闇に灯る一筋の光明の



 月が出ている。気持ちのいい夜だった。なんとはなしに散歩でもしようかと外に出、空を見上げたら真っ白い月が失敗した皿のような模様で浮いていたので、わざわざ外に出るまでもないと判断し、縁側に腰を落ち着け、手酌でちびちびと酒を飲む事にした。
 北海道という土地柄を考えれば、その屋敷に縁側があるのはある意味不似合いだった。が、しかし、なかったらなかったで、やはり不似合いだっただろう。そこは、そんな屋敷だった。
 その屋敷には、縁側にいる男以外、誰も住んではいなかった。敷地面積で五百坪、屋敷だけでも、二百坪以上あるのではないだろうか。一般的な一軒家が三十坪前後だと考えると、かなりの巨大さであり、広大さである。
 そんな屋敷の手入れなど、掃除だけでも大変そうだが、しかし実際、彼以外には使用人すら一人もおらず、ホームヘルパーのようなものも一切使った事はなかった。それでもいつも掃除された直後の状態が保たれているのは、これがただの屋敷ではない事を如実に示していた。
 そう、この屋敷は、普通の屋敷ではない。人間が住むものですらない。ここに住む彼は妖怪と呼ばれる存在であり、だからこそ、この屋敷ではそれに相応しく、様々な不思議が起こった。といっても、彼以外に住む者はいないわけだから、それで誰が困るわけでも、驚くわけでもないのだが。
 もしこの屋敷に意識でもあれば、それを残念がるだろうか? 何度か浮かんだその疑問を曖昧に打ち消して、彼は空になった銚子をぷらぷら振って最後の一滴まで絞り出し、わざわざ注ぎ足しに行くのも面倒だったので、そのままごろりと横になり、頬杖をついて庭にある池に写る月を眺めた。
 この屋敷に意識があったっておかしくないのは確かである。なにしろ勝手に掃除してくれるし、料理だって出てくる。前は誰が使っていたのか知らないが、彼がここに初めてやってきた時から、すでに空家だった。
 だから細かい事は気にせずに堂々と居座っているのだが、いまさら本来の住人が帰ってきたとしても、明け渡す気など毛頭ない。もしその時に飽きていれば話は別だが、これだけ快適だと、そう簡単には飽きそうになかった。
 月の出ている夜は、あまり好きではない。好きではないけれど、しかしどうしようもなくそれに魅かれる自分がいて、そんな自分を客観的に観察している自分がいて、結局、好きではないけれど見ていたいという結論に落ち着くのが常だった。
 好きではないというのに、嫌いにもなれない。それだけは、絶対になりえなかった。いっそそうできれば、月を見る度に心を締め付けるこのもやもやした気持ちにも決着がつけられるだろうが、ロマンチストである彼には、そう簡単な事ではない。
 忘れてはならない事がある。忘れたい事がある。両者は大体近くにあって、どちらかを感じた時、必ずもう一つも感じた。
 忘れないで、と言われたのだったか。それとも、忘れて欲しい、と言われたのだったか。よく覚えていない。とても大事な事であるはずなのに、思い出せない。
 もう、あの人の顔すらもおぼろ気だった。
 いや、そもそもが大それた思いであり、恋だったのだ。絶対に叶う事はなく、成就するはずのない思いを抱えて、彼は一人、地上に残された。
 最初からそうなる事はわかっていたのである。であるのに、好きになってしまった。不毛な思いを抱えて空を見上げ、見続けるのが恐くて、池に写るそれを眺める。
 まるで道化師になったみたいな気分だった。意外にもそれが不快ではない事を不快に思いながら、彼はあらためて、空を見上げた。
 まるで夜空に張り付けたような月。公転周期と自転周期の釣り合いのせいで、決して裏側を見せようとはしない見栄っ張りな衛星。地球上にいる限り、誰にもその背に負っている苦難の姿など見えもしない。
 そして、そんな月があるからこそ、彼はいまここに存在しているのだ。つまらない人生である。月は太陽の光を受けてうっすらと輝き、そして彼はそんな月の光を受けて、存在している。
 なにが虚像でなにが実像なのか。月を見ていると、現実というものがどういうものなのか、わからなくなってくる。いまここに生きているという感覚すらも希薄になって、もしかしたら自分はもうすでに死んでいるんじゃないだろうかとさえ思えた。
 だけどそんな事はない。彼は目的もないのに生きていて、過去の思いにすがって懐かしみ、虚しさと徒労の影に喜びを見出す。自分がまともじゃない事はわかっていたが、ここまで異常だとは思ってもみなかった。人間でもあるまいに、自分の存在を懐疑するなど、彼らにしてみれば、自殺行為にも等しい。
 おそらく、自分は満月の状態にはならない月なんだろうと思う。新月から三日月、半月まではいっても、そこを折り返し地点にして、また三日月に戻って、新月になる。ただそれを繰り返しているだけの、不完全な月の模造品。
 ないわけではない。あるわけでもない。見えようが見えまいが月は絶対にそこにあるというのに、しかし見えないだけで、ないように思ってしまう。欠けるから満ちるのか、満ちるから欠けるのか。
 欠けた心は、どうすれば補う事ができるのか。
 いつか満ちる事だけを夢見て待ち続けている限り、彼に救いは訪れないだろう。そしてそれは、やはり最初からわかっていた事だ。もう、なにもかもを捨て去ったというのに、それだけは心に残る。
 あの人は、いまでも自分の事を覚えているだろうか? それとも、地上での記憶は処理されてしまっただろうか? あの歓喜なる禁忌を忘れたのだとしたら、きっとあの人は、不幸だろう。
 誰よりも、あの人がそれを望んだのだから。
 ただ待ち続ける。自分の中に答えが生まれる時を、いつか遣わされるだろう心の意味を。

 何気なく月を見上げた。予感、のようなものでもあったのかもしれない。ふと、水面に写る月が揺らいだように思えて、彼は顔を上げた。
 そこには、いつもと変わらぬ顔の月がある。ところが、その月から一筋の光が差し、池を照らしたかと思うと、次の瞬間、そこには一人の女が現われていた。
「お初にお目にかかります。私は、月神族が第一王女、迦具夜様の筆頭女官の玉兎と申します」
 その女は、言ってみれば時代劇だった。十二単を身に
まとい、宙にふわふわと浮かぶ衣を肩にかけ、池に波紋
を広げつつも、決してそこには足をつけていない。
 なによりも、その美しさ。人間なら傾国の美女が限界だろうが、闇の中、月の光に浮かび上がるその姿は、まさしく天女としか言い様のないほど美しく、また、危険を孕んでいるように見えた。奇麗な薔薇にだって刺はある。天女の美しさには、さて、どんな毒が仕込まれているのだろうか。
「で、その筆頭女官がなんの用だ?」
 彼は動じる事もなく、頭を深々と下げた玉兎に投げやりに声をかけ、沈黙した。月からの遣いを待っていたというのは事実だが、迦具夜というのは、彼の知らない月神だ。もちろん、名前ぐらいは知っているし、あの人の姉にあたる事もわかってはいたが、直接の面識などない。そして、それが普通なのだ。
 月神族。月に住まいし神々……いや、精霊と言ったほうが、より近いのだろうか。
「はい。誠に勝手ながら、あなた様に、預かっていただきたいものがございまして、参上いたしました」
 さらに少しだけ深く、頭を下げる。このまま焦らせたら、その内平伏でもしてくれるだろうかとぼんやり考えながら、彼は気のない返事をした。
「本当に勝手だな。俺は、あんた達にはなんの義理もないぞ?」
 どころかむしろ、恨みさえ持っている。結局は月に帰ってしまったあの人を連れ返しにきた月の連中に、彼はあまり、良い印象を抱いてはいなかった。
「第三王女様からも、是非にとの言葉がございました」
 ……ふん。やっぱりこいつらは好きになれそうにない。最初から彼が断わるだろう事を見越した上で、あの人の名前を持ち出すとは。しかも、それにしたって、あの人が自分の事を覚えている保証などなにもないというのに。いや、むしろ、忘れている公算の方が高かった。
 忘れたいのか? 忘れたくないのか? それとも、忘れさせられたのか?
