かみさま、もうすこしだけ



 私はもう、いいんです。自分が死んだことは、わかっているから。
 だけど神様。この幸せな時間を、あと少しだけ、私にください。

 彼が夜の街を徘徊しているという噂を聞いた時、私は信じられないという気持ちの反面、それが本当だったら嬉しいなんて、思ったりした。
 私は、優等生で。……そう見られていて。息苦しいというほど、身に迫るものがあったわけではないけれど、窮屈さは、やはりあった。
 学校では、誰も彼もが役割を演じている。そうすることが楽だから、その役割を越えようとはしないし、越えようとしたものを除外すらしようとする。
 いじめられっ子がいじめを克服したら、別の子供がいじめられるだけで。いじめられた過去が一度でもあると、容易には学生の輪に戻れない。
 豚は神経質な生き物で、ストレスが溜まると弱い豚をいじめ始める。その話を聞いた時、思った……人間も豚も大差ない。学校は養豚場みたいなもので、みんないつか、搾取されるために飼い慣らされている。
 そんな自分を、ちょっと変えてみたかった。そこに彼がいるのなら、何も恐くなかった。
 私はずっと前から、彼だけを見ていたから。

 夜の街は、やはり、昼間とはだいぶ雰囲気が違った。
 さすがに目立ちすぎるかなとは思ったけれど、なんとなく、制服のままだったせいか、やたらと声をかけられた。普段はこんなことないんだけれど。やっぱりそれも夜だからなんだろうか。
 どうでもいい人たちは、やっぱりどうでもいいので、適当にあしらったり逃げたりして、なんとか誤魔化せた。一番危なかったのは補導員に遭遇した時だったけれど、これもなんとか逃げることができた。
 夜の街なんて、人の集まるところは大体決まっている。夜の街に彼がいた、という噂を考えれば、当然、そういった人の集まるところにいたんじゃないか、と思って、そういったところを重点的に回っていたんだけれど。当然、そういう場所には、補導員もいたと。まあ、それだけのことなんだけど。
 やっぱり補導員ていうのは仕事柄、しつこく追いかけてくるわけで。逃げているうちに人気も見覚えもない路地に入り込んでしまった。こっちに来れば大丈夫という、よくわからない直感に従った成果ではあったけれど。この年で迷子になった、なんてのも、わりとシャレにならないぐらい、馬鹿馬鹿しい。
 慣れないランニングのせいで上がっている息を、深呼吸でなだめる。最近、ちょっと運動不足だったかもしれないと後悔しながら、空を見上げた。
 当然、ビルとビルの間なわけだから、そんなものが見えるわけもないけれど。そういうのとは関係なしに、なんだか暗い気がした。
 月がないせいだろう、と安直に納得する。都会の夜の空は、都会、地面側が明るい分、なんだか暗く見えるものである。この路地が薄暗いだけで、ここを出れば、ネオンサインがバカみたいに眩しい界隈だ。
 それが油断だというのなら、そうだったのかもしれない。結局、どんなにリアリティに満ちた恐い話だって、どこにでも転がっている怪談と、大差ない。恐い話は、ありえないから楽しむことができるのだし、ありえないと思っているんだから、そんなものが自分の身に降りかかるなんて想像の範囲外だ。
 連続殺人事件が起こっているという現実があったとしても、そんなものは遠い世界の出来事で、自分にはまるで関係がない御伽噺だと、そう信じていたんだから。
 だけどそれは、現実だった。
 最初に気がついたのは、音だった。なにか、重いものを引きずるような音。体育の時とかに、マットとかを用具室から引っ張り出したら、こんな音だったかもしれない。持ち上げるには重いものを引きずる音。
 嫌な感じはした。そんな音は、まったくもって非日常だった。
 それでも吸い寄せられるように、その音を追っていた。
 こっちに来れば大丈夫という直感? それは、どうして大丈夫なんだろう……?
 気がつけば、ぽっかりと開いた空間にたどり着いていた。周囲を囲むビルが少しずつ遠慮して出来上がったような、そんな世界の狭間に。
 それはいた。
 それが彼に似ていると思ったのが、後々まで、屈辱として記憶に残ることになった。よく見れば……いや、よく見なかったところで、彼に欠片も似ていないというのに。
 その男は、全身に包帯を巻いていた。とはいえ、着物を着ていたから、別にそれが見えたわけでもない。ただ、顔にまで包帯を巻いているような人は、全身に巻いているに違いないと、そう連想しただけだ。
 そしてその男は、なにかを抱えていた。最初に見えたのは、足で。次に見えたのは、顔で。最後に見えたのは、喰い散らかされたはらわただった。
 あまりのショックに、驚くことも逃げることも思い浮かばなかった。目の前で起こっていることが現実だと認識することすらできなかった。どこの誰かはわからないけれど、おそらくは女の人が、両足を抱えられ、犯されるように、その胸を、腹を、食い破られている。そんな光景なんて。
 信じる、信じない以前に、あってはならない光景に、身も心も凍りついた。
 そいつが、なにに気づいて、こっちを向いたのかはわからない。獣のような直感で、獲物をかぎつけただけなんじゃないかと思う。頭の片隅で冷静に考えながらも、やはり思考の大部分は麻痺していて、真っ白だった。
 目が合ったその瞬間。死んだと思った。殺されたと思った。自分は食われるべき存在で、相手はただ、無尽に食らうだけの捕食者だと、悟らされた。
 それでも、体は震えない。冷や汗もかかなければ、瞬きもしない。思考はただただ冷徹に、状況を分析している。そして、それだけだ。死の覚悟が決まってしまったせいか、体は動いてくれない。
 抱えていた死体を放り出して、男は立ち上がり。ゆっくりとゆっくりと、近づいてきた。
「面白い、素材だ……」
「奴の匂いがするぞ!」
「これをこそ、神の采配と褒め称えるか、それとも悪魔の所業と罵るべきか」
「俺からすべてを奪った奴だ! こいつは奴を知っている!」
「素質を有し、だが覚醒には至らず、まるであつらえたかのように、因縁すらある」
 そいつは一人で、だけど声は二人分、どこから出しているのかもわからないけれど、聞こえてきた。口は、一人分しか動いていないし、表情も、やはり、狂ったように叫んでいる奴、一人分だ。
 もう一人の声は、頭に直接響いていた。そいつの目を通して、私の中に直接響いたその声は、優しくもなんともなかったが、ただ静かに、こういった。
「世界が私にそれを課すというのなら、私はそれを遂行しよう」
 言葉は、そこまでで。次に感じたのは、首筋に突き刺さる牙と、お腹を突き破った鋭利な何かの感触だけだった。

