守りたいもの、守れないもの



 悲しみ、なのだろうか。それは本当に、悲しみなのだろうか。

 理解してしまう、ということの残酷さを、思う。彼女は理解などしたくなかっただろうに……理解など、しないほうがよかっただろうに。それでもなお理解を選んでしまうのは、強さなのだろうかと疑問に思ってしまう。
「あなたはもう、三人も、殺した……それでもう、十分じゃないか」
 あの人は、こんな事件ばかり彼女に押し付けて。その悲しみを利用してまで、なそうと言うのだろうか。自分の負けを前提にした戦いを、どうしてそこまで、強固に実行できるのだろう。それだけは、不思議なところである。
「一人も三人も、一緒よ? 四人殺せなければ、一人も三人も、一緒。失敗は失敗だし、わたしはそれでも、許せない」
 微笑み、にすら見えた。彼女と相対している女の表情は、微笑みに見えた。なぜ、微笑みなのか。なぜ、微笑めるのか。人間のそういうところは、心底わからない。
 微笑む場面でも、微笑む相手でも、ないというのに。
 学校の、教室である。机は全部脇に避けられている。わざわざこんなシチュエーションを選んだというのが、女の想いの深さなのだろう。いじめっ子を殺すのに、これ以上ない、シチュエーションだろう。
「あなたの愛がそこまで深くても……深いからこそそうなったんだとしても……あなたはそれでは、報われないじゃないか」
 愛とは、そういうものだろうか。それは自分の知らない感情ではあるが……愛とは本当に、そういうものなのだろうか。これは幻想かもしれないが、だとしたら、だからこそ、それは真実に近いのではないだろうか。
 愛なんて、この世のどこにもない感情。
「愛は愛だもの。無償なものだもの。見返りを求めるだけが愛じゃない。わたしはわたしの愛のために、ここにこうしているの。ここでこうしているのは、それのためだもの。報われるとか報われないとか。そういうことは、どうでもいいことよ?」
 彼女の言葉よりは、女の言葉のほうがまだ理解できた。理解しやすいという意味で、だが。愛とは、とどのつまりはそういうものなのではないかと思う。誰のためのものでもないだろう。自分のためのものだろう。人間とは真実、利己的な生き物なのだから。
 彼女はまだ、わかっていない。人を殺すのが憎しみなら、やはり愛も、人を殺すのだということに。
「僕は……僕はこれ以上、それのせいで傷つくあなたを見たくない……」
 そんな悲しい愛なんて、見ていたくない。そんな悲しい愛なんて、認めたくない。そんな悲しいものが、それでも愛だなんて、そんなやるせないことは、許せない。
 それが、彼女の心情だろう。それが、健気に彼女が守りたいものだろう。
 守れもしなかった。持つこともできなかった。そんな羨望の裏返しであるとはいえ。歪んでいるそれですら、綺麗に見えてしまうからこそ。
「傷なんて。そんなものはもう、過去のものよ? いまのわたしを傷つけられるものなんて、何一つないんだから。わたしを傷つけられるものは、わたしを殺して死んでしまったんだから。だからもう、わたしが傷つくなんてことはないのよ?」
「じゃあ……なんで?」
「なにが?」
「なんで、あなたは笑っているの?」
 笑っているというのは、そういう要素なのか。矛盾の、現れなのか。……そう考えれば、たしかに矛盾はしない。人間のくせに。人間の分際で。この女は、殺してきた。そういう矛盾の結晶としての微笑みなら……殺してきた現実を、殺したくないという理性が押し殺そうとし、微笑みとなって、零れ出した。
 女がまだ人間だから。だから、微笑むのか。
「笑って……いるかしら? だとしたらきっと、それは嬉し笑いよ。ようやく、仇が討てるんだもの」
 殺せるから微笑むと、それでもまだ言い張るのか、この女は。そうすることで、矛盾を帳消しにしているのか。気持ちはわからないでもないが……それは、ただの逃げだ。
 だからここにいるということか……現実から目を背けたからこそのこの結果か。