 どれでもいい。結果は同じだ。
「ま、断わるにしても、話ぐらいは聞いてやろうじゃないか。俺になにを預かれってんだ?」
 あの人に頼られるのは、悪い気がしない。その高揚を押し隠しつつ、あくまでも彼は興味のない素振りを続け、小指で耳を掻きながら、起き上がろうともせずに、話を続けさせる。ちょっとだけ、中に入ってじっくり話を聞かせてもらおうかとも思ったが、そうすると断わる余地がなくなりそうだし、そもそも面倒臭かった。
「第二王女様の……お子様です」
 初めて感情らしいものを現わして、女官は頭を上げる。その顔にはどんな表情もなかったが、苦々しさだけは、声と共に伝わってきた。
「子供? 見ず知らずの他人のガキを、見ず知らずの男に預けようってのはどういう了見だ?」
 彼が知っているのは第三王女であるあの人だけで、他の月神族など、名前すら知らない者の方が多い。第一王女とて、迦具夜が特別に有名だから知っているだけだ。
 そんな奴の所に子供を預けようとするこの女官の、そして月神族の真意は、いまいち掴み切れなかった。
「むしろ、私達を知らないからこそ、貴方様にお預けしようという結論になったのです。私達の事を知らないという事は、つまり私達も貴方の事を知らないと言う事ですから」
 果たしてそれがどこまで本当なのかは疑問の残る所である。いくらこの地球が監獄で、罪を犯した月神が贖罪の時を過ごすための場所だからといって、第三王女ともなれば、その身辺に護衛兼監視がついていたとしてもおかしくはない。そして、彼はその第三王女と共に過ごしていたのだ。本当に彼の事が知られていないのだとしたら、月神族は相当な間抜け揃いか、ただの甘ちゃん連中の集まりだろう。
「確かに俺は、あんた達の事はほとんど知らないがな。だからって、なんで俺なんだ? 他にだっていろいろといるだろうが。適役っぽい奴ならよ」
 月神族が彼のところにやってきた理由として、それなりにそれらしいものが思い浮かんでいた。単純に、彼が月と関わる妖怪だからだろう。
 だがしかし、月に関わる妖怪など、彼を除いてもそれなりにいるわけで、あえて彼を選んだ理由は、やはりはっきりしない。アミダで決めたと言われたら納得しそうだ。
「どうせ預けるのなら、貴方様に是非、と第三王女様が仰られたもので」
 つまり、この女官は納得していないんだな、という事は気配でなんとなくわかった。彼もそう思っていたからこそわかったのだろう。一方的に命令と伝言と懐柔だけを申し付けられたといった風情だ。
「どうせ俺の事なんてあの人は覚えていないんだろう? 罪の記憶なんてのは、贖罪が終われば根こそぎ消しちまうってぐらいの事は知ってるんだぜ、俺でも」
 教えてくれたのは、すべてあの人である。だからといって、どうという事もないが。
「……正直に申し上げます。第三王女様の伝言というのは、すべて嘘です」
 苦悩しているのはありありとわかった。わかったが、なにに苦悩しているのかまではわからなかった。嘘を吐いた事に対してか、こんな事をやらされている自分に対してか、それとも、彼に嘘を吐いたからだろうか。
 ……最後のだけは、ありそうにないか。
「やっぱりな。そんな所だろうと思ったぜ。月に帰ったあの人が、俺の事なんか覚えてるはずがない。って事はやっぱり、第一王女様とやらの指示か?」
「その通りです。すべては迦具夜様の指示です」
 そう言いながらも、迦具夜に責任を押し付けている風ではなかった。そもそもただの女官であるのなら、たとえ筆頭とはいえ、月神に逆らう事などできないのだから、この女の責任ではない。
 それでも、たとえ拒否権も選択権もなかったのだとしても、この女官は、それを自分の責任として感じているだろう。そういう女なのは一目でわかった。
 あまり好きにはなれそうにない。
「じゃあ聞くが、あの人はどうしたんだ? 俺の事はともかくとして、こんな事を知ったら、あの人なら……」
 反対するのではないだろうか。細かい事情など知らないが、地上に落とされた事を、あの人は常に後悔していた。それは、彼と出会ってからも変わらなかった。ただ、最初から地上に生まれていれば、月に帰る必要もなかっただろうにと嘆いていた。
 嘆く事しか知らないような女だった。なんで好きになったのかは、いまでもわからない。
「反対も賛成もなさりませんでした。いえ……できない状態にある、と申し上げた方が正確かもしれません」
 先ほどからの苦々しさの正体はそれだと言わんばかりの嫌悪を叩き付けられ、彼は戸惑った。なぜ自分がこんなにもストレートに怒りをぶつけられなければならないのか、まったく心当たりがなかったし、そもそもこの女とは、寸前まで面識すらなかったのだ。
 それなのに、まるで生まれた時から憎悪する事を定められていたような憎しみを向けられている。いったいなんだというのだろうか。
「どういう事だ? そんなに体が悪いのか?」
 病弱だった事は記憶している。肉体の貧弱さを補うかのような情熱を持っていた事も知っている。
「記憶を残したためです。あの方は、最後まで記憶処理に抵抗なさって、それで……」
 頭がいかれちまった、って所か。まったく、光栄な話である。たかが自分のような一匹の妖怪のために、月神族の第三王女ともあろう者が、なにをとち狂ったのか精神をぶっ壊されただなんて。
 だから、なのだろう。この女官から向けられる悪意は。
「馬鹿な事をしたもんだな」
 感情は消せた。成功するとは思わなかったが、成功してしまったのは、少し寂しかった。
「貴方様とて……力を失ってでも残したのでしょう?」
「確かにな」
 彼もまた、記憶処理をかけられた。だがそれに抵抗し、成功し、結果、自我崩壊はしなかったまでも、力の大半を失ってしまった。どちらが良かったのかはわからない。あの人のように壊れてしまえば、それはそれで楽になれるのかもしれなかった。
 救いなんてものではないだろうけど。
「たかが俺一人のために、そこまでする必要なんてなかったのにな」
 突き放すように言う。
「貴方は……!」
 女官は、張り上げかけた声をそこで止めて、唇を強く噛んだ。彼の事を罵ろうとしたのに、止められてしまった。そんな所だろう。
 流れる涙は、風に吹かれてすぐに消えた。
「で、なんでそのガキを預からなきゃならないんだ?」
 口調は少しも変えなかった。変わらなかったのかどうかは、自分でもよくわからなかった。
「危険なのです……月にあっては禁忌としかなりえませんから」
「危険? つったって、第二王女のガキなんだろう? それがなんで危険で、しかも禁忌なんだ?」
「もし、その子供が男の子だったとしても?」
「……なんだと?」
「だからなのです。貴方様に預かってもらいたい、というのは」
 月神族は、女だけの神族である。自家受精で子供を作るから、男を必要とはしないのだ。もっとも、男を使って子供が作れないわけではない。日本各地に存在する天女伝説では、羽衣と引き換えに妻になった天女が、子供を産む記述が伺えた。
 だからこそ、月神族に男の子供が産まれたという事実は、禁忌なのだろう。男は、男と通じた時にしか産まれる事はない。そして男と通じるという事は、第一級犯罪として、地球への永久追放と決まっている。
 もし、あの時子供を作れていたなら、あの人はこの地上に残れたというのに。それは、今以て消えない後悔の種だった。
「俺にそんな大事なもんを預けてもいいのか? 自慢じゃないが、俺は責任感のなさにかけては天下一品だ」
 あの人と別れた時から、なにに対しても興味を感じられず、感情を抱く事もなく、ただ生きてきた。あの人に関する事を除けば、彼に好き嫌いは存在しない。
「迦具夜様がなにを意図して貴方様に預けられるのか、それは私が詮索すべき事柄ではございません。ですが、私は、貴方様になら預けられます」
 根拠はなんなのかと聞いてみたかったが、さっきの涙だと答えられるのは嫌だったので、曖昧に、あ、そうと答える。あれはただの不覚だ。見せようと思ったわけでもないし、それでどうこう感想を持たれるのも嫌だった。
「ま、いいさ……預かるだけなら預かってやる。どうせ暇だからな」
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げるのもろくに見ずに、言葉を重ねる。
「ただ一つ、条件がある」
「条件、ですか?」
 いぶかしげに、眉を顰る。幻滅のようなものも見え隠れしたが、あまりはっきりとした形にはならなかった。
「一度でいいんだ。あんたを抱きしめたい」
 なんですってとか言いながら、平手打ちをかまされる事も覚悟していた。したのは言ってからだが、手加減なしで殴られる可能性もあるよなと自分勝手な事を考えながら、彼はただ一人、静かに返事を待った。
「……わかりました」
 どこかにとても大きな忘れ物をしてきてしまったような声だった。自分の姿というものを忘れていたのかもしれない。
