正しい命の数え方



 ああ、また怒られるかなと思いながら、村岸咲子はバスターミナルの長椅子に腰掛けていた。構内にある時計を見上げると、時刻は二十一時三十分を回っている。終バスが二十二時三十二分で、彼女が乗る予定のバスは二十一時五十一分だから、別に帰れなくなるとか、タクシーに着払いで乗るとか、そういう事態にはならない。両親に怒られるのは、もっと別の事だ。
 だがそんな陰欝になりそうな思考は無理矢理に追い払って、咲子は溜め息を吐いた。世の中の何もかもが面白くない。なんのために大学に通っているのかもわからない。北海道でも有数の四年制の大学に受かったまでは良かったが、そこから先がさっぱりだった。三年で単位はとれるから、最後の一年は就職活動で終わるだろう……二度と来ることのない二十二才の一年は。
 そもそも、一年間も就職活動をしたところで、本当に就職できると決まったものでもない。ただでさえ女子の就職率は冷え込んできている。パソコン検定を受けたりしてそれなりの資格を取ってはいるが、そんなものでなれるのは事務職ぐらいのものだろうと予測がついた。
 世の中全体が不景気だと沈んでいる。こんな御時世に、自分のような変わり者を雇ってくれる会社などあるのだろうか。咲子は自分が変わり者だという自覚はないが、周囲とは違う感覚で生きているというのは理解できた。
 だが、それを理由に変わり者だと一方的に決め付けられるのには納得が行かない。普通の人と違えば変わり者になるらしいが、未だに普通の人なんてものは見たこともないし、そもそも他人とまったく同じ人間なんものも見たことがない。だったら世の中、みんな変わり者だらけではないか。
 友人には、そんな事を考えるのが変わり者だと、良くからかわれた。からかわれるだけですんだのは、恐らく自分がそれ以上の自己主張をしなかったからだろう。周囲とのギャップに馴れ、なぁなぁで大体の事柄を諦めるのは、咲子の癖になっていた。
 そう、自分は周囲から浮いているのだ。それがわかっていたから、中学の時から付き合っていた男に別れようと言われたときも、すんなりと頷いた。お前にはついていけないと言われてまで付き合いたい男でもなかったし、ただ、なんとなく近くにいたから自然に付き合い始めて、それが最近まで続いていたというだけで、恋愛感情と呼ばれるようなものを感じたこともなかったからだ。
 どうせ男なんて生き物は、下半身だけで生きているのである。やりたいときにやらせてくれるなら誰でもいいのだろう。咲子は別に勿体付けていたつもりはないが、自分を安売りするつもりも無かったので、ホテルに誘われても断わり続けた。強引に押し切られたらどうなっていたかはわからないが、あいつはそこまでしてくれなかったし。
 別れた男の事を考えている自分に気付いて、咲子は自分にむかついた。あんな男、別にどうでもいいじゃないか。精々新しい彼女と仲良くしていればいい。高校が離れた時点で別れるべきだった関係をずるずると引き摺っていたのが間違いだったのだ。
 咲子はもう一度時計を見上げた。色々な事を考えたのでもう少し経っているかとも思ったが、時計の長針はまだ四十五分の辺りを指し示していた。こういう時に流れる時間というのは、ずいぶんとゆっくりしている。
 再び視線を目の前のタイルの床に落としたとき、咲子は唐突に自分の隣に誰かが座っている事に気付いた。この時間でも人はそこそこにいるもので、別にバスターミナルの中ががらがらに空いていたわけではないが、自分がここに座ったときは、なぜかこの長椅子だけ無人だったので座ったのだが、はて、自分はこんな事にも気付かない程考えに熱中していただろうか。
「お一人ですか?」
