ありがとう、さようなら



 頭が痛くなるほど暑い夏だった。
 裏庭で夕涼みしていると、黒猫のレンが膝に乗ってきた。
 この暑い中、何もわざわざ暑くなるような事をしなくてもいいだろうにと思ったが、無下に追い払うのも気が引けて、そのままうだうだとまどろむ。
 思えば、一年も経ったのだな、と気付く。
 一年前までの自分は、どこにでもいるような高校生だった。
 今は……まあ、それほど普通の高校生の域を脱している訳でもないが、あまり普通とは言えない環境に身を置いている。
 自分の中に流れる血が平穏を許さないのかもしれないし、単純に俺自身がそういった非日常的なものを引き寄せる何か……雰囲気とか気配とかそういう類のもの……を持っているのかもしれない。
 自覚できないのだから、気にする必要はないんだろう。ただ、否も応もなく非日常的な出来事に巻き込まれるだけだ。
 そうして得たものがある。失ったものもある。それは比べるべくもなく、価値としては等価で、それでいて代償にはなりえない。
 一年前、俺は初めて人を殺した。

 日が暮れた。夕食の時間だ。そろそろ呼ばれるなと思いながらも怠惰にしていたら、不意にレンが身を起こした。
 何がそこにいるというんだろうか。何もないとしか思えない空間を見つめている。
 猫が何もない場所を見ている時は、霊を見ているんだ、と有彦が冗談混じりに言っていたことを思い出す。レンはただの黒猫ではないから、本当に霊が見えたとしてもおかしくない。
 どれぐらいそうしていただろう。そう長い時間でもなかったはずだ。
 レンはいきなり駆け出した。
 どこに行くんだ、と声をかける。普段は一人であちこち遊び歩いているようだから、特に心配をするわけでもないが。
 少しして、レンはこちらを振り返った。ついて来い、ということだろうか。
 どちらかと言えば嫌々ながら体を起こす。それを見届けて、レンは再び駆け出す。
 どこかに招かれようとしているらしい。
 どこに案内されるのだろうかと、少しだけ興味が湧いた。

 夜道を歩く。猫との散歩というのも、なかなかに面白い。気が向いた方向に適当に進んでいるようだが、ある程度進むと方向修正する。どこか目的地があって、その大体の位置はわかっているが、どうやってそこまで行くのか、道を知らないのかもしれない。
 知らない場所に行こうというのだろうか? そこには一体なにが待っているというんだろうか。想像のしようがない。
 しかし、歩くに連れて、若干以上の期待が湧いてきた。レンはただ散歩をしたかったのかもしれない……自分が、ではなく、俺を引き連れた散歩を。
 それじゃあ立場がまるで逆じゃないかと考え、苦笑が零れる。プライドの高い猫様の考えることはよくわからないが、なんとなくそれが真実に思えた。
 で、あれば、目的地はない、ということだろう。思い出したように方向を変えるのは単なる気まぐれの現れにすぎず、大した意味などないに違いない。
 ふと、気付く。あの場所に近い。
 さっき、思い出していたせいかもしれない。このまま進めば、あそこに辿り着くな、と思った。
 俺が初めて人を殺した公園に。