 月神族の女官は、主と全く同じ姿になる。そして、玉兎の主は、あの人と姉妹であり、瓜二つのようだった。
「ですが、一度だけです」
「いいさ。それでいいんだ」
 彼は縁側から素足のまま降りて、剥き出しの大地に立った。玉兎はしずしずと歩を進め、彼の目の前で足を止める。
 本当に……そっくりである。玉兎に会った事で蘇った記憶の中に残るあの人が重なった。
 あの人は、別れの時なんと言っただろうか? そうそう、こんな事を言っていた。
『私達は、なにを間違って、なにを失ったのかしら?』
 なにも間違ってはいません。なにも失ってはいません。たとえ記憶をなくそうとも、力をなくそうとも、心が壊れてしまったとしても、私達が共に過ごした時だけは、なんの過ちもなく、幸福を刻み残しているのです。
 静かに、ゆっくりと抱きしめた。その感触を確かめるように、それでいて恐れるように、ほんの少しだけ、怯えたように。
 あの時の別れがまるで嘘のように。
「……苦しいです」
 その声でようやく我に返った。そう、時は逆しまには流れない。玉兎があの人ではないように、彼もまた、あの時の彼ではなかった。
 それが悔しいのかどうかもわからない。自分が変わったのか、それとも世界が変わったのか。なにもせずに待ち続けていた、これが罰なのだろうか。
 なんだっていい。少しでも確認できた。あの時の自分の決意は、まだ揺らいではいないと。
 それでよかった。
「おっと、すまない」
 悪ふざけのように言って、軽く飛び退いて縁側に戻った。玉兎は少しだけ乱れた着衣を軽く整えて、懐に手を差し込み、引き抜いて彼に示した。
 その手に乗っているのは、石である。
「なんだこりゃ? どうすれってんだ?」
 その石は白色だった。いや、わずかに銀色がかっているだろうか。白とも銀とも言えないような、不可思議な光を放っている。そう、月光を反射するわけでもなく、その石自体が、わずかに燐光を発していた。
「月の守り人達の目を誤魔化すには、こうするしかありませんでした。今日から三晩、月光にさらして下さい。そうすれば、元に戻ります」
「つまり、ガキになるってわけか」
 月神族は、元が精霊だ。姿などどうとでも変えられる。それでも、変化に力を使ったのか、戻るのにはそれなりに力を溜めなければならないようだ。それとも、この形に封じて、それを解く鍵が月光なのか。
「子守は得意じゃないんだが、あんた、手伝ってくれるのか?」
「いいえ……私は、これからすぐにでも、ここを離れなければなりませんから」
 少しだけ名残惜しそうに、玉兎は言った。それでも自分の使命を弁えているのか、すぐに元の厳しい顔に戻って、月を見上げる。
「追手がかかってるのか?」
「はい。女官とはいえ、月の者が地上に降りる事は許されませんから」
 罪を犯してまで地上に降りてきた、か。なんとも見上げた忠義心である。そんなもののために命を賭けるのは馬鹿らしいと思うが、玉兎は確固とした信念を持っていた。それはそれで、立派な事だろう。
「なんとかしてやろうか?」
「いえ。証拠を与えなければ、たとえ一時は撃退できたとしても、また新しい守り人が現われるだけです」
「証拠? まさか、あんた……」
「それが私の使命です。気にしないでください」
 死ぬ事によって全ての証拠を闇に消し去り、そして、ただの脱走だったという事実を押し付けるつもりなのだろう。たとえ死体から記憶を覗かれたとしても大丈夫なように、きちんと処理を施してきたはずだ。
 こんな形で出会わなかったら惚れていたかもしれない。あの人とはまた違った形で強い女だ。
「もう行きます。後の事は、よろしくお願いいたします」
 さっぱりとした顔だった。厳しさはまだあるが、それでも彼を信頼できると思ったのか、心残りはなさそうである。与えられた使命をまっとうできただけで、玉兎は満足なのだろう。
「任せとけ。お空の上で偉そうに踏ん反り返ってる奴のためじゃなく、あの人とあんたのために、立派に預かってやるさ」
「迎えは……正直、どうなるかわかりません」
 来るのか来ないのか。それすらもわからないとしても、まあどうでもよかった。とりあえず、暇はしそうにない。
「じゃあな。もし運悪く生き残ったら、また会いたいもんだ」
 冗談めかして笑いかけた。他にしてやれる事も思い浮かばなかった。この女は、全てを拒絶しているようにも見えた。
「私は貴方を忘れるでしょう。記憶を残しても辛いだけですから」
 最後の最後に本当に辛そうに微笑んで、玉兎は宙に舞い上がった。羽衣の効果なのか、それとも玉兎自身の能力なのかはわからない。
 だが、もう二度と出会う事はないだろう。それを確信させるには充分な美しさだった。
「行くあてはあるのか? ……んなわきゃないか」
「はい。とりあえず、南に行こうとは思っています」
「ほう? なんでまた?」
「行ってみたかったんです。青い海に憧れていて」
 その時だけ、年相応の幼い笑みだった。無邪気な、純粋な、汚れを知らない、だからこそ恐ろしい笑みだった。
「行ってみりゃあいい。今のあんたは自由の身だ」
 使命を果たし、ありとあらゆる束縛から解放された先にあるのが死だったとしても、いや、だからこそ、自由に生きるべきだろう。自らが望むままに、その欲する所を素直に行なえばいい。
 誰だってそのぐらいの権利はあっていいはずだ。
「……そういや、こいつの名前はなんてえんだ?」
 玉兎が空に舞い上がるのを引き留めるように、そんな事を聞いていた。聞かなくたってどうにかなったのは確かだが、聞かなければと思ったのも確かだった。
「天結様です。名付けられたのは、迦具夜様です」
 その名前は、彼があの人と共にある事を誓った時、冗談気分で子供の名前を決めた時のものだった。それを迦具夜が選んだというのはただの偶然か、それとも裏に潜む恣意故の事か。
 そもそもなぜそれを知っているのかという疑問が残るから、やはりただの偶然だろうか。
「んじゃあ、な」
「ご機嫌よう」
 最後には笑みも浮かべず、ただ頭を下げて、玉兎は姿を消した。飛んでいったのか、それとも瞬間移動でもしたのか、ともかく、彼の視界からは簡単に消え去っていた。
「ご機嫌ようってもなあ……」
 さて、実際出てくるのはどんなお子様なのか。掌中の石を見下ろして、彼は溜め息を吐いた。
 あ、きちんと名乗るの忘れたなあ。名前ぐらい知られていただろうが、それでもそうする事は礼儀だったように思えて、彼はほんの少しだけ、時間を巻き戻したくなっ
た。
 月だけは相変わらず無表情に浮かんでいる。

 さて、暇だなあとぼんやりしながら、鏡餅を供えるような台に例の月の石を乗せ、欠伸を噛み殺しながら、彼は三日目の晩を過ごしていた。
 そもそも三晩の間月光にさらせというのは、どんな根拠と理由があっての事だったのだろうか。夜の間外に出して置けばいいというだけならいいのだが、昨日は生憎の曇り空で、時々雲の切れ間ができた時ぐらいにしか、月光など地上に届いていなかった。
 中途半端に封印が解けてどろどろになって出てきたら、気持ちは悪いがおもしろいかもなあ。そんな事を思いながら、石を突っついてみる。当然の事ながら、月はすでに欠け始めているので、やっぱり充分な月光は集まっていないような気もした。
 だけどまあ、玉兎がそうしろって言ったんだし、天候ぐらい予見していてもおかしくはない。だから三晩なんて区切ったんじゃないだろうか。根拠はないけどそんな風にも思う。
 やっぱ、いい女だったよなあ。第一印象は決定的なまでに人物像として定着するって言うけど、しかし第一印象なんてものは、ほとんどあてにならない事を知ってい
た。あの人だって、最初はいい印象なんてなかった。弱くて優柔不断で自分ではなにもできない、ただのお姫様だったのである。
 だけど、それは間違いじゃなかった。ただ、出会ってからのあの人が変わっただけで。
 変わる事だってある。出会いというのには、それだけの意味も価値もあるはずだ。出会う事によって互いに影響を与える。それが良い影響なのか、それとも悪い影響なのかはともかくとして。
 あの人とは、良い影響を与え合ったと信じたい。出会う事で意味を持ち、強くなれたのだと信じたかった。
 もしかしたら、面倒臭そうにしていながらも待っているのは、あの時の喜びを思い出して、それに期待しているからだろうか。そんな風に自分を分析してみる。
 すると、意外にもそれが嫌じゃなかった。なんとなく、それっぽく思えた。変化を期待していて、だけどただ待っていて、それなのに変化が向こうからやってきた。だから、この千載一遇のチャンスをものにしたいと思っているようだった。
 一人だけの時間が長いと、どうも自己分析をする癖がついてしまう。分析した所でなにがどう変わるわけでもないというのに。ただの暇潰しには飽きて、それよりはおもしろいのは確かだが、変わってもそれを見せる相手も、わかってくれる相手もいなかった。
