのなら、それは謝る必要がある。傷つけたくてそんなことをしているわけではないのだから。
「お前が……なぜ、謝るんだ?」
 頭を上げた。バゼットはきょとんとしていた。
 可愛いじゃないか。
「お前を傷つけた。それ以上の理由が必要か?」
 それ以外に、頭を下げる理由はない。
「お前をこんな目に合わせたのは、確かに俺だ。こんな部屋に閉じ込めて、頭がぶっ壊れるような目に合わせてる。あの時死んでりゃあ、確かにこんな目には合わなかっただろうさ」
 俺がクソ神父と取り引きしたせいで、バゼットはこの白一色の部屋に閉じ込められている。調度など一切なく、部屋の中央にぽつんとベッドが置かれ、明かりと天井の区別すらつかない。扉だけが黒く、アクセントのように機能しそうなものだが、その一点に意識を集中させるだけの役しか果たしていない。
 バゼットは、何度もあの扉に襲われる夢を見たという。扉に襲われるなど、馬鹿げているとしか言えない……しかし、そう語ったバゼットは、本気でそれに怯えていた。扉に襲われると、本気で信じていたのだ。
 そして、詰られた。生きているのはお前のせいだと。こんな苦しい目にあっているのはお前のせいだと。
 俺になにが言えただろう。確かにそれは俺の我儘だった。バゼットはあの時、きっと満足して死ねた。俺がなにもしなければ、言峰に殺されることができた。
 そんなものは認められなかった。我慢ならなかった。バゼットの願いも望みも何一つ叶っていないのに、満足して死んでいくなんて許せなかった。
 もっと望んだっていいはずだ。もっと願ったっていいはずだ。もっと手に入れたっていいはずだ。
 バゼットには、その権利がある。いや、誰にだってあるはずなのに、バゼットはそれを放棄していた。自分にもそれがあると、気付いていなかった。
 だったら、俺が気付かせてやると思った。バゼットが嫌がろうと、俺はそれを教えてやらなきゃいけないと思った。
 聖杯なんて、所詮は道具だ。道具だが、それでもそれは、誰かを幸せにできる道具だ。誰かを幸せにするための道具だ。
 そのはずだ。そのために誰もがそれを望むんだから。
 例えそれの真実がどうあれ、それはそういう形を持っていなければならない。でなければあまりにも滑稽だ。
 バゼットだって、そのために聖杯を望んでいたはずなのに。バゼットは、そんなものは望んでいないと気付いてしまった。
 殺されかけても好きなのだと。例え殺されても好きなのだと。
 こんなところに閉じ込めている言峰ではなく、バゼットを助けた俺を憎むほどに言峰を愛しているのだと。俺にだって、わかってしまった。
 だったら……俺の気持ちは何一つバゼットに届かないとしても、それでも俺は、俺を貫くしかない。
 報われないのはわかっている。いまさら報われたいとも思わない。
 そういうところが、ひどく似ている気がした。
「なあ……お前はそんなに、生きてるのが辛いのか……?」
 そっと、バゼットの頬に手を伸ばす。手触りのいい髪に触れ、滑らかな肌に手を滑らし、静かに手を添える。
「俺は……俺は、お前のためならもう一度生きてもいいと思ったのに」
 聖杯を手に入れれば、それが叶うという。もう一度、人間として。英雄としてではなく、人として。
 そのためには、目的が必要だ。それはなんでもいい。どんなものだったとしても、なにか一つは目的がなければ、わざわざそんなものを望む理由はない。
 すでに一度は死んだことのある身だ。生きるということがどういうことなのか、嫌というほどわかっている。
 どれほどの苦難が待ち構えていようとも、バゼットと二人なら。そう、思った。
「私は……」
 陰りを見せて、俯く。……それでもう、わかってしまった。
「……私は」
 そっと、言いかけたバゼットの唇に人差し指を押し当て、微笑む。
「そうだな。……すまん、お前を困らせるつもりはなかったんだ」
