「弓……塚……?」
「……遠野君?」
 目立たぬ路地の行き止まりで、俺は彼女と再会した。
 彼女が手にしているその動かぬ物体は
 人間の死体、だった。
「なんだよ……それ」
 返り血に塗れた弓塚は、喜んでいるような、悲しんでいるような、苦しんでいるような、複雑な顔をしていた。
「これ? 死体だよ。……ご飯かな? たぶん、どっちか」
「死体って……そんな、なんなんだよ。なあ、弓塚。なにがあったんだよ?」
 血に塗れた口元が何よりも如実に状況を物語っている。
 彼女は吸血鬼に血を吸われて吸血鬼になった。
 そして、人を……殺した。
 誤解の余地なんてない。なんてわかりやすい現実。
「わかってるんでしょ? 私はもう、遠野君が知ってる私じゃない。化物の仲間で、遠野君の敵。……いますごく気分がいいから、殺さないであげる。逃げてもいいよ?」
 確かに、目の前にいるのは弓塚さつきの姿をしているが、中身はまったくの別物、化物に成り果ててしまっているようだ。
 弓塚は、こんな状況で楽しそうに笑うような奴じゃなかった。
 指に絡みついた血を舐め取りながら、悦楽の表情を浮かべるような奴じゃなかった。
 俺を誘うように媚態を示すような奴じゃなかった。
 なんなんだこれは。これはなんの冗談だ。
 アルクェイドを探していただけなのに、血の匂いに導かれるように辿り着いたここには弓塚がいた。
「なあ、なんかの冗談なんだろ? それは作り物かなんかで、俺を驚かそうとしているだけなんだろ?」
 言いながら、内心が否定する。そんな事はない。その死体は本物だし、俺を驚かそうともしていない。俺が餌場に迷い込んだだけで、弓塚は食事として人間を殺した。
 それなのに、目の前の現実を受け入れることができない。現実を現実として受け止めることができない。
 吸血鬼が存在しているということは、アルクェイドが証明してくれた。信じるとか信じないとかいうレベルを超えて、俺はそれを知っている。
 ただ純粋に、弓塚には似合わないと、そう思っている。
「わからないかなあ。遠野君だって人殺しでしょ? 私もそうなったの。だから、いま、こんなにも気分がいい。一線を超えることの快楽は、遠野君だって知ってるでしょ? あなたは化物になった私よりも純粋な人殺しなんだから」
 なぜ弓塚がそれを知っているのか。問うても意味はないんだろう。
 同種は同種を嗅ぎ分ける。人殺しには人殺しがわかる。
 自分と同じ存在を見つける能力は、生物として当然の機能だ。
 一つの狩場に捕食者が二人存在することはできない。出会った瞬間に殺し合う。そのための感覚器官が優れていなければ、人殺しにはなれない。
 だからこそ俺もここにきたんだろう。
「わからないよ……わからないさ。なんで弓塚が? なんで弓塚が吸血鬼にならなきゃいけないんだ? そんなのおかしいだろ? 俺が人殺しなのはいいさ。生まれた時からそうだった。でも……弓塚は違うだろ?」
「……そんなに、人殺しを異常扱いしなくてもいいんだよ? そんなに、私の事を庇ってくれなくてもいいんだよ? ありえるとかありえないとか、似合うとか似合わないとかじゃなくて、私はもう吸血鬼なんだから。それを否定してもなにも変わらないよ?」
 わかってる。わかってるんだ。
 目の前には否定しようのない現実が広がっている。既に起こってしまったことを否定することなんてできない。
 過去は変えられない。それでも抗いたくなるような事が、抗わなければならないことがある。
 現実の残酷さをただ認め、ただ受け入れるためにここにいるわけじゃない。どうしようもない現実を、それでもどうにかするためにここにいる。
 それが出来ないなら、俺がここにいる意味はない。たからこそ否定しなければならないのだ。
「弓塚はそれでいいのかよ?」
 焦点はそこだ。
 弓塚はそれでいいのか。それを受け入れるのか。
 受け入れるのなら……どうしようもない。俺が否定する意味は消え失せる。
「いいも悪いもないじゃない。こんなになっても、私は私、弓塚さつきなんだから、私は私らしく生きるの」
「そう……か。そうか。それがお前の選択なんだな?」
「これが私の生き方だよ」
 弓塚の微笑みは柔らかく、優しすぎて、俺は悲しくなる。
 そんな弓塚と戦わなければならないことが辛くなる。
 それもまた俺の選んだ道だ。後悔はしない。それでも。
 それでも、こんなのってない。
「逃げないんだ?」
「ああ……吸血鬼になっちまった弓塚をほっとけるほど、俺も人でなしじゃないみたいだ」
 ナイフを構え、弓塚と対峙する。眼鏡を外して、死の線を見る。
 今まで見てきたグールとかいう奴は、気持ち悪くなるぐらい死の線で埋め尽くされていたというのに、弓塚にはほとんど見えなかった。
 アルクェイドが言っていた。存在自体が内包する死を現視する能力は、対象に死が存在するという前提の上に成り立っている。
 死すらも否定する強力な真祖や死徒の場合、ほとんど死の線は見えないだろう、と。
 弓塚はそこまで完璧に化物になってしまったらしい。
「折角我慢したのにな。遠野君の血って、本当に」
 弓塚の瞳が赤く輝く。
「美味しそうなんだもの」
 手に持っていた死体の残骸を投げつけられた。
 飛んでくる途中で、背骨だけで繋がっていた下半身が脱落し、半壊した頭のついた上半身が飛んでくる。
 避けることはたやすかった。避けずに切り捨てた。
 その死体には、見えないはずの死の線が見えた。グールとして復活する兆候だろう。ここで止めを刺しておく必要があった。
 切り捨てた死体の背後に、弓塚が肉薄していた。
「甘いなあ、遠野君は」
 弓塚の手が振るわれる。アルクェイドのそれ程鋭利でもなかったが、人体を切り裂くには十分な鋭さを持った爪は、確かに俺の右肩を切り裂いた。
「あれ? 避けちゃった? おかしいなあ、いけると思ったのに」
「俺もびっくりだよ……切れると思ったんだけどな」
「え?」
 弓塚の右腕が裂けた。そうとしか表現できない割れ方をした。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「急所は外れてる……痛いだけだろ? 再生できるはずだ」
