人、愛すれど、愛、愛ならず



 虚ろなものは、言葉だったのか、自分だったのか。
「彼女は……お前を愛していたよ」
 独白のように虚しく響き、そして、消える。言葉なんて高尚なものにはならず、ただの単語の羅列として、風に紛れていった。
「そうだろうさ! そうだろうとも! だがそれは……俺もだ! 俺もまた……愛していたっ……!」
 そう。その通りなんだろう。自分はそれを知っていた。ずいぶんと昔から知っていた。だから自分の問いは、ナンセンスだし、冒涜的とすら言える。尊厳とかプライドとか……そういうものを踏みにじっているセリフだと言われれば、まったくもって返す言葉がなかった。
「じゃあ……なぜ、殺したんだ?」
 それでも、言わずにはいられないこともある。自分の責任を回避するために、と同時に、それを認めるために。
「あいつは人間じゃないか! あいつはただの、脆く儚い人間じゃないか!? なぜ殺さないでいられる……なぜ生かしたままでいられるっ!? あいつは俺のことを人間だと思っていた……信じていた……それは、裏を返せば、俺が人間でなければ用がないと……そういうことじゃないのか……?」
 理由を作りたがっていることは知っていた。自分もそうだが、相手もそうなんだと。人を殺す理由とか、自分が罪を背負う理由とか、自分が目指すものに到達するために必要なものを固定化する理由とか。欲しいものを欲しいというだけに似た、ただの欲求としての、言葉があった。そんなものが必要だとは、どちらも思っていなかったが、それでも、手続きを行うように、理由を作っていた。
「だが我々とは、そういう存在ではないか?」
 お互い、そんなことは知っていた。
「……なんだと……?」
 だが相手は、そう答えた。手続きは、やはり、間違いなく、ただの手続きだということだろうか。
「我々妖怪とは……選択すべき立場にある存在ではないのではないか?」
 選択、という言葉自体が意味を持って、背に圧し掛かる。まったくもって、そうなんじゃないのだろうか。いつ、なにを選び、そしていま、なにをしているのか。自分達が選んできたそれは……本当に、自分達が選んできたものなのかどうか。
「選ぶ権利すら持たないというのかっ! 自らの意志によって生きる我々が、自らの意志によって選択することもできず……ただ怯えて生きなければならないと言うのか!?」
 意志。尊い言葉である。被造物であるからこそそう感じるのだと言ったら、やはり、相手は怒るだろうか。怒るだろう。優しい奴だから。
「なあ。人の想いによって生み出された我々が、なぜ人の決断を待てないんだ? 悪い未来ばかりを確かなものと感じる……確かに我々と人間の間には、そうせざるを得ない壁がある。だから我々は、ネットワークなどというものを作り、人間社会の狭間に隠れ住むしかなかった」
 壁なんてものじゃない。溝なんてものじゃない。もっと物理的で、もっと絶望的で、それでいて、薄っぺらな、境界線。なにが人を人としているのか、の答えと同じように、なにが我々を妖怪としているのか、の答えは、根深く、陰湿で、単純明快である。
「そうさ。人間が我々を理解できたなら。ネットワークなど、生まれるはずもなかった。我々と人間が対等で、それぞれを尊重し合えたなら、ネットワークなど生まれるはずもなく、いま現在取り沙汰されている問題の大部分は発生すらしなかっただろう?」
 理想を語ることと、現状に不満を言うことの見極めは難しい。これが前者であるのか後者であるのか、自分にはわからない。自分も似たようなことを思っているからこそ、その境界は、見極められるはずがなかった。それはつまり、誰にもできない、ということかもしれないが。
「そう。その通りだ。我々は人間とは理解し合うことはできない。だからこそ、ネットワークなどというものがある。だからこそ、我々のような存在がある。我々は、それを是としていたはずだ。現状は確かにそうかもしれない……だが、未来は。未来は違うと信じて、それでも人間社会にあることを選んだ。そうじゃないか?」
 なにを求め、なにを選んだか。そういった問題でしかない。そして、言葉には意味もなく、ただ、現実だけが次々と突きつけられる。鋭利なナイフよりも残酷に。