 眉を寄せて、悲しそうな顔をされてしまった。それ以上、なにが言えただろう。
 それ以上、なにが聞けただろう。答えのわかっている問いを仕掛けたのは自分だ。わかっていて……その答えを、恐れた。
 臆病なのは俺だ。バゼットをどうこういえた義理じゃない。
「もっと気軽に、な。俺でよけりゃ、いくらでも話ぐらいは聞いてやるさ」
 話を聞くぐらいしか、できないから、とは言えなかった。
 例え俺がどう思っていようとも、クソ神父との約定で、俺はバゼットをここに監禁しなければならない。
 だったらなんだ。俺のやってることはなんなんだ。
 堪えきれず、キスをする。だからどうというわけでもない。本当にそんなことがしたかったのかもわからない。
 ただ、逃げたかった。この場から、いますぐに。
「ばっ」
 バゼットは顔を真っ赤にして身を引いた。
「ばかものっ!!?? いきなりなにをするっ!!」
「はっはっは。いや、なに、お礼だよ、お礼。お前を助けてやったお礼をもらっただけさ」
 軽口を叩いて、背を向けた。投げつけられた枕が後頭部にあたる。
「なにがお礼だっ!!!」
 まったく、バゼットの言う通りだ。なにがお礼なんだか。
 俺は結局……俺の都合で、バゼットを振り回しているだけだ。
「次来るまでには、もすこし元気になってて欲しいもんだな?」
 後ろ手に手を振りながら、扉を潜る。
 天井を見上げて、溜め息を吐き。
 そして、歩き始めた。

 自分が死んだことにさせられていることに不満はなかった。
 それをバゼットにまで秘すというのは、意味があるのだろうかとも思ったが、クソ神父はこうと決めたら決してそれを違えない。生真面目な野郎だ。
 なんにせよ、そうしなければ、バゼットを解放することは出来ない、などと言われてしまっては、俺に拒否権があるはずもなかった。
 だから、こうしてアーチャーの野郎の牽制をしているのだって、クソ神父の計算の内なんだろうとは思ったが、いまこの決戦のために死んだふりをさせられていたんだから、あえてそれを違える気はなかった。
 それに、こいつとは決着をつけてやらなきゃならないと思っていたし。
「なんだかなあ。気に入らないんだよ、てめーは」
 槍を構えながら、両手に剣を携えたアーチャーに毒づく。
「お嬢ちゃんを守る? そんなことができると思ってんのか?」
「出来るとも。私に出来なければ、他の誰にも出来はしない。だからこそ、私には出来る」
 ぬけぬけと抜かしやがる。こういうところは、嫌いではないんだが。
「だがな、俺らにゃ出来ないことがある。そんぐらいわかってんだろ? それでも守るってのか?」
「……いまさら、言われるまでもない」
 吐き捨てるように言い放ち、双剣を構える。
 わかっていながら、指摘されると頭に来るらしい。自分で言いながら自分にもむかついてしまったんだから、それはわりと致命的だ。
 俺たちの役割は、召喚されているあいだの守護だ。そして、聖杯を手に入れた後は、サーヴァントではいられない。
 聖杯を手に入れ、ただの人間になってしまえば、ただの人間としてしか守れない。それは、あまりにも……あまりにも、無力だ。
 マスターは魔術師なのに、サーヴァントは人間になってしまう。多少、魔術の知識なり、技術なりは残るだろう……だが、それだけだ。それを支える魔力が人間並みになってしまったのでは意味がない。
 そういう意味では……キャスターのやろうとしたことも、気持ちはわかる。
「ふん。わかっててこれか。貴様も俺と同じだな。自分の都合のいいように守ろうとしてやがる」
 言いながら、なにに触発されたわけでもなく……いや、己の言葉に激されて、駆け出していた。
 わかっている。わかっているとも。
 口でなんと言おうとも……これは結局、俺の戦いなんだということは。

 止めの一撃、となるはずだった。ゲイボルグを連発し、アーチャーを消耗させ、無理矢理隙を作れば俺が勝てると、そういう計算だった。
