very very happy



 私の名前も知らないあなたに恋をしました。

 その人はいつも唐突にやって来た。彼がバイトとして働いている喫茶店。店長は変わり者だが穏やかで落ち着いた人で、客の大半は、この店長を目当てにやってくる。なによりも店長は、奥さんを亡くして独身だったので、誰もがその後釜を狙っていた。
 だけどその人は、別に店長と語らうわけでもなく、ただいつも、ブラックのコーヒーを飲むだけだった。窓際の、その人が来る時はいつも空いている席に座り、雑誌を読むわけでも新聞を広げるわけでもなく、ただコーヒーを飲んで、そして帰っていく。それだけの人だった。
 なぜ興味が湧いたのかもわからない。その人が格別興味を引くような人だったとも思えない。ただのOLか、言い方は悪いが、水商売に携わっているような格好をした女性だ。だとしたらこんな時間、昼日中に喫茶店になど来ないだろうから、やはりOLだったのだろうか。
 その人は毎週水曜日と金曜日にやって来た。彼がバイトとしてその店に来るのもまた、水曜日と金曜日だけだった。他のバイトと掛け持ちしていたので、この店にばかり来られなかったのだ。
 そんなこんなで一か月が過ぎた頃、バイトの一つをクビになり、それはよくある事だったが、ともかく空いた時間をこの喫茶店でのバイトにあてる事にした。あまり客商売向きではない性格であるし、客とのトラブルよりも、同僚や店長とのトラブルが絶えないせいで、顔馴染みの店以外でのバイトは、ほとんど数ヶ月でクビになる。
 月曜日もバイトに来るようになった。その人もまた、月曜日に来るようになった。
 それからなんとなく、バイトが楽しみになるようになった。それまでのバイトは、ただ金を作る事が目的で、免許を取って、バイクを買って、独り立ちする時のための資金を稼ぐのが目的だったから、それほどバイトがしたかったわけでもなかったが、バイトが楽しみになった。
 かといって、言葉を交わした事があるわけでもない。その人が店に来るようになってから、すでに数ヶ月が経過していた。それでもただのウェイターと女性客という関係以上になった事はなく、注文の遣り取り以上の事は一度もなかった。
 ある金曜日。
 帰り際、店の裏口でゴミを出していたら、その人がやってきた。
「今日はこれで終わり?」
 ぞっとするような声だった。艶めかしいというだけではなく、どこか翳りを含んだ、なにかを諦めているような声だった。
「ああ。なにか用か?」
 客商売のバイトばかりしているわりには、結局営業スマイルも身に付かなかった。接客用の言葉も、店から一歩出ればなりを潜める。とはいえ、客のほうにしても、彼があえて微笑むよりは、無愛想にしているほうがいいという希望も多いらしいので、それで損をしたことはないが。
「時間があるなら、私に付き合わない?」
 泣いていたように見えた。泣いているようにも見えた。どう違うのかはわからないが、その人はやけに悲しそうだった。
「少し待ってもらえれば構わない」
 他に用事があるわけでもない。どうせこの後は、家に帰る程度の予定しかないのだ。わざわざ帰る必要もない家に。
「じゃあ、待ってるわ。赤い車だから」
 そう言い放って、女は歩み去った。その先にあるのは、おそらく駐車場である。そういえば、どうやってここに来ているのかも知らなかったなと、どうでもいい事を考えながら、店に戻った。本当は、あと三十分ほど時間が残っていたのだが、時刻はすでに夜九時を超えている。ほとんど客のいないこの状況でわざわざ引き留める理由があるはずもなく、店長はあっさりと早引けの許可を出してくれた。バイト代はおまけしといてくれるらしい。いい人だが、こんな事をやっていて経営が成り立つのか、いつも不安になる。
 もっともそれは、彼が心配しなければならないような事でもない。とっとと私服に着替えて、学校の制服の入っている鞄を肩に下げて、正面から店を出た。駐車場にはこっちの方が近い。店長は珍しそうな顔をしたが、なにも言わなかった。客もいないような状況で、細かい事を言う人ではない。
 赤い車とやらは、やはり駐車場に止められていた。エンジンはすでにかけられている。夏だからいいものの、冬になったらこの街で乗るのは無謀なんじゃないかと思うオープンカーだった。
「あら、早いのね」
