神は死んだと、彼女は哭いた



 人を殺すことをどう思うか? と、問われた。
「なにをいまさら? 吸血鬼がそれを為すことに躊躇いがあるとでも?」
 私は当然のこととして、そう答えた。
「むしろそれは、私が教えて欲しいぐらいだが? 人を殺す時、お前はなにを考えるんだ?」
 質問者は、そこで首を傾げた。いままでそんなことは考えたこともない、という風情だった。
「天使というのは、天の御使いというものは、人を救うための存在ではないのかね?」
 それは違う、と質問者は答えた。即答であり、断言だった。
「我々の存在意義は、神の御心の実現であり、それは人を前提にしたものではない。神を前提とし、神のために為すことをするが、それは必ずしも人を救わない。大局的な救いとは、また別の話だが」
「個体の生死には囚われず、人類全体の救済を、か?」
「神の御心がそれであるならば」
 人ではないのだな、と思う。天使なのだから当然だが、あまりにも異質な存在なのだということを、いまさらながらに思う。
 神のためなら人を滅ぼすことすらなんとも思わない。そういう、愚直なまでの理性が、こいつらの拠って立つモノなのだろう。
「つまり、お前は人を殺したとしても、その手が血に塗れたとしても、殺してはいないわけだ。人を殺すのは神の意志であり、お前はそれを実現するための手段にすぎず、言ってみれば、剣やら銃やら魔法やら超能力やらと大差ないわけだ」
 究極的なまでに、ただの道具。意志を持つように見えたとしても、それはただのインターフェースに過ぎず、実際的な意志決定を行うことはない。
 まるでプログラムのように、定められた入力に対して絶対的な出力を返す。電気信号と何も変わらない……電気信号それ自体は意味を持たず、それを解釈するものが意味を持たせる。
 だが、それは自分とどこが違うのだろうか?
「お前の意志とはなんだ?」
「そんなものはない。すべては神の御心のままに」
 面白い、と言えばいいのか、つまらない、と言えばいいのか。正直、悩む。
 面白いと思う。自分の意志をもたない人形が、躊躇いもなく人間を殺戮する。神の正義を実現するために、神の正義など微塵も理解せず必要としない人形が、まるで神の如く天罰を下すことが。
 つまらないと思う。何一つ自らの意志で為すこともなく、ただ命じられるがままに動く、命令を解釈することすらない、哀れで滑稽な人形でしかないことが。
 この自分が、吸血鬼である自分が、神の御使いなどに同情しようとしている。それは楽しいことかもしれないが。
「では、ここにいることも神の意志か?」
 吸血鬼の、牙城である。人など近寄りもしない。魔獣どもが徘徊し、生あるものを見つけた瞬間、食欲を満たすために襲い掛かってくるような、そんな場所である。
 そんなところに、こいつは来た。襲い掛かる魔獣共を一つの例外もなく葬り去りながら。
 そして、私の前に立ち、場違いな質問を投げかけてきた。
「……神は、その意を示さなくなって久しい。当然、我々も活動する必要がなくなった。……だが、では、なんだったのかと。そして、なんなのかと。それが、わからなくなった」
「なにがだ?」
「我々の成して来たことの意味であり、神が成そうとしたことの意義が、だ」
 それは、背徳だった。
 こいつは、天使のくせに神を信じてはいないのだ。あれだけの大言壮語を吐きつつ、内心はそれを裏切っていたのだ。
 神の行いを、その結果を見て、初めて理解したのだ。それまで考えもしなかったことに気づいたのだ。
 愚か者め、と嘲笑すべきシーンだったのだろう。だが、そうするには、天使のそれはあまりにも悲愴に過ぎた。
「神が滅ぼせというなら、私は人間を滅ぼしただろう。いや、この地上から生命を消し去れと言われたとしても、断行したに違いない。お前を殺せと言われたなら、嬉々としてそれに従う。だが、神は」
「汝、疑うことなかれ、と神なら言うだろうな」
 そこで、天使は言葉に詰まった。
 最初は、自分を殺しに来たのだと思っていた。普通はそうだろう。天使が吸血鬼に対して用があるとすれば、そんな物騒な用件以外はありえない。
 だが実際には、この天使は自分に教えを乞いに来たのだ。自らで考えることをしなかった人形が、いきなり意志を与えられて戸惑ったが故に。
 ありもしない、過ちを確認するために。
 ほとほと、神は残酷なことがお好きらしいと、唇を嘲笑の形に歪める。自らの手足に自由意志を与えるなど、吸血鬼である自分には考え付きもしない所業だ。
 手足はただ手足であればいいのだ。所詮はすげ替えの効くパーツでしかないのだから、そんなものに意志を与えようとすること自体が間違っている。ある日いきなり自分の手が喋りだし、足が苦悩を訴えだしたとしても、頭はそれを我慢しろとしか言わないし、言えない。それが機能しなくては、自分が困ってしまうのだから。
 それを言ったら、では神はなぜ人間を作り出したのか、ということにもなるが。……その答えは、推測はできるが、あまりにもばかばかしすぎて、まじめに取り上げる気にもならなかった。
「お前は天使らしくない天使だな」
 それが率直な感想だった。おもしろくもなんともない。
「……? どういう意味だ?」
 自覚はないらしい。それはそうか。
 もしこいつがそれを自覚してしまえば、生きてはいられない。天使とはそういう存在だろう。自我、自意識、そういった確固たるものを持ってしまえば、死ぬしかない。