 そうして私は、死んだ。

 意識を取り戻した時、私は大体の事情を理解していた。私を襲った奴が何者だったのかとか、どうして自分は死んだのに生きているのかとか、これからなにをしなければならないのかとか。
 彼が、何者だったのか、とか。
 色々なことがわかってしまうと、なんだか自分のやってきたことがあまりにも滑稽で、思わず泣き出してしまいたいぐらいだった。
 私は、彼が好きだったけど、彼が恐かった。
 原因は、いろいろある。彼が生粋の殺人者で、ただの殺戮者で、私とは相容れない存在だったから、とか。
 私にも、霊能力とか超能力とか、なんかそういう怪しげな能力が備わってて、それが彼のそういう本質をキャッチして、恐がるように仕向けていたとか、そういう自己保存本能というのは生物においてもっとも強いものだということとか。
 私は死にたくないから彼が恐くて。それでも彼が好きだから、その側にいたかった。
 でも、彼が恐い人でなければ、怖い人でなければならないような能力を持っていなければ、私は彼を好きにならなかった。……そんな、矛盾。
 いや……そんなことは、いまとなってはどうでもいいことだ。いまの私に必要なのは、まず生き延びる術を学ぶことで……そして、彼と対等になって、再会することだけだ。
 そう……殺人狂である、彼と対等になって。

