だって、これは恋なんかじゃない



 ずっとずっと、気づかなかったことがある。
 それに気づいた時、自分の愚かさを呪いたくすらなった。
 同時に、激しく納得した。ああ、そうだったのか、と。
 絆とはなんなのかと。なにを意味するものなのかと。
 ずっとずっと。気づかなかったんだ。

 今日もまた、日が昇る。屋根の上でそれを見つめながら、彼女はなにを思うのだろうか。
 そして自分は、そんな彼女になにを思うのだろうか。
 ただ、二人で寄り添いながら、眼下に広がる風景を見つめる。
 まるで世界の始まりのような光景を。それが世界の終わりを告げるものだと知りながら。
「いっつも思うけど……ここで朝日を見てるんだから、朝ぐらい起きればいいのにな、俺も」
 ぼんやりと、呟く。これが夢だという自覚はあった。そして、いま見つめている光景と、現実世界が時間的にリンクしていることも知っていた。
 朝なのだから翡翠が起こしに来る前に起きればいいと、いつも思っている。思っているが、起きれた試しはない。
 彼女との時間が大事だから? 否定はしないが、肯定もしない。
 日常は、日常だ。すべての事象を共に体験できるわけではなく、彼女とだけ付き合って生きているわけでもない以上、いまこの時間を彼女と共に過ごすことはできても、朝がくれば、また別の日常が始まるのだ。
 それでもいつも、ここにいる。なにをやっているんだろう、とまでは考えるが、そこから先には考えが進まない。
 風景から、彼女に視線を移す。彼女は遠く遠くを見つめていた。
 彼女はいつも、そうだ。この風景を望んでいるから見せているのかと思いきや、その心はこの風景の中にはない。ここに似たどこかを、それはつまり、彼女だけの思い出を、オーバーラップさせて思い出しているようだ。
 彼女は一言も口をきかない。きけないわけはないだろう。こちらが喋れば、その意を介することはしてくれるんだから。そしてここは、彼女の支配する夢の中なのだ。たかが喋る程度のことができないはずがない。
 現実世界では黒猫である彼女、レンは、ゆっくりと静かにこちらを向いた。その瞳は、自分を映しているようで、やはりどこか遠くを見つめている。自分の背後に透けて見える誰かを。
 いつも、思う。誰を見ているのかは知らないけれど、どうしてそんなに切ない顔をしているのかと。
 それだけの感情を表すような相手なんだから、それはレンにとって大事な人のはずなのに、自分はそういったことをまるで知らないと。
 アルクエィドに押し付けられたという側面も確かにある。使い魔などというものを必要としないアルクにしてみれば、レンの面倒を見ていたのだって気まぐれ以上のものではないんだろう。
 だが、いまは自分が主人だ。使い魔のことを知ろうとする努力、というのはおかしな気もするが、レンのことをほとんど知らないのは事実である。それを知ることになんの不都合があるだろうか。
 そうは思いながらも、言えないでいる。これは、遠慮、だろうか?
 レンとしばしのあいだ、見詰め合う。
 意を決して、問いかけようと口を開いた。

「志貴様。お目覚めになられましたか?」
「ああ……おはよう、翡翠」
「おはようございます」
 翡翠の手によって開け放たれたカーテンから、朝日が差し込んでいる……かと思ったら、今日はあいにくの曇り空だった。
 いつも通りに眼鏡を掛け、いつも通りに枕元を見下ろすと、そこには丸まって寝ている黒猫がいた。
「今日は……土曜日か。別に、休日ぐらい、ゆっくり寝させてくれてもいいと思うんだけどなあ」
 そっとベッドから降りながら、軽く伸びをする。溜め息交じりの愚痴は、翡翠に聞かせようとしているわけではない。
「秋葉様は、怠惰がお嫌いですから」
 取り付くしまもない回答が来るのはわかりきっていた。翡翠とて、好きで起こしにきているわけじゃない(と思う)。秋葉には逆らうな、というのは、この屋敷に住む者にとっては当たり前の決まりだった。
(まあ、そもそもが遠野家の当主様だしな)
 とどのつまりは、自分は食客に近い身分であり、お情けで住まわせてもらっているのに近い。血が繋がっているからといって、なにも同じ屋敷に住まなければならない理由はないし、事実、つい最近までは別々に暮らしていたんだから。
 翡翠は使用人という立場だし、秋葉に対して抗論しようとすらしないだろう。
(まあ、当主がどうこうってよりも、秋葉が怖いってのもあるけど)
