輝く月の夜だから



 時が止まればいいと、幾度祈ったことでしょう。ただあなたと過ごすこの背徳の時があれば、私は他に何も必要なかったのです。いずれ生まれてくる、あなたと私の罪の結晶すらも愛せるための時間が、私は欲しい。
 だけど夢は叶わない。断罪の時は訪れる。

 そして彼女は……

 いつも通り、ほとんど遅刻寸前で到着した由良賀夏樹は、ほぼ生徒で埋め尽くされた教室の後ろのドアを勢いよく開け放った。彼より遅く登校するものは二、三人しかおらず、そいつは基本的に遅刻者なので、彼よりも遅くこの教室に入ってくるものは少ない。そんな無茶ができるのも、ひとえに彼の通う高校が自宅の目の前にあるお陰だろう。
 いつもなら、勢いよく扉を開けすぎるので何人からか文句を言われるものなのだが、その日だけはいつもと違い、誰も声を上げず、誰もが下を向くか、近くの席の連中と小声でひそひそ話をしていた。おかしいな、とは思ったが、それ以上の感想は特に抱かず、いつも通りに元気良くおはようの声をかけてまわる。だが返される言葉も、やはり元気がなかった。
「なんかあったん?」
 廊下側の一番前の自分の机に鞄を置き、すぐ隣の席の女子に声をかけたが、顔も上げずにまっすぐ横、窓の方を指差された。一番向こう側、つまり窓際の机の上には、花瓶と、あまり派手でない花が置かれている。
「なんかの冗談なんか、あれ?」
 なははと笑いながら聞いたのだが、笑い返してくれるような反応はまったくなく、乾いた笑いは徐々に尻すぼみになっていった。どうやら、あれは冗談でもなんでもなく、死者に手向ける弔花であるらしい。あの席に座っていたのは……三島貴子か。だが、なぜ?
「なぁ、どういう事なん?」
 隣の女子だけでなく、他の誰に問い掛けても答えてくれそうにはなかったので、夏樹は頭をくしゃくしゃと掻きながら、椅子に腰を下ろした。まったく訳が分からない。何がどうなったら昨日まで一緒に笑い合っていたクラスメイトが死ぬのだろう。
 死ぬ? と自分の思考に気付いて、その実感の湧かない言葉に、再び困惑する。小学校の頃にやった悪戯にこういうのがあったせいか、それはあまり現実味を与えてはくれなかった。そのうち誰かがカメラ片手に入ってきてドッキリでしたといいそうな気分だ。
 だが、朝のホームルームで担任が告げた言葉は、それが現実である事を否応なしに押し付けてきた。三島は死んだ。交通事故だった、と。
 特別仲が良かったわけではない。仲が悪かったわけでもない。ただ、三島の存在感は、あのクラスの中でピカイチだった。友達だろうとそうでなかろうと気安く声をかける三島の事を憎く思っていた者など、あのクラスには一人もいなかっただろう。
 そんな三島が死んだ。それが事実だとしても、やはり実感は湧かなかった。死というものが、まだぼんやりとしか理解できなかったからかもしれない。もう会えないんだという事ぐらいしか頭に浮かばなかった。だが、誰とだっていつも一緒にいるわけじゃない。友人とは言っても、月に一度ぐらいしか会わないような奴だっている。実感が湧かないのは、だからだろうか。
 ただ、死んだのは事実なんだ。屋上のフェンスにもたれ掛かり、下校する連中を見下ろしながら、夏樹は溜め息を吐いた。悲しいと感じないのは、自分が冷たいからなのだろうか。それともこれが普通なんだろうか。
 ぼんやりとした視界の中を、一組の日本人形みたいなカップルが通り過ぎていく。いや、姉弟なんだから、カップルではないのだが、一揃いにして写真に収めれば、やはりカップルとしか呼べないような、そんな双子だ。
 月宮輝夜と月宮輝月夜。確か去年の五月頃に転入してきた姉弟だ。変な時期に転入してくるもんだと思ったし、その浮き世離れした雰囲気が強烈だったので、今の二年生連中の間では知らないもののない二人である。終始二人で行動しているのも、他人の好奇心をそそるのに十二分に貢献していた。
 何気なく見下ろしていた夏樹を、ゆっくりと輝夜が見上げた。人形のような黒瞳が見えたわけでもないのに、吸い込まれるようなその瞳と目が合った瞬間、夏樹は慌ててフェンスから離れた。背筋が凍る。ぞくぞくと粟立つ肌を感じながら、自分は何にこんなに怯えているのか、夏樹は不思議でならなかった。あの日本人形そのもののような、今時古臭い表現だが大和撫子そのもののような輝夜と目が合ったというだけなのに、なにを自分はこんな……