 死の線を狙うほどの余裕はなかったが、標的は向こうからやってきた。弓塚の攻撃に合わせてナイフを繰り出すだけで事足りたが、弓塚の攻撃の伸びが予想よりもよかったせいで右肩を抉られてしまった。
 おまけに、弓塚の右腕に見えた死の線も切り損なって、大損だ。
 俺には再生能力なんてない。この一撃は大きな差になるだろう。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!」
 気が狂ったんじゃないかと思うほどの絶叫。
 俺はただ切っただけだ。あの程度の攻撃は致命傷にはなりえない。何をそこまで痛がっているのか。
 そこではたと気付く。
「そうか……まだ、成り立てだもんな。痛みに……慣れてないのか」
 普通のグールであれば、痛みはない。
 普通の吸血鬼であれば、痛みに耐性がある。
 なりたての弓塚は、攻撃をすることにも攻撃を受けることにも慣れていない。
 元々、ただの高校生だったんだから、それで当たり前だ。
 そんな所は弓塚のままなんだな、と思う。
「痛いよぉ。遠野君」
 傷の痛みに耐えかねて、弓塚は涙を零す。
 やめてくれ。そんな顔をしないでくれ。
 せめて、化物でいてくれ。
 気が緩んだ。そんなつもりはなかったが、隙が出来たのは事実だろう。
 弓塚は跳躍し、一瞬でビルの壁面を駆け登った。
「今日の所は見逃してあげる! でも、遠野君を食べるのは私なんだからねっ!」
 声は一瞬で遠ざかってしまった。すでに気配すら感じられない。
 痛む右肩を押さえて、壁に背を預ける。
 なんて事だ。夜空を見上げながら、頭の中にはそれしかなかった。

「大丈夫ですか? 弓塚さん」
 公園で血を洗い流していたら、シエル先輩に声をかけられた。
「あんまり大丈夫くないですけど……大丈夫です」
 遠野君に切り裂かれた右腕が痛い。
 傷口は塞がったし、痛みは消えているはずなのに、ずきずきと痛む気がする。
 口の中に溜まった血を吐き出す。こんなもの、気持ち悪くて飲めやしない。
「吸血鬼を狩るということがどういうことか、わかりましたか?」
「はい。正直……気持ち悪いです」
「では、どうしますか? それでも吸血鬼を狩りますか?」
「……他に選択肢がないって言ったの、先輩じゃないですか。……やります」
 私が吸血鬼になってすぐ、シエル先輩に見つかった。
 もし私が、私が殺したグールのようになっていたら、先輩は迷わず私を殺していたと言う。でも、私はなぜかそうはならなかった。自分の意志を持っていた。
 だから先輩は、選ぶ権利をくれた。教会に協力して死徒を狩る死徒となるか、教会の敵として先輩に殺されるかを。
 私は先輩に殺されたくなかった。いや、誰にだって全然殺されたくなかった。生きていたかった。いま死んでしまうのは、あまりにも惜しかった。
 吸血衝動を抑え、死徒を狩る。狩った死徒の血は好きにしていいということだったから、死徒を狩り続ける限りは、普通の人を襲わなくても済む。
 死徒が集めた精気を横取りする。その間に私を吸血鬼にした吸血鬼を始末すれば、人間に戻れる可能性も出てくるだろう。先輩はそう言って、比べるまでもない選択肢を提示した。
 死にたくなかったから、教会(というかシエル先輩)に協力することにした。したけれど……
 実際にやってみて、わかった。本当に、気持ち悪い。
「それにしても、いくらグールとはいえ、ああも簡単に始末できるとは思いませんでした。素質、あるのかもしれませんね」
「ははは。あんまり嬉しくないです」
 先輩にしては珍しく表情を和らげてくれたけれど、皮肉にしか思えず、乾いた笑いで誤魔化す。
 吸血鬼としての素質なんて、嬉しくもなんともない。そんなものあったところで……
「でも、こうなっちゃったのは変えられませんから。……私はそうするしかないです」
 どれだけ嫌でも、認めたくなくても、私はもう吸血鬼になってしまった。
 それを遠野君に隠さなきゃいけないのが、辛い。隠すために、あんな演技までしなきゃいけなかったのが、悲しい。
 あれが完全に演技だったわけじゃないのが、苦しい。
 遠野君こそが私を吸血鬼にした可能性があるだなんて、そんなことは認めたくなかった。先輩はまだ断定できないから、と説明してくれたけど、もしそうだったとしても、私は遠野君にだけはわかって欲しかった。
 そのために吸血鬼になったと言っても過言じゃないぐらい、私の遠野君に対する気持ちは強くて、本物だから。
 だからきっと……本当は、遠野君が何者でも構わないんだ。
「まだ続けますか?」
「ごめんなさい。ちょっと、休ませてください。今日はもう……」
「……わかりました」
 遠野君と戦うことになってしまった。もっとも望まない現実を突きつけられた。そのショックは、意外と大きかった。
 右腕が痛い。それだけが遠野君と私を繋ぐものだから。
「私はロア探索に戻ります」
「はい。頑張ってください」
 私がグールを始末することにより、先輩はロア(とかいうのがこの街に巣食っている吸血鬼の名前らしい)の探索に専念することができる。ロアは遠野君……というか、遠野のお屋敷の人というか……に転生した可能性があるらしい。
 遠野君がロアだったらなあ、と思う。それなら別に、死徒を狩る必要なんてない。遠野君の下僕となって、普通の人だってなんだって襲ってみせるのに。
 同じように人を殺すなら、遠野君のためのほうがいい。
「……私、何か悪い事でもしたのかなあ……」
 先輩が立ち去った公園で、水飲み場にもたれかかりながら、夜空を見上げる。
 目をつぶって大きな溜め息を一つ零して、無理矢理に微笑んでみる。
 うん。大丈夫。私は不運かもしれないけれど、不幸じゃない。
 遠野君を思い出すだけで、微笑むことができる。大丈夫。私はまだ私でいられている。
 この先どうなるかなんてわからないけど、私はきっと、頑張れる。
 ああ、でも、それでも。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

 自分がショックを受けているのか、ただやる気がないだけなのか、よくわからなかった。
 身体がだるい。頭がぼーっとする。授業を受けていても何一つ頭に入らない。
 ショックを受けている、と仮定する。その場合、ナニにショックを受けているんだろう。
 弓塚が吸血鬼になったこと? 級友が吸血鬼になったこと?