 女は少し驚いたようだが、戸惑いはしなかった。色の濃いサングラスはあまり似合っていなかったが、趣味でかけているというよりは、義務でかけているようなかけかただった。
「少しと言ったはずだが」
 言葉少なに、荷物を後部座席に投げ込んで助手席に飛び込む。普通なら扉を開けるところだが、それだとオープンカーの意味がない。映画の見過ぎと言われるかもしれないが、そういったパフォーマンスが、彼は嫌いではなかった。
「どこに行きたい?」
「誘ったのはそっちだ」
 聞かれても困る。なぜ自分がついてきたのかもよくわからないうちに、車は発進した。女の忍び笑いを零しながら。
「……なにがおかしい?」
「無愛想なところ」
 大人の余裕のようなものをにじませている。外見からすると二十代の後半といったところだろうか。化粧があまり好きではないのか、しかし身だしなみ程度としてわきまえているのか、うっすらと化粧の匂いが漂った。
 口紅だけは悪趣味な赤紫で塗りたくっていた。
「いつもそうなの?」
 車は真っ直ぐに歓楽街へと向かっていた。そこを突き抜けてその先に行ってしまえば彼の家があるのだが、そんな事を女が知っているはずもない。
「さあな」
 愛想を振りまくのが嫌だというわけでもなかった。ただ振りまく理由が特になかったから、いつもむっつりとしているだけである。それに、いまさら彼がいつでも微笑むようになったりしたら、周囲の人間は驚きで心臓が潰れるだろう。長年かけて積み上げたスタイルというものは、そう簡単には覆せないものだ。
「……どうしてついてきたの?」
 その質問が予想外だったのか、それとも予想通りだったのかは、なぜかはっきりとしなかった。
「誘われたからだ」
 興味があったからというのもあるが、つまりはそれが先に立つ。誘われたから。自分から誘う気はない。
 とはいえ、誘われた事を免罪符にしようとしているのは……やはり裏切りだろうか。
「どうして誘ったのかしらね……?」
 聞かれても答える術はない。ということは、答えを求めての問いではないという事だろう。勝手にそう判断して、彼は心地良く走る風に身を任せ、シートにもたれかかった。最近、厄介事ばかりでろくに眠っていない。疲れも溜まっている。そんな状況でついてきてしまったのだから……やはりなにかがあるという事だろうか。この女には。
 第一印象は、あいつに似てるというものだった。それは冒涜のような気がして、吐き気がした。
「私の仕事、知ってる?」
 うとうととしていた所に話しかけられた。すでにかなりの距離を走っているような気がする。かといって市内を横断するほどの距離でもないが、しかし歓楽街ははるか後方にあった。
「いいや」
 知るはずがない。推測はしたが、推理というほどのものでもないし。それほど詳しく知らなかったとしても、なにも困る事はなかった。ただの客とウェイターだ。どんな興味が二人を繋げたとしても、いまのところの関係は、それでしかない。
「私、美人でしょう?」
「ああ」
 ぬけぬけと言うが、美人なのは確かだ。多少色のセンスは悪かったとしても、その事実を損なうほどのものでもない。
「愛人をしてるの」
 なにを思ってのセリフかはよくわからなかった。その気になれば表情からでも読めたかもしれないが、生憎と目を開けるのすら億劫で、ただ聞き流すだけだった。
「どう思うかしら?」
「なにをだ?」
「愛人について、よ」
「さあな。あんたについては美人だと思うが」
 それこそ、愛人をして生きていけるほど。それが優れている事なのか、また、良い事なのかはともかくとして。
「誉めてるの?」
「そのつもりだが」
「全然そんな気がしないわ」
「かもな」
 そういうのは得意だ。相手がけなされていると思うような誉めかたというのは。心の底から誉めているつもりではあるのだが、どうもうまく伝わらないらしい。
 だからといってどうという事もないが。そう諦めるのも癖になっていた。
「ふふ、でもあなた、きちんと私の相手をしてくれるのね」
 なにが嬉しいのかもわからないが、ともかく嬉しそうに、女は微笑んでいる。少しだけ寂しそうで辛そうな横顔を横目で眺めながら、彼は返事もせずに、眠った振りをした。
「そのままでいいから、話を聞いてくれる?」
「勝手に話せばいい」