 そこには弓塚がいた。
「こんばんは、遠野君」
「ああ……今晩は、弓塚」
 自分でも間抜けな挨拶をしているな、と思った。
 そこに立っているのは死んだはずの弓塚で、彼女が死んだのは、俺が殺したからだ。
 死ぬ前と変わらない優しい笑みを浮かべて、弓塚は足元に擦り寄ったレンを抱き上げた。
「こんな時間に散歩?」
「まあ、そんなようなもんかな」
 レンの喉を撫で上げながら、弓塚は手近なベンチに向かう。
 それを追いながら、レンが懐くなんて珍しいな、と思う。
「座らない?」
「うん」
 弓塚の隣に腰を降ろし、公園を眺める。
 人はいない。水を噴き上げる噴水だけが風景の中で動いている。
「弓塚……」
「うん。遠野君が何を言いたいのかはわかるよ。だけど、今はそれは後回しにしてくれないかな?」
「……わかった」
 なにもわかっちゃいないが、まあ、こんなものだろう。
 不思議なことを不思議と感じるには遅すぎる。この状況を受け入れた後で、何を問い質すのも意味がない。
「学校とか、最近どう?」
「学校? まあ……普通かな。それほど変わらないよ」
「そう」
 陰りが見えた。
 ぼんやりと、弓塚は死んだんだから、それは以前とは違う点だな、と言うことには気付いたが、それで何が変わったわけでもない。
 元より、それほど親しかったわけじゃないから、変わりようもない。
「乾くんとかも相変わらず?」
「有彦こそ、変わるわけないさ。あいつはいつだってああだし、これからだってああに決まってる」
「そうだよね。……だから乾くんは遠野君と友達なのかな」
「そうかもね。正直、あいつのアレに救われてるところもあるんだと思う」
 有彦とはバカバカしい話しかしないが、バカバカしい話が出来るという事にも意味がある。
 そういった日常がなければ俺は今まで通りになんて暮らせない。俺を日常へと繋ぎ止めるものの代表が有彦であり、学生生活だ。
 その中では俺は異端なのかもしれない。ただ少しでもそこにいさせて欲しい、と思う。
 これは俺のわがままだけど。素直にそう思う。
「私もね。遠野君と乾くんの会話に入りたかったんだ。結局、それは出来なかったけど……たぶん、それはとても簡単なことだったのに、私はそれが出来なかったんだ」
 レンは弓塚の膝の上で丸まって寝ている。弓塚はその背を撫でながら、こちらを見ない。
「後悔するぐらいなら、やっちゃえばよかったのにね。成功しても、失敗しても、後悔だけはしないで済んだんだろうな」
 もう、出来ないけれど、と結んで、しばし沈黙。
「どうして私は死んじゃったのかな」
 わからない。ただ、理解できない。
 誰の責任を問う訳でもなく、ただただ納得することができない。
「あれもしたいこれもしたい、あれができたはずだこれができたはずだ、なんて死んでからも考えてる。私は本当に……遠野君の事が好きなんだなって思い知らされる。でも、もうこの気持ちも届かない」
「そんなことは……」
「だって、受け止められないでしょう? 私は死んじゃってて、遠野君とは違う世界にいるんだよ? 私の気持ちはあなたには届かないし、届いてもあなたには受け止められないし、受け止めてもどうする事もできない。そうでしょう?」
「それは……でも」
「遠野君が優しい人だっていうのは知ってるし、わかるよ。でも、これは優しさじゃどうにも出来ないことだし、悲しい事でも辛い事でもないんだよ。ただ当たり前の事なんだ」
 それに私は、遠野君を責めたいわけじゃないよ、と弓塚は言った。
 再び沈黙。
「ごめんね」
 ぽつりと弓塚が呟く。
「遠野君を責めたくないって言うのは、嘘。私は本当は、あなたのことが責めたくてたまらない。どうして気付いてくれなかったのって。どうして私があなたのことが好きな事に気付いてくれなかったのって。責めたくて仕方がない。……こんなの、ただのわがままなのにね」
 言いながら弓塚は、初めてこちらを振り向いた。
 微笑。
「あなたを好きでいさせてくれてありがとう」
 俺には返す言葉がない。
「あなたの事が好きだったから、私は私でいられた。吸血鬼になりきらずに、人間として、弓塚さつきとして死ぬことができた。ちっぽけかもしれない。他愛無い事かもしれない。それでも私は、それで満足。私が私である事には、大した意味なんてないんだろうけど……それでも、ありがとう、遠野君」
「俺は……俺は」
 君を、殺したのに。
 君に、感謝される理由などないのに。
 それは、君の強さなのに。
 君はこんなにも強く微笑んでいる。
 俺はみじめに泣きそうになっている。
 ありがとうと言うべきなのは、俺のほうだ。
 ごめんと謝るべきなのは俺のほうだ。
 死んでしまった君にまで心配をかけてごめん。
 殺されても俺を好きでいてくれてありがとう。
 例えこれが夢や幻であってもかまわない。
 殺したのが君でよかった。心の底からそう思った。
「ねえ遠野君。お願いがあるの」
「なに?」
「デート、しよ?」
 立ち上がった弓塚に、手を差し出された。
 レンの姿は、いつのまにかない。
「ああ、いいよ。……金はないけどね」
「うん、いいよ。私も持ってないから」
 弓塚の手を握りながら、立ち上がる。
 どちらからともなく、笑みが零れる。
「お金なんかなくたって、楽しめるよ」
「そうだね」
 つないだ手を離さずに、歩き始める。
 月が綺麗な夜だった。