 とかく、容赦というものがない妹殿だ。誰だって、些細なことで死にたくはない。休日の朝だって、起きてしまって当然だ。
 もっとも自分は、秋葉が怖くて起きているわけではないが。
 着替えたら食堂に行く、と声をかけて、翡翠を下がらせる。年頃のオトコノコとしては、年頃のオンナノコの前で着替える気にはなかなかなれない。翡翠もその辺は承知してくれているので、軽く頭を下げて部屋を出て行った。
(いや、そもそもメイドとか、そういうのがいるのが変なんだよなあ)
 だが、それこそ、いまさら言ってもしょうがない。自分がこの屋敷にきた時点で、自分付きのメイドである翡翠はいたのだから。
 自分はとことん庶民だな、と苦笑する。そりゃそうだ。こんな変な能力を持ってはいるが、普通に小学生、中学生、高校生とやってきたのだ。自分が殺人鬼であり、モノの死が視える能力を持っていると自覚したところで、生活習慣やら価値観やらがいきなり変化するわけがない。
 そもそもこの能力に関しては、ずっと前からの付き合いなわけだけど。
「さあ、行こうか、レン」
 着替えが終わった頃には、いつの間にか黒猫、レンも起きていた。
 夢の中でしか人の姿ではいられない使い魔は、にゃあと鳴いて、肩に飛び乗ってきた。

 夢を見ていた。
「いや、まあ……楽しいけどさ。本末転倒な気はするけど」
 空には満月。街は影絵。影は長く伸び、景色は深い青一色。
 近所の猫を従えてくるくると踊っているのは、レン一人。孤独な観客であるところの俺は、ぼけっと突っ立ちながらそれを眺めている。
 眠りについて、気がついたらこんな状況だった。眠っているのに気がついたら、なんてのも変な話だが、まあ、夢を夢だと自覚する瞬間なんてのは大抵変なものだ。
 こんなリアルな夢ばっかり見てたら、疲れが取れないんじゃないかなあという気もするけれど、不思議とそんなことはない。それが夢魔の夢魔たる所以なのかもしれない。
 どうせ夢なら、楽しまなければ損だろう。
「お嬢さん、僕と踊ってくれませんか?」
 かっこつけてポーズをとりながら(服装は普段着だから決まるわけもないが)、レンに向かって手を差し出す。レンは表情を変えずにおずおずと手を取る。
 まあ、踊りなんて小学校とか中学校でやったフォークダンスぐらいしか知らないけれど(そもそもフォークダンスのフォークってなんだ?)、レンにしたってぐるぐる回ってただけみたいだし、ダンスのマナーみたいなことは追求されないだろう。
 レンの足を踏まないように、踊り子であるところの猫を踏まないように、音楽もないのに軽快なリズムを踏む。まあ、なんとなくという奴だ。音がなくても、ここには月の明かりとレンがいる。踊りの伴奏を務めるだけなら、特に問題はないだろう。
 その考えが甘かった。サッカリンより甘かった。
 最初は適当に踊っていたものの、次第にレンにリードされてまともっぽい踊りのスタイルになり始める。あれれと思っている間に、聞こえていないはずの音楽さえも聞こえてきている気がしてきた。
 不思議な時間、不思議な空間、でもこれは、全部夢。
 不思議なことなんてなにもない。不思議なことしかないんだから、不思議なものなんてあるはずもない。
 それが不思議だとわかっているのに、不思議ではないとわかる瞬間。怪奇と日常の転回点。
 不意にレンは踊りをやめた。世界に静寂が戻る。聞こえていた気がする音楽も途絶え、足元を飛び回ってた猫達は影と化して姿を消した。
 殺風景な世界だけが残った。
 なにかを訴えかけるように口を開き、言葉が出ずに唇を噛む。俺はレンがなにを言いたいのかわからずに、ただうろたえるばかり。
 なにか気に触ることをしてしまっただろうかと、そんなことばかり考えながら、なぜレンは喋ってくれないのかと、苛立ちを覚える。喋れるはずだというのは実際のところ俺の妄想でしかないのかもしれないが、しかし夢の中でまでなぜそんな不自由でなければならないのかわからない。
 ここはレンの世界じゃないんだろうか。
 ……だとすれば、俺はなぜ、なんのためにここにいるのか。
 答えはない。背景の影絵が伸びたり縮んだり、不気味な蠕動を始める。ぐにゃぐにゃと歪む世界の真ん中で、レンだけがいつもと変わらず立ち尽くす。
 レンが口を開き、吐息を漏らすように息を吐く。
「…………」
 聞き取れなかった、そう思った瞬間、世界は消えうせた。

「おはようございます、志貴様」
