サクラサクラ



 桜が見たいと、彼女が言った。ベッドの上から、彼女が言った。だから僕は、走っている。狂い咲きの桜を求めて、あの場所へ。
 こんな時期に桜なんて、なんて誰もが言った。だけど僕だけは知っている。あそこでなら桜も咲いている。いまだからこそ咲いている。
 いまだけしか咲いていない。だからこその狂い咲き。

 その桜の側にはいつでも君がいた。か弱く寂しそうな君がいた。それでいて君の瞳には弱さなんて欠片もなく、常に前だけを向いていた。
 その桜の木の枝が欲しいんだ。僕は単刀直入にそう言った。いつものようにお喋りをしている時間はない。今日は彼女が待っている。
 この桜は譲れません。君は静かにそう答えた。桜の木を背にし、舞い散るその花びらに埋もれるように立つ君は、いつもより寂しそうに、そう答えた。
 妹が、待ってるんだ。桜を見たいって、待ってるんだ。言いながら、言葉がうまく出てこないもどかしさに歯噛みする。こんな言葉では何も伝わらない。伝わるはずがない。きちんと伝えないと、わかってもらわないと、そして、桜の枝を譲ってもらわないと。
 誰が待っていても、関係ありません。この桜を傷つけることはできません。そんなことよりも、いつものようにお喋りしましょう?
 そんなことなんて言わないでくれ。それは僕にとって一番大事なことなんだ。僕はどうしても、桜の枝を、その花を持って帰らないといけないんだ。
 私とのお喋りよりも大事?
 そうなんだ。
 私よりも大事?
 ……そうなんだ。
 そこで君は押し黙り、珍しく顔を伏せた。そして顔を上げずに、この桜は譲れませんとだけ答えた。
 僕のお願いよりも、その桜のほうが大事?
 そうです。
 僕よりも、その桜のほうが大事?
 ……そうです。
 互いに譲れない物しかなくて、正直、困ってしまった。僕は君を押しのけてまでその桜を手に入れることはできないし、でも君もまた、僕が君を押しのけて桜を手に入れようとしても、それを止めはしないのはわかっていた。互いになにもできない。だからこそ、僕達は友達で……いや、お喋り仲間でいられた。
 どうやって超えても、互いに傷が残るのはわかっていた。そしてその均衡を崩したのが僕だということもわかっていた。だけど僕は、それでも。桜を手に入れないといけなかった。
 ……わかりました。君は静かにそう言った。一本だけ。一本だけなら、お譲りします。
 それがどんな覚悟の上だったのか、その時の僕にはわからなかった。ただ、君が差し出した枝を受け取ったときは、純粋に嬉しかったことしか覚えていない。

 桜を眺めながら、彼女は逝った。呆気なく、あっさりと。最後に微笑んでくれただけで、僕は満足だった。その微笑みを浮かべさせることができただけで、僕は満足だった。
 彼女の葬儀が済んでから、桜のお礼を言いに行った。本当は、もっと早く挨拶するべきだったのかもしれない。だけどやはり、彼女の死は僕にとってかなりショックな出来事だったのだ。何もする気力が起きないほど。
 そして僕は、そこに行った。二人だけの約束の場所に、桜がいつでも狂い咲く、その場所に。

 君は僕を待っていた。いつもより怖い顔で、いつもより、辛そうに。
 桜は、間に合いましたか?
 声だけは、いつもより優しかった。
 君のおかげで。
 僕の声も、優しかったと思う。
 あなたを、待っていました。
 いつもより怖い声だった。
 でも、本当は、来て欲しくなかった。
 なぜ?
 あなたを、殺さないといけないから……
 その囁きの後に起こったことは、僕にはわからない。ただ今は、僕は君と一緒にいる。君と一緒に、桜の養分となりながら。
 ああ、この桜がこんなに綺麗なのは、僕みたいのがいるからなんだと、そう理解して。
 桜が綺麗なのは、その根元に人間が埋められているからだ。そんな話を思い出した。