 その存在に気付いた瞬間、隣に座っていた男がそう声を掛けてきて、咲子は内心どきりとした。柔らかなテノールは耳に心地良かったが、聞き覚えのない声である。こんな時間のこんな場所でナンパだろうかと、そろそろと相手の顔を確認すると、にっこりと微笑んだ十七、八ぐらいのまだ若い青年だった。白地に青と緑のチェック模様のシャツにジーンズのズボン、その上に裾の長いグレーのコートを着ている。ナンパをするような青年には見えなかいが……
「ああ、びっくりさせてしまいましたか? すみません、ずいぶんとあなたが寂しそうにしていたものですから、さっきから気になっていたんです」
 歳の割に、ずいぶんと丁寧な言葉遣いである。目上の者の前だけで使う付け焼き刃のようなものではなく、使い慣れた生来の口調といった感じだ。そのせいだろうか、咲子はこの不審な青年がなぜか気に入っていた。
「自殺でもしそうに見えた?」
「いえ、そんなわけでは……すみません、失礼でしたね、見ず知らずの人にこんな事……いつもはこんな事しないんですけど、若気の至りだと思って、許してやってください」
 青年は、わずかに眉を寄せて困った表情を作り、身体の前に両手を突き出して、手首を支点に左右に振った。どうやら、悪気はないようである。ナンパでもないようだ。だとしたら、本当にそんな理由で声をかけるだろうかと気にはなったが、それ以上は追求しない事にした。ちょうど、暇潰しの相手が欲しかったところである。
「あなた、何歳?」
 若気の至りと言ったが、外見的には十七八に見える。だが、それよりもかなり老けた雰囲気が、この青年にはあった。老成したというか、達観したというか。咲子は久し振りに変わった人だなと思った。他人に対してそんな感想を抱いたのは、二度目である。最初は、あの男に付き合ってくれと言われた時に感じた。
「あ、僕ですか? 僕は、えーと……二十五になります。お姉さんは何歳ですか? ……もしかして、僕よりも年上なんて事はないですよね?」
「それ、嫌味のつもり?」
 慌てて違いますよと否定する青年の仕種と、自分の事を僕というのが可笑しくて、咲子は笑いながら二十よと答えた。こんなに素直な反応が返ってくる相手は初めてである。それにしても、二十五才とは。自分よりも年上だとは、どうしても見えなかった。十七、八という数字だって、多めに見積もったつもりだったのだが。
「僕ってそんなに童顔ですか?」
「あら、どうして?」
 そんな質問を真面目な顔でするものだから、咲子はなかなか笑いが収められなかった。当人にしてみれば重大事なのかも知れないが、周りの人間にしてみれば滑稽な事この上ない。いまさら自分の顔の造りがわからないわけでもあるまいに。
「僕の顔を見た人って、みんな歳を教えたら驚くんですよね。でも、僕としてはそれが自分の歳だから、そうだとしか答えられないんですけど……ぱっと見だったらどれぐらいに見えます?」
「そうね……私と同い年ぐらいかな」
 青年(実年齢からすれば男性と呼ぶべきかもしれないが、外見はそうなのでそう呼ぶことにした)の落ち着いた物腰、穏やかな眼差しは、もっと年上の……そう、それこそ市内に住む祖父と似ていた。だが、その仕種などは、十五よりもまだ若い。そういう意味では、これでバランスがとれているのかもしれなかった。
「そっかー……そんなに年下に見えますかー」
 遠い目で諦めたように頷いた青年に失礼ねと言って、咲子は再び笑い出してしまった。自分でも何が可笑しいのか、よくわからない。周囲から視線を集めているのは感じていたが、それでも笑いは止まらなかった。
「あなた、面白い人ね」
「そうですか? それもよく言われますけど、自分じゃあんまりそうは感じないんですけどねー」
 それはそうだろう。自分だってそうだ。……そうか、これは近親感か。道理で、初対面なのに気が許せたはずだ。変わり者は変わり者同士で気が合うという事なのだろう。面白くはないが、それは事実っぽかった。