 どうも、女という生き物はよくわからない。女にしたって男はわからないと思っているだろうが、これが同じ人間なのかと疑ってしまう。ロマンチックを求めるのかと思えば常に現実的で、打算を忘れる事はない。好きも嫌いも、それが自分にとって得になるかどうかという事ばかりを考えている。少なくとも、彼の周りにいた女というのはすべてそうだった。
 だけどあいつだけは違った。死を目前にして微笑んだあの女だけは、そんな女達とは違う女だった。
 この女からも、同じ匂いがする。
「私はね、顔はいいけど、それ以外の取り柄がなくて。頭がいいわけでも、運動ができるわけでもなかったし。だから愛人してるの」
 空気の匂いが変わった。高度が少しずつ上がっている。山に登っているのだろうか。こんな時間に登山道は開いていただろうか。
「最初はね、いちおう普通にOLになったんだけど。そこの社長に目を付けられて、って言ったら悪いのかもしれないけど、でもそんな感じで、一ヶ月で会社を辞めて、それからずっと、愛人生活」
 ふうと、大きな溜め息。無反応の彼に話しかけている虚しさから、ではないだろう。ただ、そんな事しかできない自分に対する諦めのような。結局はその選択をしたのは自分で、それを受け入れている自分に対する虚しさのような、諦めのような。
 悔しさのような。
「楽しいのか?」
「え? なにが?」
「愛人が、だ」
 目も開けない。起きようという努力もしない。半覚醒状態の曖昧な率直さで聞いていた。それが相手を傷付けるかもしれないなんて事は考えもしないで。
 しかし女は、別に傷付いた風でもなく、初めて投げかけられた疑問に、少し戸惑っているだけのようだった。愛人をやっているのかと顔をしかめられた事はあっても、楽しいのかと聞き返された事はない。
「さあ、どうなのかしら?楽しいと思った事はないけど……楽な事は楽よね。好きになれない連中と仕事をしなくてもいいし。普通に働くよりいいお金になるし」
 でも、体を売っているのだから、それぐらいでなければ割に合わない。それに、いつまでも愛人なんて続けられるものでもないのだ。いつかは捨てられる時が、決別しなければならなく時が来る。それまでに老後の心配までしなければならないのだから、まったく、割に合わない。
 そこまでわかっていながら、なぜこんな事をしているのか。自分が不思議でならないが、いまさら変えられるとも思えなかった。他の生き方なんて知らないから。
「いろいろと買ってもらえるし。この車だって貢ぎものなのよ?」
 もっとも、それが欲しいわけでもない。車だろうが、金だろうが、あったとしても困らなくても、あったとしても、楽しくはならないのだ。それで楽しくなれる性格だったなら良かったのかもしれないけれど。
 ああ、本当に。なんでこんな生活をしているのかしら。
「いやならやめればいい」
「あら、私、いやだなんて言ったかしら?」
「違うのか?」
 目を見詰めているわけでもないのに、真正面から射すくめられた気分で、彼女は息を飲んだ。自分は結局、いまの生活がいやなのか、変えたいのか。そんな単純な事がわからなくて。
 だけど保証のない生活は恐い。愛人をやめたとしても、結局はホステスぐらいにしかなれないだろう。すべてがいまさらだ。
 もっとも、愛人よりはホステスのほうがマシかもしれないけれど。
「私、なんでこんな話してるのかしら?」
 喫茶店で会っているだけのウェイターに、名前すら知らない男に、いったいなにを愚痴っているのか。そしてなんのために、山に登ろうとしているのか。
 山頂はもうすぐだ。
「俺はなんでついてきたんだ?」
「……そうよね。わかるはずないわよね」
「俺にはな」
 いままで、答えは他人が全部出してくれた。進学は無理だとか、会社勤めは無理だとか、財産管理なんて無理だとか。まともに生きる事さえできないとかも。
 自分の意志なんてどこにもない。ただ生きてきた。周囲の意見に流されて、好きなように体を弄ばれて。
 本当に愛人なんかしたかったのか?
「やめたいのなら、手伝ってやる」
 それは何気ない一言だった。意識して言ったわけではない。ただ、そう言う事は当然のようにも思えた。だから喋っていた。
「あなたが? やめたほうがいいわよ。あの人、ヤクザとも繋がりがある人だから」
 だから、いまさら愛人をやめたいと言ったところで、簡単にやめさせてもらえるはずもない。なによりも気に入られてしまっているし。もしいまやめさせてくれと言ったら……輪姦ぐらいで済ませてもらえるだろうか?