 自分が守ろうと思ったものが、すでに犠牲になっていたこと?
 少なくとも、最後のは違う。それはすでに覚悟していた。明確に守りたいと思うほどの決意ではなかったが、どこぞの正義の味方よろしく、守れるものならば守りたいと、そう思っていた。
 我慢がならないのだ。自分の好きで殺したり殺されたりしている連中ではなく、何の関係もない人が圧倒的な力の犠牲になるのは、どうにも看過できない。
 それが天災ならば仕方がなかったで済ますこともできる。しかしこれは違う。明確な悪意が介在している。
 正義の味方になりたいわけじゃない。ただちょっと、想像してしまっただけだ。
 秋葉が殺されたり、琥珀さんが殺されたり、翡翠が殺されたり。有彦が殺されたり、有間の人が殺されたり。
 それを想像した瞬間、むかついてむかついてたまらなかった。
 俺に出来ることがあるのなら、それをしようと思うことはおかしなことだろうか。
 もっとも、自分になにが出来るとも思えない……アルクェイドを殺したのだって実感はないし、ただ物の壊れやすい線が見えるだけで、なにか格闘技が出来るわけでもなく、これといった取り得もない。
 アルクェイドは俺になら出来ると言った。だから手伝おうと思った。
 その直後に、弓塚に出会ってしまった。
 自分の決意が世界に否定された、そんな当たり前のことが、やけに虚しさを感じさせる。元より、俺になにが出来たとも思わない……でもそれじゃあ、なにを決意しても何の意味もないということじゃないか。
 ……不可抗力だ、と自分を慰めたいだけなんだろう。自分は悪くない。自分にはどうしようもない。だから諦めろ、と自分を誤魔化したいだけなんだろう。
 身の程もわきまえずに何を深刻ぶっているのか。
 あまりにも強い衝撃のせいで、感覚が麻痺している。きっと、そういう状態なんだろう。
 気が付けば日が暮れていた。もたもたと帰る用意をする。
「あれ、まだ残ってたんですか?」
「シエル先輩」
 声をかけられて顔を上げると、そこにはシエル先輩がいた。
「何か用事でも? 遠野君は帰宅部ですよね?」
「いや、何もないですけど。先輩こそ、何してるんですか?」
「いつも通りです。先生の頼まれごとを片付けていたら、こんな時間になっちゃいました」
 困ったもんですね、と言いながら微笑む。どっちのことを言っているのかと考えたが、きっと両方に違いないと思った。
「暇なら、ちょっと寄り道していきませんか? 新しいお茶っ葉を仕入れたんです」
 シエル先輩は、他には部員のいない茶道部をやっている。つまり、学校公認の部活動ではない。日頃の行いが良いから、設備の利用を黙認されているだけだ。
 シエル先輩は、なぜかこうして俺をお茶に誘ってくれる。先輩のような美人さんに誘われて嫌なはずもなく、いつも図々しくご相伴に預かっていた。
「いいですけど。用がないなら早く帰らないといけなかった気がするんですけど?」
「私は先生のお手伝いですし、遠野君は私の慰労係です。問題ないでしょう?」
「……いや、だいぶある気がしますけど……ま、いいです。付き合います」
 遠野君が断らないのはお見通しです、とうれしそうに笑いながら、俺が立ち上がるのを待ち受けて、廊下を歩き出す。
 シエル先輩は美人さんだ。頭もいいし、スポーツもできる。それでいて、そんなことはまるで気にしない気さくさから、生徒どころか教師からの信頼も厚い。
 ここまで揃ってくると、出来すぎだな、と思わないでもない。それでもシエル先輩はそういう人なのだ。
 廊下を歩きながら、思う。それでも、そんな完璧な先輩でも、迷ったり悩んだりするんだろうか。
 迷わず悩まない人間がいるとは思っていない。いないけれど、何に迷うか、何に悩むか理解されないということは、結局はそういうことなんじゃないだろうか。迷わず悩まない人間だと思われるのだろう。
 それはきっと不幸なことで、辛い事だ。
「先輩」
「なんですか?」
 振り返らなければ、足を止めることもしない。あと少しで部室だ。その必要はないだろう。
「先輩は……後悔したことってありますか?」
 それは、あまりにも放課後の校舎には似合わない台詞で……だからというわけではないだろうが、先輩は足を止めて振り返った。
「いくらでもありますよ」
 にっこりと、微笑みながら。
 そしてまた、歩き始める。
「こう見えて私、後悔とかしやすいタチなんです」
「え、そうなんですか?」
「はい。ああすればよかった、こうすればよかった、いつもそんなことを考えてます。私にはそれができたはずなんだから、って。……おかしいですよね。そんなになんでもかんでもできるはずないのに」
 なぜだろう。シエル先輩は努めて明るくしゃべっているはずなのに、とてもとても、深い後悔をしているのだと。そう思った。
「でも、悔いのないように、悔いのないようにって頑張っても、全然駄目で。きちんとやろうとすればするほどうまくいかなくて。……ハプニングに弱いんですよ、私。だから、そんなにうまくいくはずがないんですけどね」
 さあ、着きました、といって、茶室の扉を開ける。普段はかかっている鍵がかかっていなかったと言うことは、本当に、俺がのこのこついてくるのは見透かされていたんだろう。