「あなたの名前、なんて言うの? 私は村岸咲子って言うんだけど、字はわかるわよね? 咲く子供って書くの」
「あ、奇遇ですね。僕の苗字も村岸なんですよ。名前は真治、村岸真治。真実を治めるって書きます」
 村岸……真治? どこかで聞いたことがあるような……だが、はっきりとは思い出せずに、咲子は頭を振った。この人とは初対面だし、同じ姓の他人に出会ったのも初めてだ。聞いたことがあるはずがない。
「そーですか、咲子さんと言われるんですか」
「似合わないかしら?」
「いえ、とてもよくお似合いだと思います。春の生まれですか?」
 どうやら頭の回転は悪くないらしい。それに、思い切りもいい。咲子だから花の咲く春に生まれたんだろうという考えも安直だが、秋にだって冬にだって花は咲く。そこをあえて春だと断定したのは……まぁ、一般的に物事を考えれば当然の事か。こんな事を深読みする方が珍しい。
「ええ、誕生日は五月五日の子供の日。あなたは?」
「僕は七月七日の七夕生まれです。いやぁ、なんか奇遇だなぁ。二人とも、ゾロ目の日に生まれてるんですねぇ」
 なにが可笑しいのか、真治は嬉しそうに笑った。あまりない類いの偶然を楽しんでいるらしいのはわかるが、それの何が可笑しいのか、咲子にはわからなかった。たまたま苗字が一緒で、たまたまゾロ目の日に生まれているというだけで、どうして可笑しくなれるのだろう。
「ああすいません、ちょっと笑いすぎましたね」
 目尻の涙を拭いながら、真治は目だけで軽く謝罪した。頭を下げるとか、相手を拝むとか、そういう類いの謝罪よりも余っ程心が籠もっているように見えて、咲子は許してやることにした。別に何かに怒っていたわけでもないけれど。
「あなたはどうしてこんな時間にこんな所に?」
「僕ですか? 僕は……さぁ、なんででしょう?」
 微笑みながら首を傾げる。どこまでが本気だか、まったくわからない。ぶりっ子のようにも見えるが、真治がやるとあまり不自然でもないのが不思議だった。この男、本当に男なんだろうか。
「咲子さんこそ、なんでですか?」
「私? 私は……さぁ、なんでかしら」
 友達と遊んでいたら、いつの間にかこんな時間になっていたのは確かである。だが、わざわざ帰りをこんなに遅くしてまで遊ぶほど仲の良い友人だったわけでもない。そもそも友人付き合いなんてものは学校内だけで完結させるのが咲子の主義だ。だから……そう、なんでかしら?
「意外とファジーなんですね」
「人間なんてそんなものよ。……それより、なんでそれが意外なの?」
 曖昧さは霊感の最たる特徴だ、と何かの本で読んだことがある。ファジーこそが人間性、ひいては自然性だと言うことだろう。機械にはまだそういった余裕が足りない。だからプログラムとメモリの許容量以上の処理を任せられると停止する。記憶力や情報処理能力はまるで化物だが、単純化された記号しか認識できないのだから、本当は馬鹿なのかもしれないと思うことが何度もあった。主としてパソコンが停止した時に。
「咲子さんは、物事を白黒に分類する人だと思ってました。それで」
「……なんでそうなるの?」
 そんな事を外に出したことは一度もない。いつも曖昧に笑って曖昧に頷いていれば、面白くないと思われることはあっても、極端に嫌われる事はあまりなかった。彼女にとっての人間付き合いなんてのはその程度のものだから、そうする事にも馴れていたはずだが。
「少なくとも、自分の中ではきっちりとラインを引いているでしょう? だから、本当ならどうでもいい僕の歳や、僕の名前を聞いたりした。そうじゃないんですか?」
「どうしてそれがどうでもいい事なの?」
 名前も年齢も重要な要素ではないか。名前も知らない相手と会話していても、どこか気持ち悪いものである。相手という個人を認識する最良で最短の方法は、名前であったり、年齢だったりする。それがなぜどうでもいい?