 だったというのに……視界の片隅にバゼットを認めた瞬間、動きがわずかに鈍ってしまった。
 それは、致命的な瞬間。ただ一方的に始末されるはずだったアーチャーに、必殺の一撃を放たせてしまうほどに。
 槍は狙い違わずアーチャーの心臓を貫き……アーチャーの放った弓は、狙い違わず俺の心臓を貫いた。

 アーチャーは、よろめきながらどこかへ姿を消した。お嬢ちゃんの所にでも向かったんだろう。あの一撃は、確実に致命傷だった。それでも……座して死を待つ気にはなれなかったんだろう。
 もっともそれは、俺も同じこと、か。
「……バカだな。なにやってんだお前」
 心臓に大穴が開いているのはわかっていた。英霊だからだろうか、それでも死にそうなほど苦しく痛いだけで、死ぬことはないようだ。
 駆け寄ってくるバゼットに微笑んで見せながら、槍をしまう。こんな……柳洞寺だかいう寺の地下に広がる洞窟に来て、いまさらなにをしようというのか。
「バカはお前だ!? なんだその大怪我は!」
「おいおい、怪我しただけで怒られなきゃならんのか?」
 おどけて言いながら、いまにも抱き着いてきそうなバゼットを押し留める。せっかく綺麗な格好……初めて会った時のような男装姿だが……をしているのに、汚すのは悪い気がした。
「こんなとこまで何しに来たんだ? いまさら聖杯が欲しいわけでもないんだろう?」
 膝から力が抜ける。不味いな、と思いながら、なるべく不自然にならないように地面に座る。
 バゼットも、少しの間立ち尽くしていたが、結局は地面に腰を降ろした。
「言峰を止めに来た」
 なるほど。そうすることにしたのか。
 それはいい。とてもバゼットらしい。いい女ってのは、こうでなくちゃいけない。
 それがどれほど無茶だと承知していても、そうせずにはいられないことをする。普通に考えれば、そんなことをしてもなんにもならないとわかる。わかるのに、わかった上で、そんなどうしようもないことをしてしまう。
 そういう女がいい。そういう女が好きだ。
 そういう女ならきっと、俺がどこにいたって駆けつけてくれるに違いないから。
「そんなことはどうでもいい。私はお前は死んだと思っていたのに。なぜ生きてるんだ?」
「……ひでぇなぁ、その言い方。そんなの、クソ神父の作戦に決まってんじゃねえか。もっとも、あいつがどこまで計算してたかは知らんけど」
 少なくとも、バゼットがここに来るとは思っていなかっただろう。バゼットの姿を見れば、さすがのあの男も驚くに違いない。
 あの野郎の驚く顔が見られないのが残念だ。
「どうせなら、逃げてくれりゃ良かったのに。思わずびっくりしてやられちまったじゃねぇか」
「……すまん」
 バゼットは、叱られた子犬のように、しゅんと項垂れる。
 なぜだろう。死ぬほど苦しいし、もうすぐ死ぬのがわかっているのに、気分は悪くなかった。
「挙句、クソ神父を止めに、だもんなあ。俺の立場がないだろーが、それじゃあ」
「……返す言葉もない」
「……くっ。くっくっくっ……はっはっは! なーにしんみりしてんだよ! らしくねえ! いんだよ、お前が気にするこっちゃねえじゃねえか! お前は俺が生きてるなんて知らなかったし、俺はお前がここに来るなんて思ってなかった。それだけのことだろ?」
 俺のためにここに来たんじゃなかったとしても、いまここにいるのは俺のためだとわかっているから、だからそれだけでもう、十分だ。それ以上を望むのは、高望みというものだ。
 俺はきっと、これのために戦ってきたのだ。こんな些細な一瞬のために。
 だから、笑える。笑って死ねる。
 笑いながら死にたいと思える。それで、いい。
「……いいんだよ。遅かれ早かれ、こうなるのはわかってたんだ。お前が気にする必要なんて、ないんだ」
