何一つ許されることのない



 では、殺された私はなにを思ったのかということを、誰も知らない。

 被害者、という言葉がある。被害者、なのだ。なんという、便利な言葉なのだろう。私はきっと、それがなんであるのか何も知らないし、何もわかることはできないだろう。そうして、何一つ、わかる必要もないのだろう。
 わかってしまえば、迷うから。わからないまま迷ったほうが、救いがある。
「殺されたのは、私。あなたじゃない」
 その言葉は、ひどく相手を傷つけてしまったようで、私は少なからず後悔していた。傷つけたくて、こんなことを言っているわけじゃない。ただ、誰にも私の気持ちはわからないし、誰にも私の気持ちを止めて欲しくないから、私は行動しているだけなのに。私が示すことこそが、真実の意味で、被害者とやらの言葉だからこそ。
 私には、やらなければならないことがある。
「殺したのは、僕の仲間だけどね」
 仲間、という意味が彼女が思っているよりも憎悪を掻き立てるものだということを、おそらく彼女は知らない。彼女は自らの罪を背負いたくないから、そのような言葉を吐く。
 私に罪があると言いながら、彼女にはなんの罪もない。そんなものに、そんな無神経に、憎悪すら感じる。
 感じてしまうように、なってしまった。それは変化なのだろうけれど。そう変化するということが、おそらく、死に付き纏う何か、なのだ。
「あなたは、本当に私が被害者だと思って、そこにいるの?」
 彼女は何も言わず、言えず、息を飲んだ。そんなところじゃないかと思っただけだったが、本当に、そうだったらしい。
 そんなものが、なんの罪を背負い、なんのために贖罪などできるというのだろうか。そんなものが行う贖罪が、本当に、贖罪と呼ばれるものになれると、本気で、彼女は思っているのだろうか。
 そんなことは、ないだろう。ただ、言葉を持っていない。ただ、理念を持っていない。ただ、人を殺すほどのものが、彼女には、ない。それだけのこと。
「私は自分が『被害者』だと言う気はないの。ただ、私は『殺された』。その事実だけがある。そして、私は『蘇った』……それにはきっと、意味があると思うから、私はここにいるの。だから、ね? 邪魔はしないで?」
 彼女のことなど、真実、どうでもいいことだ。彼女がどこの誰で、どんな目的を持っていようとも、私には関係がない。いまの私にとって重要なのは、蘇ったその時、この胸に宿った目的で、その目的が遂行できるか否かで、目的の遂行の障害になる存在だけである。
 邪魔をする者に力を振るうことをためらう理由はない。私はそのためにいるのだから。
「でも、僕は……君みたいな子が、そんな目的のためにそこに立っていること自体が不自然に思えてならないんだ。そんな、なにもかもわかっていて、割り切っていて、それがどうしようもないことだなんて口調で、僕にそんなことを言うことが、とても……許しがたくすら、感じているんだ」
 だから、どう、とは言わない。だから、どう、ということもないのだろう。そんな言葉が自己満足で自己保身でしかないことは、彼女にもきっとわかっているから。ただの我侭が私を止めるほどのものにはならないと、彼女は知っている。だから彼女は、躊躇し、しつつも、ここにいる。それでもそれは、我侭だから。
「あなた、殺されたことはある?」
「……なかったら、きっと、ここにはいなかっただろうね。きっと、いられなかった。でも僕はここにいて、ここに立って、君と話している。……答えは、イエスだよ。僕も一度、殺されたことがある」
 だから、ここにいる。だけれど、だから、何も言えずにいる。それでも、だからこそ、立ち去ることができない。許容し、認定してしまうことができないでいる。
 きっと、今の私達は他の誰よりも同じことを感じ合っているし、たかだか十歩程度の距離を挟んで向かい合っているというのに、他の誰よりも遠いところにいるんだろう。
「復讐したいと思ったことは?」
「……他のことでなら、ある」