 報われない。やはり、こんなものは愛じゃない。ただの憎しみだ。
「あなたは……そこまでして自分の矛盾に傷ついているのに……自分の矛盾を認めようとすらしてるのに……なんで、こんな手段を……?」
 彼女の言葉は、きっと、届かない。いや、絶対に、届かない。そんなものは、女の矛盾の壁を超えられない。現実の、結果論の残酷さを超えられない。
 女に現実を突き付けるには、まだ足りない。
「選んでしまったからですよ」
 耐え切れず、答えた。これ以上、彼女は言葉を重ねられないだろう。これ以上、彼女は選べないだろう。残酷になど、なりきれないだろう……なってほしくなど、ないのだし。これ以上、悲しみを増し、微笑みを減らし、彼女を傷つけるなんて。
 もう、限界なんだから。
「なにを?」
 その問いは、彼女と女と、両方の口から同時に零れた。
「あの女は現実を直視しないことを選んだ。自分が死なせてしまった事実を認められなかった。だから、ここにいるんです」
「……だから、なにを選んだっていうのさ?」
 彼女の問いには答えず、一歩出る。変身を解き、本来の姿を現す。大鎌を携えた、骸骨の姿。
 人間の首など簡単に刎ねることのできる巨大な鎌を向けられて、女も身構えた。
「自分が子供を殺した現実をなかったことにしたかった。だから、他の原因に罪をなすりつけるために殺しているんですよ」
「……! それは……!」
 言ってはならないことだと、彼女は叫んだ。それは破壊の呪文だと、彼女は叫んだ。
 声にならない声で。
「そうでしょう? あなたは子供を守れなかった。子供の苦悩に気付いてやることもできなかった。あなたは自分の子供をみすみす殺してしまった」
「…………」
 怒りの表情だった。図星を突かれたものの顔だった。やはり、わかっていたか。いや、わかっていて当然か。だから、がむしゃらに殺してきたんだろう。だから、自分達がいるのがわかっていたとしても、やってきたのだろう。そうしなければ、ならなかったから。
 殺して殺して殺して。その果てには自分自身をも殺してしまう。憎しみとはきっと、そういう感情なのだろう。
「だから、自分を憎んだ。それほどまでに。……あなたの気持ちは、よくわかりますよ」
 その言葉で、女の表情が変わった。彼女の表情も、変わった。
 自分の表情も、変わっていただろうか。
「わたしも昔、殺してしまった。死なせてしまった。それはわたしの責ではないと言う者もいた……だが、それはわたしの責任だった。わたしの咎だった」
 だから、罰して欲しかった。優しくなどして欲しくなかった。いたわりの言葉なんて欲しくなかった。罰を与えられるべき存在で、いたかった。
「一時の激情、というのはあいうものを言うんでしょう。わたしはあの時、殺しすぎたのかもしれない。いまでもまだ、後悔が残ります」
 何百年経ったとしても。たとえ自分が死んだとしても。この気持ちは残るんだろう。この悲しみは残るんだろう。だから彼女を守っているという後ろめたさすら、残っていってしまうのだろう。
 それはそれで、いいのだ。それが自分に架せられた罰だというのなら、それはそれでいいのだ。自分はなによりも、それを欲しているのだから。
「こんな気持ちを抱える奴は、少ないほうがいい。わたしは、そう思いますよ。心底ね」
 振り返り。彼女の顔を流し見て、すでに気絶している子供に向かって、鎌を振るった。なんの容赦も躊躇もない。まるで当たり前のことのように、必殺の鎌を繰り出した。
「なんて……なんてことを……!」
 受けとめたのは、彼女である。当然だ。彼女はそこに入れる位置にいた。
 だが、子供を抱き締めているのは、女だった。その子供を殺そうとしていた、女だった。
「どいてください。彼も罰を受けるべきなんですから」
「だからって……殺すことはないじゃない!?」
 叫んだのは、女だ。彼女もあっけに取られて、振りかえった。
「だからってなにも……殺すことなんて、ないじゃない……」