 もし俺が断っていたら、先輩は茶室にはこなかったはずだ。一人でお茶を飲む趣味はないと、初めて誘われたときに言われていた。
 まったく、先輩にはかなわない。
 その後、世間話をしつつ、いつものようにお茶を飲んだ。帰る頃には辺りは真っ暗で、また秋葉にお小言を言われるんだろうなあと、まったく反省していない心持ちで家路についた。

 これはね、私が望んだことなんだよ、遠野君。

「正しいとか正しくないとか、いいとか悪いとか、そんなことはどうでもいいの。すでに起こってしまった事、過去でしかない現実を変えようとしたって変えられるはずがないんだから。
 ただね、遠野君。私は、これを選んだよ。どうしようもない事の後付けで選ばされたんだとしても、私はこれを選んだよ。
 だから、遠野君にも選んで欲しいな。吸血鬼になった私を、どうするのか」
 例え俺が戦うと言っても、それはそれで仕方がない、ということだろうか。それも含めての決断、選択だ、ということだろうか。
 こんなにも、君の想いが痛い。ただそれだけで打ちのめされてしまいそうなほど。
「俺の答えなんてわかってるはずだ。そうだろ?」
「……どうかな? そうだったらいいと思うけど。自分のことが一番よくわからない、って、こういうことなんだろうね。それが私の願望だってわかってるから、私はその答えが正しいかどうかわからない。
 それでも私は、その願いのために、その望みのために、あるかどうかもわからない可能性に賭けた。……だから、悔いはないんだ。当たっても外れても、私は私にできる精一杯をしたから。
 遠野君が何を選んでも、悔いはないよ」
 どうして。どうしてそんなに強いのかと、それを俺が問うのは侮辱なんだろうけど。
 君が強ければ強いほど、胸が締め付けられる。
 それで君は救われたのかと。それで君は救われるのかと。君が選択することは、君の逃げ道を奪うだけなんじゃないのかと。……それが俺の弱さだとは知りつつも、思わずにはいられない。
 こんな世界なんて壊れてしまえばいいのに、実際はとっくのとうに壊れていて、いまさら壊れようがなかった。
 弓塚の足元には死体が転がっている。あの日の再会と同じように。
 違ったのはその数だ。五指に余るだけの人間を……殺したというのか。
「……答えなんてない。ただやるべきことがあるだけだ」
 そうだとも。この期に及んで決断しなければならないことなどなにもない。
 俺はなんのために戦っている? それだけで十分だ。
 ナイフを構えた。弓塚も鉤爪を構える。緊張感が張り詰め、それでいて肝心の殺意だけが欠如していた。
 手を伸ばせば触れられそうなほどの何かが目に見えるようだった。
「きっと……きっと私を殺してね?」
 弓塚は微笑んで、俺の心は決まった。
 俺はナイフを振り上げて

 それがなんらかのしがらみに決着をつけたことに間違いはなかった。
 誰の、どんなしがらみに決着をつけたのかについては、いろいろな要素が絡み合っていて、当事者の誰にもはっきりとしたことが言えなかったこともまた、間違いなかった。
 そして俺にとっては、それらの大半が意味のないものだった。
 ただ一つ、はっきりしていたのは、それでなにかが解決したことはなかったということだけだ。
 ロアを始末しようが、ロアの転生体となっていた四季を殺そうが、先輩が普通の人ではなかろうが秋葉が魔物の血を引いていようが、それぞれがそれぞれに重要な意味を持っていることはわかっても、それをどうこうしようなんてことは考えなかった。
 俺はただ、それでも弓塚のことを考えていた。
「ダメって……どういうことですか」
「言葉通りの意味です。ロアを殺しただけでは、弓塚さんを元に戻すことはできません」
 なんだそれは。それじゃあ俺は、なんのために四季を殺したんだ。
 先輩は苦渋に満ちた表情を浮かべる。
「言い訳に聞こえるかもしれませんが……弓塚さんには、死徒としての素質があった。だから、グールにならず、親となる吸血鬼、ロアから離れていれば、自らの意志を持って活動することができました。その素質のおかげで死徒にはならずに済む可能性があったものの、しかし、それは短時間に死徒として独立するだけの作用も見せた。……すでに弓塚さんは、独立した死徒なんです」
 先輩は無表情にそう告げて、右手で握り拳を作り、俺の目の前に突き出してきた。
「そして、私の敵です」
 あっさりと告げられて
「……ふざけるなよっ!!」
 他のセリフが思い浮かばなかった。
 それでも、先輩の言っていることは正しい。先輩は最初からそう言っていた。俺と弓塚の戦いに割って入ってきた時、いまは弓塚の味方をするけれど、死徒に堕ちてしまったら敵に回ると、そう言っていた。
 俺は、そんなことにはならないし、させない、と答えた。弓塚は俺が守ると、そう告げた。
 それなのに、それなのに。なんだこれは。なんて悪趣味な冗談だ。
 結局俺はなにもできないのか。友達一人を助けることもできず、殺すことしかできない、ただの殺人鬼なのか。
 きっと殺してくれと微笑んだ弓塚に、なんて答えればいいんだ。俺はお前を守ることもできない、だけど殺してやることはできる、とでも?