 殺された時は、思わなかったということか。それはそれで、稀有な例かもしれない。殺されて、蘇って、自分たちのような存在へと遷移したというのに、それでも復讐心を抱かないなど、生半なことでできることではない。なによりも、復讐のための力がこの手にあるのだから。
 余程、幸せな環境で育ったに違いない。余程、幸せな殺され方をしたに違いない。
 私にはない幸せでできた彼女を、その時私は、絞め殺したくなった。
「そして、あなたはどうしたの?」
「復讐は、しなかったよ。僕は、しなかった」
「……自分の手を汚さなかったとしても、あなたはそれが復讐だと知っているのね」
 憎しみが、殺意が、殺したいと思ったことこそが、復讐である。自分の手によって成し遂げなかったとしても、他の誰がそれを行ったとしても、憎悪は、殺意は、否定することはできない。例え、復讐が果たされ、それが解消されたとしても……それを抱いた事実は、否定することができない。
 ……憎悪の、解消? そんなものが、なぜできるのか。自分の手を汚そうが汚すまいが。復讐なんてもので、どうしてそんな醜い感情が消せるというのか。
 憎悪なんて、そんなもの。抱いた瞬間にすべてを……自分のすべてを否定して、どす黒い何かへと変えてしまう絶対的な感情なのだ。
 人は、それを絶望と言うのかもしれない。自分がたとえ被害者だったとしても。被害者だというのに。そんなものにならなければならなかったという事実こそが、何よりも救いがない。
 なにを憎めばいいのかすらもわからずに。認められるものは、ただこの憎悪のみ。
「私とあなたは立場が違うから、別に協力してとは、私は言わない。だけど、だからこそ……あなた達みたいな生ぬるい馴れ合いをしている連中に私の邪魔をされるのは、心底我慢できないわ」
 許そうが、許すまいが。復讐なんて、したくもないのに。しなければならない想いがあって、それが私を縛り付ける。自分自身が望んだものもわからなくなっても、それだけは……私が復讐を望むだろうという想いだけが、私を縛る。
 事件、などと呼ばれるものが起こった瞬間で、そういった負の面は必然的なもので、どうしようもない。それを否定することこそが不自然であり、ありえざるべき否定だ。本来なら起こらないはずのことが起こった……そうして事件になったものが、いったい、どんな自然を保てるというのか。
 事件が事件として起こった瞬間に決まってしまうものが、確かにある。そして私は、そういったものだけで構成されているのだ。
 彼女はきっと、私を哀れに思っているだろう。だけどそんなものは、他の何よりも、私には必要のないものなのである。
「君の妹は……そんなことを、望まなかったのに」
 だからこそだと。私は言いたい。
「双子なのに……だったのに、とか言いたいの? それこそ、陳腐だし、私を否定しているわ」
「そうかもしれない。だけど、だからこそ、君は君として、そうできるんじゃないかと思えるんじゃないかな?」
 信じることは尊いかもしれない。私もそうしたかった。だけど、だめなのだ。私には、それはできない。私にだけ背負わされたこの業が、そんなものを許してはくれない。
 私は、憎む存在。妹は、許す存在。そうして、分かれてしまった。憎むとか……それどころか、人を嫌うとか、そういう言葉からすら遠い存在だった妹と、私は違う。妹はそれを望まないだろうと思われたのかもしれない。だけど私はそう望むだろうと思われて、ここにいる。
 私を動かしているのは、私ではないのだから。私を説得したところで、意味はない。
 あくまでも他動的に私を突き動かす衝動が、ある。それは他の何よりも大きくて、私を蘇らせてしまった。
 人が死んだとき、重要なのは、死んだ人の想いではない。遺された人々の想いだ。そうでなければならないし、そうでなければならないからこそ、ここにいる。
