ありのままの君でいて



 ぼうっと、椅子に座っている。
 仕事と仕事の合間に訪れる、無為な一時。そういったものが、なによりも好きだった。
 なにもしなくてもいいだなんて。なにもしなくても、誰も怒らないだなんて。
 なんて、素敵な、時間。
「姉さん、巡回は終わりました」
 そう言いながら翡翠ちゃんが台所に戻ってくるまで、自分で入れたお茶を手に、私は一人の時間を満喫していた。
「そう。お疲れ様」
 遠野家の台所は、広い。なにしろ、食卓がある。食堂は食堂できちんとあるが、そこはそれ、主人と使用人が同じ卓で同じ料理を囲うわけにはいかないという理由から、使用人用の食卓が、台所にあるわけだ。
 少し前までは、私と翡翠ちゃん以外の使用人もいたから、たとえここでも、一人きりになれる時間はそうそうなかったけれど、つい最近、私たち以外の使用人には暇が出されたので、いまではここには私と翡翠ちゃんしか来ることがない。
 わけでもないけれど。まあ、一人になる時間が増えたというのは事実だ。
「翡翠ちゃんも、お茶でもどう?」
「いただきます」
 二人きりになっても、翡翠ちゃんの敬語は変わらない。二人きりの姉妹なのにな、と寂しくなることもあるけれど、翡翠ちゃんらしいと思って納得してしまうことのほうが多い。
 私は私で、あまり使用人らしくない言葉遣いをしているから。それが、双子である二人を分かつもののひとつなのだ。
「いつもより時間がかかってたみたいだけど?」
 お湯を沸かすために台所に立ちながら、なんとなくそんなことを聞いてみる。
 理由は聞かなくてもわかってる。ちょっとした意地悪と、ちょっとした現実確認でしかない。
「志貴様と、その……会話が、弾んでしまいました」
 少し赤くなりながら、顔を伏せているんだろうな、と思う。翡翠ちゃんはこういうとき、意外と感情を隠したりしない。
 そういうのが苦手だから、というのも当然あるんだろうけど。
 こういうとき、翡翠ちゃんがちょっと羨ましくなる。
「翡翠ちゃんは志貴さんが大好きだもんねー」
「ね、姉さん」
 嫌味でもなんでもなく、そう思う。
 翡翠ちゃんは昔から、それこそ志貴さんがこの屋敷を出される前から、ずっとずっと、志貴さんが好きだった。
 だから、志貴さんが帰ってきて、翡翠ちゃんと仲良くなってくれて、本当によかったと思う。
 翡翠ちゃんが前よりも明るくなって、本当にうれしいと思う。
 翡翠ちゃんこそが本当は、誰よりも明るく元気な子だったんだから。
 変えてしまったのは、私だけれど。
「照れなくてもいいんじゃない? 人を好きになるのは、いいことでしょ?」
「それは、そうですけど……」
 翡翠ちゃんが言いたいのは、こだわっていることは、そういうことではない。
 私は、それもわかっていながら、そんなことを言ってみる。さも私がそれを気にしてなんていないように振舞う。
 そうしなければ、翡翠ちゃんは遠慮を感じてしまうから。いまのように。
 それじゃあ、ダメなのだ。そんなものは、必要ないのだ。
「志貴さんだって、まんざらでもないみたいだし。遠慮ばっかりしてたら、秋葉様に取られちゃうよ?」
 それはそれで、やぶさかではないのだけれど。翡翠ちゃんを応援するよりは少し弱いぐらいの気持ちで、秋葉様を応援してあげたいと思っている。
 でもそれは、翡翠ちゃんの望みと秋葉様の望みがぶつからなければ、の話だ。私の中の優先順位は、いつだって主人である秋葉様ではなく、妹である翡翠ちゃんが一番なんだから。
 本当は甘えたいと思っているのに、素直にそうすることができないあたり、二人とも、似ていると言えば似ているのかもしれない。理由は全然、違うようだけれど。
「それならそれで、いいのだと思います」
 意外と真剣に、翡翠ちゃんは肯定した。
「そんな簡単に諦められちゃうんだ?」
「諦める、のとは違うと思います。とても、似ているようにも感じますが……でも、私は、それならそれでいいと、思います」