 だからこそかもしれない。夏樹の心に、わけもなく友人から聞いた噂が蘇ったのは。
『あいつら、人を殺したらしいぜ』

 再会は、翌日の図書室でだった。夕日の差し込む中、一人静かにページを捲る輝夜の姿は、人というよりは人形、人形というよりは精霊を思わせる美しさだった。そんな姿にすら邪念を抱くというのは、男として当然かもしれないが、夏樹はなんだか情けなくなった。
 図書室には、どうやら自分達二人しかいないようだ。それがまた、夏樹を緊張させる。溜まっていた本を返しに来ただけなのに、なぜにこんなに緊張しなければならないのか。くそ、図書委員は何をやっているんだ。
「お一人ですか?」
 しょうがないのでカウンターのあたりでぶらぶらしていたら輝夜に声をかけられて、さらに夏樹の心拍は上昇する。まったく、見た目だけでも質が悪いのに、しなやかな声まで掛けられては、心臓に悪い事この上ない。
「ええ、まぁ。そっちも一人みたいですね」
 なんとなく間抜けに立っているのもなんだったので、カウンターに腰掛ける。委員がいたら怒られるだろうが、今はいないんだから気にする事もない。
「昨日は、なぜあんな時間に屋上に?」
 わざわざ本を閉じて、椅子を少しずらし、こちらに向き直る。陽光を反射する長い黒髪は、深海を漂う絹のように濡れそぼって見えた。
「暇潰しですよ。ちょっと、風に当たりたかったんです」
 輝夜と会話している所を見られたら、友人になんといって冷やかされるだろうか。男子の間では(この美貌だから当然だが)かなり人気があり、毎朝輝夜の下駄箱には溢れんばかりのラブレターが入っているという。そんな漫画のような話は冗談だろうが、それぐらいは当然だと思わせるものが、輝夜にはあった。
「それより、よく見えましたね。あれ、けっこう遠かったでしょう?」
 それを言うなら、なぜ振り返ったのかを聞くべきだったかもしれない。自分が輝夜を見詰めていたのを知っていたようなあのタイミングは……いや、これは自惚れか。そんな事があるわけがない。
「私、目はけっこういいんです」
 にっこりと微笑む姿は、窓から差し込む逆光が邪魔でよく見えなかった。だが、そんなものはなんの障害にもならないほど、すでに夏樹の網膜には輝夜の姿が焼き付いていた。
「あなたの名前、確か由良賀夏樹さんでしたよね?」
「そうだけど……どうして?」
 自分が輝夜の名前を知っているのは当然である。それだけの噂になったのだから。だが、輝夜に知られるような事を、果たして自分はしていただろうか。取り立てて目立つようなことをした記憶は、あまりなかった。いつも教室でうるさくしてはいるが、クラスの違う輝夜には関係のない事だろうし。
「珍しい名前だったから、覚えているんです。それに、去年の文化祭の時、確か美術部で月の絵を出展していたでしょう? あれが印象に残っていたんです」
 ああ、あれかと、過去の恥を思い出した気分で、夏樹は赤くほてった頬を掻いた。あの時描いた絵には並々ならぬ自信があったが、他人に見せる気のなかった夏樹は、美術部の個展にも出展する気はなかったのである。なのに部長に押し切られて、半ば誘拐されるように展示されてしまったので、今でもその話題はこそばゆかった。
「えーと、あの絵の題名はなんでしたっけ?」
「『月の降る夜』です。……でも、もうあの絵の事は忘れてください。仕上げが終わってなかったんです」
 出したくなかった理由はそれもあったからである。時期的に見ても、絶対に間に合わないと夏樹は思っていたのだ。だが、部長は完成品だと思い込んで、勝手に持ち出した。題名は、キャンバスの裏の走り書きから勝手に引用されたものである。
 結局あの絵は、未完成のまま押入にしまってある。いつか仕上げようと思ってはいるが、中々手は伸びない。
「あら、私は完成品だと思いましたけど?」
「いやいや、残念ながら。そうだったら良かったんですけどね、もっと自信が持てただろうし」
 しかし、あれは未完成品だったのである。あんな中途半端なものが世に出たせいか、今はあまり、描く気がなくなっていた。無理矢理出展しやがった部長は、いまでは卒業しているし。……いや、これは単なる責任転嫁か。