「ヤクザが恐いから続けるのか?」
「さあ?」
 恐いと思った事はない。ただの一度も。それは抑止力ではなかった。
「ヤクザぐらい、いくらでも片を付けてやる」
 まさしく吐き捨てるように。心底から憎んでいるかのように。ためらいもなく殺せるような酷薄さで。
 なにがあったというのか。
「あんたはどうしたい? ……それが重要だ」
 後悔があるのなら。辞めればいい。辞めさせてやる。
 だが続けたいのだとしたら、そんな事はお門違いも甚だしい。彼は他人になにかを強制する事を好まなかった。他人がなにかを強制されているのも好まなかった。なによりも自分が強制される事を嫌ったから。
 女がそれを望むのなら叶えるだろう。彼にはその力がある。彼にはその目的がある。あいつに似た女を苦しめる者は許せなかった。
 それが守れなかった事に対する贖罪なのか? あいつは最初から死を覚悟していたというのに。
 そんな贖罪は、ただの冒涜だ。
「よく……わからないわ」
 自分の心なんてものは、結局一番自由にならないものだった。自分のものに比べれば、まだ他人のもののほうがよく見える。なにが欲しいのか。金か、力か、権力か。ただの観察者であればいい。自分が人間だと思わなければいい。ただの物の視点で見た時、人間の本性が浮き彫りにされた。
 醜く腐臭を放つ本性が。
「さあ、着いたわ。降りる?」
「ああ。着いたんならな」
 まずは女が車を降りた。彼も続いて降りた。歩き出したのは彼の方が早かった。目を開けた瞬間、そこがどこなのかはすぐにわかった。
 山の頂上。ロープウェイでも情緒的に登ってくる事ができる。数組のカップルと家族連れがすでに来ていて、ドームのない天体観測所のような展望台に登って、光にきらめく街を見下ろしていた。
「奇麗ね」
 風が強い。障害物ない高さでの風は、しかし彼女の髪をはためかせるだけで、その心まで顕にはしてくれなかった。
 いっそそれぐらい簡単に素直になれればいいのに。
「そうだな」
 特にそう思っている風でもなく、なんの感慨も込められていない言葉だった。ただ、誰かが奇麗だと思うという事は奇麗なんだろうという、反射的な相槌のようにも聞こえた。
 しかし彼の横顔を盗み見て、それが間違いである事を悟った。彼は本当に、この夜景を楽しみ、そして、美しいと感じているのである。
 ただ、これだけの風景も一緒に見られなかったと後悔をにじませながら。
「あなたはどうしてついてきたの?」
「……いまさらそれを聞くのか?」
 もうそんな事は聞かれないと思っていた彼は驚いた。それが彼の見せた初めての隙だったので、彼女は少し嬉しくなり、そしてすぐに、虚しくなった。
「お祭りの後って……」
「なんだ?」
「お祭りの後って……虚しくならない?」
 電灯にたかる虫の羽音がうるさい。風の音もうるさい。電灯自体の発する低い唸り声のような共鳴音もうるさい。
 だからといって、女の声が聞こえなくなるほどではない。彼が聞き返したのは、目の前の夜景に心を奪われ、そして、過去に想いを馳せていたからである。
「虚しさまで含めて祭りなんじゃないのか?」
 楽しいだけなんて事は有り得ない。人生には山だって谷だってある。虚しさとはむしろ、楽しさの裏返しであり証明なのだから、忌避すべきようなものでもないはずだ。
「そう思えれば……きっと楽なんだろうけど」
 虚しさなんて欲しくない。ずっと楽しいままでいい。静かに静かに、余韻や残響が消え去るような緩やかさで、楽しさが薄まっていけばいいのに。そして虚しさなんて感じないでいられれば、きっといいのに。
「あなたはどうして私についてきたの……?」
 それはまるで、絶対的な答えを彼が持っている事を期待するような声だった。彼ならどんな疑問にだって明解に答えてくれると、彼女にとって必要な答えを授けてくれると、そういった事を期待した声だった。
「さて、な」
 彼は曖昧に答えずに、はぐらかして再び夜景を見詰めた。寸前まで見ていた女の横顔には、寂しさや虚しさよりも、悲しみが見えた。
「あそこにはいろんな家があるのよね」
「そうだな」
「そしてきっと、いろんな家庭があるのよね」
「……そうだな」
「だけど私は、ここにいるのよね」
 奇麗な夜景。宝石をちりばめたような、色取り取りの光の乱舞。時に明滅し、時に維持し、時に鋭く光り、時に虚しく消えていく。
 そこには幸せがあるように見えた。奇麗な奇麗な、まるで子供が見る夢のような幸せがあるように見えた。そして彼女はその中にはなく、ただここで、それを眺めている。他人の幸福を、ただ眺めている。
「あんたはなにがしたいんだ?」
 それは、初めての質問のように思えた。まるで興味のなかったものに、ようやく少しだけ興味が湧いたような、そんな疑問だった。
「さあ? 私にもよくわからないの」
 幸せを眺めていて。自分もその中に入りたいのだろうか? 別にいまの自分が不幸せだとも思っていないのに。金だってある理解ある友人だっている。欲しいものはなんだって手に入る。
 だけど心だけが、自由にならない。
 なにが幸せ?