 うっすらと目を開ける。いつも通り、翡翠がいた。
「……おはよう、翡翠」
 目覚めは最悪だった。頭ががんがんする。眩暈を抑えて眼鏡をかけ、不快感を表情に出さないように注意しながら体を起こす。
 息苦しさの正体は、胸の上で寝転がっていたレンだったのかもしれない。体を起こすと同時に転がり落ちそうになり、慌てて跳躍して床に下りていた。
 なぜだろう。酷く、疲れている。我慢できないほどの眩暈が、頭痛が、そうでなくてもおかしい俺の目を苛んでいる。
「翡翠、ちょっと調子が悪いから、今日は朝飯はいらない。二度寝するけど、きちんと起きたってだけ秋葉に伝えてくれないか」
 眼鏡を外して、眉間を揉む。耳から脳みそが飛び出しそうなぐらい、頭の中で頭がぐらぐらしている。
 ベッドから降りようとして、満足に体を動かすことができなかった。体を起こせただけでも奇跡に思える。
 死にそうな気分、というやつがあるが、まさしくそうとしか言えない気分だった。
「……大丈夫ですか?」
 心配げに顔を覗き込んでくる翡翠に、大丈夫、心配いらないと返事して、倒れるようにベッドに横になる。
 後はもう、なにも覚えていない。奪われるように意識を失い、夢の世界に落ちていった。

 真っ白な夢だった。
 夢というか、なんというか……現実感のなさはまさしく夢だが、その異常なまでの潔白さに、目も開けていられなくなる。
 上下左右どこを向いても白。いや、上下左右なんて感覚すらもわからなくなるほどに、すべてが白い。漠然と見えている自分の体があるからこそ方向感覚のようなものもあるが、実際には手に触れるものも足に触れるものもなにもない。踏みしめる大地すら、ない。
 ここではなにもかもが正しいが、なにもかもが意味を持たない。そう思わせる、虚しい夢。
 ちりん、と鈴の音が聞こえ、振り返ると、少女の姿のレンがいた。
 レンはなにも言わない。ただ悲しげに佇んでいる。
 お前が俺を殺すのかと、そう問いかけたかったけれども、あまりにも似合わないそのセリフに、自問が先に湧いてくる。例えそうだったとしても、だったらなんだというのか。
 レンは使い魔だから、と、ただその一言ですべてを認めてきたけれど。実際のところ、レンがなにを望んでいるのかとか、そういうことを考えたことは一度もなかった気がする。
 そもそも、レンに意志と呼ばれるものがあるかどうかすら、まともに考えたことはなかったんじゃないだろうか。使い魔という、そのあまりにも道具的な響きに囚われて。
 だとしたら、レンが俺を殺すのも仕方がないんじゃないだろうか。そうすることがレンの目的だったというのなら、そうせざるをえない何かがあるのなら、それはそういうものだというだけのことなんだろう。
 だからって、黙って殺される理由もないけれど。
 レンはなぜ悲しげなのかと、ふと、思う。いつもいつも、感情を押し殺し、見えないなにかを見つめるようなその眼差しは、彼女のどんな感情の発露だったんだろうかと、いまさら気になりだした。
 そして気づく。
「ずっと……ずっと悲しんでいたのは、だからなのか? 俺がレンの言葉を聞けないから……聞かないでいたから?」
 レンの思いを受け止めるどころか、レンに気持ちがあることすら蔑ろにしてきたから。
 俺にはなにもなくて、レンのことを理解しようとする土台があまりにもなにもなくて、レンのことを蔑ろにしてきたと、そういうことであれば、納得できてしまうほどに筋が通る。
 レンはこんなにも……彼女にできる唯一の手段とも言える夢を使ってまで、自分に訴えかけてくれていたのに、俺は子供でもあやすようにそれに付き合うだけで、その意味まで考えもしなかった。
「俺が目を閉ざし、耳を閉ざし……あるべきものの姿も見ずに、その上辺だけで理解した気になっていたから? レンは黒猫なんだと、使い魔と呼ばれようともただの猫なんだと、そう思っていたから?」
 レンは首を振ったが、項垂れてうなずいた。そうではないけどそうなんだ、ということか。当たらずとも遠からず、でもそれは、正解ではない。
「レンはずっと……ずっと、俺と話をしようとしてくれてたんだな。俺はずっとそれに気づかずに、ただ自分の言葉を投げつけるだけだった。……何一つ、聞こうとしていなかった。そうなんだな?」
 躊躇いながらも否定はせずに、レンは再び、うなずいた。