「あれのせいで知り合いにはひやかされるし……まったく、散々でしたよ」
「でも私、あの絵のお陰であなたのファンにになりました。……それとも、ご迷惑かしら?」
 とんでもないと慌てて手を振りながら、夏樹はどきまぎしていた。自分はなにをやっているんだろう。この望外な幸運を感謝するべきな気もするのだが、どうも昨日のあれがあったせいか、あまり素直な言葉は出てこなかった。本当ならずうずうしくも隣の席に座るなりしたい気分ではあったのだが。遠いと話しづらいし。
「よかった。もしよろしかったら、他の絵も見せてもらえませんか?」
「あー、いやー、ちょーっといまは……」
 描いていないのだから、見せようにも見せられない。他にも描いた絵がないわけではないが、それらは全部中学校以前のものなので、見せたいとは思えなかった。自信がない、というよりは、拙いのが自分でもわかるのだから。
「実は、あれから描いてないんですよ、絵。だから、なんか新しく描いたら、一番最初に見せますんで、それで勘弁してもらえませんか?」
「あら、描かれていないんですか?」
 なんでですか、と言葉を繋げなくても、輝夜がそう思っているだろう事はその表情から容易に想像がついた。それがわかったとしても、夏樹には答えようがなかったが。自分にだって、理由はわからないのである。
「うーとですね……描きたいのはやまやまなんですけど……なんつーかこー……インスピレーションが湧かないとゆーか……つまり、描けないんですよ、なんでか」
「そういうものなんですか ?私、絵とかあんまり描いた事がないので、よくわからないんですけど」
「そーゆーもんです。描きたい時に描きたいものを描かないと、いーものは描けんのですよ」
 創作なんてのはその程度のものである。それに、描きたいものと描けるものと納得のいくものは全て違う。描きたいものが描けたと思っても、納得がいかない事はままにあるのだ。そんな事を彼女に言ったところで無意味だろうけど。
「でも、美術部の皆さんはコンクールに出展するために描いたりなさるんでしょう? そういう場合はどうなるんですか……?」
「ああ、あーゆーのは、描きたいものを溜めておくか、それとも無理矢理描きたいものを捻り出すか、それとも描きたくないもんでも描くかのどれかですね。俺はそこまでしてコンクールに出そうとは思いませんけど」
 悔いが残る物を出展するのは、他の出展者に対して失礼だ、というのが夏樹の持論だった。もっとも、美術部の連中は物臭の言い分けだろうと取り合ってはくれないが、それが本音なのである。落選した時に描き損なった部分のせいにするよりは、実力だったんだと諦める方が余程すっきりする。他の連中がどうかは知らないが、夏樹はそういう性分なのだ。
「えーっと、ところで図書委員、知りませんかね? これ、返しに来たんですけど」
 これ以上二人っきりでいると危険な気分になってしまいそうなので、夏樹はとっととこの場を切り上げる事にした。輝月夜の方がここにいないのも気になる。
「私です」
 にっこりと微笑まれても、夏樹にはその言葉の意味が理解できなかった。輝夜には、そういった世俗的なものとの関わりがまったく感じられなかったからだ。考えも
付かなかったと言ってもいい。
「あ、ああ、そうなんですか。じゃあ、待ってるだけ無駄だったんですね」
「いいえ、私はあの絵の作者に会えて、嬉しかったです。……それに、あなたも私に聞きたい事があったのでしょう?」
 立ち上がり、カウンターの中へと入っていきながら、輝夜は悪戯っぽく微笑んで見せた。夏樹はその表情にどきりとしながら、夢見心地で学生証と借りていた本を差し出した。題名は、『月の本』。あの絵を描くために借りていた本だ。
「今は楽でいいですね。本の貸し借りも、バーコードで処理できますから」
 本のバーコードと、夏樹の学生証に印刷されているバーコードを読み取る。それだけで、借りだしも返却も行なえる。確かに、この図書室の膨大な書物を整理するには、コンピューターを使うのがもっとも手軽だろう。
「俺が……あなたに聞きたい事、ってなんですか?」
 それが質問として不適切なのは理解していた。それを聞くべき相手にそれの内容を質問してなんの意味があるのだ。自分の中に、確かにそれはあるのだが、しかしなぜそれを輝夜が知っている……?