「どうして俺を連れてきた?」
 傍目からは、自分達は恋人にでも見えるんだろうか。それとも……それとも。なんだろう。他になにに見えるというのだろう。
「あなた、私と同じ瞳をしてるように見えたから」
 希望なんて持ちもせずに。儚い夢など抱きもせずに。ただ厳しい現実だけを見据えて、すぐにでも自分を傷付けようとする現実を見据えて、それに怯えている。そんな目に見える。
 恐いのなら見なければいいのに。目を逸らしたとき、それがどういう風に変わってしまうのかが恐いような。恐怖の根源を見極めようとしているような。
 自分の本質を、見定めようとしているような。そんな瞳。
「あんたは……俺になにが見える?」
「鏡に写った私、かしら?」
 そして憎しみに醜く歪み、怒りに悲しみの涙を流し、哀れな真紅の血に染まった自分が見える。残忍で冷酷で非情な、人を人とも思わないような。
 それでもその背には天使のような翼があるのだ。自由になるための翼が。
 自分にはない翼が。
「あんたは……俺でなにがしたいんだ?」
 同情をしたいのだろうか。哀れみをかけたいのだろうか。彼の向こう側にいる自分のために。彼の向こう側にいる彼女の本性のために。
「憎しみとか悲しみとか……そういうものを捨てたいの」
 愛とか喜びとか。そういうものを捨てたいの。それが表裏に存在するというのなら、愛も喜びもいらない。憎しみと悲しみがないほうがいい。
 もう、これ以上悪い事なんてないはずだから。いい事だってなくていい。
「どうやって?」
「さあ? それが知りたくて、ここに来たつもりだったけど」
 だけど。彼女のそんなちっぽけな望みは、この街の光の前に霞んで見えた。なにをくだらない事で思い悩んでいるのかと罵倒されている気がした。なんのために生きているのだと叱咤されている気がした。
 自由になればいいじゃないかと、励まされている気がした。
「私は生きていてもいいのかしら?」
 目的もなくただ生きる事の虚しさを抱えながら、それでも生きていけるのだろうか。いっそ死んでしまったほうが、他の誰よりも、自分のためになるんじゃないだろうか。
「死ぬために生まれた人間はいない」
 生まれた結果として死ぬ事はあったとしても。そのために生まれるわけじゃない。あいつが死んだのだって……それが運命だったとしても。意味があるのだ。無駄ではないのだ。
 ただあの一瞬、自分と出会うために。それが理由でいい。
「私はきっと……誰かを憎まなければ生きていけない」
 愛すると同時に憎まなければ生きていけない。だからあの男は都合がよかった。お金をくれる。だから愛せる。だけど彼女の意志とは無関係に、彼女を蹂躙する。だから憎める。
 表裏にあるのではない。それは一体なのだ。だから捨てたい。
 傷付けることがいやだなんて、ただの偽善者のセリフだけど。傷付けられるのと傷付けるののどちらがいいかといえば、傷付けられるほうが、きっと楽だ。傷付けるのには勇気がいるから。
 それは自分にはないから。
「俺を憎めばいい」
 彼の申し出は唐突だった。そして理解不能だった。
「……え?」
「俺を憎めばいい。それがあんたの生きる理由になるのなら。それがあんたの自由になるのなら」
「……同情? やめてよね、そんな安っぽい感情」
 同情で生かされるぐらいなら、利用で生かされているほうがいい。少なくともあの男は、この体ぐらいは必要としている。だけど同情なんて。体すらも望んではいないじゃないか。
「憎しみも悲しみも。哀れみだって。人を救う事はできない。人に人を救う事はできない。人は常に、自らの足で立っているのだから」
 誰もその足の代わりになる事はできない。もしできたとしても、共倒れになるしかないだろう。そんなものは救いではない。ただの押し付けであり、ただの偽善だ。
 人を救うには、自分の足で立たせてやらなければならない。自分の足で立てる事を教えてやらなければならない。そしてそれだけでいい。それ以上はいらない。
「あんたは救われたいんだろう? 俺があんたに見えるというなら」
 つまりは彼も、彼でさえ、救いを望んでいるというのだろうか? なにからの救いを? なにからの脱却を? 死んでしまった恋人という呪縛から?
 それは呪縛なのか?
「私は……さあ、どうなのかしら?」
 救われてみたい気もする。このままずるずると地の底にまで堕ちていきたい気もする。そこに地獄があるというのなら、憎しみが正しい世界あるというのなら、いっそそこに行ってみたかった。
 私はなにが憎いのかしら?