 不思議なことを言うなぁ、と思う。翡翠ちゃんは優しすぎるから、しょうがないか、とも思う。
 自分よりも、他人を優先する……いや、優先とも、少し違う。
 人よりも、自分が劣っていると感じているような。だから、他人を優先してしまうような。そんな、感じだろうか。
「諦める、という意味で言うのなら、姉さんこそ、諦めたのではないですか?」
「私? 私がなにを?」
「シキ様のことです」
 同じ名前だし、発音がそれほど違うわけでもないのに、それが志貴さんではなく、シキのことを指しているのは、すんなりと理解できた。
 知られていたのか、と思う。思いつつ、いまさらそんなことを言われても、と思った。
「姉さんは、昔、彼のことが好きだったのではないのですか?」
「うーん」
 難しい質問だなぁ、と天を仰ぐ。
 好きだったかもしれない、となら答えられる。遠いあの頃、私はいつも遠巻きに、彼を、そして彼らを眺めていた。
 傍目には、とても仲のいい三人だった。まだ幼い頃の、秋葉様と、志貴さんと、シキは。
 壊れたのは……その関係を壊したのは、シキだったけれど。それはきっと、なるべくしてなったことだったんだろうと、後になって思ったものだ。
 反転。遠野家の、血。そういったものの存在を知った時、シキはきっと、志貴さんを殺さずにはいられなかったんだろう、という気持ちは、素直に納得できた。
 彼はずっと、秋葉様が好きだった。それこそ、自分が壊れてしまうぐらい、秋葉様が好きだった。
 でもきっと、志貴さんのことも好きだったのだ。だからこそ、反転した時に、志貴さんを殺した。
 好きだったからこそ、許せないこともあると思う。好きだったからこそ、殺さなければならなことも、あると思う。
 そういう壊れた部分が、とても自分と似ていると思った。それは、後付けの理由になるのかもしれないけれど、でもきっと、彼を好きだった理由は、そんなようなものだ。
 自分が、壊れていたから。いや、壊されたから。壊れたものしか、認められなくなったとか。そうは、思いたくない。
 だから、素直に頷けなかった。それを認めたくはなかったから。
「選択肢の一つだった、とは思うけど。あまりにも昔すぎて、よくわからない、かな」
 はっきりしない。あの頃の、あんなにも幼かった頃の気持ちなど。
 感情すらろくに分化していなかったあの頃。好きも嫌いも区別のつかなかったあの頃。
 そして、そんな私を打ち壊した、暴力があった。
 あの頃からもう、私は区別がつかなくなっていた。好きも、嫌いも、怖いも、憎いも。
「私は。……私は、志貴様が秋葉様を選ぶのなら、それでいいのだと思います。だから、秋葉様と志貴様が、その……恋仲になっても、私は、後悔はしません。志貴様が秋葉様を選ぶのなら、きっと私は、秋葉様を選ぶ志貴様が好きなんです」
 喋りながら言葉を捜すように、一言一句、噛み締めるように話す。翡翠ちゃんが、この手の話題に積極的になったことはいままでなかった。
 とすれば、どんな心境の変化だろうか。
「自分は振り向かれなくても?」
「人を好きになるということは、人に好きになってもらおうとすることではないと思います。それは、とてもよく似ているとは思いますが、それを間違えたら、私のこの気持ちも、歪んでしまうような気がして」
 綺麗な言葉だ。綺麗すぎる言葉だ。
 今の私には、その言葉は眩しすぎて、痛すぎる。
 私は、それを間違えたから。シキのことが好きで……だからきっと、槙久様の命令とはいえ、シキを生かすために彼に抱かれたのだと思うけれど、私を抱いても、シキは私のことなんて見てくれなかったから。
 私が、彼を壊した。私にそんなことを命じた槙久様を、殺した。
 壊してしまってから、気づいた。私が壊したものは、私が大事にしていたもので、それを壊してしまった私には、もうなにもないことに。
 だから、殺そうと思った。秋葉様も、志貴さんも殺して、すべてをなかったことにしたくて。
 結局、その試みは失敗に終わったけれど。しかも、それが秋葉様に露見する形で。
「でも、翡翠ちゃんはそれで耐えられるの?」