 言いながら、言葉はしぼんだ。女の言葉は、すべて自分に跳ね返っていた。誰に向けたものでもない。ただの、独白だった。
「殺してきたのはあなただ。わたしが肩代わりしてあげると言ってるんですよ? あなたはそれ以上、殺さなくてもいいんだ。守る必要だって、ない」
「だからって……だからって! 自分がなにをやったのかもわかってないのに……そんなのを殺したって……!」
「意味はない、でしょうね」
 意味なんて、ない。自分に憎悪を向け、発狂することもできずに、死んだ子供がそんなことを望むはずがないと思いながらもそうすることしかできなかったのだとしても。意味は、ないのだ。死は、そんな意味を持つことができない現象なのだから。
 悲しみは、悲しみだった。ただ、悲しみであればよかった。それを憎悪にすりかえた……すりかえてしまった妖怪の力の発現こそ、女の不幸だったのかもしれないが。
 ただ不幸だったなら。ただの被害者だったならば。いまの女ほど、罪にも悲しみにもまみれずに済んだのかもしれない。だがそれは、やはり、無理な話だ。
 加害者と被害者。どちらが不幸なのかなんて、一目瞭然なのに。意味は、ない。
「それでも殺すことを選んだのは、あなただ。……どきなさい。本気で殺しますよ?」
 彼女でさえ、怯んだ。女ですら、脅えた。
 それはそうだろう。自分はいま、本気で殺す気なのだから。邪魔をするというのなら、彼女ごとだろうと斬ってみせる。
 知らしめるべきなのだ。もっと、知るべきなのだ。こんなくだらない感情など。毒にしかならないものなど。自分すらも食いつぶす、獰猛な殺意など。
 大鎌を振り上げた。彼女は目をつぶって、それでもその場を離れなかった。
 躊躇わず、迷わず、振り下ろした。こんなのはただの演技だと、本当にやるはずがないと思っていただろう女の上へと。
「……あなたはまだ、守れるでしょう。血に染まった手をしていたとしても」
 女は、彼女を突き飛ばしてその身を投げ出してきた。そうすることが、子供を守るのに一番有効だったからだ。物理的な距離を保つのが、一番安全だったからだ。
 そのためには自分の身を投げ出してもいいと。そう思えたのだ。
「あなたはまだ、救えるでしょう。助けられなかったものだろうと」
 大鎌は、女の頭上で停止していた。はらはらと、数本の髪の毛が舞う。寸止めなど、できるとも思っていなかったが……何事も、やればできるものだ。
「命を張れるのなら。命の大切さだってわかるはずだ」
 女は、泣いていた。尻餅をついて呆然としている彼女にはなす術もない。ただその光景を見守るだけだった。
「あとは、好きにしてください。その子を生かすなり殺すなり。あなたの自由だ」
 変身を解き、彼女を立ち上がらせて、背を向けた。廊下に出て、彼女を支えるようにして歩く。
 これで、よかったのだ。きっと、これでいいのだ。あの女はもう、間違うことはないだろう。罪に立ち向かい、それでも立っていくことができるだろう。
 本当に大切なものに気付いたんだから。それでも生きていけるはずだ。
「ねえ……」
 俯いたままの彼女に声をかけられた。それには答えず、前を向いたまま、別の言葉を返した。
「痛かったですか?」
 彼女は自分が振り下ろした鎌を受けとめた。あれもまた、本気の一撃だった。それをよくもまあ受けとめたものだと感心したが、痛くないはずがない。元より、それほど膂力には優れていないのだから。
「また……助けられたね……」
「そうですね。これがあの人の助けになればいいんですが」
「……そうやって、すぐはぐらかす」
 苦笑にも似た微笑を零しながら、彼女は顔を上げた。やはり、そういう顔が一番可愛いなと思う。内心はどうあれ、微笑むことができるのなら、彼女もまだ、大丈夫だろう。
「でもまあ……今回はそれでもいいや……」
 微笑みに微笑みを返し、少しだけ、窓の外を見た。
 空はただ、青かった。一点の曇りもなく、蒼く澄み渡っていた。