微笑みを浮かべて



「どうして私を殺すの……?」
 少女は震えもせずに、そう言った。
 見透かされていたことにショックを受ける。うまくやっていたつもりだったのに、それは本当につもりでしかなかった自分の浅はかさに眩暈がした。
「殺したいからだ」
 素直に、正直に答える。ウソは言わない。いままで散々だましてきた、その贖罪というわけではないが、いまさらウソをついても、意味はない。
 もう、殺すと決めたから。殺し方まで、決めているから。
 この少女は、死ぬのだ。冥土の土産ぐらい、くれてやる。
「私を殺して……どうするの?」
 抱きしめているから、少女の表情は見えない。見えなくても、想像ぐらいできた。一年、付き合ってきた。一年かけて、育ててきた。最高の獲物として成熟させるために、一年もの時間をかけてきた。
 いままでの獲物に、こんな手間をかけたことはない。顔が気に入ったとか、体が気に入ったとか、その程度の理由で選び、喰らってきた。
 だが、それで満たされることはなかった。どれほど飢えていたとしても、それをうまいとは思えなかった。日々の食事……空腹を癒すためだけの食事だった。
 今回は、この少女には、時間をかけ、手間をかけ、自分が望む理想的な餌として育て、その間の断食により、より美味なる獲物になるようにしてきた。
 だから、わかる。少女は別に、悲しんでも嘆いてもいない。ただ、不安に思っている。
 そう仕向けたのは自分なのに。なぜだか酷く、空しかった。
「どうも。また、次の獲物を探す」
 自分は死なないから。滅ぼされることはできても、死ぬことはできないから。
 生き続ける間、殺し続ける。他の同族と比べれば、驚異的な程に数が少ないとはいえ、それでも自分は、吸血鬼には違いない。
 もう何人殺したかも覚えていないほど、殺し続けていた。これは食事だと割り切ることにも慣れていた。
 それなのに、躊躇っている自分がいる。食事を躊躇って生きていける生物は存在しない。
 自分が生物だとすれば、だが。
「あなたは、そうやって……ずっと、殺し続けてきたの?」
 騙してごめん、と謝りたくなった。君を騙しつづけてきてごめん。君を殺してごめん。君を殺さずにはいられなくて、ごめん。
 謝ってどうなるものでもないことも理解していた。だから、言わなかった、言えなかった。
 せめて、苦しまないように殺してあげるから。自分には、それしかできない。
「あなたにとって、私は……いままで殺してきた人と、同じ? 一緒?」
 口を開いて、違うと言いかけて、言葉は出なくて、空気を噛み締める。
 なぜだか泣きたかった。少女を悲しませている自分を殺したかった。
 こんなにも完璧な贄として育ったじゃないか。自ら食べてくださいと言う兎として、立派に成長したじゃないか。
 後はただ、食らえばいい。なのになぜ躊躇う?
 少女が、死ぬことではなく……私に忘れられることを恐れるからだ。
「私が死ぬのは、いいの。あなたに、助けられた命だから。あなたのために死ねるなら、それでいいの。それ以上の望みなんて、何一つないから」
 ……気づいていたのか? ずっと前から、知っていたのか?
 それこそ、雪の降るあの日、家を捨てたと言って微笑んでくれたあの時から、ずっと?
 私はずっと、そんな少女を騙せていると思っていたのか?
「あなたはずっと、冷めた目で私を見てた……私のことを好きだって言いながら、でもあなたは、私を見てなかった」
 魔眼が効かないのでは、とはずっと思っていた。それでも別に、かまわないと思ってた……従順であるのなら、従順にさせるための魔眼などなんの必要もないのだから。
 久しぶりに、楽な食事になりそうだとか。そんなことしか、考えてなかった。
 ……いや、それも最初だけのことだ。
 自分はずっと気づいていたじゃないか。ずっとずっと、気づいていたじゃないか。
 順調すぎるということに。なんの障害もないことに。少女を初めて抱いたその時から、自分は知っていた……少女が自分の意志で私と共にいることに。
「……好きって言って?」
 選択しろ、と言われた。
「私のこと、少しでも好きなら……好きって、言って?」
 それは……それは、卑怯じゃないか。嫌いだったら一緒にいるわけがない。嫌いだったら、贄になど選ぶはずがない。好きだからこそ、贄となりうるのだから。
 大事な人だから。とてもとても、好きだから。だから、食らうのだ。
 それが吸血鬼の性だから。
 だが、卑怯だというのなら、自分こそ、卑怯で卑劣な冷血漢ではないか。
「私は、あなたが好き。あなたが、私のことを好きでなくても。……それはちょっと、悲しいけれど、それでも、好き。……愛してるの。だから、ね? 聞かせて?」
 昔話を、思い出す。飢えた旅人に自らの身を差し出した兎を、何度も思い出す。あの話を聞かせてくれたのは、母親だったか、姉だったか、すでに定かではないけれど、私はずっと、なぜ兎がそんなことをしたのか、理解できなかった。
 他になにか、方法があったのではないか。旅人は、兎が食べたかったわけじゃないはずだ。兎を食らうために、助けを求めたわけじゃないはずだ。
 ただ一緒にいるだけでも、よかったじゃないか。あの時私は、そんなことを思っていた。それだけがいまも、鮮烈に思い出せる。
 だとしたら、これは。これは……なんだ?