 殺された者はもう死んでしまったからこそ。生きている人が生きるために、死は活かされなければならない。それが復讐を望むのなら、復讐を行えばいいだろう。それが復讐を望まないのなら、復讐を行う必要はないだろう。
 死んだ時点で、固定化されてしまう想いが、ある。変わることのない、変えることのできなくなった想いに、彼女程度が立ち向かったところで、何一つ変えられはしないのだ。
「あなたは何一つわかっていない。わかっていたとしても、認められない。だからそこにいるし、だからそんなことを言う。……あなたの気持ちは、嬉しいけれど。私はそれでも、復讐を果たす」
 こんなどす黒い感情に埋め尽くされた世界では、どんな小さな光でも太陽よりも眩しく見える。そうして私の身を切るのは、暗闇ではなくその光で。その光がどんなに暖かいものだったとしても、いまさらそれを望むことはない。
 だからこそ、生ぬるさを望み。だからこそ、それを持っている、彼女を憎む。
「ねえ。私を止めたいのなら、殺しなさい。あなた方には、それしかできない。そうでしょう?」
「ええ、そうでしょうね」
 短く、簡潔に答えたのは、彼女ではなく、彼女の連れだ。彼女がわざと、その連れを置いてきたのだろう。だからこそ、彼女は振り向かなかったし、連れのほうも、彼女に声はかけなかった。
「生きる前提、望む前提が違うのなら、そうするしかないこともある。だからこそ、私たちのような役割が生まれた」
 彼女は、そしてその連れは、人を殺す妖怪は許さない、それが大前提の組織に属している。だからそこにいる……復讐のために人を殺し、まだ殺し続けようとする私を止めるために。止める、という手段にはいろいろな意味が含まれるだろうが、実力行使も辞さないというのが、前提を支えるための方法論である。
 そうしなければ危うくなるのは自分たちの命だからという理由だが。だからこそ、命のやりとりをするには相応しいだろう。
「でも、だからってっ。言葉が通じるのに……喋れば、わかりあえるのに。そして言葉を交わしたのに……なんにもできないなんてっ。僕には、そんなことは……」
 認められなくても、それが彼女の現実で。何よりも人を傷つけるのは、絶望ではなく希望なのだということがわかっていたとしても、それを持たずにはいられない弱さがあるからこそ、希望が持てて。そしてその希望のために、前を向いて歩こうとすることができる、それはとても、すばらしいことなのだろうけれど。
 それだけで何もかもが解決できるほど、万能な免罪符ではないのだ。
「誰も、あなたにやれとは言っていません。あなたができないなら私がやります。……あなたはそこで、自分の手を汚すことなく見ていればいいのです。それがあなたの望みなら」
 仲間、なのだと思ったのだが。それも、親密、と言えるほどの。
 しかし彼女の連れの言葉からは、微塵の優しさも感じられない。いたわるでもなく、慈しむでもなく、さりとて、守るでもなく。まるで彼女が許せない存在であるかのように、厳しい表情で、厳しい言葉を投げかけている。彼女を見た時、その生温さを感じたが、この連れの男は、そうでもないらしい。
 そうでなければ。戦い辛い。どうせ戦わなければならないのなら、冷酷に、利己主義に、微塵の優しさもなく抹殺されてしまったほうが、いっそ、私は楽になれる。
 希望を持つこともできないことが、あって。そんなものに振り回される自分が、いて。祈るように願う思いだけが、残された。
 あの時、もし、私が死ななければと。私達が死ぬことがなければ、こんなことにはならなかったのだ。単純明快に、それこそが、私を私にしている。
 それこそが、私の理性を保っている。
「あなたは縛され、自らの意志を裏切っている。そんなことがしたいだけなら、さっさと人間に戻るべきでしょう。立ち止まることしかできないのなら、あなたが妖怪となった意味もない」
 意味、なんて。あるはずもない。すべての事象に、意味などというものは存在しない。