 やはり、期待しているんだ。まるであの人が帰ってくるかのような錯覚を感じながら、彼は縁側に寝そべり、ただ石が孵る瞬間を待ちわびていた。

 月光が、一瞬だけ全てを包み込むような強烈な光を発した。そんなはずはないが、しかしそれに目を晦まされた彼は、腕を上げて目を覆い、光が納まるのを待った。
 光が消えたのは、結局は一瞬だった。それでも数秒、反応が遅れたせいで目どころか頭までちかちかしていた彼は、恐る恐る腕を下ろすと、奇妙な見慣れない物体を目にしていた。
「なんだこりゃあ……?」
 目の前には、確かにあの月の石が置かれていたはずである。はずであるのに、そこにあるのはいつの間にか巨大な岩だった。彼程は大きくはないが、それでも子供が一人、中に入れるぐらいの体積は持っている。
 その独特の光沢で、すぐにこれがあの月の石だという事は理解したが、しかしあまりにも唐突な変貌に彼は戸惑っていた。
 もしかしたら、月光に当てていろというのは、あの閃光を浴びせるためだったのかもしれない。迦具夜か誰かが放った封印解除の光によって、この石は巨大化したのではないだろうか。彼はそんな事を漠然と感じていた。
 なんだったにしろ、目の前の岩石は、びくびくと脈打つように振動を繰り返していた。はっきり言って気持ち悪い。もっと生物的な外観だったならまだしも、ここまでただの岩なのに、そんなものが脈動していたら不気味でしかなかった。
 なんか、えらいもん預かっちまったかなあなんて思いながら、彼はなにをしていいのかわからず、そのまま岩石を眺めていた。しかし、数分待ってもなんの動きもない。脈動は明滅を伴って繰り返されるが、それ以上はなんの異常な動きも見せず、さらには閃光もやってきそうになかった。
「どうしろってんだ……?」
 つぶやきながら、とりあえず触ってみるしかないかと思い立ち、岩石の表面に触れてみる。ひんやりと冷たい。のになぜか柔らかい。外観だけではなく不気味な物体から慌てて手を離して、触った手を見下ろしてみる。どうもなってはいなかったが、岩石の燐光が僅かにまとわりついているようにも思えた。まるで鱗粉のように。
「きしょいだろうよ、これはよお」
 さて、どうしたもんかと考えながら、頭を掻く。触っても害はなさそうだが、しかし触っていたいもんでもない。かといって放っておいても変化はなさそうなのが問題だ。いっそ預かった事を忘れさってばっくれてしまおうかとまで考えたが、それは後味が悪そうだったので諦めて、もう一度、今度は両手で触れてみた。
 やはり冷たい。そして柔らかかった。どうしようなどと考える余裕もなく、とりあえずこんこんとノックしてみた。返事はない。あったら恐い。柔い事は柔いが、壊せない柔さじゃないなと判断して、思い切り殴り付けてみた。
「……! くっはあ……!」
 痛かった。殴り付けた瞬間だけ、まるで金剛石にでもなったんじゃなかろうかと思い込みたくなるぐらいの硬さになっていた。
 が、だからこそ、岩石の表面をひび割れが走り、微細な破片を巻き散らしながら、岩はぽろぽろと崩れ始めた。なーんだ、最初っからこうすりゃ良かったのかと結果オーライに考えながら、彼はぼけっと突っ立って、何が起きるのか待ち構えた。
 しかし、それでもなにも起きない。ひびは入ったが、それ以上壊れるわけでも崩れるわけでもなく、岩は相変わらず脈動を続けていた。
「……おんやあ?」
 もしかしたら、間違ってたのか? なんて当たり前の事を思いながら、もう一度ノックしてみる。
 すると今度は、中からノックが返ってきた。びくんと背筋を反らして、再び離れる。トイレじゃねえんだからよと変なのかまともなのかわからない感想を零しながら、彼は岩が内側から破られる様を、ただじっと見詰めていた。
「ふわああ」
 岩を突き破って現われたのは、十五六ぐらいの男の子
だった。これが天結ってガキなんだろう。顔形はあの女官に似ていた……つまりは母親似なんだろう。男のくせに女顔で、しかもそれが似合うような体つきだったので、彼は一瞬、こいつ、本当に男か?と疑ってしまった。
 が、加速度的に崩壊する岩がすっかりと縁側に蟠った時、彼はそのガキが男である事を確認した。
「ここ、どこですかあ?」
 寝惚け眼をがしがし擦りながら、全裸の天結は欠伸なども漏らしつつ、そんな事を聞いてきた。緊張感のようなものは感じられない。それは月神族特有の反応なんだろうかと思いながら、彼は俺の家だと答えた。半分ぐらいは嘘だが。
「ええと……僕はなんでここに?」
「俺が預けられたからだよ」
 どうやらこいつは、預けられる事などなにも知らなかったようだ。それとも、そういう振りをしているだけか。いやいやそんな事をする意味などないはずだから、やはり知らされていなかったと見るべきだろう。
 しかし普通、本人に何も知らせずにこんな所に預けるかね?
「ええと、じゃああなたが……烏月さんですか?」
 名乗る前に名前を当てられてしまった。という事はやはり、預けられる事は知っていたという事か? ああそうか、誰に預けられるかは知っていても、そいつがどこに住んでいるかは教えられてなかったって事か。
 納得してしまえばどうという事もなかったので、彼、烏月はとりあえずそうだとうなずきながら、さて、裸のままで放置しておくわけにもいかないが、かと言って彼が着ているのは作務衣だったので、上着を脱いで着せてやるというのはなんか変な気がしていた。
「とりあえず、中に入れよ。寒いだろ?」
「いえ、別に……」
 とか言いながら、盛大なくしゃみをしてくれる。そいつはわざとかと突っ込みたくなったが、障子戸を開け放って、とっとと中に誘導した。しかし、天結に合うサイズの服なんてあったかなと頭を掻き掻き困惑していると、部屋の中には、まるで最初からずっとそこにあったかのように、もう一着、作務衣が用意されていた。屋敷が気を利かせてくれたという所だろうか。気の回る屋敷だ。
「ほら、こいつを着な」
 下着までわざわざ用意されてるあたり、なんだかなあという気分だったが、とりあえず拾って、天結に投げ付ける。
 が、投げ付けられた天結は、まるでそれがなんなのかもわからないように、きょとんとしていた。
「なにやってんだ?」
「いえ、あの……これ、どうやって着るんですか?」
 烏月は、月神族というのがほとんど王族みたいな生活をしている事を思い出して、なんか脱力感に満ち溢れた溜め息を吐いてしまった。今までは女官……きっと玉兎……にでも着せてもらっていたのだろう。普通、着せられてるだけでもある程度は着方も覚えるものだが、一生自分で着る事のないこいつらは、そんな事すらも覚えないのである。あの人もそうだった。
「なんだかなあ……」
 飯の食い方を教えるレベルならまだしも、服の着方を教えるだなんて、なりだけは十五、六でも、中身は四、五才ときている。
 こんなんを預かって大丈夫なんだろうか?

 飯は普通に食えるんだな、と天結を観察しながら、さすがにそこまでは過保護じゃなかったのかと安心する。しかし、常識は持っているようにも見えるが、行動はあまりそれについていっていないようで、時折ものすごい勘違いした方向に突っ走ってくれることがあった。
 たとえば服の着方に始まり、蒲団の延べ方に続き、風呂の入り方に続く。まあ蒲団はともかくとして、風呂に入って溺れかけた奴なんてのは初めて見た。なんか足を掴まれたとか急に深くなったとか意味不明な事をほざいていたが。
 ともかく、上手に箸を使って烏月などよりも余程大量の飯を食っている様子を観察しながら、岩が崩れたせいで埃塗れだった先刻との違いを思う。あん時は小汚いガキってだけだったが、がつがつと飯を食う様は、ただの欠食児童だ。そんなに飢えているのかと、月での生活に疑念を抱いた所で、そういや石の中にいたんだから最低三日は飯を食ってなかった事を思い出して、これも当たり前かと納得した。
 にしても、こんなのを預かってどうしようってのかなあ。そんな事を思いながら不味そうにもそもそと飯を食っていると、食い終わったわけでもないのに箸を置いた天結に、びしっと指を突き付けられた。
「御飯はもっと美味しそうに食べなきゃ駄目です!」
「駄目です、って言われてもなあ」
 唾が飛んでるぞ、唾が。いやいやそうじゃなくて。
「御米には一粒につき七人も神様がいてですね、それはもう神様の大安売りだろってぐらい有難みのない話ですけど、でも食べるからには、きちんと美味しく食べなきゃ駄目なんです!」
 それなりに本音を折り込んで気味の悪い事を言うお子様だ。口の中に入れた米を噛み締めながら、神様とやらの味とゆーかそんなもんが本当にいたらむしろ食いたくないよなあ、気持ち悪いしなんて思う。にしても奇妙な俗信を知ってるもんだな。
「俺にはな、その美味しいってのがわかんねえんだよ」
「なんでですか!?」
 そこでまででかい声出さなくてもいんじゃねえのか?