「私が人殺しかどうか、じゃないですか?」
 心臓が口から飛び出るかと思った。輝夜はなんの他意も感じられない表情で、学生証を差し出してくれた。夏樹は口許を引き締めて受け取り、それを胸ポケットにしまった。
「……俺がそれを?」
「ええ。……今日、お通夜かしら?」
「あ、ああ。六時半から」
 三島の通夜だ。学校からは、担任の教師と校長、それに生徒の代表が二人、行くことになっている。それ以上の人間が集まっても邪魔になるだけだろうという事で、自粛する事になったのだ。墓前で手を合わせるくらいなら今日でなくともできるし、それにクラスメイトの死体を見せたくないという考えもあるのだろう。
「あれ、私が殺したと思ってる人がいるみたいね」
 今度の微笑みは、先程のとは全然違った。いや、同じ人間にすら見えなかった。思わず逃げ出したくなるような、冷蔵庫に逃げ込んだ方がまだ暖かそうな、そんな微笑みだ。それを見ただけで、誰だって凍り付いてしまうほどの微笑みだ。
 これは自分と同じ人間なのか……?
「あなたはどう思う?」
「さぁて、ね。噂は噂だろ? 本当なら、そのうちケーサツがなんとかするだろうし」
 輝夜に人殺しができるはずがない。誰が見たってそう思うだろう。夏樹だってそう思った。……さっきまでは。だが、今は違う。輝夜に出来ない事などない。殺人なんて簡単なのだ、彼女にとっては。そうとしか思えない何かが、今の輝夜にはあった。
「そうよね……それが普通の反応よね」
「普通……かねぇ? 俺は自分が普通じゃないってわかってっから、あんまり参考にはならんと思うけど」
 自分と同じ人間を見た事はない。会ったこともない。だから自分は普通じゃない。普通というのは他人と同じことだから。だから自分が普通じゃない事ぐらいは、夏樹は知っているのである。周囲からそれを言われ続け、そして自分で納得がいったのは去年の事だ。それまでずっと悩み続けたが、答えが出てしまえば、馬鹿らしい事だと気付いた。そんな事がわからなかった自分が馬鹿だったのだ。誰だって変で、みんなそれが恐いから、普通を求めるのだ。
「変わったわね」
「あん?」
「言葉遣い」
 くすくすと笑う様は、さっきまでの輝夜と同じだ。あれが錯覚だったのではないかと思わせる変貌ぶりだ。女は魔物だ、というのは格言であるが、この場合はそれが原因なのか、それとも輝夜がそれなのか。
「もう少しお話したかったけど……もう時間みたいね」
 輝夜がわずかに眉を顰た。それに言葉を返す前に、図書室の扉が引き開けられ、輝夜とはちっとも似ていない二卵性双生児である輝月夜が姿を現わした。こちらもかなりの美形である。二年の女子を中心にファンクラブが結成されつつあるというのも、あながち冗談ではないだろう。
「時間だ」
 暗く錆びた声と同時に、下校を告げるチャイムが鳴った。これ以降に残れるのは、部活動か生徒会活動をしている者だけである。
「ええ、わかってる」
 輝月夜に向けていた視線を、ふっと振り戻した。そこにいる輝夜は、先程までとは全てが違う、まるで人形のような無機質さを漂わせる輝夜だった。