「だって、名前も年齢も記号でしょう? 個人のパーソナリティーとは全然関係ない。今重要なのは、僕がいて、あなたの話を聞いている。そしてあなたがいて、僕の話を聞いている。そういう事だと思いませんか?」
 真治のそれはやや極論であったが、正論だと咲子は感じた。むしろ、互いに名前も年齢も必要ない。固有名詞は代名詞で用を為すし、年齢という思考パターンの指標も、この際無関係だ。そもそも、思考パターンでいうなら似通っているのだから。
「そうね、そうかもしれない」
「あっ、いや、ちょっと説教臭いこと言ってしまいましたね。すいません、昔からよく言われてるんですよ、お前はいつも一言多い、その説教癖はなんとかしたほうがいいぞって」
 咲子が顔を伏せたのに驚いてか、真治はわたわたと慌てて言い訳を始めた。咲子は別に、落ち込んだとかそういうわけではなく、単純に自分の頭の中を整理しようとしていただけなのだが。
「誰に?」
「は?」
「誰に言われたの、そんな事?」
 そんなお節介を焼いてくれる相手が、果たして自分にいるだろうか。それこそ、両親ぐらいのものだろう。友人は理屈っぽいと愚痴混じりに指摘するだけで、別に忠告してくれるような人はいなかった。
「ああ、そういう事ですか。一番多く言われたのは兄さんにですね。恋人にもよく言われてましたけど」
 こんな男にも恋人がいるのかと思った次の瞬間、まあ顔はまずくないんだからそれも当然かと思い直した。性格なんてものは、外見でなんとでもカバーできるものであるらしいし。咲子だって、人間は中身だと思ってはいるが、初対面の人間相手なら、やはりまず顔で判断してしまう。
「言われてた、ってどういう事?」
「別れちゃったんです。……やだなー、そんな事突っ込まないでくださいよ。これでもまだハートブレイクしたまんまなんですから」
 ぽりぽりと頭を掻いて、むしろ惚気にしか見えない表情で、真治は俯いた。この人は、まだその元恋人さんの事が好きなのかしら。
「可愛い子だったの?」
「顔ですか? ……そうですね、幼馴染みが言うのも何ですけど、可愛い子ですよ。くりくりとよく動く大きな目が好きでしたね。今はもう、誰かのお嫁さんになったはずですけど」
 ああ、それでこの人はその彼女の事を諦めたのだろうか。いや、それを切っ掛けにして踏ん切りをつけたという事だろう。自分だって、別れ話の時に新しい女を連れてこられては、吹っ切ることしかできなかった。諦めるしかない状況というものも、世の中にはある。
「そういえばお姉さん、彼女に似てるなぁ……」
 今頃気付いたのか、それともそういう演技なのか。この男の仕種の一つ一つが予測不能だった。まるで別世界の生物のようなテンポで生きているとしか思えない。……やはり、自分にも似たところはあるが。
「それ、誉め言葉かしら?」
「ええ、誉めてるんです。僕にとっては最上級ですよ」
 とても幸せそうに笑う様は、真治がまだその彼女を諦めていないように見えた。過去として消化しようとしている。だが、しきっていない。そんな曖昧さである。
「あ、バス時間、大丈夫ですか?」
 言われて初めて気付き時計を見上げると、時刻はすでに二十二時を回っていた。まぁ、三十二分のバスがあるからそっちでもいいかと割り切って、大丈夫よと答えた。別に、一本ぐらい遅れた所でどうなるものでもない。
「話をしてると時間が進むのが早くって嫌ね」
「そうですよね、僕も彼女と一緒にいる時間はとても早く過ぎてしまったような気がします。やっぱり、楽しい時間はすぐに過ぎちゃうもんなんですね。……って、僕、さっきから彼女の話ばっかりしてますね」
 やや照れた様子で頭を掻き、真治はあははと乾いた声で笑った。吹っ切ったつもりだったのに、まだまだ吹っ切れていなかった。そんな自分に対する苛立ちのような、寂しさのような、そんな感情の籠もった笑いだった。
「別にかまわないけど。あなた、彼女の話をしてる時、すごくいい顔してるもの」
 慰めようとか、フォローしようとか、そういった気持ちだったわけではない。ただ、思い付いた事を口にした。友人にはよく、もっと考えてから喋った方がいいと言われていたが、この癖は中々に治らないし、治す気もあまりない。自分にしては珍しく、他人に誇れる癖だと思っているからだ。
「いい加減、諦めないといけないんですけどねー」
「あら、どうして? 自分から別れようって言ったの?」