 私なら、耐えられない。耐えられるようなら、殺しはしなかった。
 槙久様を殺し、結果的には、シキも殺した。槙久様は私を飼いならしたつもりだったかもしれないが、私はいつだって、そのチャンスを狙っていたのだ。
 まあ、槙久様に関しては、自滅の要素が濃いけれど。遠野家の血がもたらした精神分裂は、どんな力を持っていたとしても、いや、持っているからこそ、抑えられるものではない。
 遠からず、血族に抹殺されることになっただろう。そんなつまらない結果にさせないために、私が殺した。
 ……私が憎んでいたのは、真実殺したいほど憎んでいたのは、あの男だけだ。
「耐えられないかもしれません。でも私には、姉さんがいるから」
 辛くて、辛すぎて、どうしようもなくて、微笑んでしまうことがある。
 翡翠ちゃんの微笑みは、まさしくそれで。私はなにも言えずに、微笑みを返すことしかできなかった。
 私も、そうだ。耐え切れないほど辛いことも、あったけど。それでもいま、こうして微笑むことができるのは、翡翠ちゃんがいるから。翡翠ちゃんが微笑んでくれるから。
 だから私は、正気を保っていられる。多少壊れたところがあったとしても、正気の原型を保つことができている。
 私たちは、双子で。お互いがいれば、それがすべてで。それさえあれば何も怖くないほど、強い絆で結ばれている。
 悲しいことは、二人で半分。嬉しいことは、二人で二倍。そんな子供じみた理想的な関係が、ここにはある。
「でもね、翡翠ちゃん……」
「なんですか?」
 言いかけて、言い淀む。自分からそれを切り出すのは、いまさらながら躊躇われた。
 それは、とても自虐的なセリフで。自分で自分を切り刻むのにも似ていたから。
「私が、されていたこと。翡翠ちゃんは、気にしなくていいんだよ?」
 声が震えたような気がした。そんな判断もつかないほど、心臓の鼓動が強かった。
 翡翠ちゃんが、志貴さんに対して遠慮する理由は、別に秋葉様のせいではない。それがないとは言わないけれど、それが大きいとは到底思えない。
 翡翠ちゃんが、男性恐怖症になった、そもそもの原因が、ある。その原因自体は、いまだ解消されず……そして永遠に解消されることは、ない。
「……でも、姉さん」
 躊躇い、言葉を濁し、翡翠ちゃんはうろたえながら、私を伺うような視線を向ける。
「でも、姉さん」
 もう一度、繰り返す。それ以外の言葉を忘れてしまったかのように。
「あのね、翡翠ちゃん」
 ずっとずっと、言おうと思っていたことがある。
 ずっとずっと、言わないでおこうと思っていたことがある。
 言うべきなのか、言わないべきなのか、いまだに判断はつかないけれど。
 言えるタイミングは、いまこの時しかないだろうと思った。
「私はね、確かに槙久様に、力尽くで犯されたけれど。それでも、心のどこかで、ずっと思ってた。こんな酷い目にあうのが翡翠ちゃんじゃなくてよかったって、本気で思った。私がそうされることで翡翠ちゃんが傷つかないで済むなら、それでいいかな、って思ってた。……だからね、翡翠ちゃん。泣かないで……?」
 しとしとと降る、雨のように。音もなく、激しくもなく、ただ静かに降り積もる雪のように、涙を零す。
 翡翠ちゃんは、まるでにらむように目を見張り、涙を流しながらも私を見つめていた。
「私は……私は、姉さんにそこまで想われる価値なんて、ありません……」
 その涙が、辛くて。泣かしてしまうことはわかって言ったのに、それでもその涙には、耐え切れなくて。
 私は席を立ち、そっと、翡翠ちゃんを抱きしめた。
「価値、なんて」
 そんなことを言い出したら、キリがない。
 私には、では、槙久様に犯される価値があったのか。シキに犯される価値があったのか。
 自らの意志とは関係のない次元で、この体の自由を決定するものが、本当に価値だというのか。
 もし真実、価値というものがそういうものなら、そんなものには、ふざけるなと言いたい。
 私を決めるものが、私の自由を奪うだなんて。そんなものは、いらない。