 殺すためにナイフを手に取ったわけじゃない。守るために戦うことを選んだんだ。
 だから俺は。
「散々弓塚のことを利用しておいて、助かる見込みがなくなったら敵扱い!? 先輩はそれでよくても、それじゃあ俺は納得できないんだよっ!!」
 自分は怒っているんだろうかと、冷静な自分は考えている。怒る理由なんてどこにもないと思いながら、怒らない理由もどこにもないと考えている。
 俺がなにか怒るものがあるとすれば、それは自分の不甲斐なさに対してであり、安穏としてきたいままでの生き方に対してであり、どこにでもいるような自分が突っ込んではいけない世界に首を突っ込んだことに対してだった。
 知らなければ、そう、知らなければ済んだ話である。吸血鬼のことも、死徒のことも、何も知らず、何も関わらず、ただ日常をこなしていれば、弓塚は……弓塚は、死んでいただろうけど、俺はそれすらも気にせずに生きていたに違いない。
 心の奥底の醒めた自分を強く自覚する。誰かを殺すとしたら、その自分だろう。それ以外の自分には、誰かを殺すことなんてできそうにない。
 こんなに頭に血の上っている自分に一体がなにが出来るというのか。
「俺は弓塚を守るって約束したんだっ! 弓塚は、弓塚は、俺はっ……!!」
 こんなこと言ったら、弓塚は嫌がるかもしれないけど。
 俺たちは似たもの同士なんだ。
 なにもかも、自分と関係ないところで決められて、押し付けられた状況に流されながらもがくしかなくて、それでも必死にもがいて、足掻いて生きていかなければならない。
 ただひたすらに前を見つめて。そこになにがあるのかすらもわからないのに。
 生きることの意味がわからなくたって、生きていたいと思う本能があったから。
 深い意味はない。だからこそ、一度根付いてしまったそれは払拭しがたい。
 死にたくないという恐怖。例え死んだところでそれがなくなるわけではないと、そういうことだろう。
「彼女はあなたの知っている弓塚さんではありませんよ?」
 息が止まる。
 末端から体が冷えていく。
 上っていた血はどこへともなく霧散して、頭の中は空っぽになった。
 それは、たぶんきっと、俺がずっと、考えないようにしていた……事実だ。
「彼女はすでに一度死んでいます。どれだけ弓塚さんに見えたとしても、あれは弓塚さんの皮を被った……化け物です」
 心臓の音が耳の裏まで響いた。
 なにに驚いたというわけでもなく……自分がその事実を認めていることに驚いた。
 そうなんだろう。きっとそうなんだ。あれは弓塚ではなく、既に化け物。死徒と呼ばれる、人類の仇敵。
 望む望まないに関わらず、人を殺さなければ生き長らえることもできない。圧倒的に死を振りまくことしかできない存在へとなってしまった。
 弓塚がどれほど強かろうとも、弓塚がどれほど望まなかろうとも、それは意志では覆せない本能の命令である。
 渇えて喉を潤おそうとすることを、なぜ否定できるのか。だからこそそれは、覆しようのない事実だろう。
「……どうしようもない、ってことですか?」
 自分で言っておきながら、それは違う、と即座に否定する。そんなことはありえない。どうしようもないことだと本当に考えているなら、自分はこんなにみっともなく足掻いたりはしない。
 それはただの願望だと声にならぬ声が聞こえる。その通りだと内心に首肯し、しかし願いもせずに叶えられる望みなどないと反駁する。願えば叶うと信じるほど純粋ではないかもしれないが、なにもせずに諦めるほど腐ってもいない。
 しかし……なにをすればいいのか。それだけがわからない。
 弓塚を生かすためなら弓塚を殺すことすら厭わないというのに。それができれば救えるとすら信じていたのに。
 人間の弓塚が死んでいなければ、化け物の弓塚を殺したら、みんな元通りになるなんて。そんな甘い、幻想。
「私は死徒を滅ぼす役割を負っています。理由の如何を問うのは審問機関の役割であって、私の役割ではありません」
 ただ、それだけ。撃滅し、殲滅し、死滅させる。その存在を打ち砕く、ただそのためだけの役割。
 それはそもそも、先輩には弓塚を助けるような役割も、弓塚を助けることができるような権限もなかったと、そういうことでもある。
 そうと知れても、不思議と心は穏やかだった。いまさら、と思ったのかもしれないし、すでにそんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれない。
 答えなんて決まっていると囁く声が聞こえ。
「そしてあなたは、人外の者を抹殺する超能力者じゃないですか」
 どくん、と鼓動が聞こえる。それは先ほどから心を強く打ち据えていて、俺の意志とは関係なしに弓塚を殺そうとしている本能の疼きだった。
 弓塚が人間の敵ならば、俺は人間の敵の敵。決して人間の味方ではないけれど、敵にするには脆すぎるそれをわざわざ壊そうとも思わない。
 殺人衝動は無闇矢鱈に発動したりはしない。殺すべき価値を認めた瞬間に入るスイッチは、その基準を見定めさせてもくれない。
 だから俺は、弓塚と等しく化け物で、やはり俺たちは似た者同士なんだという思いを強くした。
「……それでも、いいんだ」
 きっと、それでもいい。俺が誰だろうと、弓塚が何者だろうとかまいやしない。
 俺の気持ちは嘘でも偽物でもない。弓塚を守りたいと思うこの気持ちは、紛れもなく本物だ。
 だったらいい。俺は俺を信じる。俺は俺以外の何者でもないんだから。
 弓塚は言っていた。私はこれを選んだ、と。
「俺は弓塚の天敵で、弓塚を殺さずにはいられないのかもしれない。けれど、それでも俺には、俺の意志がある。自分で選び、悩む権利がある。……あるはずだ」
 俺が何者であったとしても、何一つ選べないなんてことはないだろう。状況に流され続けてここまで来たが、ことここまで至ってしまっては、もう流される余地もない。追い詰められて初めて選ぶなんて間抜けもいいところだが、いままで逃げ続けたんだから、最後ぐらいは自分で選ばなければならない。
 弓塚を殺すにしろ、他の決断をするにしろ。きっと私を殺してと言った弓塚の決断のその意味を、俺は受け止めなければならない。
 だから、俺は。
「行くんですか」
 どこへと問いたげな先輩の声を背に受け、俺は答えず歩き出した。
 俺にはなにもできないのかもしれないけれど、否、なにができるはずもないのだけれど。
 ただ君に会いたいと、そう囁く心に従っていた。

 なにもかもすべて。

 夜の公園。空には星が瞬き、地には光が溢れている。
 噴水の縁に腰掛け、夜空を見上げていた。全ての音が遠く、全ての現実が遠い。