 その項垂れた姿を見て、叱られた子供のようだと思い、そしてその通りなんだろうと思い至る。生きてきた時間は俺より長いのかもしれないけれど、だからって俺より大人だという保証はどこにもない。生きてきた時間なんてものは、大人とか子供とかいう、価値観の成熟を決める規範には当てはまらないということは、アルクェイドを見て知っていたはずなのに。
 また俺は間違ってしまったのかと、気づかされる。自分に都合のいい現実を、都合のいい理由だけを信じていたのか。
「不甲斐ない主でごめん。俺みたいのが主じゃ、レンも迷惑だよな」
 その言葉には、俯きながらも首を振る。そんなに必死になって否定してもらえるほど、自信を持っていたわけじゃないけれど、レンが認めてくれている部分があるのなら、それがきっと、レンが俺を主に選んだ理由なんだろう。
 じゃあ、それはなんなんだろうか。
 俺がしてきたこと、やってきたことなんて、ほとんどなにもない。レンの隣にいて、レンと一緒に朝日を眺めて、時たま求められる精気の補充を行うだけ。
 そこに感情なんて呼べるほどのものがあったのかもわからない。レンを抱いた時に感じる罪悪感を、それが義務だと言い訳することで打ち消していたように思う。
 だからきっと、俺ができていたことと言えば、本当に、ただレンの隣にいることだけだったんだと、そう思うんだけれど。
「……いて、くれたから」
 初めて聞こえたその声に、驚き、戸惑う。
 鈴を鳴らすような、と表現される可憐な声。それはまさしくそんな声で、いままで聞こえていた鈴の音は実はレンの声だったんじゃないかと思うほどに澄み渡っていた。
「傍に、いてくれたから」
 そんなものはなんの理由にもならないと、そう思いはしたけれど。
「あなたが傍にいてくれれば、それでよかった。同じ時を過ごさせてくれれば、それだけで嬉しかった」
 レンがそう言うのなら、俺がそれにケチをつけてもしょうがない。
 ただ少し……それでもそんなに寂しそうなのはどうしてなのかと、そう問いかけてはみたかったけれど。
「私はずっと一人だったから。真祖の姫に拾われるまで、私を生み出した魔術師の元でも一人だったから。……私は、あなたのような伴侶あるじが欲しかった」
 なにもできない主が? レンきみのことを何一つ理解しない主が?
 それが本当だったなら、どんなに嬉しかったかわからないけれど。それが本当だったなら、レンはそんなに思いつめた顔はしていないはずだ。
「あなたは、あなたなら、たとえ私が使い魔でもなくても、猫でなくても、犬でも鳥でも、たとえ人間だったとしても、変わらずあなたのままだと思えたから。私はあなたと一緒にいるときだけ"わたし"になれた。使い魔でも猫でもなく"わたし"になれた。だから私は、あなたとずっと一緒にいたい」
 そんな大層なもんじゃない。そんなのはただの過大評価だ。
 俺はレンが使い魔だというから、そうなんだろうと思っていただけだ。それ以上のこともそれ以外のことも考えなかっただけだ。
 俺は、レンを見てるフリをしながら、"レン"という記号を見ていただけだ。そんなものはレンの本質じゃない。本質じゃなかった。たったいま、自分でそれを証明したというのに。
「私は"使い魔"。私は"夢魔"。私を証明するものはそれだけで、それだけなのに、あなたはそれを利用することはなかった。それでも、私の存在を認めてくれた。……それが、うれしかった」
 たとえばそれは、俺が直死の魔眼という能力を持っているようなもので。"遠野志貴"ではなく"直死の魔眼"として扱われることに嫌悪を抱くようなものなのかもしれない。
 人格ではなく能力として認識される。それが必然であるからこそ、そうではないことを望む。それは矛盾なんだろうけど、でも切実な思いでもあったのかもしれない。
 能力になりきるには、余分なものが多すぎる。自分もレンも、きっとそういうものなんだろう。
「俺は……俺は、ずっと自惚れてた。アルクがそう言っていたから、ってのもあるんだろうけど、レンは俺のことが好きなんだろうって漠然と思ってて、それをそのままに受け入れてた」
 それは、アルクに対する好意やシエル先輩に対する好意や秋葉に対する好意や翡翠に対する好意や琥珀さんに対する好意とは違う意味で、それでも言葉にすれば同じく好意という単語で括られる感情なのかもしれないけれど、それよりももっと確かで、それなのに漠然とした想いだった。
 レンは俺のことが好き。だけど、これは恋と呼ばれるようなものではない。