「そうなんですよ。僕じゃ、彼女を幸せにできないって事はわかってましたから」
 どうしてそんな事を決め付けられるのだろうか。彼女だって、真治と一緒にいられたらそれだけで幸せだったのかもしれないのに。……もっとも、自分にはよくわからない感情ではあるが。
「どうして?」
「簡単ですよ。僕、生まれた時に二十だったんです」
 日本語が目茶苦茶である。生まれたときは誰だって零才だ。それなのに、生まれた時が二十というのはどういう事だろう。真治の方はその日本語が常識的には正しくないことを理解しているのか、にっこりと微笑んでいた。
「やっぱり、誰だって変だと思いますよね、こんな話。でも、人間の年齢の数え方って、増えてくだけが能じゃないと思いませんか?」
「……それってどういう意味?」
「僕、他人とは違う力っていうのか、能力みたいなものを、一つだけ持ってるんですよ。それで、自分の歳は、生まれたときから二十才だってわかってたんです」
 増えていくだけが能ではない……となれば、残る方法は、減らしていく事だろうか。だが、そんな事が可能だとでも? ……いや、それこそが彼の能力とやらなのか。だが、そんな。あまりにも馬鹿げた話である。
 自分の死期がわかるなんて。
「あ、お姉さんにはわかったみたいですね。やっぱり、あなたは頭の回転の速い人だ」
 真治は嬉しそうに笑ったが、そんな事を言われても、咲子にはさっぱり理解できなかった。いや、理解したくなかった、だろうか。そんな能力なんて存在しないものだと、先入観が全てを否定した。有り得るかもしれないじゃないという心の声を押し潰して。
「でも……二十五才って事は、あなた、まだ生まれる五年前って事?」
 とりあえず会話というものは、相手のペースに合わせるものである。咲子はそんな事には慣れっこになっていたから、とりあえず先ほどの否定意見は心の片隅においやって、ふと湧いた疑問をぶつけてみた。
「いえ、僕の生きていた年数は、きっかりと二十年です。二十の誕生日に、死んじゃったんですよ。ぽっくりと。だから、それから……僕の年齢が零になった時から、今度は歳を取ろうと思ったんで、今は二十五才なんです」
 そんな非科学的なものは信じていないと、心のどこかで誰かが叫んだ。その隣に、科学が全てを解き明かせるわけではないと叫ぶ誰かがいた。結局咲子の心はどっちつかずのままで、こんな質問が飛び出ていた。
「……あなた、もしかして幽霊なの?」
「さぁ、どうなんでしょう? 二十五年前に死んだのは確かですけど、今僕はここにいて、あなたと話している。それが重要な事じゃないんですか?」
 咲子は試しに腕を伸ばし、真治の腕に触れてみた。通り抜けはしなかったし、冷たくもない。足を見下ろしてみたら、立派なホーキンスの革靴をはいていた。どうにも幽霊には見えないし、思えない。かといって、嘘を吐いているようにも見えなかったので、咲子は少なからず困惑した。困惑する程度で済んでいるのは、冗談かもしれないと思う理性があったからである。
「大丈夫ですって。声を出すだけの実体はきちんとありますから。それに、僕が幽霊なのかなんて事は、この楽しいトークには関係のない事でしょう?」
 確かにその通りであると納得して、咲子は驚いた。自分は物事を白黒はっきりつけるタイプではなかったのだろうか。だが、こんな曖昧さも、時には悪くない。真治の正体を追求した所で、何が変わるわけでもないのだ。
「あなた、やっぱり変わってるわ」
 いまさらながらしみじみとつぶやいて、咲子は溜め息を吐いた。時計を見上げると、やはり二十二時三十分ぐらいの所をさしている。目の前を通っていったバスは、おそらく自分が乗るものだろう。
「御免なさい、もう時間だわ」
「あ、そうですか。すいません、長々と引き留めてしまいまして」
 真治も一緒に立ち上がった。彼はどのバスに乗るんだろうかと、馬鹿な事を気にしながら、咲子はそれじゃあと片手を上げて挨拶した。真治も、それじゃあと言って、片手を上げる。
「また会えるかしら?」
 自分でも仰天してしまうようなセリフだった。この人と一緒にいると、新しい自分を発見させられて、驚いてばかりいる。でも、もう一度会ってみたいというのは本心からの言葉だった。
「そうですね。あなたが望めば」