「また、会いましょうね」
 すれ違い様、そう言われた。答える前に、輝夜は図書室を出ていった。鍵と夏樹だけがカウンターに残され、全ては幻のように、沈みかけている夕日に掻き消された。
 輝夜が読んでいた本は、竹取物語だった。

 一週間が過ぎた。学校に行っている日は、放課後は必ず屋上にのぼり、一人空を見上げて煙草を吸っていた。今までうまいもんだと思ったことはないが、なんとなく、さぼっている時は必須アイテムかなと思ったら、意外とうまく吸えた。これが不良の型なのかもしれない。
 あれから、輝夜には会っていない。当然、輝月夜にも。部活は元から行ってなかったが、授業すらもさぼって屋上のベンチで寝転がっているのは、奇妙に解放感が大きかった。空は青い。月は白い。三島が死んだのさえ、もうずいぶんと昔の事に思えた。
 一週間で二人死んだ。クラスは違う。共通点はなにもない。ただ、輝夜が殺したのではないかという噂が流れた。輝月夜が殺したという噂は流れなかった。常に二人一緒であるのに、なぜか輝夜の噂しかなかった。
 誰もが知っているのかもしれない。輝夜が殺したという事を。それは信じるとか気付いているという事とは違う。誰にだってわかる事なのだ。それなのに誰も、輝夜が殺したとは言わない。殺したのではないかと、中途半端な憶測を確認しあっている。
 そしてどうなるのだろう? 輝夜が殺していたとして、自分達は一体、どうするのだろう?
 たぶん、誰もなにもしない。いや、誰もなにもできない。自分が獲物にならない事を願うだけだ。
 だから夏樹は待っていた。輝夜との、三度目の邂逅を。

「輝夜は来ない」
 呼び出されたのは図書室だった。夏樹は屋上が良かったのだが、外は生憎と雨模様だ。傘を差してまで外にいたいとは思わない。
「俺を呼び出したのはあんたじゃねぇぜ?」
 輝月夜のきつい目付きも、別にどうという事はなかった。攻撃的な連中ってのには、すぐに慣れるのである。一年の頃は不良と呼ばれるような連中とも付き合いがあったので、睨みぐらいでびびる夏樹ではなかった。
「俺達を掻き乱すな。お前のせいで、輝夜は……」
 そこで言葉は切ったが、目付きも迫力も、おそらく殺意のようなものも、まったく止めなかった。夏樹は薄気味悪いものを感じたが、せっかく呼び出されて来たところにいたのがこいつだったので、投げやりな気分でカウンターに座った。
「俺がなんかしたか?」
「……お前のあの絵が、輝夜を狂わせる」
 フラッシュバックのように、あの絵が脳裏に蘇った。夜空に浮かぶ、真円にして深遠なる月。時折混じるクレーターの銀色が、それを輝かせ際立たせた。それ以外には何もない、ただの月の絵である。
 なぜ、あれが。
「血を求めさせる。贖いの血を。肉を求めさせる。罪人の肉を」
 輝月夜の顔には、苦悩の色が濃い。心底輝夜の事を心配しているだけで、どうやら、夏樹の事をどうこうしようとしているわけではなさそうだ。
 では、なんのためにここに呼んだ……?