「味を感じないからだ」
 普通、妖怪というのは人間とは違って肉体的な欠損など有り得ないのだが(そもそもこの人間の姿だって術で変化しているだけの仮のものであるし)、烏月には味覚というものがなかった。
 ま、それはそれでそれらしいのかねえなんて思う。
「そんな……! この世の不幸を全部背負っちゃったみたいな事言われたら怒れないじゃないですかっ……!」
 別に俺は飯のために生きてるわけじゃないんだけどなあと、ぼりぼりと耳をほじりながらアホらしい事を熱弁してる天結を無視する。なにが楽しくて熱弁してるんだか知らないが、別になにが楽しいというわけでもないんだろう。それが自分の義務だと勘違いしてるだけに違いなかった。
 じゃなきゃこんなアホらしい事を誰が叫ぶか。
「そんな事より、てめえの飯をきちんと食ってやれよ。神様が何千人かぐらいで待ってるぞ」
 えーと、御飯一杯の米粒の量ってのはどれぐらいだったっけか?まあどうでもいい事だが、そんなもんを意識した上で飯を食ってるんだとしたら悪趣味だよなあ。
「ああ、御免なさい御米の神様! きちんと食べますですから怒らないで!」
 見えてたりするんかい、その神様が。
「怒られようがなんだろうがどうでもいいが、お前、自分がなんでここにいるのかとか、どの辺まで理解してるんだ?」
 まるで烏月の言葉が聞こえなかったように飯に戻った天結だが、その動きがほんの少しだけ硬直したのは見逃さなかった。なんだ、ある程度は知らされているのか。
「わかってんだろう? てめえが禁忌で……」
「……僕が産まれてはいけない子供だって事ぐらいなら、知っていますよ?」
 いじめちまったかなあとすぐさま後悔していた。いっそ泣いてくれれば慰めればいいだけだから楽だったのに、辛そうにしながらも毅然とした態度を崩さなかったせいで、烏月にしても下手に慰めたり誤魔化したりする事はできなかった。
 それはプライドを傷付けてしまう。
「だったらよ、俺にもいろいろと聞きてえ事があるんだが、ちょっといいか?」
「それが代償なら……いいです」
 か……かわいくねえよ、このガキ。この俺様をそんなケチな妖怪だと思って欲しかあないね。預かるには預かったけど、それは守るのとは別で、守るならそれなりに守りたいと思わせてくれなければ、本当に守る事なんてできやしないんだ。だから聞こうと思っただけなのに。
 それを、預かる事の代償だって? 預かるだけなら無償で預かってやるさ。金がかかるわけでもないんだから。
「まあそれならそれでどうでもいいがね。お前、いままでどうやって育てられたんだ?」
 投げやりな気分と態度で聞く。あーあ、あの人と玉兎のためだとは思っても、天結がこんなだって知ってたら、まかり間違っても預からなかったのになあと思いながら。
「女の子のフリしてました」
 ああ、そんな事かとあからさまにほっとした雰囲気を漂わせる。なにを聞かれたくないのかはわからないが、なにか聞かれたくない秘密でもあるんだろう。……そりゃそうか。
「女の子、ねえ? まあ、わからいでもないな」
「……それってどういう意味ですか?」
「まんまの意味」
 服で体型を隠してしまうようにしておけば、とりあえず女の子には見える。顔もそうだが、華奢だし。声変わりもまだしていないようだ。するかどうかは知らないが。
「で、女の子のフリして生きてきて、なんで今頃になって逃げ出さなきゃならなかったんだ?」
「さあ、そこまでは……ただ、迦具夜さんが、もう誤魔化しきれなくなったって。だから玉兎さんが、僕を連れ出したんです。石にしてくれたのはお母さんですけど」
 そういや、こいつの母親は第二王女って事になってるんだったなあ……どこまで本当だかは知らないが。むしろあからさまに嘘臭い話なので、烏月はほとんど信じていなかった。第二王女の名前ぐらいは知っているが、月神族は、押し並べて争いを好まない質である。そして、争いを回避するためならどんな嘘でも吐くだろう。
 問題なのは、第二王女が地球に落とされた気配がないという事だ。では、男と通じたわけではないのだろうか。じゃあなんで男が産まれたんだ?
 ……なんか俺、ものすごく下世話な想像してないか?
「で、結局のところ、お前を育てたのは誰なんだ?」
「えーと、お母さんと、伯母さんって言ったら怒る迦具夜さんです。後は玉兎さんかな? ぐらいです」
 こいつ、もしかしたら一言多い質なんだろうか……? なんて思いながら、それにしても、月神族がそんな少数の女官しか使っていなかったというのは、驚異に値するだろうと、あの人の言葉を思い出す。
 迦具夜がどの程度の女官を従えているのかはよくしらないが、あの人でさえ、五十人近い女官を従えていた。それぞれに細かく分類された仕事が割り振られているわけだが、月神族が手ずから、しかも迦具夜の筆頭女官である玉兎にしか面倒を見させなかったとは。
 どれだけの秘密を抱えているってんだろうか?
「なんだかなあ。お前って、相当厄介な荷物なんじゃねえか?実は」
「そう……かもしれませんね」
 じゃなきゃ、わざわざ地上に落とされたはずがない。そして、どれだけの秘密を抱えていようと、罪の抹消をためらいなく行なう連中が、命も奪えずに地上に落とさなければならなかった理由とはなんだろうか。迦具夜あたりなら、秘密は隠すよりも、公開するか消し去るかするだろう。それは、いつまでも隠しおおせはしないのだ。
「だから僕は、強くなりたいんです。月ではそれはもうできないと言われました。ここでなら……この地上でなら、貴方の元でなら、それはできますか?」
 真剣なのかなあと、その突飛な願いをぶつけてきた天結を眺めやる。やばい。マジの目だ。こういう思い詰めた奴ってのは大変だし危険なんだけどなあと、自分の過去を振り返ってみたりする。うん、やっぱ危険だ。人間だろうと妖怪だろうと、必要なのはやっぱり余裕だよ。
「あー、そのー、なんだー……可能か不可能かって意味なら、可能だぞ、多分」
「……なんでそんなに曖昧なんですか?」
「んー? いやー、こー、なんつーかー……俺ってあんまり人に物教えんのは苦手だなあとかまあいろいろと」
 んな事はした事もないが、だからこそ自信があった。そもそも協調性なんてものには縁がない。昔からずっと独りで生きてきた……あの人と一緒だった時を除けば。
「大丈夫です。こう見えても僕、物分かり良いですから」
「……おい、それはただの嫌味か? それとも意地の悪い嫌味か?」
「ただの天然です」
 自信満々にきっぱりと断言された。普通そういう事は自分では言わないもんなんだけどなあと、このおもしろいちんくしゃにちょっとした興味を覚える。
 あの人と出会った時と、なんか似ていた。
『あら、私、あなたの事ならなんでもわかるのよ?』
 そう言ってくれるあの人は、もうどこにもいないのだけれども。
「まあ、教えてくれってんなら教えてやってもいいけどよ。なにが教えて欲しいんだ? 戦い方か?」
「そうです」
「ならやめとけ」
「……なんでですか?」
 わかっとらんって事は致命的なんだが、わかんなきゃ諦めないだろうから説明してやる。なんて優しい俺様。
「その気後れしない強気はプラスポイントだけどな。それが制御できなきゃむしろマイナスだ。突っ込んで死なせるために強くしたんじゃ、割に合わんだろう? たがら駄目だ」
「そんな……やってみなくちゃわかりません!」
「わかるさ。俺が何年生きてると思ってんだ?」
「知りません!」
 その通りだな。教えてないし。そもそも烏月自身、良く覚えてなかった。
「これでも千年以上は生きてるんだ。いまみたいに、人間が馬鹿な戦争を繰り返すのだって何度も見てきた。お前がやろうとしてる事は、つまりそういう事だぜ?」
 世間は世界大戦がどーのこーのと騒いでいるが、彼にとっては関係のない事である。一部の妖怪は日本を守るために力を貸しているらしいが、それが後の日本の軍国化と暴走の切っ掛けとなる事に、まだ誰も気付いていなかった。
 元から無理をしなければ得られなかったような力なんてものは、持て余すに決まってるし、それは精神を歪めてしまうのだ。ああ、あの時は馬鹿な事をしたなと後悔したって、結果が出てからは手遅れである。
 力を得ようとしている間はまだいい。目標がある。だが得てしまった後、目標を果たした後、なにが残る? 目的もないのに力だけ持っている事の危険性を知っているから、烏月はそれを否定するのだ。
「だけど僕は、ただ守られるのは嫌なんです!」
「うーん、そうだよなあ。なにが問題かって、そーゆー気持ちもわかっちまうんだよ、俺って」
 ただ守られるのは嫌。足手まといになるのは嫌。守りたいものを守るための力が欲しい。あの時の彼も、そう思っていた。
「うん、でも駄目だな。力なんてもんは、黙ってたって自然とつくもんだ。俺達なら特にな。それでいいんじゃねえのか?」
 ただ生きているだけで、力を蓄える事ができる。だから烏月は、一度大きく力を失ったものの、すでにかなりの力を得ていた。死んでも生き返るのが妖怪の特性だが、死なない方が、力は溜まるのだ。
 だから、死なないでいれば、いつかは自分を守れる力だってつくし、そうした方が、自然と力を受け入れられる。んだけども。
 焦ってる奴になに言っても無駄だしなあってのがわかってるだけにどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
「僕は……」
「ストーップ。ストップだ。勢いだけで喋るんじゃねえ。俺の言った事をきちんと噛み締めて噛み砕いて考え抜いてそれでもまだ力が欲しかったら、そん時はま、俺も考え直してやるさ。だから今はストップだ」
 考えてやっぱり力が欲しいって言って来ても、やっぱり駄目だって言うつもりだけど。考え直すとしか言ってないから嘘は吐いていないが、詐欺だって事ぐらいは理解していた。
 それでも、預かった責任もあるし、そもそも先達として、無茶はさせないのが当然じゃないか。
「……わかりました。悔しいけど正論です」
 だから一言多いんだってよ、お前は。
「だけど僕はきっと、諦めません。いつまでも……いつまでも、守られてはいられないんですから……」
 俺がこんくらいの年の時って、こんなに何かを思い詰めたりしたかなあ。もっとお気楽のほほん適当に生きてたよなあ。まあする事がなかったってのもあるんだろうけど、この年で背負わなければならない程、こいつの宿命って奴は重たいのかねえ?