 私の存在自体が無意味で。ともすれば、それは無価値でもあるが。そうしないためにやらなければならないことがある。自らの無価値を自らが肯定することのないよう、行わなければならないことがある。
 私が私であることを証明するために、私は動いている。彼女には、まだそれがないらしい。そして連れの男には、それがあるのだ。
 だがそれは……結局は、何を選んだのかということでしかないのかもしれない。
「時に永遠を望むように……そして、時に永遠に立ち向かうように。戦っている。私も、貴方も。だったら、後は掴み取るだけ。そうでしょう?」
 もう、選んだのだ。いまさらそれがどうのこうのとぐだぐだ言ってる暇もない。私を説得したければすればいいのだ。私はそんな生温い方法を望みはしない。ただそれだけのことなのだから。
 後悔しないために努力することは重要だ。だが、なにをしたって後悔することのほうが多いのが世の中なのだ。
「そうだ。一つ、言っておかなきゃいけないことがあるの」
 それにはあまり、意味はない、どころか逆効果なのかもしれないけれど、言っておいたほうが、いいことなんだろう。自分のために、見ず知らずの他人のために、ここまで一生懸命になってくれた人を無下にできるほど、自分の中の人間は腐っていないと思いたいだけなのかもしれないけれど。それでも私は、言いたいのだ。
「もし、私が死んでも……もう死んでるのにね、いまさら死ぬなんて変だけど……あの人だけは恨まないでね? あの人は別に、何かしたわけじゃないんだから。私が死んでも何も出来なかったのは事実だけど……あの人だけが……いいえ、やっぱりなんでもない。聞かなかったことにして」
 あの人だけが、泣いてくれたから。本当は、あの人のことなんて、欠片も信じていなかったのに……自分達を殺すとしたらあの人だろうとすら思っていたのに、それでも、私達の葬儀で、本心からの涙を流してくれたのはあの人だけだったから。心なんて、いまさらわかってもどうしようもないものがわかってしまったから。
 たとえ、あの人が私を構成する想いを形作ったのだとしても。あの人の恨みが、憎しみが私を形作ったのだとしても。あの人に、罪はないの。私は、そんなことであの人を恨むつもりはないから。一族の中では除け者扱いされていたあの叔父だけが、真実私達を気遣ってくれていた……それがわかっただけで、もういいの。
 あの人はただ、私に心をくれただけ。人として生きて、人として死ぬために必要なものを……こんな身体となってしまってもなお、私に人の心を与えてくれたんだから、私はそれだけで、満足だ。
 それこそが人の心を殺すものだとしても。私は、それでいい。
「貴方が戦いたいものは、本当にそれなのかしら? それは、重要なことと思うけれど」
 乱入者がまだいるとは、思わなかった。そしてその言葉が、いきなり正鵠を射るとも。
 その女の人は、なんだかとても、綺麗な人だった。姿が、というよりは、その雰囲気が。可憐とか、儚いとか、そういう形容が一番似合うだろう。風が吹けば飛んでしまいそうな、触れれば折れてしまいそうな、それでいて、凛とした、その姿。
 野に咲く花のような、ではない。温室で育てられた花のような、そんな姿だ。
「戦うだけなら、誰でも戦っている。貴方だって私だって。でも、貴方はそれと戦いたいのかしら? 私は、後悔しているの……いまだにずっと、後悔しているの。あの時、本当に戦うべきものと戦っていればよかったと、そればかり」
「玉麟……さん……?」
 彼女の言葉で、その女の人の名はわかった。わかったが、聞き覚えは、ない。であるならば、無関係な邪魔者が一人増えたということである。
 ……それでいて、無視できない言葉だった。
「貴方はいま、なにと戦っているの? ……それを、私に教えてもらえないかしら」
 何と……何と戦っているか、なんて。……誰にわかるんだろう? 私が、戦っているもの? 私は戦ってなんかいない……何一つ、争う気なんてない。戦わなかったからこここにいるし、戦わなかったから……ああ、そうか……そう、なのか……?