「いつまで逃げているつもりだ?」
 初めての強さがあった。すべてを断ち切ってしまうような苛烈さがあった。この人になら殺されたいと思わせる、有無を言わさぬ迫力があった。
「私が? 逃げる? ……なにから?」
「自分自身からだ。なぜ逃げる? なにが恐い?」
 なにが恐いのか? 恐いものなんてこの世にあるのか? 暴力だって絶望だって、まるで微温湯のように彼女を包み込んだ。常に常に、いつだって。だからそんなものは恐くはない。日常は恐いものではないから。
 じゃあなにが恐いの?
「向き合うことは恐怖か?」
 彼がゆっくりと近付いてきた。彼女はふと逃げ出しそうになり、なぜ自分が逃げ出さなければならないのかわからず、なんとか踏み止まった。
 なんとか。ぎりぎりで。いままで逃げ出そうと思った事なんて、ただの一度もありはしなかったというのに。
 私はなにから逃げたいの?
「突き付けられる事は恐怖か?」
 目の前まで来た。ほんの少し顔を寄せただけでキスができてしまうような。ほんの少し踏み出しただけですべてを預けてしまうような。ほんの少し近付いただけで切り捨てられてしまうような。
 私は彼に……どうされたいの?
「いつまでもいつまでも。ずっと。……逃げ出す事はできない」
 いつかは向かい合わなければならなく日が来る。絶対に。どんなに甘い言葉を弄して逃げ出そうとしたところで。それは避ける事のできないものなのだから。
 自分自身。
「お前はどうしたい? なにがしたい?」
 それはもう、何度目の問いだろうか。
 なにがしたい? お前はいったい、なにがしたい?
 お前はいったい……なにを望んでいる?
「あなたは私になにをくれるというの……?」
 与えられなければ返す事ができない。与えられたならすべてを返す事ができる。入力に対する出力。ただの機械のような。
 ずっとそうだった。なにかを押し付けるように与えられてきた。
「お前が望むものを。すべて」
 私が望むもの? 私がなにを望んでいるというの? この私が……いまさら罪と汚れに塗れた私が。
 いったいなにを望めるというの?
「お前の悲しむ顔は見たくない」
 まるであいつが悲しんでいるように見えるから。自分の無力さをいまさらのように強調されるから。どんな力を持っていたところで、たとえなんのためらいもなく人間を殺せるのだとしても。
 人の死で傷付かないわけではない。
「……身代わりであなたは満足?」
 なにがわかるわけでもない。だが彼の焦点は決して彼女で結ばれているわけではなかった。先程の彼女と同じように、彼女の背後でいもしない誰かを見詰めているだけだ。
「代償だ」
 もう許せない……不必要なほどバイトをしていたのだって、不必要に人付き合いを避けていたのだって。誰かと一緒にいると比べてしまう自分が憎くて、自分を許せない事が辛くて。
 あいつは決してそんな事は望まないだろうとわかっているから。
 だからすべてを忙しさに紛らせたかった。
「あなたは私を身代わりにして……それで満足?」
 結局誰も自分を求めはしない……ただの代替品。心なんていらない。顔と体だけあればいい。文句も言わずに従う、ただのおもちゃが欲しいだけ。
 私はあなたに身代わりにされて……それで満足?
「あなたは結局……」
 頬を暖かいものが伝った。
「私なんてどうでもいいんでしょう……?」
 涙でぼやける視界の中で、彼は強引に彼女の唇を奪った。

 なにもいらない。自分を求めないなら誰もいらない。自分の心を求めないなら誰だって一緒だった。心は常に自由で……その自由が憎かった。
 いっそ縛られたい。自分の心までもがんじがらめにするほどの強さで求められたかった。いままでのすべてを、彼女のすべてを、ためらう事なく奪い去っていくような。そんな愛が欲しかった。
 だけど誰も私を求めてはくれない。
 十二の冬に父が死んだ。十五の夏に母が死んだ。それからずっと一人で生きてきた。一人で生きる事が当然の世界だった。誰も彼女を助けようとはしなかった。だから彼女は一人で生きてきた。
 こんな辛く寒く厳しいだけの世界で。それでもなぜか。
 いっそ捨ててしまえばよかったのだ……この命ごとすべてを。なにもない空虚なすべてを。そんなものを失ったところで、誰もなにもどうにもならない……ただ自分が死ぬだけ。
 それこそが救いだったはずだ。自分にそれ以外の救いはないはずだ。
 ……男に抱かれながらそんな事を考えたのは初めてだった。

 目が覚めてラブホテルという状況は初めてだった。あの男とするのは、いつもあの男の家の一つか、彼女のマンションだった。
 円形のベッド。周囲は鏡張り。色の基調は悪趣味なピンク。大昔の漫画にしか出てこないようなラブホテルだが、彼女はそんなホテルにいた。
 彼は彼女の隣で静かに眠っていた。呼吸をしているのかどうかすらもわからないほどに静かに。耳を寄せて、ようやく空気が流れているのを感じる程度に。音などほとんどなかった。
 その時ようやく、彼女は感じていた。この男が人間ではないという事を。
 脱ぎ散らかされた服はベッドの足元のほうにまとまっていた。服までもセックスをしていたようで、なんだか馬鹿みたいと白けた気分で、彼女はベッドを抜け出し、シャワールームに姿を消した。