「もちろん、俺もレンが好きだし、だから気にしてなかったっていうか、当たり前のようにそういうものだと思ってたけど、でもきっと、それは違うんだよな。好きとか嫌いとか、そういうのは大事だけど、だからってそれだけじゃ、なんにもならない」
 レンを理解しようとする切っ掛けになるはずだった好意が、それとは真逆の作用をしてしまった結果、レンのことを好きなはずなのに、レンを孤独に追いやってしまった。それは自分の至らなさで、浅はかさで、言い訳できることではないけれど。
 レンはにっこりと微笑んだ。ただ微笑んだだけで、何も言いはしなかった。
「一緒に行こう。レンが望むなら、どこまでだって。たぶん俺はレンよりも先に死ぬけれど、それまでの間でよければ」
 そう言いながら、手を差し出す。自分が普通の人間のように寿命で死ねるとは思っていない。それよりも早くにこの能力に殺されるだろう。
 だから、背負いたくないと思う気持ちもある。遺していくことになるのが確実にわかっているのだから、余計なものを背負わせたくないという気持ちもある。
 それでもいいと言ってくれるのなら、それはそれでいいんじゃないかとも思った。それでも所詮は人間なんだから、一人では生きていけない。
 だからこれは、この気持ちは、恋と呼ばれるようなものではなくて、それよりも少しばかりゆっくりとした、家族愛にも似たなにかだ。
「俺は君を一人にはしないよ」
 それは、俺が寂しいからという気持ちの裏返しでしかなかったのかもしれないけれど。
 レンはおずおずと俺の手を握り返してから、躊躇い勝ちに抱きついてきた。

「……兄さん、いい加減に起きたらいかがですか?」
 鬼よりも恐ろしい声で目を覚ました。
「いくら休日で、いくら体調が優れないからといって、ずっと眠り続ければいいというものではないのですよ?」
 そりゃそうだろう。食事を取らなきゃ、よくなるものもなりようがない。それぐらいはわかるけど、でも。
「……琥珀に"お薬"を用意させますよ?」
「はい起きます」
 すべての理性を圧して、行動を促す魔力。なんというか、その言葉にはそういう非論理的な力が満ち溢れていた。
 無理矢理に体を起こしたせいか、少しふらふらする。枕元の眼鏡を手に取り、わざわざ起こしに来てくれた妹殿の顔を見ないようにしながら壁掛け時計に視線を向ける。午後六時。さすがに寝すぎたと思った。そりゃふらふらもする。
「食事ぐらいはきちんと取ってください」
「うん、そうだな。こんなに寝るつもりはなかったんだけど」
 いろんな意味でびっくりだ。わざわざ秋葉が起こしに来てたりするのも。
 普段なら翡翠か琥珀さんにやらせるというのに、今日はなんか特別な出来事でもあったんだろうか。
「それと、猫と同じベッドで寝るのは感心しませんけれど」
 言われて傍らに目をやると、丸くなってベッドの中にいたらしいレンが、頭だけあげてこちらを見据えていた。そんなところにいたのか。
「やれやれ、レンにまで嫉妬されたんじゃたまらないな」
 冗談にしては笑えないことを言ってしまったと思いながら、もそもそとベッドから降りる。レンを腕に抱き上げて、にゃーと声をかけながら、髪の毛を逆立てた秋葉を無視してワードローブに向かった。
「なんで! 私が! 飼い猫風情に嫉妬しなければならないんですか!」
 他のになら嫉妬するのかと、わかりやすい反応に笑いを噛み殺しながら、着替えを取り出す。時間も時間だし、着替えるのもめんどくさいけれど、秋葉はそういう怠惰をひどく嫌う。
「大体、レンは家族みたいなものじゃないですか! 嫉妬なんて!」
 ああ、そうか。秋葉はとっくのとうに気づいていたのか。やっぱり俺は鈍感なんだなあと呆れるしかなく、溜め息を吐いてレンを手近な椅子に下ろした。
「着替えたいんだけど?」
「……っ! 出て行けばいいんでしょ出て行けばっ!」
 なにが気に入らないのか(なにもかも気に入らないんだろうけど)、足音も荒く出て行った秋葉は、盛大な音を立てて扉を閉めた。行儀が悪いぞ、妹よ。
「夕食の準備は出来てますからね!」
 部屋を出て行く前に言えばいいのに。頭から湯気を噴いてそうな秋葉に苦笑いを噛み殺して、いつものなにも言わない眼差しのレンと視線を交わす。
 うん、まあ、やりすぎたよな。後で謝るさ。
 胸中でそう呟いて、着替えを手に取る。
 同意するようにレンの首輪の鈴がちりんとなり、やれやれ、俺の立場はなくなっていく一方だと首をすくめるしかなかった。