 泣きそうなバゼットを抱き寄せて、頭を撫でてやる。慰められたいのは俺のほうだと思いながら、結局汚しちまったなあと考えていた。
「サーヴァントに慰めさせんなよなぁ。マスターだろ?」
「まだ、私を……マスターと、呼んでくれるのか?」
「まだもなにも。俺のマスターはお前だけだって言ってんじゃねえか」
「だが、私は……」
「お前のためでなきゃ、なんのために俺は死ぬんだ? クソ神父のためか? それもぞっとしねえなあ」
 どうせ死ぬなら、女のために死ぬのがいい。前からそう思っていた。そして、そうなろうとしている。それでいいじゃないか。
「俺は死ぬが、お前は生きている。サーヴァントの役目はきっちり果たしただろ?」
「……だからお前は、バカだと言うのだ」
 サーヴァントの役目などどうでもいいではないか、とバゼットは苦笑を零した。
 そうだ。それでいい。お前の悲しんでいる顔を見ながら死んだんじゃ、死んでも死に切れない。
「お前には、貧乏くじを引かせてしまったな」
「ん? 何がだ?」
「召喚したのが私でなければ、お前は聖杯を手に入れられていたかもしれない」
 それは、バゼットなりに、精一杯俺を評価してくれたということなんだろう。
 やけに照れ臭かった。
 そして、聖杯がなんなのか、いまだに知らないバゼットは……やはり、聖杯戦争を戦うことはできなかったし、その必要もなかったということだろう。
「聖杯なんざいらねぇよ。お前のサーヴァントやってりゃ、俺はそれでよかったのさ」
 本当に。単純に。純粋に。
 それだけでよかった。
「お前も、言峰になんかこだわってないで、さっさと帰りゃ良かったのに」
「私の勝手だ。私は……私は、もう逃げないと決めたのだ」
「そうか。決めたか。そいつあ……よかった」
 おそらくはそれが、それこそが、バゼットの今回始めての決断なんだろう。
 言峰に頼まれて聖杯戦争に参加した。俺の勝手で生かされた。
 そうしていま、自分の意志で言峰と対峙しようとしている。なるほど、確かにそれはバゼットの勝手だし……そうであるなら、俺が止める理由も諌める理由もない。
 やるだけやればいい。後悔しながら生きるよりは、後悔を残さずに死んだほうが上等だ。
 やるだけやったって、死ぬとは限らないんだから。
 突き放すようにバゼットを立ち上がらせる。これ以上は、まずい。
「頑張れよ。あいつは今ごろ、セイバーのマスターと戦ってるはずだ」
 そして言峰は、あの小僧には勝てないだろう。根拠はないが、なんとなくそう思った。
 あの小僧の真っ直ぐさは、言峰の生真面目さとよく似ている。発揮される方向性が違うだけで、きっとそれは同質だ。
 だったら、正しいほうが勝つだろう。それが世の中ってもんだ。
 そうでなきゃいけない。だから、あの小僧は勝たなければならない。
 まあ、ここで死ぬ自分にはその結末を見届けることはできないが。少しぐらい、世界だって正しいことが好きなんだと思っていたかった。
「あいつのことを救ってやろうなんて考えてるバカは、もうお前ぐらいしかいない。……だったら、お前が救ってやれ」
 お前にしか、それはできないんだから。
 他の誰でもなく、ただ言峰のことだけを考え続けたお前だからこそ、あんな奴でも救えるだろう。
 俺はもう、バゼットを助けてやることもできないが。バゼットなら、やり遂げるに決まっている。
「私は……」
 それでもバゼットは躊躇して、立ち止まっていた。
 死ぬところなんざ見られたくないってのに。それぐらい、察してくれないものか。
「……私は、お前のマスターで良かったと思っているよ」
 しゃがみこんだバゼットは、俺の頬に唇を押し付けるだけのキスをした。
 それで未練を断ち切ったのか、後は振り返らずに駆けていった。
 そうだな。きっと、こんな死に方なら悪くない。
 何一つ、望むことのない戦いばかりだったが……
 それでも守れたものがあったのだと、そう思いながら、地面に寝転がった。