 とりあえず熱湯にしてシャワーを全開にする。少し待って、水を足した。ちょうどいい温度になってから、ようやく浴びる。
 顔を上げて、目をつぶって、正面からシャワーを受けた。たかが男と寝ただけだというのに、初めて悪い事をしてしまった気がして、初めて虚しさが込み上げてきて、彼女は嗚咽を漏らしていた。

 ベッドで彼が目覚めた。自分が裸だという事は予測と知覚の内にあったが、なぜこんな事になってしまったのかはよくわからなかった。ただ一方的に、押し付け的に体を求めただけに思える自分を嫌悪した。
 なぜこんな所に来てしまったのか。車の運転をしたのは……さて、あっちだったのか、こっちだったのか。免許はなくとも運転はできるし、彼はよく無免許で車を乗り回していた。だからそれはどっちだったとしてもおかしくはなかったが……そのあたりの記憶だけが、なぜか曖昧だった。
 もっともそんな事はどうだっていい。この気まずい気分をどうすればいいのか、持て余している事にさえ嫌悪しながら、彼はじっと、シャワーが鳴り止むのを待った。
 シャワーが止まった。彼女はバスタオルを体に巻いて出てきた。涙の跡は、シャワーに流されて消えていた。
「起きたみたいね?」
「見ての通りだ」
 ただ起きただけ。上半身を起こし、彼女を見詰めている。そのどこまでも冷たいくせに彼女を包み込むような瞳からは、目を逸らさずにはいられなかった。
 なんて奇麗な瞳。
「その……いまさらこんな事を言うのもなんなんだが……昨日、俺はあんたと?」
「セックスしたんじゃないかしら? よく覚えないけど……いいえ、一つだけ、よく覚えてるわ」
「……なにを?」
 どうも、記憶が曖昧なのは両者共にらしい。こんな……情事の後という状況になっておいて、記憶の有無がどれほどの意味を持つのか、また持たないのかなど、知れたものではないが。
「あなた、童貞だったのね」
 それにはさすがの彼もなんと答えたものかわからず、きまり悪そうに顔をしかめたが、別に彼女から目を逸らすこともなかった。
「てっきり、遊び慣れてるのかと思った。勝手な思い込みだけど」
「まったくだ」
 そして、そういった誤解をされるのに、彼は慣れていた。見た目からすると、どうも遊んでいるように思われるらしい。どれだけこの冷徹な性格を知っているものでも。
 だが彼は、女を抱いた事は一度もない。あいつが死んだとき、いや、もしかしたらそれ以前から、彼は性的接触というものに興味を失っていた。
 ただ刹那的に快楽を得て。なにも満たされないのは目に見えている。
「だけど、見ず知らずの女に誘われてついてくるなんて、遊んでると思われてもしょうがないんじゃない?」
「いいや。見ず知らずだったわけじゃない」
「あら、どうして?」
「客とウェイターだったからな」
 なによその屁理屈と苦笑しながら、彼女はベッドサイドに腰を下ろした。当然、まだ横たわっている彼には背中を向ける形になる。
 鏡越しに見詰められた。心の奥底まで裸にされてしまうような目だった。
「少なくとも俺は、あんたを知っていた。顔と趣味ぐらいは」
「あら、私の趣味ってなに?」
「アメリカンコーヒーが好きだ」
「あら、そうだったの」
 確かにいつも、喫茶店ではアメリカンを注文していたが、別段それが好きだったわけじゃない。むしろ他のコーヒーのコーヒー臭さが嫌いだっただけである。つまり、コーヒーは嫌いなのだ。
 それなのにあの店では、いつもコーヒーを飲んでいた。コーヒーよりはわりかし好きな紅茶だって扱ってる店で。
「他は知らないが、なにを知っていたところで、所詮記号だ。意味はない」
 個人のパーソナルを形作るのはそんなものではないし、数値化できるものでも記号化できるものでも言葉に変換できるものでもない。たとえ変換できる部分があったとしても、それで伝わるのは誰にでもわかる価値観ぐらいのものだ。
 まずはなにが知りたいのかである。なにを知っていて意味があるのかだ。彼にとって彼女というのは、つまりその程度の面識しかなかったとしても、信じられる相手だったという事である。
 なぜかなんてのはきっとわからない。一生わかるはずがない。
 どうして生まれてきたのか? それと似ているから。
「じゃあ、あなたはアメリカンコーヒーが好きな人が好きなの?」
「だから好き、という感情はない。ただ好きという感情があるだけだ」
 理由のある好きはないし、そんなものはいらない。それがなくなったら嫌いになってしまうから、そんな確かなものは嫌いなのだ。
 それよりはむしろ、理由のない好きのほうがいい。根拠のない好きのほうが、嫌いになる理由もないから。
 曖昧がいい。確かなものなんて大嫌いだ。
 どうせこの世に確かなものなんてないんだから。
「あら、あなたは私が好きだったの?」
 初めて聞いた。……いや、それも当たり前か。済し崩しでこうなってしまっただけで、好きだの嫌いだの言い合うほどの時間もなかったのだから。
 なんて馬鹿な私達。
「嫌いな女は抱かない」
「女を知らなかったのに?」
 どうしてそれがわかる? 抱いてみたらなにかが変わったとでも言うのだろうか? 彼女と抱き合って……それで?