「でも、私は! ……私は、知っていました。姉さんが槙久様になにをされているのか、ずっとずっと、知っていました」
 最初は理解できなかったけれど、とも、翡翠ちゃんは語った。
「それは、姉さんにとって苦痛でしかなくてっ。姉さんの心を打ち砕くほどの、苦痛でしかなくてっ。そういうものであることを知っていたのに、それでも私は、心のどこかで、ほっとしていたんですっ……そんな酷い目に会わなくてよかったって!」
 翡翠ちゃんは、それを罪だと感じている。翡翠ちゃんは、それはなによりも許されがたいことだと感じている。
 それならそれで、いいんじゃないかな、とも思う。
 翡翠ちゃんがもし、単純に自分の保身だけを計って、ただそれだけで安心していたのなら、違ったかもしれない。私に辛いことを全部押し付けたと思って、憎んだかもしれない。
 でも、翡翠ちゃんは、そうじゃないから。それでも、それでもなお、私のことを思ってくれたから。
 あれだけ許したのに、シキですら望まなかった私を、望んでくれたから。
 それはもう、完璧なまでに絶対な、免罪符だ。
「私は……私は姉さんに守られる価値なんてないっ……! 卑怯で、ずるくて、自分のことしか考えてない、どうしようもないやつなんですっ……!」
 そこまで自分のことを追い込まなくてもいいのに、と思う。そこまで純粋に優しくなくてもいいのに、と思う。
 とても、可愛いなあと、思う。翡翠ちゃんのためなら、例え死んだってかまわないほどに。
 同時に、絶対に死ねないとも思う。そんな翡翠ちゃんを守れるのは、自分だけだから。
 でも、ここまで根深くなったものは、いかんともしがたい。
 さて、どうしようか。
「じゃあ……翡翠ちゃんは、私のことなんて、嫌いなんだ……?」
 翡翠ちゃんを抱きしめていた手を離し、背を向ける。
「……! そんなっ……」
「翡翠ちゃんもやっぱり、私なんて穢れてるって……思ってるんだ……?」
「そんなわけないですっ! ただ、ただ私はずっと……っ!」
 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、翡翠ちゃんが抱きついてきた。
「私はずっと、姉さんに恨まれてるんじゃないかってっ。憎まれてるんじゃないかってっ。そう思って……っ!」
 怖かったんです、と翡翠ちゃんは嗚咽した。他の誰よりも、私に嫌われることが怖かったと、翡翠ちゃんは涙した。
 私を抱きしめる、その震える手にそっと手を添えて、私は目を閉じ、我知らず、微笑んでいた。
「自分のことを嫌いな人は、他人を好きになることなんてできないって……私はね、あれってホントだと、思うの」
 ゆっくりと、語る。噛み締めるように、噛み砕くように、一言一句間違えることなく、翡翠ちゃんに伝わるように。
「私は、槙久様を恨んだ。憎んだ。怖かったから、私を傷つける人が、傷つけるという行為そのものが、怖かったから。そんなものを与える人を、憎んだ」
 体を、蹂躙されるということ。自分は女ではなく、人間ですらなく、雌として扱われる屈辱。
 男には永遠にわからないだろう。理解を求めたいとも思わない。
「でもね、いまになって振り返ってみて、思うの。あの頃の私は、それだけのために生きていた。憎んで、恨んで、ただただ槙久様を殺すことだけを考えて。そして……」
 殺した。
「でも、なにも得られなかった。なにも残らなかった。その時には私はもう、人を好きになることすら、できなくなっていた」
 それがなんなのか、わからなくなって。人を好きだという気持ちが、それを知ろうとすればするほど、わからなくなって。
 だから、秋葉様を殺そうとしたのは、嫉妬も混じっていたのだ。幼いあの頃、私を助けてくれなかった秋葉様。いまでは、私の憎悪の象徴である遠野家の当主となった、秋葉様。
 でも、志貴さんに関わると、とたんにただの女の子になってしまう秋葉様。羨ましかった。妬ましかった。そんなにも綺麗なままで誰かを好きになるなんて、許せなかった。