「やっぱり、輝夜が殺したのか?」
「! ……なぜそれを……?」
「誰だってわかってるさ。わからないはずがないんだ。あれは俺達人間とは違う。……なんなのかはともかくな」
「それがわかっていながら、お前はここに来たのか?」
 わかっていたのである。そしてわかっているのである。誰にだって、なんにだって。輝夜は人間じゃない。精霊なんてものでもない。人間のような、人間ではない、人間の腹から生まれた、人間なのだ。
「俺は別に、自殺願望とかそーゆーのがあるわけじゃねぇけど……輝夜と話せたら、あの絵が完成させられる。そう思っただけさ」
 あの絵を完成させるのは、もう自分ではない。夏樹はそれに気付いていた。だから、自分は筆を執らない。完成させられる誰かのために、あの絵をそのままにしておく事ぐらいしか、彼には出来ないのだ。悔しいが、それは事実なのである。
「……俺達は、人間ではない」
 輝月夜はそう切り出した。彼の前に置かれた本は、開かれているため題名は見えないが、なんの本なのかはすぐにわかった。
 竹取物語。それしかない。
「月に住まう月神が一族だ。だが、俺と輝夜は、月神ではない。……いや、男である俺が月神であるはずがない。だが輝夜は、月神と……」
「人の血を継いでいるのです」
 図書室の扉が開けられた気配はなかった。音もなかった。だが輝夜は、確かに戸口に立ち、こちらを見据えていた。
「約束したのは私ですよ?」
「それはわかっている。……だが……」
「下がっていなさい。あなたの役目はそんな事ではありません」
 毅然としている、というわけではない。だが、争い難い迫力を込めて、輝月夜を部屋の外へと追い出した。部屋を出る瞬間まで、飽く迄も輝月夜の心配そうな視線は、輝夜に向けられていた。
「すみません。弟が迷惑をかけました」
「いや、別にいいんだけどもさ」
 正直、夏樹はもう輝夜は来ないものだと思っていた。それでいいとさえ思っていたのだ。だが、輝夜は来た。来てしまった。さて、自分は……?
「あなたは、私の正体を?」
「知ってる……とは言えないか。なんとなーく感じてる、ってところかな、正確に言うなら。それを教えてくれるんだろう? ……これから」
「はい」
 にっこりとうなずいて、輝夜は先程まで輝月夜が座っていた椅子に移動した。一週間と一日前、ここで会ったときと同じ場所である。開かれている本も、やはり同じだ。
「私の先祖は、この竹取物語で語られるかぐや姫とは違いますが、同じような天女であったと古文書には書かれていました。この日本には、いえ、世界中に伝わる羽衣伝説と同じような事が、遙かな過去に、実際に起こったのです」
 月に住まうかぐや姫。その一族である月神族。月神族には女しかいない。男の手を借りずに子を産み、そして死んでいくのが定め。
 女だけの世界。生産されるだけの世界。破壊のない世界。理想郷、かもしれない。飽く迄も女の、女のためだけの。
「私の祖先は、罪を犯したのです。地上へと降り、人間の男と情を通じた……月神族は潔白でなくてはなりません。月に生み出された私達は、月の如く白く、美しくあらねばなりませんでした」
 そう、まさしく輝夜のような美しさを保たなければならなかったのだろう。白い肌、その背景のような、黒い髪。夜空にぽっかりと浮かぶ月のような美しさ。
「だから月に戻れなくなった?」
「そうです」
 それが輝夜の祖先。そしてその罪の証である、輝夜の一族……だが、なぜ輝夜が?