 街をぶらつく。
 ゲームセンターで遊んだり。
 道端でアクセサリを売る露天商をひやかしたり。
 いかがわしいホテルが立ち並ぶ通りを抜けたり。
 意味もなく空を見上げて指を指したり。
 他愛のないことばかりだった。
 気の向くままに歩き、気の向くままに語った。
 ずっと、こうしてみたかったんだ、と弓塚は言った。
 普通の友達みたいに、普通の友達じゃできないことをしてみたかったんだ、と弓塚は喜んだ。
 俺は、特に答えはしなかったけれど、弓塚が喜んでくれるならそれでいいと思った。
 こんな月夜も悪くない。そう思った。

「お別れの時間だね」
 どこをどう歩いたのか、覚えていない。
 空が白み始めた頃、スタート地点の公園に戻ってきていた。
「今日は一日、ありがとう」
 再会の時のように、二人並んでベンチに座っている。
 最初と違うのは、繋がれた二人の手だけ。
「俺も面白かったよ。ありがとう」
 お互い、顔を見ない。見ようとしない。
「じゃあね、遠野君」
 手が離れ、弓塚は立ち上がり、俺は微笑む。
「じゃあな、弓塚」
「……さつき、って呼んで欲しいな。遠野君が良ければ、だけど」
「じゃあ、弓塚も志貴って呼び捨てにしてくれよ。それでどう?」
「わかった。……じゃあね、志貴」
「ああ。またな、さつき」
 何気なく口をついて出ていた。
 これが俺の日常で、また明日も続くものだと錯覚して。
 弓塚は顔を伏せた。
 気まずい沈黙。
「酷いよ、志貴」
 顔を上げながら髪留めを外した弓塚は、くしゃくしゃに顔を歪めて、それでも微笑んでいた。
 薄闇の中、緩やかな風に、柔らかな毛先が舞う。
 ああ、なんて綺麗なんだろう。
「……ごめん」
 苦笑で誤魔化す。誤魔化す以上の方法を知らない。
「でも、ありがとう」
 髪留めを載せた手を差し出された。
 受け取れ、ということだろう。その手に重ねるように、手を差し出す。
 髪留めを挟んで、手と手が触れ合う。
 弓塚はそのまま手を握り締め、不意に強く引き、唇が重ねられた。
「さよなら」
 稜線を超えて、朝日が街を照らす。
 その眩しさに手をかざし、陽の中に溶け消えてゆく君の姿を、瞬きもせずに見つめた。
 君が完全に消え去ってから、まだ少しの間そのまま呆然とし、改めて手の中の髪留めに視線を落とす。
 ありがとう。さようなら。
 俺は君を忘れない。
 俺は弓塚さつきを忘れない。
 俺は、君の強さを思い続ける。
 だからいまは、静かに眠って欲しい。
 俺が死ぬ時の先導は君にお願いするから。

 君の死が安らかであることを、ただ願う。



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