 その後の食事は、気まずいままに続いた。それでも御飯を残さなかったのは大したもんだと感心した。

 なんとなく寝付けずに、天井を見上げていた。元から夜型の生活だから、外が暗い時に眠るのは久し振りの事であるが、なんとなく、それだけの事ではないように思えて、烏月は悶々としていた。
 あのガキと一緒にいるのは、別に期待していた程楽しいわけでもなかったが、しかしそれは彼が一方的に期待していたものだから、裏切られたとは思わない。が、期待外れというよりは、ただ苦しいだけの時があって、それが彼を悩ませていた。
 なぜ、天結と一緒にいると苦しくなるのだろうか? やはり、あの姿が……あまりにもあの人に似ている姿が原因なのだろうか。だとすると、それは天結の責任ではないというのに。
 結局、割り切って待っていたつもりが、きっちりと後を引いていたという事なんだろう。もう帰ってくることはない事ぐらい知っていたのに、それでも待ち続け、月の出ている夜は外に出ているようにしていた。そうすればあの人が見つけてくれるとでも思っていたのだろうか。
 あの人はもう、彼の事など覚えてはいない……いや、覚えてはいても、知覚できないだけだろうか?狂ってしまっただなんて……彼の事を忘れてでも、普通に生きていてくれた方が、きっと嬉しかったし、気も楽だっただろうに。
 ……ふと、別れの言葉が蘇る。なにを間違って、なにを失ったのか、か。きっと愛し方を間違って、忘れ方を失ってしまったのだ。愛さなければ、忘れていれば、こんなにも辛くなるはずはなかったのに。
 だけど、ただ生きる事の無意味さ、空虚さも知ってしまった。愛するという事は、つまりそういう事だった。忘れられない事を悔やんだ事は何度もあっても、結局、忘れた事はなかった。
 狂って生き延びた貴方と、狂って生きている貴方とただ一緒にいる事すらできない俺とでは、どちらがより不幸なのだろうか? こんな……貴方のいもしない世界で、ただ独り生き続ける苦痛は、いっそ自分に狂いをもたらしてくれるだろうか?
 だが、狂気こそ、彼からはもっとも縁遠いものだろう……なぜならそれを司るのは、他でもない月神族そのものなのだから。
 だから、彼が狂う事は一生ない。決してない。有り得ない。狂気という月の恩恵を、あの迦具夜が与えてくれるはずなどないのだ。
 ふと、誰よりも不幸なのは迦具夜だったのかもしれないと思った。だからといって許せるわけでもないが、その寂しさには少し共感できて、彼は少し、悲しくなった。
 月神族の王女として、永遠に独り身でいなければならない迦具夜の孤独。月での些細な反抗によって地上に落とされ、人を知ってしまった者故の孤独。もし一生を月で暮らし、月神族の王であり父でもある月読にただ仕えていたなら、彼女が孤独を感じる事もなかっただろう。月ではそれが当然なのだ。
 孤独に耐えられない心こそが孤独を生み出すとは、なんとも皮肉な話ではないだろうか。月では唯一の男性神である月読の娘であり、そのあくまでも排他的な姿勢に抗議しただけで地上に落とされ、その身の孤独を思い知らされたただの女である迦具夜は、結局他人と心を通じ合わせる事ができなかっただけ、あの人よりも不幸だったのかもしれない。
 自分が不幸だからといって、他人の幸福を妬んでいいという事にはならないし、それを引き裂いていいはずもないのだが。
 彼には力があったはずだった。あの人を月からの迎えから守るだけの力が、追手を切り払い、永遠の逃亡者であり続けるための力があるはずだった。
 何度かも忘れた程の数、追手と戦った。最後の最後で、迦具夜が現われた。そして彼は、敗北したのだ。迦具夜に、ではない。月に負けたのだ。
 そして、あの人は月へと連れ戻された。彼は記憶処理だけではなく、拷問まがいの刑を受けさせられ、力も失い、体はぼろぼろになり、すべての気力を失った。
 なぜ生きているのだろうか? あの人が死んでは駄目だと言ったからだ。なぜ死んでは駄目なのだろうか? あの人の心は死んでしまったというのに。
 天結は、どうしてあの人に似ているのだろうか。唐突にそんな事を思う。顔形が似ているのは当然だ。血縁がある。だが、それだけではなく、根底に持つ雰囲気のようなものが、何者にも負けないという気迫のようなものが、とてもよく似ていた。
 結局、自分達はそれに負けてしまった。彼はその事をとても良く理解している。負けまいとする思いこそが、彼を敗北へと導いたのだ。最初から負けを意識している者は、やはり負けるのである。
 なぜ、勝とうと考えなかったのだろうか。勝ち続ける気迫があったなら、彼が負ける事はなかっただろう。つまり、彼の敗北とは、そういうものだった。
 他の誰でもなく、彼は自分に、そして月に負けた。彼とて、月と関わる妖怪である。月に負けたという事は自分に負けたという事であり、自分に負けたという事は、即ち月に負けたという事だった。
 月の光が人の心を狂わせるとは良く言ったものだ。それは人だけではなく、妖怪すらも狂わせる。そしてあの時、月の魔力のせいか、それともそういう願望が最初から彼の心の奥底にあったのか、追い詰められた彼はあの人を……
 守る者を自ら失った者には、負けないでいられるはずがなかった。勝つ事の意味も知らずに戦っていた彼の、それは完璧な敗北でしかなかった。
 あの人は……あの人は、別れの言葉を、最後の言葉を、どうして微笑みと共に言えたのだろうか? どうして微笑んで……彼を責めなかったのだろうか?
 もうわからない。その答えがわかる事は二度とない。
 彼はただ、その答えを欲していた。
 もしかしたら、天結にはそれを期待しているのかもしれない……少なくとも、血は繋がっていて、同じ雰囲気を持っている二人だ。もう一度あの人のように、彼を救ってくれるかもしれなかった。
 ……それこそ、自分勝手な期待じゃないか。それぐらいの答えを自分の中に見出せない彼は、あまりの情けなさに、なんだか泣けてきた。

「あの……」
 呆然と寝転がっていると、襖の向こうから天結の声が聞こえてきた。慌てて目頭を拭い、どうした? と平気そうな声を出してみる。うまくいったかどうかはわからなかった。
「ちょっと、眠れなくて……」
「そうか? ああ、枕も違うだろうしなあ。そうすっと寝づれえかもしんねえな。ま、それはどうでもいいんだけどよ。とりあえず入んな」
「はい」
 口数が増えている事は自分でもわかっていた。不自然ではない程度に多いか、それとも不自然だとわかってしまう程に多いかはわからないが、とにかく多いと感じた。なんとかそれだけは誤魔化そうと、とりあえず招いていた。なにをするにしても、構えるだけの余裕が欲しい。
 天結は、大きな枕を胸に抱えながら、似合わない俯き加減で寝室に入ってきた。
「どうした?」
 襦袢の合わせを直しながら烏月は起き上がり、どうしたもんかと少し考えてから、蒲団から出た。そして、整えた蒲団の上に腰を降ろし、天結も座らせる。
「別に、どうという事もないんですけど……」
 歯切れ悪く俯いている。どうすりゃいいんかなあと頭を掻きながら、なぜ天結がやって来たのか、その理由をなんとなく感じていた烏月は、どう切り出したものか困ってしまった。やっぱ、あの人と似てるんだよなあ。
「やっぱり、一人ってのは寂しいか?」
 最初は、否定するように首を振ったが、一瞬の内に耳まで赤くなっただけで、それが図星だったのは見え見えだった。自分でもそれを意識したのだろう、少しして遠慮勝ちに小さくうなずく。素直なのかそうじゃねえのかわかんねえ奴だ。
「だよなあ。今までは誰かいたんだろうしなあ……っておい、お前。もしかして、月では玉兎の蒲団に潜り込んだりしてたのか?」
「そ、添い寝してもらっただけです!」
 そんな事で恥ずかしがるぐらいならこんなとこ来てんじゃねえよと思いながら、ちょっとした羨ましさも含めつつ、彼は耳をほじくった。という事はつまり、今だってこいつはそれが目的でやって来たわけで、しかし彼としては、ガキでも男と一緒に寝るのは御免だった。
「月は、凄く静かなんです。ここみたいに、風の音も、虫の声も、なにも聞こえません。……だから」
 だから、耳につく音のあるここの夜は恐いんだそうだ。静かすぎる世界というのがどういうもんだかよくわからないが、あの人も同じ事を言って、そして同じように恥ずかしそうに、彼の寝室にやって来た。
 かといって、どうしたもんかねえ。同じに扱うわけにもいかんっちゅーかあの時だって添い寝しただけだけど。
「じゃあ、少し話でもするか?まだ眠んなくても大丈夫だろ?」
 こくんとうなずく。さっきまでと反応が違うからどうにも戸惑ってしまうが、これがこいつの地なんだろう。あのはしゃぎようは、やはり不安を押し隠すために無理していたのだ。
「ってもなあ、話すような事なんて何一つ思い浮かばんしなあ」
「その……もし嫌じゃなければ、その傷の話とか、してもらいたいんですけど」
「ああ、この傷の事か?」
 彼は、醜い裂傷の跡を残している左目をさらりと撫でた。その他にもちらほらと傷は残っていて、顔だけで右頬にもう一つあるし、喉にも横一文字にでかいのが残っているし、体にはそれこそいたる所に残っている。あの人を守るために月の守り人と戦った時についた傷で、彼にしてみれば、不名誉な勲章みたいなものだった。
 そういや、この傷を見ても天結は驚かなかった。玉兎もそうだが、普通、こんだけの傷が顔にある奴ってのは怯えられる。それでも彼は、あの人が痛ましそうに傷をさすってくれただけで、どんな痛みも堪える事ができた。誰からどんな印象を持たれ、どんな悪口雑言を投げ付けられたとしても、一度として気にしたことはない。
 それにしても、なんでこんなもんの話を聞きたがるかねえ? 気になるってのはわからいでもないんだが。
「別に嫌じゃねえけど……どっからどう話せばいいんかねえ? そもそもお前、俺についてどれだけ知ってる?」
「その……五百年程前に、華漣叔母さんと一緒に暮らしていた、ってぐらいは」
 一緒に暮らしていたってところで顔を赤くする。お子ちゃまだねえ。別に、彼とあの人……華漣の間に、天結の想像するような関係があったわけでもないのだが。
 それなのに命を賭けて守ったってのは、今になってみれば馬鹿馬鹿しかったような気もするが、彼はそれでも良かったのだ。星神と通じた疑いで地上に落とされた華漣に、それ以上の罪を重ねては欲しくなかったから。
 結局は、それも冤罪だったのだから……はて、って事は、据え膳食わなかった彼は男の恥なんだろうか?