 私はもう、身も心も壊れてしまったのに。
 それなのに、なぜ。
「それでも、私がまだこうしていられるのは、翡翠ちゃん、あなたのお陰なのよ?」
 それが、矛盾にも似ていることを私は知っている。
 翡翠ちゃんを助けるために、私はこの身を槙久様に捧げた。ただただ翡翠ちゃんを守るために、翡翠ちゃんの笑顔を守るために。
 翡翠ちゃんは、私が槙久様になにをされたか知っても、それでも、微笑んでくれた。時を過ごすごとに、その回数は減り、感情自体を磨耗させていったかもしれないけれど、それでも私にだけは、微笑んでくれた。
 いつでも、どんな時でも。
 私が望んだ時には、必ず。
 それ以上のものなんて、必要なかった。私にはただ、それだけがあればいい。
「あなたはいつも、いつだって、私を私にしてくれる……私が私を忘れたとしても」
 何度、失ったかわからない。
 何度、立ち戻ったかわからない。
 それでも私は、私は。
 どう足掻いても……いや、足掻きもせずに槙久様を殺した殺意も含めて、それが私だと言うのなら。受け入れざるを得ない。私は、そういう人間だということも。
 殺さなければ殺されていた。そういう予感も、確かにあった。それはしかし、言い訳以上にはならない……免罪符にはなりえない。
 私が殺さなかったとしても、数年の内に秋葉様が遠野家の実権を握っていただろう。それだけ槙久様は衰えていた……予感よりも確かな予感が、私にはあった。
 ただ復讐を願うのであれば、この手を汚す必要はなかった。むしろ、秋葉様にその手で始末をつけさせたほうが、悪趣味ではあるが、趣向としては素晴らしいものになっただろう。
 憎めなかったのが敗因だ。憎みきれなかったのが敗因だ。秋葉様を憎んでいれば、憎しみに徹することができていれば、こんな中途半端な結末にはならなかった。
 それが優しさと呼ばれるのか、あるいは甘さと呼ばれるのか、それはわからない。でも、それが私を人間として規定するならば、それは……
「あなたが私を愛してくれるように、私もあなたを愛してるから。私のことで、自分を責めないで? 私は、あなたを苦しめる存在には……なりたくないから」
 ぎゅっと、一層の力を込めて、翡翠ちゃんはしがみついてくる。
 時間にしてみれば数秒の、だが耐えがたいほどに重い、沈黙が流れた。
 私が言ったのは、ただの理屈にすぎない。あれほどまでに翡翠ちゃんは思い悩んでいたのだから、たかが言葉で、そう簡単に納得ができるわけがない。
 言葉によって、言葉を超えた理念を伝えなければならない。それは、ちょっとした矛盾にも思えるけれど、誰もがそうしている、不思議な方法。
 人の想いを伝えるのは、言葉だけではない。そんな単純な、解なのかもしれないけれど。
「……姉さんは」
「ん?」
「姉さんは、志貴様のことが、好きですか……?」
 心臓を鷲づかみにするような問いだった。
 嫌いですか、と問われたら、嫌いじゃない、と答えられた。
 好きですか、と問われたら、好きじゃない、とは答えられなかった。
 でも、好きだとも、答えられない。それほどはっきりした感情ではなく、好意的で肯定的な感情が漠然とある、ただ、それだけ。
 でも、それよりも、なによりも。
 翡翠ちゃんが、その問いを発したことのほうが驚きだった。
 釘を刺されたのだ。自分は志貴さんのことが好きだけど、もし私も志貴さんのことが好きなら、その時は……
 自分は、諦めるから。秋葉様には譲らなかったとしても、私になら譲るから。
 それが、私の考えすぎなら、それでいい。でも、とてもそうは思えない。背中から抱きつかれているから、顔は見えないけれど、でも、そんなものを見なくても、いま翡翠ちゃんがどんな表情をしてるのかなんて、すぐにわかった。
 泣きたいのを、必死に堪えてる。笑わなくちゃいけないと思って、その準備をしている。
 きっと、ずっと、翡翠ちゃんはそうしようと思っていた。
 私が槙久様に呼ばれたあの日から。
 私は、その気持ちにどう応えればいい?