 神以外の確かなものを持つということは、そういうことだ。天使にはそれは許されてはいない。
 大仰に語れるほど、天使を知っているわけでもないが。少なくともこいつは、そういう天使だ。
「まあ、いい。それで? 結局、なにをしに来たんだ?」
 聞いた瞬間、天使は酷く悲しそうな顔をした。まるで迷える子羊のように。
「神を……私は、神に……」
 それは大罪だと、この天使は理解していた。
 神に対して、あなたを信じることができないのですと訴えるなど、至上の罪悪だということを理解していた。
 その通りだ。その通りだろうとも。
 たかが天使の分際で、神を疑おうというのだから。神は迷わず、断罪するに違いない。
 それが恐ろしいわけではないだろう。神の全能を肯定できない自分の存在を、その意義を疑っているのだろう。
 神の設計が完璧であったなら、こいつはそんな想いを抱くことなどなかったのだから。
 矛盾か、あるいはそれもまた、設計の内なのか。
 神は天使が苦悩することすら望んだというのか。
 やはり神なんてものはろくなもんじゃない。
「俺は、お前を神に引き合わせるために、なにができるんだ?」
 少なくとも、神なんてものは生まれてこの方一度も見たことがない。死んだところで会えるとは思わない。言ってみれば、自分のような存在は、神よりもっとも縁遠い存在だ。
 そんな自分に、なにを望むというのだろう。
「お前の命が欲しい」
 天使は迷わずそう答えた。
「お前を殺し、その首を持って、天上に、神に、直に報告する。私が主のご尊顔を拝するには、それしかないと思った」
 この地上でもっとも古い吸血鬼の一人である自分の首を手土産にすれば、いかな神とはいえ会ってくれると。そう考えたのか。
 馬鹿馬鹿しい。そんなことをしたところで、神は面会など許さないだろう。たかが敵の首を一つ取る度に拝謁を許可していたら、それこそ神が何人いても足りはしない。
 世界は罪に塗れているのだから。
「残念だが、殺されてやるわけにはいかないな」
 無駄死にはごめんだし、まだ死ぬ理由もない。なによりも私は、まだ私の目的を果たしてはいない。
 死んでもいい理由があったとしても、死ぬわけにはいかない理由があれば死なないものだと、ある人間が言っていた。まったくもって同感である。
 私はまだ、私が存在していることの意味を証明できていない。
 この天使と同じく。
「それに、お前に俺は殺せんよ」
「なぜだ」
「お前より俺のほうが強いからだ」
 悪は善には勝てない。それはそうだろう。善こそがあらゆる犠牲を厭わぬ狂気なのだから。
 だが、それでもなお、こいつは自分には勝てない。
 吸血鬼の中でもっとも古い存在ということは、裏返せば人間として最も古い存在だということだ。そんなものを、たかが中級天使であるこいつにどうこうできるわけがない。
「まあ、首をやることはできんが、お前に神を示してやることはできる」
「吸血鬼の分際でなにを……」
「その吸血鬼に救いを求めてきた天使が偉そうに」
 言葉に詰まった天使は、恨めしそうに睨んできた。
 しかし、否定はしなかった。
 こいつはもう、天使じゃない。そう思った。
「俺と一緒に生きてみろ」
「……なんだと?」
「そうすれば、なぜ神が俺のような存在を殺そうとするのかがわかるだろうさ。敵を知り、己を知れば、だ。そこには神の御心があると思うが?」
 ふざけた説教だ。これこそが自分に対する拷問のようだ。
 神を擁護する吸血鬼だと? いや、違うな。天使を救おうとする吸血鬼だ。
 それには大差ないが、それなら自分は納得できる気がした。
 不愉快な本末転倒だ。だがそれが自分の根源なのだと自覚する。
 神は何も救わない。救わなかった。吸血鬼だろうがなんだろうが……自分がそれを行うことに、なんの不都合があるだろうか。
 これは神を否定するための行動だ。そして、そう……天使を堕落させるための行動だ。
 自分はこの天使を陵辱したいと考えている。その昂ぶりを抑えることはできそうになかった。
「……だが、お前は私の敵だ」
 うめくように、天使は言った。
 それが最後の抵抗だった。
「そして、お前は俺の敵だ。……だから?」
 敵だの味方だの、そんなものはなんの意味も持たないことを、こいつはもう知っている。だからここにいる。
 自らの欲することを為すために、ここにいる。こいつはもう天使なんてものではなくて、自分のような魔に属する存在に成り果てているのだ。
 生贄だ。こいつは神に捧げられた生贄だ。
 こいつを取り込んだ時、自分は死ぬ。神すらも殺せる自分は死んでしまう。
 だがそれは、こいつがここにきた時点で決められていたことだ。そして自分は、それに抗う術を持たない。
 運命などという茶番劇には興味がなかったが、これはそういうものなのかもしれない。
 だからなんだ、だ。
「お前に世界を見せてやる。神の世界とやらをな」
 完全調和の天上ではなく、混沌と背徳に満ちた地上の世界を。罪人しか存在しないこの世の地獄を見せてやる。
 だからこそ人は生きるのだと。だからこそ人は生きていけるのだと。そういうことを理解させてやる。
 ……真実残酷なのは、神などではない。自分だ。蝶の羽をもぐようにこの天使を捕らえた、この自分だ。
「……従おう。他に術はない」
 堕ちた。これでこの天使は、堕天使と成り果てた。
 そして私は、久しぶりに微笑みを浮かべた。