「俺はもう……俺はもう、飽き飽きだ。何年経った? ネットワークなんてもんじゃない……俺達がそれを信じ初めてから、何年経った? 人間達もいつかは変わってくれると信じ初めて、もう何年だ? そうしてずっと裏切られ続けて……それで、なにがどう変わったんだ?」
 現実に耐え切れなかったとして。それのなにを責めるのだろう。人間のために生きるには、自分達はあまりにも、不出来過ぎる。さりとて、自らの本能のままに生きることは、すでに不可能となってしまった。罪を知った、その時から。
「変わらなかった。それは事実だ。だからといって、我々は彼らに手出しするわけにはいかない。我々が彼らを変えてはならない。それは不文律じゃないか。絶対則じゃないか」
 自分達を変えてくれるように、人間に干渉をする。自分達ですら、人間と共に、手に手を取り合って生きていける社会。何度、夢想しただろう。だがそれは……人間の自主性も尊厳も奪い取る手段に他ならない。
「では、我々とはなんだ? そもそも我々は、そのために生み出されたんじゃないのか? 人間の内的進化を信じる……それもいいだろう。それもありかもしれない。だが、それでなにが変わった? そうして変わらなかった責任は、人間だけにあるものだと、どうして言える? なにもしないでいた我々が、どうして言える……?」
 自分達もまた、人間の産物であるのなら。人間の想いが具現化した存在であるのなら。それが人間に干渉することの、どこに不都合があるのだろうか。自分達は人間から派生しただけの生命に過ぎないならば。親と子のような関係があるのだから、最初から、そうすべきだったのかもしれないと。……同じ事を、いつも、考えている。
「答えは、ないよ。その問いに、答えなんて、ない。それでもなにを選ぶのか……それしか、ないじゃないか」
 どちらも、一長一短だ。それぞれにメリットがあり、それぞれにデメリットがある。そのメリットとデメリットを秤にかけたとき、どちらを選ぶか。どちらが自分に合っているか。それしか、ないのではないだろうか。
「そうさ。その通りだ。だから殺した。俺は殺した。これからだって殺すだろう。これからだって続けるだろう。これが俺の道だ。本来の俺の姿だ。人間に忌み嫌われ、恐れ続けられる鬼として。俺は殺し続けることにした」
 それこそが、人間に望まれている役割。自分達が生まれてきた、本当の意味。
「それに関して、わたしに否はない。だが、お前がそう選んだのと同じように、わたしもまた、人間を守ると誓ったものだ。遥かなる古に人を殺したその償いとして、鬼であるわたしは、そう誓った。……我々の道が違えたとしても。それは変わらない」
 被造物が、ただの被造物であるのなら、苦しみも悲しみも何もない。事実、昔はそうだった。だが、現実を知り、自分達が生まれた理由を知り、それが人間の責とはどうしても言い切れなくなってしまった。その責があるとすれば、こんな世界を生み出した神にこそあるだろうとしか、思えなかった。
 被造物が、造物主を超えるには、それを駆逐するしかない。だから人間は、こう言うのだろうか。神は死んだ、と。
「ああ、そうだろうとも。お前は昔から、そういう奴だった。そして俺は、昔からこういう奴だった。だから俺達は、親友でいられた……だからこうして、対峙している。それでいいじゃないか。俺達のような存在は、所詮、そんなもんじゃないか」
 それぞれが自然なままであることが、一番大事だった。不自然な関係を無理して続けるよりは、自然な関係のまま、綺麗に終わりたかった。それがお互いの真情ではあった……
「だがそれでも……わたしは、こんな結末は望まなかったよ」
 それによってもたらされる、結論以外は。
「俺だってそうさ。俺だってずっと、人間を信じていたかった」
 悲しげな声は、自分のものだったのか、相手のものだったのか。お互い、似たような気持ちだったのかもしれない。望まないままに、望まない結論に辿りついてしまった。いつ、なにが、どのぐらい違っていれば、この結末に辿りつかずに済んだんだろうと。そんな益体もないことばかりを考えていた。
「聞かなくたってわかってるが……あえて、もう一度だけ、聞こう。……なぜ、殺したんだ?」
 手続きは、もうすぐ終わる。お互い、後腐れなく終わりたかった。それを回避する手段はいくらでもあったはずだが……お互い、そうする気には、どうしてもなれなかった。