「どうして人を殺す?」
「私の中の月神の血が騒ぐのです。自らを地の底に引き摺り落とした人間を恨むのです」
 男を愛した、人間を愛した。それは天女の事実。だけど、地上に堕ちなければならなかった、天に戻れなくなった。それもまた、天女の事実。愛しながら恨むしかなかった、天女の事実……
「私はそれに嫌悪を覚えない。常識でブレーキをかけようとも思わない。だから私は、一族でも鼻摘み者なんです。月神の血を色濃く受け継いでしまったんです」
 輝夜の微笑みに曇りはない。殺人者の笑みではない。それは当然である。彼女にとって殺人とは、虫けらを殺すのと同じことなのだ。人を殺しているのではなく、地上を這う虫を殺しているのだ。だから、罪を感じることもない。蟻を踏み潰した時に感じるような偽善とも無縁なのだ。
「母は禁を犯しました。父は禁を犯しました。そして私があります。……輝月夜は、本当は従姉弟なんです。あの子には、なんの罪もない。ただ一族の義務で、私を守ろうとしている。それだけなんです」
 輝夜はそれを悲しんでいるのだろうか。輝月夜に背負わされた義務を嘆いているのだろうか。輝月夜は輝夜が背負っている宿業を嘆いているだろう。
「……羨ましいがね、俺としては。あんたを守れる立場にあるってのは、そんなに悪い事じゃない」
 輝夜は罪なのだ。天女の、人間の、罪の結晶なのだ。輝夜はそれを受け入れている。自分が人ではないと自覚している。そんな女を守れる、守る事が出来たなら。立場という問題ではなく、心構えという意味でそれほどの覚悟が持てたなら。男として、それは本望かもしれない。
「どうして三島を殺した?」
「……誰でもよかったんです。素直に呼び出しに応じてくれる相手なら、誰でも」
 それの基準は? と聞こうとして、夏樹はなんとなく悟ってしまった。おそらくは、ラブレターだ。輝月夜に送られたものか、それとも輝夜に送られたものか、そのどちらかの中から選んだのだろう。運の悪い小羊を。
「そして俺も殺すかい?」
 それもいいだろうという気分だった。どうせ人間、いつかは死ぬんだ。輝夜に殺されたなら、輝夜が死ぬまでは、自分の事が忘れられることはないだろう。誰かの記憶に残る事を望み、ただそれだけのために死ねる。そんな幸せ生き物は、たぶん地球上で人間だけだ。
「私は殺しません。輝月夜にも殺させません。あなたには絵を描いてもらわなければならない。そんな気がするからです」
 絵か……今ならあの絵の続きが描けそうだった。やはり、輝夜と話したからだろうか。絵をどうするかは、もう決まっていた。
「そっか。……ふんじゃまぁ、俺ぁ帰るわ。久し振りに真面目な話ぃしたら、腹減った」
 ぐぅと鳴りそうな胃の辺りを撫ですさり、夏樹は立ち上がった。何がどうと言うこともない。別に自分は、輝夜をどうこうしたかったわけではないのだ。ただ、絵を描くために、描き上げるために話がしたかった。最初から、目的は一つだったのである。
 やっぱり、俺ってのは冷血なのかね?
「今度、お昼御飯、一緒に食べませんか?」
 小首を傾げて、にっこりと微笑む。自分が輝夜を告発する事がないのを理解しているのだろう。確かに夏樹は、そんな無駄な労力を使う気はさらさらなかった。
「……弁当?」
「私が作ります。……いつもは輝月夜なんですけど」
「腹ぁ壊さねぇんならご相伴に預かろうかねぇ」
 酷いですねと笑いながらいう輝夜に手を振って、夏樹は鞄を持ち上げた。さあ、とっとと家に帰って、絵を仕上げないと。次に描きたいものも出来たことであるし。
 扉を開けたら、廊下の向こう側に輝月夜がいた。窓を背に、むっつりとこちらを睨んでいる。
「心配すんなよ。俺は誰にも言わねぇから」
 噛み付いてきそうなので魔除けにそんな事を言って、ライトの点いていない薄暗い廊下を歩きだす。
まだ放課後のチャイムは鳴らない。

 濡れた髪も乾かさずに、夏樹は自分の部屋に飛び込んだ。わたわたと押入を漁り、あの絵を取り出す。こちらを向いている裏面には、月の降る夜と書かれていた。これを書いた奴は詩人で予知能力者だったに違いない。
 油絵具で描かれた月は、銀色が定着したせいだろうか、あの頃よりも輝いてい見えた。夏樹はゆっくりとペインティングナイフを持ち上げ、右上から左下へと真っ直ぐに切り下ろした。月と空が傷で結ばれ、天空に浮かぶはずの月が、今にも割れて降ってきそうだった。
 やっと題名通りになった絵を満足げに見下ろし、夏樹はナイフを下ろした。やる事をやったら、腹が減っている事を思い出した。さて、なにを食おうか。
 残された絵の中で、月は微笑んでいるようだった。