 心は静かに空白で、何一つ答えなんてなかった。いまでも自分がどうすればいいのか、どうしたいのかすらわからないでいる。
 それでもここにいればいいのだと、答えにならない答えが囁いていた。
 僕は、そのために、ここにいる。
 どれほどの時を待ったのか。それとも、さして待っていたわけでもないのだろうか。時間の意味すらもなくしてしまうほどの静謐の世界に、君が現れた。
「こんばんわ、遠野君」
「こんばんわ、弓塚」
 当り障りのない、普通の挨拶。夜の闇の中で出会ったことを除けば……いや、除くことをせずとも、まるで普通の友人同士のように、挨拶を交わしていた。
 それこそが、二人の望んだものだから。
「シエル先輩から、聞いたよ。私はもう、このままなんだって」
 あの人はどこまで……と思い、誰よりも辛い役割を引き受けたその覚悟を想う。
 それもまた、先輩が選んだこと、なんだろう。
「今晩で最後だって。そう言ってた。今晩だけは見逃すから、悔いのないように、だってさ」
 そう言いながら笑う。迷いも躊躇いもない。先輩が敵に回ったのなら、それとも戦うという覚悟を込めて。
 弓塚は、とっくのとうにその覚悟を決めている。きっと、今回の事件に巻き込まれたその時から……この世の理不尽の最たるものを味合わされたときから。
「最後なんかじゃ、ないさ」
 別に、アテがあるわけじゃなかった。それでも、終わらせずに済む方法ならいくらでもあって、ただそのどれもが弓塚の望まないもので、そんなものには結局、何一つ意味がないだけだ。
 それでも、なのか。だから、なのか。自分がここにいる理由は、どっちだろうか。
「答えは出たみたいだね」
 先の邂逅では、出せなかった。選べなかった。決断すら、しなかった。
 考えることを捨てて、なにかを決めた気になっていたけれど。
「俺は……お前を殺すよ、弓塚」
 眼鏡を外し、ナイフを構え、ひたと弓塚を見据える。
 すべての事象が出揃った後で決断したところで、なんの意味もない。俺が弓塚を殺しても殺さなくても、何一つ何も変わらない。
 弓塚を救うことができないのなら、弓塚の生死はすでに問題ではなくなっている。生きていようが死んでいようが、それはもう弓塚ではなく、弓塚の形をした化け物だ。
 肯定も否定も差し挟む余地がない。絶望だと、言えば言えただろうし、そう言い放って逃げ出したところで、誰一人責めはしないだろうけど。
「それだけが弓塚のために俺ができることだ。どうせ死ぬなら、俺の手で殺されたいだろ?」
 なんという傲慢。だけどそれだけが確信。
 弓塚は少しだけ俯いて……笑った。
「それってすごい……殺し文句だね」
 ああそうだ。俺はこれからお前を殺すんだ。
 そうなのに、そうだってのに。
 なんで俺は泣きながら笑うんだ。
「ようやく……ようやくっ! ようやく遠野君と同じ場所に立てたと思ったのにっ! あなたと並んで立つことができると思ったのにっ!!」
 拳を握り締め、血反吐を吐くように呪いの言葉を撒き散らし。
 その瞳は、朱に染まっていた。どこまでも純粋な、朱。
「あなたが人殺しなら、それでもよかったっ! あなたが化け物なら、それでもよかったっ!! あなたはあなたのままでいてくれればよかったっ! 私が、私が変われば、それで済むなら、それでよかったのにっ!!」
 血の涙を流しながらの慟哭に、応える言葉も持たない。頭にあるのは、ただひたすらに血の色のみ。
 想われる、ということ。それだけのものを選ばせた、ということ。
 それは自分の責任ではないだろう。選んだ者の責任だろう。
 それでも、それを背負う。それぐらいでしか、応えることが出来ないから。
「一緒にいた! いたかった! それだけ……それだけだったのにっ! なんで!? どうして!? どうして私はあなたを好きになったの!?」
 こんな思いをするぐらいなら、こんな結末を迎えるぐらいなら、好きになんてならなければよかった。人を好きになることがこんなに悪いことだなんて思わなかった。
 ただ好きで、ただ好きだった。半狂乱になりながら、それでもただ一つ、それだけを伝えようとする。
「……なんでかなあ。それなのに……それでいて、私はこれが正しいとも思ってる。私は餌で、あなたは狩人。あなたは私を狩って、私はあなたに狩られる。私たちの関係はそれしかなかったと思うぐらい、これが正しいと思ってる」
 狂乱の終焉。一時の静寂。
 覚悟を決めた、餌の態度。
「いまさらだよね、そんなの」
 覚悟を決める。反撃する覚悟を。ただ食われるだけの餌ではないことを。
 だが、だとしたら、だとしても。掛け違えたボタンのように、間違った俺たちの関係は、どうあってもそこに終着するしかないということか。
「私はあなたが好き。……あなたが好き。あなたが好きなの」
 泣かない。笑わない。
 狂わない。陥らない。
 蔑まない。喜ばない。
 浸らない。与えない。
 何もない。言葉もない。
「だから」
「だから」
「さようなら、遠野君」
「さようなら、弓塚」

 終わっていい物語など一つもない。
 終わらない物語などない。

 彼と一緒に、並んで歩く。
 ただ、それだけ。手をつなぐわけでもない。言葉は交わすけれど、当り障りのない世間話ばかり。
 本当は、違う。私がしたいことは、もっと違うことのはずなのに、私はなぜか怖くて、何かが怖くて、結局は何もできずに、別れの時が来てしまう。
 違うの、と強く思う。でも、なにが違うかなんてわからない。なにかが違うことしかわからないなんて、なにもわかっていないのと一緒だとわかっていても、それでも、思う。
 違うの。私がしたいことは、これじゃないの。
 確かに、満足かと言われれば、満足だ。教室にいるとき、たまに話すだけのクラスメイトより、同じ帰り道を歩くクラスメイトのほうが、なんとなく嬉しい。自分がなにをしたわけでもないけれど、何かが前進した気持ちにすらなる。
 ……だけど、自分ではなにもしてないから。だから私は、なにかをしなければならない、と思う。思うけれど、いざ踏み出そうとすると、たった一歩が酷く恐ろしくなる。
 違和感、を覚える。彼のことが好きな自分に、違和感を覚える。
 私は彼のなにが好きなんだろう? と、思う。特別、かっこいい、というわけではない。特別、運動神経がいいわけではない。
 誰にでも優しいけれど、でもそれは、私に優しくしてくれるのも、その他大勢の一員に過ぎないことの証明だし、私は本当は、私だけに優しくしてと思うような、そんなずるい女だ。
 私は彼を独占したいと思っている。それなのに、彼を独占してはいけない、と思っている。
 恐ろしい。恐ろしいのだ。なにが、というわけでもなく、ただ、恐ろしい。
 それでも好きになった? だから好きになった?