「お前が、あえてその質問を最後に選んだからだよ」
 笑っていたように思えた。笑われていたように思えた。だからこそ、こういう結末になったんだと……自分の非を責めるような、そんな笑いに思えた。
「やはり……そうなのか……? そのせいで……お前は……」
 わたしは、自分の罪に気付いていた。だからここに来たし、同時に、ここから逃げ出したかった。こんな結末を望まなかったから犯した罪が……結果的に、それを引き寄せた。だからこれは、罰なのだ。きっと。
「俺はあいつを愛していた。あいつだって、俺のことを愛してくれていた。だが同じぐらい……お前のことを、愛していた。お前もまた、あいつを愛していた……だからだ」
 愛情、というものの尺度は、ない。それは、相対的にしか計ることはできない。誰かと比べて、愛している、愛していない、そう言うことはできるだろう……だが、絶対的な指標というものは、ない。そもそも、愛なんてものがあるかどうかすら、誰にもわからない。だからこそ、こうなった、とは思いたくはなかったが、だからこそ、こうなった、と決めつけたかった。
「……本当に、こんな結末など望まなかったんだよ。わたしは」
 悲しいのは自分ではない。自分は悲しんでいい立場ではない。それでも悲しいのは事実で……だからこそ、より悲しくなってしまった。
「そうだろうさ。だからお前は身を引いた。だからあいつは、俺を選んだ。……俺の気持ちなど無視して、お前達はそうやって通じ合っていたんだろうな」

「……ようやく、殺してくれたか……」
「ああ……」
「ずっと、待っていた……この時を」
「……ああ」
「やはりな……お前は、知っていたんだな……俺が、なにを望んでいるのかまで」
「……ああ……」
「……あいつは……生きてるんだろう……?」
「知って……いたか……」
「やはり……と、言うべきだと思うがな……まあ、いいさ……」
「…………」
「殺すだと? 人間を、殺すだと? 愛する人間を……殺す、だと……? なぜ、できる……なぜ、いまさら……そんなことができたなら……我々は、ネットワークになど入らなかった……そんなものは、必要なかった」
「あいつの特異体質は、お前だって知っていたはずだ……なぜ、殺さなかった?」
「あいつの心臓は、左にはない……そんなことは、知っていた。いたが……だから、なんだというんだ……? 俺は……俺にはもう、なにもないじゃないか……空っぽなだけで……いまさら、なにを支えに、なんのために生きろと……?」
「それは……」
「いいんだ……俺は、こうしたかったんだ……お前に殺されることこそが、望みだったんだ……だって、それしかないだろう……? 俺にはもう、それぐらいしかできないじゃないか……いまさら捨てることもできないものを、だが苦痛しかもたらさなくなってしまったものを……どうしろと? 抱え続けろと?」
「わたしには……答えられないよ」
「……そうやって、お前は俺を傷つける……だから、これぐらいはいいじゃないか……」
「ああ、そうだな……」
「最後ぐらいは……自分の最後ぐらいは、自分で選ぶ……それぐらいの権利があっても、いいじゃないか……」
「ああ……そうだな」
「なぜ、と、聞いたな」
「ああ」
「お前達を、愛していたからだよ」
「…………」
「あの時、お前に殺されなかった俺は生き続け……だが、なにかを残せるなどとは、どうしても思えなかった。奪い、殺し、ただの破壊をもたらす自分が、いまさらなにをやったところで、紙芝居よりも薄っぺらで現実味のない……ただの、お遊びのような現実だった」
「………………」
「それでも、残したいじゃないか……俺は、俺として、それでも生きてきた。その矜持を、そのために生き続けてきた過去を、なにもかもなかったことにするなんて、できるはずがないじゃないか」
「……………………」
「だから……殺せなかった。殺す気だった……殺意は、衝動は、確かにあった……だが、殺せなかったよ……殺せなかったんだ。この俺が。……それだけで、いい。俺はもう、それだけで満足だ……」
「……ああ……そう、なんだろうな……」
「忘れないでくれ……鬼が、いたことを。鬼が、いることを。こんな鬼もいたんだということを……忘れないでくれ……」
「忘れられる……ものかよ……わたしだって……お前を、愛していたんだから……」