「もし、好きだって言ったら……どうする?」
 それが、モアベターな回答だと思った。肯定的な、だが肯定はせずに、反問する。
 卑怯な手口である。翡翠ちゃんの望む解、望まぬ解、それらの隙間を縫って、答えないがための答えを返す。
 それでも私には、それ以上の答えは思いつかなかった。
 どう答えたところで、翡翠ちゃんは気に病むのだから。答えないしか、ないじゃないか。
「私は……」
 翡翠ちゃんの手を放し、一つ深呼吸をしてから、振り向いた。
 翡翠ちゃんはなんだか……よくわからない表情をしていた。
「……姉さんが好きなら、仕方がないと思っていました」
 ほら、やっぱり。私がそんなことを欠片も望んでいなかったとしても……そもそも、志貴さんが本当に私を選ぶかもわからないのに。
 それはもう、良し悪しですらなく。そうすると決めていたからそうするというだけの、意地に似たものでしかないけれど。
「……でも、諦めきれそうに、ありません」
 苦笑に似ていた。それは、苦笑に見えた。
 でも、それよりも強いなにかが翡翠ちゃんの表情を彩り、そして私は、それに魅せられた。
 勝てないな、と思う。そして、それこそが私の守りたかったものだな、と思う。
 昔と同じだ。翡翠ちゃんが本来持ってた強さ……それを支える、明るさ。
 ようやく、取り戻してくれたんだな、と思う。それはやっぱり、志貴さんのお陰なのかもしれない。あるいは単純に、槙久様がいなくなったからかもしれない。
 どちらにせよきっと、私と志貴さんは、翡翠ちゃんが心配するような関係にはならないだろう。それだけは確信できた。
 私と志貴さんは、ライバルだ。いま、それが確信できた……それで、いいとも思った。
 しばらく、人を好きにならなくても、いい。こんなにも大切なものがあるんだから。私には、こんなにも得がたいものが、すでにあるんだから。
 翡翠ちゃんが誰かのものになってしまうまで、私は誰も、好きにはならない。
「うん。頑張って。私も応援するから」
 相手が志貴さんなら、心の底から、応援できるから。他の誰でも許せなかったかもしれないけれど、それが志貴さんならもう、応援する以外、ないじゃないか。
 翡翠ちゃんの明るさは、いまも昔も、志貴さんの影響なんだから。私にはもう、お手上げだ。
 だからこそ、翡翠ちゃんを泣かしたりしたら、私が許さない。
「でも、姉さん……」
「私が志貴さんのことを好きだったとしても。……諦めないんでしょ? だったら、いいじゃない。どっちでも」
 はっきりさせないのが、きっと私の唯一の抵抗で。抵抗に意味があるわけでもないけれど、それはきっと、必要なプロセスで。
 私なんて問題にしないぐらい、翡翠ちゃんの気持ちは強いんだから。
 これはきっと、私が翡翠ちゃんから独立するための、手続き。
 向かい合って、両手を組み合わせて、目を閉じて、額を合わせる。
 言葉は、いらない。なにも、いらない。私がなにを思っていても、翡翠ちゃんがなにを思っていても、答えはお互いだけが知っている。
「ええ……はい、そうですね、姉さん」
 私達は、双子だ。どうしようもなく似ている、いや、同じとしか思えない部分が、お互いの心の中にある。
 譲れない一つを、命を賭けて守り抜く。頑固で、意固地で、時にそれに苦しめられることすらあるけれど、それでも私達は、それがなんなのかを知っている。
 だから、生きていこうと思う。いまのまま、変わらずに。
 それが、私達が生きるということだから。
 ありのままの、君でいて。
 ありのままの、私でいて。
 許されるのなら、許される限り、愛しいあなたの、ままでいて。
 この命、果てるまで。この命、尽きるまで。
 あなたを守り続けるから。
「さあ、また、見回りに行かないとねっ」
 さっきのは、施錠のための巡回だ。今度のは、脱走者がいないかを確認するための見回りである。
 それが終わって、一日が終わる。いつもと同じ、他愛無い、掛け替えのない一日が。
「はい、姉さん」
 今日は、巡回は、翡翠ちゃんの当番。見回りは、私の当番。
 どちらにしろ、この時間には志貴さんも秋葉様も寝ているわけがないから、意味がないといえばそうなのかもしれないけれど、それでもそれが、私達の仕事だ。
 なにがあっても、なにもなくても。
 世界のすべてを、私達は知っている。