 そして真治は背中を向けて、咲子とは反対側に向かって歩き始めた。咲子もちょっと急がなければバスに遅れてしまうので、すぐに歩き始める。ターミナルの構内と構外を隔てるガラス戸を押し開けながら振り返ってみたが、真治の姿はすでになかった。

「父さん、まだ起きてる?」
「あら咲子、お帰りなさい」
 そろりそろりと玄関から入ってきたが、居間に入ると当然のように母がテレビを見ていた。あまり怒っている様子ではない。もしかしたら、待っている間に怒りすぎて、鎮静化したのだろうか。
「お父さんならまだ起きてると思うけど……それよりも先に、私に説明する事があると思うんだけど」
 母は読んでいた雑誌を閉じて(テレビを見るか雑誌を見るか、どっちかにすればいいのにといつも思う)、椅子ごと咲子に向き直った。怒っている様子はないが、怒っているようにも思える。まぁ、見合いの席を蹴っ飛ばして逃げ出したりしたら、誰だって怒るだろう。事前に知らされなかった咲子だって怒ったのだから。
「友達の所に行っていたの。父さんは書斎?」
「あんなものは趣味の部屋って言うのよ。……次からは事前に教えておくから、もう逃げ出さないでね」
「わかったわ。今日は迷惑かけて御免なさい」
 咲子は母に軽く頭を下げて、すぐに居間を出た。母が趣味の部屋と言った父の書斎は、二階にある。最近では書斎というよりはパソコン部屋として機能していた。
「父さん? 入るわよ?」
 軽くノックして、すぐに扉を開ける。父は珍しく本を読んでいた。いつもならパソコンでインターネットをしているか、ソリティアやフリーセルのようなカードゲームで遊んでいるような人である。
「咲子か……何か用かい?」
 眼鏡を外し、ゆっくりと振り返った父の姿は、どこかいつもよりも老けて見えた。今年で四十七才になるにしてはまだ髪も黒く、量も豊富なのだが、目尻に浮かぶ皺などは隠しようがない。
「ちょっと、聞きたいことがあって。まだ起きてる? 明日にした方がいい?」
「いや、構わないよ」
 まぁ座りなさいと、父は咲子の椅子を指差した。この部屋に入るのは、パソコンの使える咲子と父の二人だけで、機械音痴の母は、掃除の時にも入ろうとはしない。だから置かれている椅子は二つだけだった。
「それで、聞きたいことというのは?」
「叔父さんの話なの。私が生まれる前に亡くなったっていう、父さんの弟さんの。その叔父さんの名前って、なんて言ったっけ?」
「真治だが……どうして急に?」
 そうか、叔父の名は真治と言ったか。父が母の家に婿養子に入ったという話は聞いたことがないから、おそらく村岸真治という名前だったのだろう。そう、あのバスターミナルで出会った、おかしな幽霊の名前。
「叔父さんが亡くなったのっていつ? 何歳の時?」
 困惑している父を後目に、咲子は確認のための質問を重ねた。こんな偶然が他にあるとも思えないが、確認は必要である。……やっぱり自分は、物事の白黒をはっきりとつけるタイプのようだ。
「もう……二十五年も前になるかな。あいつの二十の誕生日に、心臓発作で……元から身体の弱い奴だったからな。医者にも、覚悟するようにとは言われていたんだ」
 それでも信じられなかったと、父は続けた。真治叔父は、定期的に薬を飲まなければならなかったのを除けば、普通の人とまったく変わらない生活をしていたという。
「それで……あんまり聞いちゃいけない事かもしれないんだけど……」
「母さんの事かな?」
 ここまで来れば、誰にだってそれは予測がつくだろう。父は淡々とした表情で、咲子が頷くのを眺めていた。
「母さんは昔、真治と付き合っていたよ。それは事実だ」
「御免なさい……嫌な事、言わせちゃったかしら?」
「いいや。いつかは聞かれるような気もしていたからね」
 そして父は、おやすみと言いながら立ち上がった。元より、夜更かしをするタイプの人ではない。咲子もおやすみと返して、一人椅子にもたれかかった。
 帰りのバスの中で考えていた事は、どうやら事実だったようである。あの男は、二十五年前に死んだ咲子の叔父で、父の弟で、母の恋人だったようだ。
 もっとも、そんな事はどうだっていいのである。どうでもよくない事は、これからの自分は、あのバスターミナルがちょっと好きになって、夜がちょっと好きになって、そして周囲とは違う変わり者の自分が、ちょっと好きになれたという事だ。
 世界はまだまだ捨てたものじゃない。こんな小さな切っ掛けで、こんなにも楽しく変われるんだから。

 明日からの自分は、きっと昨日までとは違う自分。