「そうだな。出会いがどーのこーのとかその辺は省くが、俺は華漣と一緒に暮らして、彼女が月に帰る日を待っていた。……最初は、な」
 共に過ごせば、離れがたくなる。心が通じてしまったのだから尚更だ。華漣は彼に抱かれる事を望んでいた節もあるが、彼はそれだけはできなかった。別に不能ってわけじゃない。その気にならなかったというか、騎士道精神みたいな奴に邪魔されてたわけだ。お姫様を守る騎士はストイックじゃなきゃならんとかくだらん事を考えて、彼女が望む事も叶えられなかったわけである。
 馬鹿だよなあ、ほんと。
「月に帰る日が近付くにつれて、華漣は塞ぎ勝ちになっていった。俺は、どうして彼女が喜ばないのか、よくわかっていなかった。なにしろ彼女は、月に帰る事だけを望んでいたんだ。その日が、望みの叶う日が近付いてるってのに、どうして落ち込んでるのか、さっぱりわからなかったわけだ」
 つまりは、ガキだったわけである。誰にとって何が一番大事なのかもわからなかったわけだ。彼にしても、華漣がこの上なく大事なもので、離れたくなかったはずなのに、それでも華漣は、月に帰る事を望んでいると思い込んでいたのである。
「で、いよいよ月に帰るぞって日の直前にな、あいつは言ったわけだよ。私を連れて逃げて、ってな」
 天結は神妙な顔をして聞いている。あの時のあの人の表情も、似たようなもんだった。
「俺は、あいつの望むままにしたさ。そうする事が当然だと思ってたからな。だけど、あいつが本当に望む事だけは、何一つ理解しちゃいなかった」
 いや、そうじゃないか。認めたくなかっただけなのだろう……自分が守るお姫様が、ただの女である事を。それの何が悪いわけでもないというのに、自分の好きな女を、女ではなく、あくまでもお姫様としてしか見ていなかったわけだ。
 だからだろうか。あの人が月に帰ってしまったのは。
「それは、なんなんですか?」
「あいつは子供が作りたかったのさ。俺とのな」
 そうすれば、地上で暮らす事ができる……月神としての能力の大半を失い、只人同然になってしまい、罪人として死ぬまで罪の意識にさいなまれる事になるが。
 たとえ何一つ理解していなかったとはいえ、惚れた女をそんな境遇には落とせなかった。だから彼は、潔く身を引こうとか考えていたのである。自分さえ我慢すれば、あの人は救われると信じていたのだ。
「だけどまあ、とにかく俺にはそれができなくて、月の守り人から、ただ逃げ回ってた。時には戦ったりもしてな。この傷はそん時につけられたやつだよ」
「痛くなかったんですか?」
「痛かったに決まってんだろうがよ。そりゃあ傷口が腐ったり膿が溜まって脹らんだりといろいろと気持ちの悪い事にもなったさ。そういうのは全部えぐり取ったけどな」
 聞いている天結の方が痛そうな顔をする。彼だって痛かったが、あの人のためだ、どうという事もなかった。
「で、傷が残ってこの様さ。どうだ? 格好悪いだろ?」
 自嘲気味に投げやりに、彼は少しきつく腰帯を結び直して、袖から腕を抜いて上半身をさらした。明かりがついているわけでもないのに、月光に照らされている程度に明るいので、天結の目にもはっきりと写っただろう。全身を埋め尽くすようなあまたの傷跡が。
 その気があれば、こんな傷跡は消し去る事ができる。妖怪にとって肉体とは本質ではないので(人間にしてもそうかもしれないが)、その形態は、ある程度自由にできた。
 しかし彼は、この傷を戒めだと思って残していた。目が見えないのだって困る程は不自由していないし、そもそも傷を見せるような相手もいない。ただ自分の過信の思い出として、なにをすべきなのかを忘れないために残していた。
「格好悪くなんてありません」
 やけにきっぱりと天結は言った。彼の傷から、決して目を背けようとはしない。彼だって、自分の体じゃなかったら見たくもない程であるのに、嫌そうな素振り一つ見せなかった。
「僕、一度だけ華漣叔母さんに会った事があるんですけど、叔母さんは言っていました。私には、この月の宮にいる誰よりも大切な人がいるんだって。その人は、叔母さんを守るために怪我ばっかりしてたって。私のためにあの人が怪我を負うのは辛かったけど、同時に嬉しくて困ったって。僕は、そういうの、格好良いと思います」
 論点は良くわからなかったが、つまり、あの人を守るために負った傷だから格好良いって事なのかね?
 それにしても、あの人に一度会っただって?
「あの人は……華漣は、どうだった?」
「どうってどういう意味ですか?」
「いや、その、そうだな……なんて言やいいのか……」
 狂っていたか、とはさすがに聞き辛い。かといって、他にどうやって聞けばいいのかもよくわからなかった。遠回しな会話というのは苦手なのである。
「その……まともだったか?」
「当たり前じゃないですか。なんでも病気らしくて、その一度しか会わせてもらえなかったんですけど、とても優しそうな人でした。烏月さんが好きになったのも当然だと思います。僕だって、一目で好きになりました」
 天結の好きと彼の好きが同じかどうか、多少の疑問が残ったが、確かにその通りである。彼だって一目で好きになった。烏でさえ浮かれ騒ぐ満月の夜に、あの人は監獄がわりの屋敷の縁側で月を見上げ、和歌を詠んでいた。その姿を見た時、この人しかいないと思った。自分は今まで、この人のためだけに生きてきて、そしてこれからは、この人のためだけに生きていくんだと思った。
 一生に一度しかないような本気の恋を、浅はかとも思える一目惚れに感じたのである。彼はそれを後悔した事はない。
「そうか……そうか」
 玉兎は、あの人は狂ってしまったと言っていた。あの女は、嘘などつかないだろう……わざわざ虚言を肯定した後では。
 だとしたら、天結と会って、ほんの少しの間でも理性を取り戻せたのだろう。狂気を司る月神が狂気に侵されるというのも奇妙な気はするが、人であれ妖怪であれ月神であれ、精神の奥深さは変わらない。その深遠に落ち込んでいったあの人の狂気は、月読ですら直せなかったというだけだとしたら……
 なぜ、天結と会っただけで?