 彼女が感じた後悔の原因はそれだろうか。
「嫌いな女は抱けない」
「見ず知らずの私を抱いたのに?」
 それにこだわっているのは自分だ……見ず知らずの女。ただのゆきずりの女。それが嫌なのか? ずっとこの男の一緒にいたいと……そんな事でも考えているというのだろうか?
 それとも……私が彼を抱いたのかしら?
「あんたは……それを後悔しているのか?」
「……ええ」
 傷付いた瞳が見えた。だからためらわずにうなずいた。こんな自分とは一緒にいないほうが彼のためなのである。愛人なんかしていて、しかもそれに罪悪感や背徳感など感じていない自分なんか。
 たとえ傷付けたって。自分と一緒にいる以上に悪い事にはならない。
「過ちだったと……そう思っているのか?」
 否定してもらいたがっているのは目に見えていた。彼は必死になってなにかを否定したかったのだ……自分の無価値とか、自分勝手な衝動とかを。
 口を開いて、言葉を吐き出しかけて、なにも言えないままに閉ざして、下唇を噛みながら少しだけ俯いて、爪先を眺めた。まるでただの女のように、である。彼の目を見て、それでもなお、こんな事を言おうとしている自分は、普通の女でなんかあるはずがないのに。
 どうして彼は、こんなにも寂しそうな目をするのか。まるでそれを振り切ろうとする彼女が罪悪感を感じてしまうほど。
「だって……そうでしょう?」
 なにが、とは言わなかった。なにが、とは言えなかった。ただ、過ちなんだと思い込もうと思った。これは過ちでなければならないんだと思った。自分のためなんかじゃなくて、彼のために。
 自分を抱きながら他の女の名前をつぶやいていた男にここまでしてやる義理なんて、本当にあるのかどうか悩んでしまうところだけれど。
「これはただの過ち……一時の気の迷いだったのよ」
「俺は……俺を……そうか。わかった。あんたがそう言うならそれでいい」
 傷は一瞬で心の奥底に隠されて、また前のような仮面のような無表情が現われた。彼女はそれを望んでいたし、そうなって喜ぶべきだとわかっていたのに、それでもなぜか、悲しくなった。
 もう二度と、心を開いてくれないのではないか。それが寂しくて。
「ただの遊びだった……そういう事なんだな?」
 最終確認。
「そうよ」
 うなずいた自分が泣いていないかどうか、自信はなかった。
 ただ、形だけでも微笑めた事で満足だった。

「明後日から、またバイトに行くんでしょう?」
 彼を送った行き先は、なんてことはない片田舎の一軒家だった。片田舎とは言っても、この街の片田舎だ。空き地があったり、バスの本数が少ないだけである。
 普通の、だからこそ恵まれた家庭の匂いのする家だった。
「仕事だからな」
 それ以上でもそれ以下でもなく、それだけのために。彼女に対する興味などすべて失ったかのように。
 失えるほど小さくもなかったというのに。
「また、お客さんとウェイター?」
 自分はそれを望んでいたはずだ……だからこれは、未練である。
 自分だけに心を許す男。絶対に裏切らない男。それを手に入れようとする女は自分だけじゃないはずだ。
「あんたがそれを望むなら」
 最後通牒に似たものを突き付けて、彼は振り返らずに家に入っていった。
 じゃあ、私が恋人になりたいって言ったら、あなたは許してくれるのね?
 緩々とした安堵に包まれながら、彼女は車をスタートさせた。