「恐怖……かしら。強いて言うならば、そのようなものだと思うのだけれど。だけど貴方は、ただ逃げてるだけ……そうでしょう? 死に損なった人間の魂を食らって魂を得た、哀れで愚かなアヤカシさん」
「私は……私はっ……!」
 覚えている。すべてを覚えている。死の間際の、そのすべてを覚えている。ただ殺されたことを。物のように壊されたことを。だけどそれは、私じゃないはずだ。私はずっと、棚の上で、その一部始終を見ていただけだ。
 それなのに、それなのに。いまでもこの胸に残る、消えない傷は。私が殺された傷であり、それと同時に、私が生まれた傷でもある。
 あの時殺されたのは、私。あの時生まれたのも、私。それは矛盾だった。死者は死者でしかないというのなら……なぜ私には、憎悪があるのだろうか。
 殺された瞬間、それは無意味になる。死者によい死者も悪い死者もないように、憎悪も愛も、なにもかも、ありはしないだろう。
 死ぬということは、そういうことなのに。私の中には、憎悪がある。
「貴方はきっと、もっと時間をかけて生まれるべきだった。だけど貴方は、強制的にこの世に生み出され……早産、て言うのかしらね、これも……結果、一つの命として、魂が不足していた。死に損ないの人間の魂に、意識をもつのがやっとのアヤカシの魂が加わったところで、魂の形を保てるはずがないものね。だから貴方は、生者の想念を利用して、魂を補完した……それでようやく、一つの魂としての形は取り繕えたのだけれど。
 それが、貴方の内に憎悪を招いた。貴方のものではない憎悪を」
 ああ、そうなのか、と……酷く、納得できた。私の中にあるのは、あの人の憎悪……それは、わかっていたはずなのに。それによって生み出されたと思っていたから、酷く矛盾してしまったのか。私は、憎悪によって生み出されたのではなく、ただ、生きたいという願いによって生まれ、そして、そのために、憎悪を得ざるをえなかった。
 だからこうも、殺意に実感がなかったのか。これは私の殺意ではないから。逆に、殺すことに躊躇いはなかった。
 私は、本当は、殺人鬼じゃなかった。……なんだかとても、ほっとした。
「由紀、スミス……貴方達は、下がりなさい。二人とも、彼女が生きる前提を見誤った……貴方達には、ここにいる資格さえ、ない」
 いいえ……いいえ。それはちょっとだけ、違う。彼のほうはそうだったけれど(それは私と同じだったのだから、やはり違うのとも、ちょっと違う)、彼女はただ、なにもわかっていなかっただけ。
 彼は、私の思考をトレースした。彼女は、私の行動をトレースした。この人は、私の成り立ちを検証した。とどのつまりは、そういう違いなんだろうけど。どれが間違い、というわけでもなくて、ただそれぞれがそれぞれに優れた分析力を発揮したと、それだけのことなのだけれども。
 私は少し、すっきりした。
「不運な、運命の落とし子よ。貴方は人であった。貴方は想いであった。貴方はアヤカシであった。そしていまの貴方は、ただの不出来なキメラに過ぎない。……そうして貴方は、何と戦うというの? そうして貴方は、何を望むというの? それを、私に聞かせてくれないかしら」
 自分はなんなのかと、そういう問いなのだろう……しかも、自分は何でありたいのかと、そういう、優しい問いなのだろう。この人達は、揃いも揃って、愚かしいほどに優しい人達ばかりだから。
 他人のことで一生懸命になれるだなんて。見ず知らずの私のことに、こんなにも心を砕いてくれるなんて。本当に、真剣に、まっとうに生きようとしているこの人達に比べれば、自分はただ、恨むばかりで、与えられたものを受け入れるばかりで。
 一度とて、自分を本当に振り返ることもなく。何一つ、自分で掴んでも、いない。
「私、は……」
 私は。でも、いまさらなにが望めるのだろう。自分達を殺した奴は、もう殺してしまったというのに。人殺しは、一体、何を望んでもいいのだろうか。
 彼女は、だから私の前に立ちはだかったのだし。彼は、だから私を殺そうとした。
 血に塗れた手で何かを掴めば。それがどんなものだったとしても、血塗れになってしまう。綺麗なものを綺麗なままにしておきたいのなら……綺麗なものは、なにも掴めない。
「大丈夫。あなたはまだ、間に合うから」
「「……えっ……?」」
 彼女と、声がかぶった。彼は、やはり、という顔をしていたが、声は出さなかった。
「私の……私達のネットワークが出した命令は、貴方を、止めること。殺すことじゃなかったし、それはまだ、私達の仕事ではなかったから。そして、なぜ、止めることだったのかといえば……検証を、する必要があったからなの」
「検証……?」
「そう。貴方が殺したと思ってる人達が、貴方が殺した時、本当に生きていたのかどうかを、検証しなければならなかったの」