「ななななんで泣いてるんですか!? ぼぼぼ僕、なんか変な事でも言いましたか!?」
「いや、別にそうじゃねえ……そうじゃねえんだ……」
 不意に溢れる涙をどうする事もできず、手で顔を覆ってそれを隠しつつ、彼は静かに涙を流した。あの人が、まだ心を取り戻せる可能性がある事がわかっただけで、たったそれだけで、涙が出るほど嬉しかったのである。本当にそれが可能なのかどうかもわからないというのに。
 ただ嬉しかったのだ。
「いや、悪かったな。急に泣いちまって。驚いたろ?」
 乱暴に涙を拭いながら、彼は無理して笑って見せた。
「そりゃあ驚きましたけど……でも、本当に大丈夫ですか?」
 心配そうに怪訝そうに覗き込んでくる。それを追い払うように手を突き出して、彼は天結の頭をぐしぐしと撫でた。感謝っつーわけでもないが、そのようなものだ。
「大丈夫さ。細かく気にしてんじゃねえよ。そもそも眠れねえのはお前で、だからここに来たんだろうが? 心配されるべきなのはお前だろうがよ」
「そりゃあそうのようななんか違うような……」
 すでに本来の目的を忘れて、本気で考え込んでいる。これなら、彼よりも余程大丈夫だろう。他人の事を心配できるという事は、つまりそれだけの余裕があるという事だ。
「で、どうする?」
「どうする……って何がですか?」
「そろそろ寝るだろう? 自分の蒲団に戻るか?」
 というよりは、彼が眠りたいのだが、そういうのは置いておいて、彼は決断を急かすように横になった。
「えーと、その……」
 ごにょごにょと言い淀む。まあそうだろうとは思ってたけどよ。もうちょっと方法っつーか作戦つーものを考えとけよ、お前は。
「ま、別にいいさ。面倒なわけでもねえ」
 言い放って、自分勝手に蒲団に潜り込んだ。はっきり言って天結が邪魔臭かったが、特には気にしなかった。
「なにが面倒なんですか?」
「だから、面倒じゃねえって言ってんだよ。新しく蒲団敷かなきゃならねえわけでもねえしな」
「だから、なにが?」
「お前も一緒に寝るんだろ? だったら好きにすりゃいいじゃねえか」
 蒲団をめくって、ぽんぽんと隣を叩く。大人用サイズとはいえ、天結のサイズだと二人で寝るには狭いだろうが、別に寝れない事もないだろう。寝相が悪かったら叩き出そうとだけ決心して、顔をぱあっと輝かせて蒲団に潜り込んできた天結に合わせて、きちんと蒲団をかけてやる。
「んじゃあな。とっとと寝ろよ」
「はいっ」
 元気なのはいいんだが、寝ろって言ってんだから黙って寝ろ。彼は憮然と、なんでこんな事やってんのかなあと思いながら寝転がり、今度は寝付けない事もなく、すぐに寝息をたてた。
 寝相が悪いのは彼の方で、天結はなんだか寝苦しそうだった。

 意外にもすっきり目が覚めた。久し振りに夢も見た。あの人は、夢に出てくる時はいつも悲しそうにしていたのに、今日に限って微笑んでいた。
 それだけの事で幸せな気分になれるってのは、やっぱ幸せなんだろうなあと思いながら、ぐーすか寝てる天結を置き去りにして、彼は襦袢姿のまま縁側に出た。きちんと戸で締め切っている(そうでなけりゃ、襖一枚で隔ててるぐらいじゃ寒い。それでも寒いが)ので、なるべく音を立てないように開ける。
 ちらほらと初雪が舞っていた。道理で寒いわけだと納得しながら、彼は別に上着を着込むわけでもなく、そのまま縁側に腰を降ろして、庭を眺めた。
 冬はそんなに嫌いじゃない。冬の満月は、どこまでも深く静かな夜に良く似合うからだ。空気までも凍り付いていそうな夜、ただ独り、ぽっかりと浮かぶ月を眺めていると、様々な思いですら希薄になり、誰よりも自由になれる気がした。
 今のままでも十分に自由であるのに、なぜ自由を感じるのか。少し前までは不思議だったが、今ならわかった。結局、あの人の事を思い続けている事が束縛になっていたのである。思いに縛られ、ここから動けなくなっていた。そんな不自由さから解き放ってくれたのは、冬の月か、それとも天結なのか。
 もしかしたら天結は、迦具夜ではなく、あの人が遣わしてくれた答えなのかもしれない。あらゆるものに束縛されていた彼を解放するために。
 だから夢の中であの人は微笑んでいたのではないだろうか。
 ぼうっとそんな事を考えていた彼は、唐突に立ち上がって、庭の片隅に鋭い視線を送った。月を写していた池の周囲には、ちらほらと針葉樹が植えられている。
「監視か? 覗きか? どっちにしろ、あんまりいい趣味じゃねえと思うぜ?」
 監視ではない。それだったとしたら、あの人が月に帰ったあの時からずっとついていたはずだ。しかしその気配は、今になって唐突に降って湧いたように現われた。ということは、玉兎の後を追ってきた月の守り人だろう。連れ戻しに来たのか、それとも抹殺しに来たのか。迦具夜は押さえ込めなかったのだろうか?それとも押さえ込まなかったのだろうか? 情報が少なすぎて、どちらとも判断はつかなかった。
 警告を発して、数秒待った。返答も反応もなかった。
「そっちから来ねえなら、こっから行くぜ?」
 瞬間、彼の姿が消えた。木の陰から動揺の気配が湧きあがる。この程度で慌てるって事は、こいつらは下っ端だなと判断して、彼は本来の姿である三本足の白烏の姿を現わして空に舞い上がり、即座に急降下に転じた。
 狙いはただ一つ。この追手の殲滅のみ。他愛ない生活を覗かれるのも、玉兎を追うのを無視するのも、彼には我慢ならなかった。
 素早く木の陰に回り込み、時代劇の下っ端武士のような姿をした奴の背中を鉤爪で切り裂く。そいつは呆気なく絶命し、木にもたれ掛かった。
 気配は、残り一つ。という事は、追手の先見役といったところだろう。向こうが本腰を入れて掛かってきているなら、こいつらの後にはわんさかと雑兵が控えているはずだ。
 そこまでわかっていて戦うのは得策じゃねえよなあ。なんて思いながら、彼は素早くもう一人の兵の背後に回り込み、今度は手加減をして切り付けて、すぐさま人間の姿に戻った。戦闘には向いていない形態だが、尋問ならこっちの方がいい。
「こ、こんな事をしてただですむと思うなよっ!?」
 後ろ手に腕を捻じり上げられ、彼に押し遣られて木の陰から追い出された男は、目の部分しか開いていない仮面をかぶっていた。月の守り人の標準装備である。こいつらは月の宮、つまり月神族の住む宮殿の外に住む連中で、警察のような役割を果たしていた。
「我々の任務の邪魔は……!」
「うるせえよ、こっちが聞くまで黙ってろ」
 腕が折れる寸前まで捻じる。男は苦鳴のみを漏らして、酸素を求めるかのように口を開いてぱくぱくと喘いだ。
「お前ら、玉兎を追ってきたんじゃねえのか?」
 池の前あたりに男を放り出して、彼は縁側に戻った。素足なので、雪が冷たかったのだ。
「お前があいつからなにかを預かったのは知っているんだ! 素直にそれを差し出せば、我々の邪魔をした事は不問にしてやる!」
 腕を庇うようにしてよろめきながら立ち上がる。背中の傷は致命傷ではないが、放っておけば命に関わるだろう。
「だからとっとと差し出せってか? ……てめえ、俺様を誰だと思ってやがる?」
 たかが守り人風情に偉そうな口を叩かれる筋合いはない。血統で言うなら、こいつらよりも彼の方が余程月神族に近いのだから。
「まあんな事はどうでもいいが……俺がなにを預かったのか、てめえは知ってんのかよ?」
「大罪人だ!それしか……知らされてはいないが……」
「よく知らねえもんを追っ掛けてんじゃねえ。ついでに言うと、俺はなにも預かっちゃいねえよ」
「なっ……!? なにを馬鹿な事を! そこの部屋に子供がいる事ぐらい、我々にもわかっているんだぞ!?」
 やっぱり覗いてやがったな、こいつ。この屋敷も、妙な所で役に立たない奴だ。こんな連中をむざむざ敷地に入れやがって。
「ああ、あのガキか?あれは俺の息子さ。不肖のな。そういう事になってる。だからあれは預かりもんじゃねえ」
「なにを馬鹿なっ!」
「うるせえっつってんだろ。てめえにもう用はねえ。月に帰んな」
 まるで翼で扇ぐように手を振った。発生した風はそよ風なんてものではなく、荒れ狂う暴風のような勢いで男に叩き付けられ、その命をあっさりと奪った。
 さて、これで月の連中と戦争かねえ。守り人を倒したとなると、向こうだってそれなりの手は打ってくるだろうし。最近は退屈してたから、暇潰しには丁度良いか。
 にしても、なんで息子なんて言っちまったんだろうか?
「やっぱり……迷惑をかけちゃったみたいですね」
 その声にゆっくりと振り返ると、いつの間にか開けられた襖から、天結が出てきていた。そういやさっき、閉めたっけか。
「だから……僕は、力が欲しかったんです」
 追われている事はわかっていたから、か?
 こいつ……自分の秘密を知ってるんじゃないのか?
「もう、これ以上の迷惑はかけられません。……今日中にでも出ていきます」
「そうだなあ。それがいいかもなあ。なんて言うと思ったら大間違いだぞ、この早とちり小僧」
 まったく、こいつは自分一人で全部の責任を背負えるとでも思ってるんだろうか? そして、彼がこんな頼りないガキに全ての責任を押し付けるとでも思ってるんだろうか?
 見くびってもらっちゃ困る。
「でも……」
「言っとくがな、こいつらを殺ったのは俺だ。お前じゃねえ。って事はつまり、俺にももう、追われるっつーよりもむしろ襲われる理由があるんだ。……いまさら、お前がいようがいまいが、大して変わらないと思うぜ?」
「え? いや、でも……」
「でもじゃねえんだよ。てめえが出てけばなんも起こんねえってんなら追い出すけどな。もう問題はそーゆーレベルじゃねえんだ。だから……」
 ちょっと気恥ずかしくなって彼はそこで一度言葉を止めて立ち上がり、困惑している天結の元につかつと歩み寄って、その頭にぽんと手をのせた。
「だから、ま、暇潰しにお前を強くするぐらいの事はしてやるさ。お前に責任を取る気があるんなら、だがよ」
 らくしないかねえと自分で思いながら、ま、別にそんな自分も嫌いじゃなかったので、彼は天結の言葉を待った。決まり切った返答を。
「はい。……お世話になります」
 語尾は声が震えていた。男の涙は見ないようにするのが礼儀なので、彼はそのままぐしぐしと頭を撫でて、さて、飯にでもするかと声をかけた。
 それが彼らの始まりだった。