 言葉は曖昧で、いつも意味なんてなくて、だからぐるぐると回るだけで、結局、いつも同じところにいる。
 願う。願えば叶うというから。
 想う。想えば通じるというから。
 この気持ちはなんなのか、と考える。好意。慕情。恋情。……愛情。
 立ち止まる。彼の背を見る。彼は一歩踏み出し、そこで止まる。振り返って、不思議そうな顔をする。私は何も言わずに首を振って、また彼の隣に並ぶ。
 幸せだなあ、と思う。いいなあ、と思う。これ以上のことなんて望む気にもなれないほど、満たされていると感じる。
 だからきっと、私は。
 やっぱり、どうあっても、不幸ではない。

 空を見上げる。夜空を見上げる。
 体中が痛い。でも、痛いだけだ。怖くはない。
 空気がしんとしている。虫すらも鳴かない。鳥ですら羽ばたかない。
 自由だ。きっと自由というのはこういうことだろう。
「殺して、いいよ」
 死んでもいい。そう思える。これが自由でなくてなにが自由なのか。
 右腕は動かない。左足は感覚がない。左手首はどこかにいってしまった。右足は引き裂かれてしまった。
 無事といえるのは、せいぜいが首から上ぐらい。そこから下は、メタメタだ。
「殺して、いいのか」
 寝転がった私を見下ろす遠野君も、左肩を抑えている。
 いつでも殺せたはずなのに、それでも私を殺さずに戦っていた遠野君。
 傷つかなくても私を殺せたはずなのに、傷ついている遠野君。
 たぶん、それは、覚悟の違い。
「私は私が死んでもいいとは思わないけど、それでもいいよ。もう十分だよ」
 もう十分。私はこれ以上遠野君を傷つけられない。
 だからもう、終わりだ。どうしようもなくなってしまった。
「……逃げればいいじゃないか。逃げればいいんだよ」
 いけないなあ、と思う。かなわないなあ、と思う。
 いまさら、いや、いまだにそんなことが言えるんだから、遠野君は本当に普通の人じゃないんだな、と思った。
「私は人の血を吸うよ?」
「別にいいよ」
「遠野君の知らない人が死ぬよ?」
「それこそ知ったこっちゃない」
「私が人を殺すよ?」
「……やっぱイヤ?」
「うん。イヤ」
「そっか。じゃあ、ダメか」
 諦めたように言って、その場に座る。
 公園の芝生が背中に当たっている。
 遠野君はふうと溜め息を吐いて、夜空を見上げた。どうしたものかと思案顔で。
「それで済むなら、それもいいかも、とか思ってた。ちょっとだけ」
「酷いね」
「俺はそういう奴だよ」
「勝手だね」
「俺はそういう奴なんだ」
「うん、知ってた」
 基本的には自分勝手。人に優しいのだって、自分勝手な優しさ。そんなこと知ってる。全部知ってる。
 伊達で未練たらしく片思いしてたわけじゃない。……自慢は出来ないけど。
「ダメだなぁ。……殺せないや」
 ぽつりと。空を見上げたまま。心底悔しそうに。
 どこまでも純粋に壊れている。この人はやっぱりそういう人で、そういう人でしかないんだ。
 やっぱり世界が違ってた。助けられないなら殺そうなんていう発想自体、おかしいはずなのに、遠野君はそうは思っていない。
 どこまでも、遠い人。それでもずっと、好きな人。
「殺せない。……殺せないなんてないよなあ」
 まるでそれがいけないことでもあるかのように、ぼやく。
 いけないこと、ではあるんだろう。私はもう吸血鬼で、人間の敵だ。望もうが望むまいが、人の血を吸わなければ生きていけない。
 私を殺すのが正しい。私が死ぬのが正しい。私が生きているのは間違っている。
「ここまでやっておいて」
 動きたくても動けないほどに、体はばらばらだ。
「うん、ごめん」
 遠野君は悪びれずに答える。
「……それでおしまい?」
「え? おしまいって?」
「……いや、なんでもない」
 殴ってやりたくなったけど、出来なかった。悔しいと思う。あなたに触れるためのこの手が動かないことが。
「さて。どうしようか」
 殺すことはさっぱりと諦めた顔で、遠野君は真剣にそう言った。
 前向きだ。こんなに壊れてるのに前向きだ。なんて変な人だろう。なんてアンバランスな人だろう。
 きっとこの人を殺すことなんて誰にもできない。この人は勝手に自滅していくだろう。
「どうしよう。どうすればいいかな」
 私にはわからない。どうしてこんなことになったのかも、そもそもいまの自分がなんなのかも。
 刹那、気配。
「私に殺されなさい、弓塚さん」
 現れたのは、シエル先輩。その格好は学生服姿で、違和感を覚える。
「と、言ったところで、あなた方は聞く耳を持たないでしょうね」
 即座に立ち上がった遠野君に向けて、降参のポーズをしてみせる。
「弓塚さんを人間に戻すことは出来ません。それは先にお話した通りです」
 微笑みながらそんなことを言うシエル先輩は、ほんとに酷い人だ。
「ですが、人を襲わない死徒にはなれるかもしれません」
 え、と思った。シエル先輩がなにを言っているのか、よくわからなかった。
 私はもうどうしようもないと言ったのはシエル先輩なのに。
「すみませんが、試させてもらいました」
 小さく舌を出して、悪戯っぽく笑う。
「試す……? なにを?」
 油断なく、遠野君が身構える。
「弓塚さんが、人間でいられるかどうか、です」
 ……この人は、なにを言っているんだろうか。徹頭徹尾わからない。
 私はとうの昔に死徒とかいうのになった。そう言ったのはシエル先輩だ。そうであるなら自分の敵だと、慈悲の欠片もない顔で言った人が、なにをいまさら、そんな笑顔でそんなことを言うんだ。
 あまりにも馬鹿にしてる。私は、私はそんなにちっぽけで、生きたり死んだり簡単に押し付けられる存在なのか。
「……あら? もっと感動的なシーンのはずでは?」
 困ったように笑いながら(それでも笑いながら)、シエル先輩は眉を寄せた。
「人間である、ということを、あなたはどう定義しますか? 遠野君」
 やおら真面目な表情になり、あげていた手を下ろして、シエル先輩は腕を組んだ。
「この世に誰一人として同じ人間なんていないのに、私たちは人間という定義を持っています。そしてそれに含まれるものを同類として、仲間として認めます」
 いきなり……いきなり、この人は何を。