「それは……」
「結論だけを言うわ。貴方が殺したあの人間は、貴方に殺された時点で、すでに死んでいた……ただの操り人形だった。それが、私達の調査結果よ」
 だが、彼は殺そうとした。結果が出る前から、確実に私を殺そうとしていた。
「彼の非礼はお詫びします。ですが、彼の独断だったとしても、彼に貴方を殺す意志はなかったことは、言い添えておきます。当人は時間稼ぎのつもりだったんでしょう」
 言われて、彼は、困ったように頭を掻いていた。照れ隠しなのか、それとも上手い具合に誤魔化されたということなのかは、判別がつかない。前者であって欲しいとは思うが、あまり、そういう風にも見えないのが、彼だ。
 もっとも、私にわかるのは、彼が本気だったことだけで、それがなにに対してなのかは……やはり、わからないのだけれど。
「もし、貴方がお望みなら、私が、私の権限を持って、貴方の望みを叶えます。すべてを任せろとは言いません……ですが、貴方がすべてを背負う必要もまた、ありません」
 最初は、なんだか恐い人だな、という印象だった。なにしろ、片目には眼帯をしているし、表情はないし、いきなり出てくるし、偉そうだし。
 だけど……なんだか、この人は、とても寂しそうで。その気持ちは……私もちょっと、わかる。一人だから、寂しいんじゃない。一人じゃないのに、一人でいないといけないから、だから、寂しい。私も、一人じゃないけど、でも、頼ることなんてできなくて、一人ぼっちだから。
 理由は、いろいろあるけれど。どれをとっても、譲れないものばかりで。大事なのかと問われるとよくわからなくなるけれど、でもきっと、大事とか、そう表現されるもののために、私は一人でいなければならなかった。
 だから……だから。いきなり、そんなことを言われたって。
「……私は、仕方がない、という言葉は好きではありません。誰もがそれを、免罪符のように使うからです。ですが、世の中には本当に、仕方がないと言うしかないようなことも、ないわけではありません。そういったことには素直に、そう言うことにしています。だから……貴方が、その憎しみを抱いてしまったことは、仕方のないことだと思います」
 わかって……きっと、この人は、わかってそんなことを言っているのだ。私がいまどういう気持ちだとか、どういうことをしたいだとか、そういうことを全部、わかって言っているのだ。きっと、そうに違いない。
 だから私はいま、こんなにも、
「……手を」
 言われるままに、手を差し出した。女の人、玉麟は、ゆっくりと歩み寄ってきて、その手を優しく、握り返してくれた。
 その手が、暖かくて。本当に、暖かくて。
「貴方はまだ、間に合います。その手を血に染める前に……貴方の望まぬ行為に手を染める前に。私と一緒に、戦いませんか?」
 殺したくないわけじゃ、ない。否応なしだったとしても、私の中に憎悪があるのは事実だから。
 殺したいわけじゃ、ない。例え殺されたとしても、私だって別に、誰かを恨もうとは、思わなかった。……思う間もなかったというのも、あるけれど。
 実感のない憎悪に身を任せることが、私の本当にやりたいことだろうか。それは断じて、否でしかない。
 だからといって、私が生まれるのに必要だったものに泥をかけてなにもなかったことになど、できるはずもない。そもそもそれは、私自身の否定に他ならないのだから。
 だから、それはきっと、理想的な折衷案で。もしかしたらただの、生温い優しさの産物でしかないのかもしれないけれど。それでも、それだからこそ。
 玉麟の手を取ってしまうぐらい、嬉しい言葉だった。
「……いいのかな……?」
 そんなことで、いいのかな? 私の、私のものでしかない憎悪なのに、私が果たさなければならないことなのに、それでも、いいのかな? 誰かの手を借りても、誰かと一緒に手を汚しても……いいのかな?
「貴方が、貴方の望みを決断したように。私も、私の望みを決断しただけのことです。……もう、待つだけは、嫌なんです」
 変わらなくちゃいけないから。変わらなくちゃいけないと思ったから。
 変わりたいと思ったから。だから、変わる。それは、些細な、ちっぽけな、どうでもいいような、だけど、だからこそ大事な、決意。
 思わず。思わず、玉麟に飛びつくように抱きついていた。声も出ない。何一つ、言うこともできない。ただただ、涙が溢れてきて、それを隠したくて。
 玉麟は優しく、抱きしめてくれた。
「望んだって、いいんです。それがどんな望みだったとしても。望むことをしなければ、私達だって、何一つ変わりも、行えもしないんですから」
 ただただ、泣きじゃくることしかできなくて。私は子供なんだなと、思った。