「最後にもう一度だけ……私を、騙して?」
 我慢が、できなかった。
 突き飛ばすように、少女から身を離す。逃げるように、背を向けた。殺せない……食えやしない。こんな少女を食らうことなんて、できやしない。
 それほどいとおしいからこそ喰らいたくなる自分から逃げ出したかった。
「どう……したの?」
 コトバが出ない、返事ができない。君が殺したくてたまらないんだよなんて、死んでも言いたくなかったから。
「私のことが……嫌いなのね……?」
 もう、ダメだ。
「そんなことはないっ」
 泣きそうな顔をしている少女を抱きしめる。泣きそうな顔を見られたくなくて。
「お前が好きだ、お前が好きだ、愛しているっ!」
 言ってしまった。言葉にしてしまった。
 呪ってしまった。
「……ありがとう。本当に、ありがとう。私はもう、いいよ。私を食べて、いいよ」
 強く強く、抱きしめられた。その手が震えていた。
 自分は。自分は。自分は。
 いったい何を。
「……っ」
 少女の首筋に牙を突き立てる。瞬間、少女は硬直した。
 少しの時の後、痙攣が始まる。血を、血を、死に至るまで吸い尽くしてしまえば、そうすればこの少女は呪われずに済む。吸血鬼に堕すことはなくなる。
 そうしてしまうつもりだった。それなのに。
 出来なかった。
 突き放すように少女から離れた。後少しで死に至るほど血を吸われ、焦点の定まらない少女を床に座らせ、自分の手首を傷つける。
「俺の血を……飲むんだ」
 溢れ出る血の色は赤。人を食らう薄汚い化け物の分際で、赤い血を流しやがる。
 これが愛だというのなら、こんなものが愛だというのなら、愛するんじゃなかった。愛するべきじゃなかった。
 なんだって俺は人を愛せるようにできてるんだ。
 神を呪った。心底呪った。吸血鬼という存在が、神に呪われた存在であることを強く意識した。
 人として死に、吸血鬼として蘇ったあの時も、今と同じように神を強く感じていた。
 だとしたら、なんだこれは。神はこんな結末がお望みなのか。
 これじゃあ、神こそがこの地上に罪と悲しみをばらまいているというのに、いったい誰が何を救えるというのか。
「私は……」
 少女が喋った。まだ血を飲んでいない。どうして喋れるのか。急速な失血で意識を保っているだけでも奇跡的だというのに、血も飲まずに、なにを喋ろうとしているのか。
「……それでも、あなたを愛せる……?」
 自問だった。やはり、意識は混濁している。
 このまま死なせてやるべきだ。自分の中の何かが囁く。
「それとも……あなたは私を……?」
 動きが止まる。心臓の鼓動すら止まったのではないかと思うほど、その言葉は重かった。
 吸血鬼と堕したこの少女を、自分は愛せるのか? 自分の下僕と成り果てた少女を、いままでと変わらずに……?
 憎むんじゃないのか? 自分の思い通りに動く人形を愛せるほど、自分は狂っているのか……?
 だが、それは何が違うのだろう。いままでだって、この少女は何一つ逆らいはしなかった。どんな辱めにだって耐えてきた。
 それでなにが変わるのだろう。この少女が吸血鬼となることで……なにが。
「……血を、飲むんだ」
 無理矢理に飲ませるように、少女の口に手首をあてがう。もう少女は限界だ。悩んでいる隙で死んでしまう。
 そして、死んでしまったものを生き返らせることはできない。そういったことができる吸血鬼もいるらしいが、自分にはそんな能力はなかった。
「あなたは……わたしは……」
 まだ躊躇う少女の口に、手首を押し付ける。
 少女の細い首が動き、嚥下する。
 終わった、と思った。なにが終わったかはわからない。だがなにか、しかも決定的なものが終わってしまった。
 自分の手で自分の首に縄をかけるが如く。
 自分はもう、いまのこの瞬間を永遠に忘れることはできない。
「あああああああ」
 口からほとばしったのは絶叫だった。言葉にならない想いが溢れ出した。
 それは悲しみと呼ばれるものだったのかもしれない。それは絶望と呼ばれるものだったのかもしれない。
 私の想いは、いまのこの瞬間に成就したというのに、残っているのは後悔だけだった。
「愛しているんだ……愛しているのに……!」
 君を殺したのは私。なにをどうしたところで、それだけは変わらない。
 憎まれ、呪われたなら救いもある。憎悪にこの身を焦がしながら殺したなら、救いもある。
 なにもない。ここにはなにもない。ただ愛だけがあった。
 そんなものが愛だなんて。
 誰も何も許してくれるはずがない。
「神よ! 神よっ! 私を……私を断罪してくれ……っ!」
 こんな穢れた命など、この地上から消し去ってくれればいいんだ。それこそが、それこそが神に求められている機能なのだから。
 他の誰でもなく、私こそがそれを望む。こんな不幸の種を野放しにしていいはずがない。
 誰も呪わないのなら、あえて私が呪おう。
 神よ、世界よ、災いあれ。