 一人殺せば、二人も三人も同じことだ、というセリフが、映画かドラマの中ではあった気がする。
 それを否定する気にはなれない。確かに、一番抵抗を感じたのは最初の一人で、その後は、それが自分に必要なことなんだと割り切ることは、そう難しくはなかったのだから。
 違うことは、ただ一つ。私の中で死んでいくものが、少しずつ少しずつ、大きくなっていったことだけ。
 罪悪感が、私を人間へと縛り付け。人間ではなくなってしまった身に、それは重すぎて、痛すぎて、耐えられなかったけれど。
 それは、生の克服、とか。人間からの脱却、とか。言葉面で現されるような便利なものではなくて。だんだんとだんだんと、人間として積み上げてきたものをなかったことにしていって。
 私を私としていたものが、いくつもいくつも剥がれ落ちていって。
 私は本当に死んでいるんだな、と。私は自ら自分の命に止めを刺しているんだなと。そう、感じた。
 逃げ場のない世界から逃げ出したくて。その衝動をなんと呼ぶのか、私にはわからないけれど。私はきっと、私が思っていたよりも人間だったことに執着していたのだ。
 泣きたいことがあるのに、私はもう、泣くことすらできない存在で。
 私はなんて哀れでちっぽけな存在なのかなって。そう思った。
「ほんと、バカだよねえ、私……」
「なんで……なんでこんなっ!?」
 私を殺したのは、志貴君で。私が好きだった人で、いまでもきっと、好きな人。
 彼が抱き締めてくれるから、私は恐くないのかもしれない。あなたは、私を助けてくれるって約束してくれたから。掛け間違えてしまったボタンを直してくれたから。
 その結果、私が死ぬのなら、それは仕方のないことなんだ。私がそれを望んで、彼は私を救ってくれた。なんのためらいもなく人間を襲い、それを家畜と同列とみなす、そんな私の、目を覚まさせてくれた。
 私は確かに変わりたかった。優等生なんて投げ出したかった。飼い慣らされることから逃げ出したかった。それは最初に、一番最初に、私が望んだことで。
 私は、その方法を間違えた。
 志貴君は、遠い昔の他愛もない約束のために、私を助けてくれた。この方法は、彼にとっては他のなによりも辛いことだったんだろうけれど、だけどだからこそ、私は、こんなに安らかに死ねるんだろう。
 人を殺してもなにも感じなくなった私は、私みたいな化け物のなりそこないを殺して嘆いている志貴君のおかげで、最後の最後に、人間の心を取り戻せたから。
 私の心に、悔いはない。それは他のなによりも、私が欲しかったものだから。
「俺は……俺は、だって、君を……」
「私、バカだから、わからなかったんだ……志貴君に、どうすればこの気持ちが伝わるのかなんて、そんな簡単なことが、さ」
 それは、とても難しいことのように思ってた。志貴君とは、運良くクラスメートにはなれたけど、友達と呼べるほど親しくもなくて、いつもいつだって、切っ掛けを探していたら、こんなことになってしまったけれど。
 誰にだって、なんにだって初めはあるんだから。ほんの一歩踏み出して、ほんのちょっとの勇気を出して、ただ一言、言えばよかったんだ。
「ずっとずっと、好きだったの。あの時、体育倉庫に閉じ込められた私を助けてくれた時から。このあいだ、一緒に夕焼けの帰り道を歩いた時から。ずっとずっと……好き、でした」
 そうすれば、ほら。
 いまの私たちの間には、空気だって入り込めない。
「俺は……でも、俺は……っ!」
「いいの……志貴君が私のことを好きじゃなくたって、私を殺したことで、後悔なんて、しなくていいの。だってこれは、私が望んだことなんだから」
 そんな理屈は、通じない。だから私は、死を選んだ。それがなによりも簡単な解決方法だったから。
 あまりにも安易すぎて、志貴君を傷つけてしまうほど、簡単な解決方法だから。ただ死ぬことすらも不自由なこの身を、いまさらどう嘆いたって、なにもはじまらない。
「私を殺したことを忘れないでいてくれれば、私はそれで、満足だから。あなたを好きだったバカな女がいたんだってことを覚えてていてくれれば、私は、それでいいから」
 嘘だ。それは、嘘だ。悲しくなるぐらい、嘘だ。
 いま私は、もう一つ、欲を感じている。それが満たされれば、その次の欲がまた生まれるんだろうけど、でもきっと、その欲を叶えている時間は、すでにない。
 私の身体は、志貴君のナイフによって、もう、死んでいる。いまこうして喋っているのが不思議なぐらい、身体の感覚はない。
 それでも、志貴君に触れているところだけが、少し温かくて。私はまだ生きているんだと、そう感じさせてくれる。
 この世の最後に、あなたとこうしていられるなら。それでもう、満足じゃないか。
「もし」
 ダメだ。
「あなたが」
 言っちゃいけない。
「少しでも」
 言ってどうする。
「私のことが」
 後悔するだけだ。
「好きなら」
 そんなことない。
「キスして、欲しいな」
 志貴君は、あくまでも、私の望みを叶えた。そういう言葉が、形が、必要だ。
 そうすれば、彼の罪悪感は、少し減る。私だって、彼にそんなものだけを押し付けたいわけじゃ、ない。
 少しずつ、少しずつ間違ったものが、いつの間にかこんな形になってしまって。理想なんて言葉は、いかにも儚いけれど、それでもそんな、ラストのために。
 神様、もう少しだけ、私に時間をください。
 志貴君は、もう、言葉もなくして。どうすればいいのか、なにをしたいのか、それすらもわからない眼差しで。
 私はそっと、目を閉じた。
 意識が消える、その瞬間まで、志貴君の温もりを感じていた。