「それは酷く心理的で、恣意的なものです。例えば遠野君」
「なんですか」
「あなたはいま、弓塚さんを同胞として認めている。違いますか?」
 遠野君は答えなかった。どうしてかはわからない。
「それは結局は、心のありよう、考え方次第、そう定義することもできるのではないでしょうか。例えば、人間を殺せないということであったり、人間の血を吸えないということであったり」
 ずびし、と指を突きつけられて、自分のことを言ってるのか、と思う。
「人間にとって害がないのであれば、そして意志の疎通ができるのあれば、それは人間と定義してもかまわない。……そうは思いませんか? 遠野君」
 そしてまた、笑顔に戻る。
 どこまで本気なのかわからないけれど、シエル先輩は、私は人間だ、と、そう言っている。んだろう。たぶん。
 どうしてそんなことを言うのかはわからないけれど。
 シエル先輩は、私の敵なんじゃないんだろうか。
「どういうことだよ、先輩」
 遠野君もまた、シエル先輩がなにを言いたいのか理解できず、警戒を解かないでいる。
「私もまた、弓塚さんの同類だということを忘れていませんか? と、そういうことですよ」
 言われて、遠野君には思い当たる節があったようだけど、私にとってはちんぷんかんぷんな話だった。
「人の血を吸わない死徒は存在します。それもまた、一つの在り様なのでしょう。血を吸わねば生命力を失いますが、それは別の形で補填することも可能です」
 方法は……色々ですが、と言葉を濁し、なぜか少し頬を赤らめるシエル先輩。
「弓塚さんは、死徒となってから、人間を殺していません。もちろん死徒になる前も、殺していないでしょう。あまつさえ、私の手助けをし、死徒を狩ることまでしてみせました。十分な証明だとは思いませんか?」
 だから、なんの。
「私は、弓塚さんを死徒として狩る必要性が認められません。なので、この話はこれで終わりです」
 パチパチ、と一人で短く拍手して、シエル先輩は困った顔になった。
「あら? まだわからないんですか?」
 バカの子の相手をしているような表情、というのが一番それっぽいだろうか。まったく状況を理解できていない私と遠野君を置き去りに、シエル先輩は頭を抱えてしまった。
「うーん、と。つまり、なんと言いますか、要約しちゃいますと。ある程度の制限はつくと思いますが、弓塚さんをいま殺す必要はありません、ということなんですけども」
 どう噛み砕けば伝わるのかわからない。苦悩と言えば苦悩だけども、でもそれはとてもどうでもいい苦悩だ。
 言ってることは、私も遠野君もわかってる。ただ、意味がわからないだけだ。
「俺たちは。……俺たちは、本気で殺し合った」
「見ていました」
「試したって言うんですか。先輩が。俺たちを」
「試しました」
「……馬鹿にするなよ!!」
 遠野君が、怒鳴った。
「俺は、俺たちは、望んでこんなことになったわけじゃない! 俺だって、弓塚だって、なにかを選んだわけじゃない! 勝手に! 一方的に! 押し付けられて、選ばされて!」
 それが、ずっと、遠野君が抱えていたもの。
 それは、ずっと、私が抱えていたもの。
 私たちは、なにもかも押し付けられて生きてきて。
 ようやく選んだのは、お互いを殺すことだった。
 それすらも汚された。お前たちに自由などないんだと、崖っぷちで突きつけられた、そんな気分。
 ふざけるなと叫びたい。ふざけるなと泣きたい。ふざけるなと怒りたい。
 私たちには私たちの意志がある。例えいまこの結果が望んだものだったとしても、私はこんなものを救いだなんて認められない。
「私たちだって……怒っていいはず、だよね」
 立ち上がる。立ち上がろうとする。体はバラバラだ。足には感覚がない。それでも、棒のようなそれを地面に押し付けるように立ち上がって、私は遠野君の隣に並び立った。
「んー……でも、私に喧嘩を売っても、いいことありませんよ?」
 シエル先輩は、それでも笑顔だった。
「別に、先輩なんてどうでもいい。先輩は先輩だってわかってる。そんなことはどうでもいい」
「私は、怒るって決めたんです。先輩が敵じゃないなら、別にいいです。でも、私は、私を殺そうとするものに対して、怒るって決めたんです」
 言葉にして、それはすごく当たり前のことじゃないか、と思った。すごく当たり前のことなのに、いままでずっと、そんなことは考えもしなかった。
 それは、生物であれば、誰だってそうしていることだ。唯々諾々と殺されることなんてない。立ち向かおうが、逃避しようが、生物はそれでも生きようとする。
 生きることを諦めることが正しいなんて思わない。私は、諦めなかったから、いまここにいる。
 ずっと、忘れていたような気がする。なんだかとても、すっきりした。
「それで? 二人で生きる、とでも?」
「俺たちしかそうしようとしないなら、そうするさ。助けて欲しいなんて考えるから、利用される」
「誰にも頼らないで生きていけるとは思いません。でも、誰を頼っても、それを後悔したくはないです」
 選ばされるのではなく、選ぶということ。選んだ結果、後悔しないということ。
 たった、それだけだ。そしてたぶん、それは叶わない。後悔しない選択なんてできるはずがない。
 それでも、そうすると決めた。死んでからそれを決めたなんておかしい気もするけれど、それが私の生き方だ。
「私は、生きます」
「俺は、弓塚を助ける」
「じゃあ、私もお手伝いします」
 にっこりと微笑んで……この期に及んで微笑んで。
 それで私は、ようやく、シエル先輩が本当に微笑んでいることを知った。
「私はね、嬉しいんです。弓塚さんが、死徒が血の誘惑に負けるわけじゃないことを証明してくれたんですから。だから本当に、嬉しいんです」
 さっきのシエル先輩の言葉を受けるなら、私とシエル先輩は同じだから。
 同じ悩みを抱えていたから、同じ答えが出たのが嬉しい。私と遠野君が同じ悩みを抱えていたように。
「私にできることは、なんでもさせてもらいます。だから、仲間に入れてくれませんか?」
 本当に呑気に手を差し出されて。
 遠野君と顔を見合わせて、私は久しぶりに笑った気がした。